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『若き日の詩人たちの肖像』で2・26事件を考える (1)2・26事件とシベリア出兵

『若き日の詩人たちの肖像』で2・26事件を考える (1)2・26事件とシベリア出兵

堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(以下、『若き日の…』と略記する)第一部の冒頭ではドイツから帰国した新進の指揮者によるラヴェルのボレロとベートーヴェンの運命交響楽を聞くために早めに上京した主人公が、その翌日に交通規制で足止めされていて友人宅から下宿に戻った兄から、戒厳令が布かれ前日にボレロを聴いた軍人会館が「戒厳司令部」になったと告げられる。

三島由紀夫が『英霊の聲』で神道系の「帰神(かむがかり)の会」で英霊に語らせたように「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに大蔵大臣・高橋是清や内大臣・斎藤実、教育総監・渡辺錠太郎などの政府要人を殺害した皇道派の陸軍青年将校たちは、自分たちの行動は幕末の志士が起こした桜田門外の変と同様に高く評価されるものと信じていた。

しかし、反乱軍とされたために彼らが率いた1、483名の下士官や兵士と鎮圧に向かった軍との間での戦闘もありうるような危険な状況に首都が陥ったのであり、この地域の住民は退去せよとの命令が出ていた。主人公は受験勉強を理由に家からの移動を拒否したのだが、それは1918年に起きた米騒動が少年の港町にも波及して来た時に、「北前船の廻船問屋をいとなんで来た家の曾祖母は、米をめぐっての民衆の騒乱のことを知悉(ちしつ)して」おり、「直ちに家の者、店の者の先頭に立っててきぱきと指示」をして、民衆に粥をくばり騒ぎをおさめていたからである。

こうして、堀田善衞は第一部の冒頭で首都を揺るがした2・26事件と主人公の少年が生まれた年に起きた米騒動を比較することで、読者により広い視点でみることの大切さを示唆していたと言えるだろう。

1955年に発表した長編小説『夜の森』で堀田はすでに、北陸で発生した米騒動の拡がりや九州の炭鉱での暴動が、8月2日の「出兵宣言」の後で起きたコメの価格の高騰とも深い関りをもっていることを示したばかりでなく、この出兵の際には虐殺が行われていたことや、満州国の建国に先駆けて傀儡国家樹立の試みがなされていたことも記していたのである。

そして、『若き日の…』では「シベリア出兵のときに、ロシア人の家から掻っ払って来たのだという、黄色い大きな琥珀(こはく)をくりぬいてつくった置時計」を自慢にしていた管理人のことも記されているが、 何の理由も告げられずに逮捕された主人公が 、「物品のように」どさりと留置場へ放り込まれて一三日間拘留されたのは、満州国皇帝来日の予備拘禁であったことも記されている。

「日本浪曼派」の保田與重郎は「『満州国皇帝旗に捧ぐる曲』について」で、「満州国の理念」を「フランス共和国、ソヴエート連邦以降初めての、別箇に新しい果敢な文明理論とその世界観の表現」と讃えていた。一方、堀田は武力による満州国の建国はその後の日本の政治や法律をも変えて「無法が法の名において」行われ、無謀な戦争の拡大へと突き進ませることになったことを明確に描写していたのである。

本稿では「二・二六は最終的な落着におちつくまで接着してはなれなかった」と記されている『若き日の…』における2・26事件の描写をとおして、この問題と三島事件のかかわりを以下の順で考察する。
2, 2・26事件と検閲の強化、3,磯部浅一の「行動記」と裁判、4, 2・26事件の賛美と「改憲」の危険性。

  (2023/02/14、改訂、改題してツイートを追加)

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