はじめに
ロシア軍のウクライナ侵攻が深刻化する時期に行われた「ドストエーフスキイの会」の合評会では「『謙虚(謙抑)』の概念を考察した木下論文や〈神がなければすべては許される〉というテーゼが、「イワンの思想として小説の中で流布していく」過程を詳しく検証した熊谷論文からは強い知的刺激を受けた。それゆえ、合評会ではこの二つの論文を中心に感想を述べた。
例会ではそれをふまえて「大審問官」で述べられている究極の悪とされる「食人」の問題もレーベジェフが論じている『白痴』と、「食人」も起きたニューギニア戦線の記憶の問題が描かれている長編小説『橋上幻像』との関係を考察したいと考えた。
それゆえ、ここでは合評会で述べた感想と木下論文と熊谷論文については感想に加筆した形で掲載する。(例会発表の構想を練る中で『白痴』論と『橋上幻像』論とを組み合わせると時間が足りなくなることに気づき、例会では『橋上幻像』の詳しい考察は省いた)。なお、熊谷論文の考察と感想は、『橋上幻像』論の構想とも関連があるので、最後に掲載した。
「ロシア・ヘシュカスム(静寂主義)」についての言及がある『広場27号』掲載の論文のテーマを受け継いだ木下豊房氏の巻頭論文「ドストエフスキーにおける「謙虚・スミレーニエ」の意味について」から私は静かだが重たい問題提起を受け取った。
なぜならば、「『謙虚(謙抑)』の概念はドストエフスキーの創作意識・方法(ポエティックス)の本質を成しているであろう」とも記されている木下論文では、「殺すこと」を厳しく批判した『罪と罰』のソーニャが「謙虚な英知の象徴」とされており、この問題はプーチンによるウクライナ侵攻の問題とも絡んでいるからである。
他方で、冒頭から4行目で「マゾヒズム」の問題に言及されているこの論文の12行目以降では、著者の問題意識が明確にこう記されている。「ロシア語の «смирение»(スミレーニエ・謙虚)」は、「欧米のフロイド主義的立場の研究者達からは精神病理学的な『マゾヒズム』と同一視され、しかもロシア人固有のメンタリティとされ、さらにはドストエフスキーとからめて論じられ、精神分析の格好な材料にされるという現象が起きている。」
この記述や論文全体で「マゾヒズム」という用語が14回も用いられていることに注目するとき、この論文は少女の行動に「マゾヒズム的快感」を読み取るような『悪霊』の解釈に疑問を示したSQUAREの論考「少女マトリョーシャ解釈に疑義を呈す」(『ドストエーフスキイ広場』第15号、2006年。『ドストエフスキーの作家像』鳥影社、2016年に再録)の問題意識を強く受け継いでいると思われる。
『現代思想』にも論文「ロシア民衆の宗教意識の淵源」が寄稿されていることに注目するならば、『悪霊』がメインテーマとなるIDSの日本大会で、この問題を深く問い直すことが読者に求められているのだろうと感じた。
「謙虚な英知の象徴」とされているソーニャ像に注目するならば、「ロシアの民衆の理想」とは漠然としたものではなく、「殺すなかれ」というイエスの理念を保持していた「ロシアの民衆」には戦争への批判も内在していると理解すべきであると思われる。
論文と同じような質の高さを持つ冷牟田エッセイ「『時間』(堀田善衞)を読む」は、堀田がエッセイ「文学の立場」で、「文学も、最早ドストエフスキー以上のものが出なければ到底間に合わないのだ。…まことの苦悩に鍛え抜かれた人間像を我々は生まねばならぬ」と記していたことに注意を向けて、この作品を丁寧に読み解くことで堀田善衞の誠実さとドストエフスキー文学への関心の深さと明らかにしている。
すなわち、まず第一章の「日記の文体」では、主人公の陳が日記を書くにあたって自ら制約を課していることに注意を促し、「感情に流されぬよう、情緒に溺れぬよう、痛々しいほど己を制御」していることを指摘している。以下、二、陳英諦の、絶望から希望へ、三、時の経過の描写、四、表題の「時間」について考える、五、鼎(かなえ)、と続いて、「むすび」では、陳英諦の年齢が著者と同じ三七歳なのは偶然ではないだろうとし、「自らの精神を陳英諦に託して『まことの苦悩に鍛え抜かれた人間像』を創出したのである」と結んでいる。/ 冷牟田氏のこの『時間』論は、『広場15号』のSQUAREに掲載された「疑問に思うこと」における『悪霊』論の読みの深さと冷静で客観的な分析にも通じていると思える。
清水論文「『死の家の記録』変奏(第一部)」では、流刑後のドストエフスキー作品の原点ともいえる『死の家の記録』について、会話体で広い視野から説得力豊かに論じられており、改めてその面白さと深さが感じられた。
たとえば、ロシア語を教えて山上の垂訓を読んだ後では回教徒のアレイが「ゆるせ、愛せよ、辱めるな、敵を愛せよ」という文章に感激したと告げられる場面やユダヤ人の活き活きとした描写からは、木下論文でも触れられているドストエフスキーの宗教観の一端が浮かび上がってくる。
