そのような状況を踏まえて、それゆえ作家の丸谷才一が「小林秀雄の文章を出題するな」というエッセイを発表した際には「よくぞ言ってくれたと快哉を叫んだ」と鹿島氏は記しています。
ただ、小林秀雄が後に「日本会議」の代表者の一人にもなる小田村寅二郎の招きに応じて1978年まで学生向けの講演を5回も行っていたために、その講演を聞いた若者たちのなかから戦前の日本を理想視するような教員や政治家もでており、新保祐司氏は小林秀雄の「モオツァルト」にも言及しながら、皇紀2600年の奉祝曲として作られたカンタータ(交声曲)「海道東征」を賛美しています。
さらに、古い戦前への価値観への回帰という意図を隠して美しいスローガンによる「改憲」のプロパガンダを行っていた「日本会議」系の論客から強い影響を受けている自民党や維新の右派の議員は、「改憲」だけでなく、「核武装」への意欲も示しています。
しかし、問題は太平洋戦争が始まる前年の8月に行われた鼎談「英雄を語る」(『文學界』)で作家の林房雄から「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけられた小林秀雄が「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ」と続けていたことです。つまり、小林は山本五十六などの海軍の将軍が、日米の国力や戦力を比較して長期戦になれば必ず負けると判断していたのに反して、単なる感情論で戦争の開始に賛成していたのです。しかも、戦後に「大東亜戦争肯定論」を『中央公論』(1963~1965)に連載してこの戦争を美化することになる林房雄は、小林の答えを聞くと「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣い」 と語っていました。
それゆえ、小林秀雄の『本居宣長』を一か月かけて読んだ堀田善衞は、「あなたの宣長さんを読みました。引用されている宣長の文章には、悉く感服しましたが、それにつけてあるあなたのコメントは、よくわかりませんでした。妙な神秘化はいけませんよ」と小林に直接語ったと記しているのです」(『天上大風』)。
鹿島氏は小林秀雄のランボー論に見られる「美神との刺違へ」的イメージが「二・二六の青年将校などの同世代人にも共通して見られる」ことを指摘していますが、『日本浪曼派批判序説』で保田與重郎と小林秀雄とが「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促した評論家の橋川文三は、「保田の主張に国学的発想がつよくあらわれてくるにつれて、一切の政治的リアリズムの排斥、あらゆる情勢分析の拒否がつよく正面に押し」だされるにいたると記していました。
そして、論文「テロリズム信仰の精神史」では、2・26事件を起こした将校など「日本の右翼テロリストは、その死生観において、ある伝統的な信仰につらぬかれていた」とし、こう続けているのです。
「それは、かんたんにいえば、己の死後の生命の永続に関する楽天的な信念であり、護国の英雄として祭られることへの自愛的な帰依」であり、「このような固有の神学思想は、一定の条件のもとでは、容易にいわゆる人権の抹殺をひきおこし、しかもそこに責任や罪を感じることのない心性をつくり出す」 (『橋川文三 著作集5』筑摩書房) 。
先にも見たように鹿島氏は小林秀雄のランボー論に見られる「美神との刺違へ」的イメージが「二・二六の青年将校などの同世代人にも共通して見られる」ことを指摘していますが、 それは「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣い」と語って「玉砕」を美化した林房雄などの論客だけでなく、『永遠の0』に記された「死の美学」に魅了される読者にも当てはまる可能性があります。
堀田善衞は長編小説『審判』で核戦争が地球を滅ぼす危険性について詳しく考察していましたが、ロシア軍のウクライナ侵攻に乗じて、「核武装」を煽ることで戦前の価値観を復活させようとしている政治家や論客に引きずられて「改憲」をすることは、日本発の地球規模の悲劇につながる危険性が高いと思われます。
(2022年3月6日、改訂と改題)
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