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「小林秀雄神話」の解体(2)――『地獄の季節』の誤訳とムィシキンの形象の曲解

「小林秀雄神話」の解体(2)――『地獄の季節』の誤訳とムィシキンの形象の曲解

2、『地獄の季節』の誤訳とムィシキンの形象の曲解

ランボオの『地獄の季節』という題名は正しくは「地獄に於ける或る季節」であると小林秀雄自身が後に断っていることに注意を促して(39)、彼の翻訳が「ほとんど『創作』に近くなっていた」と指摘した著者はこう続けています。

「ところが、その訳文の「月並みならざる」な文体が同じような精神の傾きを持った同時代の青年たちに圧倒的な熱狂をもって歓迎され、小林は一躍時代のヒーローとなり、以後五十年間、一九八〇年代に時代が転換するまで「文学の神様」の座にとどまりつづけた」のである。」(41)

その理由は小林が時代を先取りするような形で 『地獄の季節』を訳出したことにあると思いますが、著者は小林秀雄が1947年3月に書いた「ランボオの問題」(現タイトル「ランボオⅢ」)冒頭の文章を引用することで小林との出会いの意義を考察しているので引用しておきます。

「僕が、はじめてランボオに、出くわしたのは、廿三歳の春であつた。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いてゐた、と書いてもよい。向こうからやつて来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何の準備もなかつた。ある本屋の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられてゐたか、僕は夢にも考へてはゐなかつた。而も、この爆弾の発火装置は、僕の覚束ない語学の力なぞ殆ど問題ではないくらゐ敏感に出来てゐた。豆本は見事に炸裂し、僕は、数年の間、ランボオといふ事件の渦中にあつた。それは確かに事件であつた様に思はれる。文学とは他人にとつて何であれ、少くとも、自分にとつては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さへ現実の事件である、とはじめて教へてくれたのは、ランボオだつた様にも思はれる」(135-136)。

「後続世代」も「小林秀雄訳のランボー」との出会いに同じような衝撃を受けており、後に「小林秀雄の訳文の完膚なきまでの否定者となった」フランス文学者の篠沢秀夫も、この訳が「白水社から刊行されて以来、戦前戦後を通じて、不安な青春の精神に強い衝撃をあたえる読み物として重きをなしてきた」と書いていることに注意を促した著者は、小林が「さういふ時だ、ランボオが現れたのは、球体は砕けて散つた。僕は出発する事が出来た」と書いている個所を引用して、それまでは「ボードレール的なガラス球体の中に閉じ込められ」ていたような状態だったのであろうと推定しています(161)。

そして、当時の木版画を多数掲載することで当時の政治や社会や経済、文化なども視覚的に紹介しつつ、『レ・ミゼラブル』の内容と意義とを分かり易くかつ伝えた『「レ・ミゼラブル」百六景』を1987年に出版していた鹿島氏は、『ドーダの人』で一世を風靡した小林秀雄訳の『地獄の季節』を篠沢秀夫訳の『地獄での一季節』と比較しながら詳しく検証し、次のように記しているのです(161)。

すなわち、「夜は明けて、眼の光は失せ、顔には生きた色もなく、行き交ふ人も、恐らくこの俺に眼を呉れるものはなかったのだ。/ 突然、俺の眼に、過ぎて行く街々の泥土は、赤く見え、黒く見えた。」という個所をランボーが『レ・ミゼラブル』を踏まえて描いていることを無視して、小林は「ランボーの『私小説』として誤読し、これを『ランボー体験』として敷衍してしまたった」(167)。

こうして著者は、小林秀雄が「ランボーを誤訳する前に誤読し、いわば、ランボーの翻訳というかたちを借りて『創作』を行った」とし、「この意味で、『他人を借りて自己を語る』という小林秀雄の批評態度はすでにランボーの段階から『確立』されていたことになる」と書いているのです。

同じことは小林秀雄の『罪と罰』理解にも当てはまります。「高利貸し」の問題が事件の発端となっていたことや弁護士ルージンとの口論や司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて『罪と罰』を考察した小林は、「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」とし、ラスコーリニコフには「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったと断言しているのです(全集、6・45)。

ドストエフスキーがエピローグの「人類滅亡の悪夢」を見た後のラスコーリニコフの更生を示唆していたことに留意するならば、小林秀雄の『罪と罰』論がドストエフスキーの作品を分析した解釈ではなく、自分の心情に沿った解釈であったと言えるでしょう。

 このような『罪と罰』の解釈は同じ年に開始した『白痴』論とも連動しており、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない。シベリヤから還つたのだ」という大胆な解釈をした小林は(全集、6・63)、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と記して、二つの作品の主人公の同一性を強調していました。

その理由について小林は死刑について語った後でムィシキンが「からからと笑ひ出し」たことを、「この時ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」とし、「作者は読者を混乱させない為に一切の説明をはぶいてゐる」ので、「突然かういふ断層にぶつかる。一つ一つ例を挙げないが、これらの断層を、注意深い読者だけが墜落する様に配列してゐる作者の技量には驚くべきものがある」と説明しています(全集、90-91)。

 こうして小林は、この場面を「全編中の大断層の一つ」として指摘することで、死刑や死体などの「無気味さ」について面白そうに語っていたムィシキンの異常さを強調しているのです。しかし、これは自分の解釈へと読者を「誘導」するような小林の「創作」的な解釈で、「注意深い読者」ならば、すぐにその誤読に気付くはずです。

 なぜならば、『白痴』ではムィシキンが死刑廃止論者として描かれていますが、1860年の『灯火』誌の第三号には死刑の廃止を訴えたユゴーの1829年の作品『死刑囚最後の日』がドストエフスキーの兄ミハイルの訳で掲載されていました。ドストエフスキー自身も『作家の日記』においてこの作品について、「死刑の宣告を受けたものが、最後の一日どころか、最後の一時間まで、そして文字通り最後の一瞬まで手記を書き続ける」ことが現実にはありえないにしても、ここに描かれているのは死刑囚の心理に迫り得ていることを高く評価して、これを「最もリアリスチックで最も真実味あふれる作品」と位置づけているのです(高橋誠一郎、『欧化と国粋 日露の「文明開化」とドストエフスキー』参照)。

それらのことに注目するならば、殺人を犯した後も「罪の意識も罰の意識も」現れなかったラスコーリニコフとムィシキンとの同一視は不可能だといえるでしょう。1861年にフィレンツェでユゴーの大作『レ・ミゼラブル(悲惨な人々)』を手に入れると街の見学も忘れて読みふけり、翌年にはこの長編小説と『ノートルダム・ド・パリ』についての詳しい紹介を『時代』に掲載したドストエフスキーは、その筋や人物体系を『罪と罰』に取り入れ(井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉の生命』参照)、『白痴』にも組み込んでいるのです。

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