「恐るべき臨死体験」についての詳しい言及からは、ブルガリアで行われた「国際ドストエフスキー・シンポジウム」に参加いただいた際の、ムィシキンの謙虚さによる行動を「魂の治癒の行動学」と呼んで分析した論文や、円卓会議での黒澤明の映画《白痴》の鋭い分析が思い起こされた。
論文では囚人たちが演じた「芝居」にもふれられているが、複雑な構造を持つこの作品を高く評価した黒澤監督が映画化をも真剣に考えていたことも付記しておきたい。
近藤論文「『二重人格』について」は、ゴーゴリの『狂人日記』とも比較することによって、「新ゴリャートキンは幻影ではなく実在していた。だからゴリャートキンは狂ってなどいなかった。それなのに精神病院行きになったのは、彼を疎ましく思う人たちの陰謀によるものであった」という説を提示し、それを丁寧に検証している。
最後に再登場する医師のクレスチャン・イワーノヴィチが正しいロシア語を話せていないことに注目して、「成りすまし」の可能性を指摘した箇所も面白い。
「正教・専制・国民性」の厳守が求められていた当時のロシアにおいて、検閲に引っかからないような表現方法を模索しながら書かれている初期のドストエフスキー作品は、後期の作品のテーマだけでなく表現の方法においてもつながっており、その意味でも興味深く読んだ。
長縄論文「ドストエフスキーにおける『ルーシ』の概念」は冒頭でまず、「ルーシ」と「ロシア」が同じ概念ではないことを確認している。用語の訳は作品の理解にもかかわるが、長年のゲルツェン研究の成果を踏まえてなされたこの指摘は重要だと思える。
ドストエフスキーが「農村共同体の直接的表現」とみなしている「ゼムストヴォ」との関連で「ルーシの民」は「西欧派のアソシエーションの原理は知らなかったが、すでにアルテリをもっていた」との指摘や、「西欧派の極北に位置するベリンスキーについても「ルーシの原理の闘士である」と書いていることに注意を促して、「この文章はゲルツェンについて言っているとも読めるだろう」という記述にも関心を持った。
なお、2012年はゲルツェン生誕200年にあたっていたが、「祖国戦争」勝利の記念行事で影が薄くなったと記した加藤史朗氏によれば、その年の学術会議で長縄光男氏はゲルツェンの時代と「新自由主義が跋扈する」昨今のロシアとの近似性を指摘して、プーチン政権の危険性をすでに示唆していた(『スラヴャンスキイ・バザアル――ロシアの文学・演劇・歴史』水声社,2021年)。
音楽の造詣も深い伊東氏の発表は大変興味深く聞いたが、伊東論文「《 ポリフォニー 》 における『声』と『音』」では、バフチンの「ポリフォニー」論が「文化人類学に、従来の民族誌史は、作者が他者であるインフォーマントを客体として一元的に支配し、管理するモノローグ型の小説のようなものではないか、という反省を促した」ことも記されている。
さらに、ここでは「引用における対話性と二声性」については詳しくは記されてはいないが、前掲書『スラヴャンスキイ・バザアル』における「二つの『声』が同一方向のベクトルを持っているとき,それは様式化あるいは文体模倣となる」が,「異方向のベクトルを持つ二声的言葉は,批評的意識と結びつき,『笑い』と密接に関連する。『二声的言葉』の内部で二つの声は様々な対話的関係にある」という指摘はカーニヴァル理論の理解だけでなく,作者と主人公との関係や登場人物の相互関係を正しく理解するためにも重要であり、そのような理解は杉里直人氏の『カラマーゾフの兄弟』の新訳にも響いていると思われる。
熊谷論文「『神の観念の破壊』について」では〈場所柄をわきまえない会合〉におけるミウーソフの発言とミーチャの要約とが相まって〈神がなければすべては許される〉というテーゼが、「イワンの思想として小説の中で流布していく」ことが確認されている。
「悪魔の発言」をとおしてイワンの「伝道への熱意」が示され、『悪霊』のキリーロフが「もしそれを悟ったら、小さな女の子を辱めなどしなくなるでしょう」とも語っていたことに注意を向けた著者は、「我意は、利他と一体化している」としたキリーロフの人神論との類似性も指摘している。
さらに「死に対する恐怖の苦痛」という視点からキリーロフの人神論とイワンの叙事詩「地質学的変動」の問題を考察することによって、「神の観念の破壊」が人肉嗜食と結びつくことはないことを明らかにした著者は、民衆に保持される「信仰と謙譲」に希望を託しているゾシマの思想との比較も行った後で、「現代の生物学・心理学によれば利他的行動も自然の法則による」ことも記している。
こうして、ドストエフスキー作品の複雑な人物体系と相互関係に細心の注意を払いながら登場人物の発言を丁寧に分析した熊谷論文から私は強い知的刺激を受けた。
(2023/02/24、加筆と改題)
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