はじめに *1
「ドストエフスキー生誕200年」にあたる今年の第44号に清水孝純・九州大学名誉教授の玉稿「ブルガリア国際ドストエフスキー学会・シンポジウムでの黒澤明」を掲載することができた。
その後、会員の方々から著名な映画史研究者の岩本憲児・早稲田大学名誉教授の近著『黒澤明の映画 喧々囂々(けんけんごうごう) 同時代批評を読む』(論創社、2021)に、「日本のドストエフスキー研究者たち、井桁貞義、清水孝純、高橋誠一郎らも、原作『白痴』の評価を深めていった」との記述があるとのお知らせを相次いで頂いた。
入会時に記したように私の願いは黒澤映画『白痴』の意義を広めることにあったので、拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(2011年)と『黒澤明と小林秀雄』(2014年)について「このようにロシア文学研究に軸足を置いて書かれた二冊の本は、これまでの黒澤研究に新たな視点、しかも深い解釈をもたらしてれる」(319頁)との高い評価はありがたかった。
ただ、私が「『姿三四郎』正続編の主人公にも『白痴』の主人公ムィシキンの姿を見てしまう」(318頁)と多少批判的に記されているが、そこでの記述は私の解釈ではなく、堀川弘通監督の証言を紹介したものであった。重要な証言なのでここでも引用することにする。
『会誌』第43号には「堀田善衞の黒澤明観――黒澤映画《白痴》と映画《用心棒》の考察を中心に」という題名で投稿したが、その後、堀田善衞が安岡章太郎、岩崎昶との座談会で、映画『姿三四郎』についても発言していたことが分かった。そこでの堀田の発言についても簡単に紹介して映画『姿三四郎』の意義を確認したあとで、堀田の映画『用心棒』観にもふれておきたい。
一、堀川弘通監督の映画《姿三四郎》観*2
長く黒澤作品の助監督を務めた堀川弘道は「プーシキン、ゴーゴリ、トルストイ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、これらの作家の作品の影響は、戦前の日本知識人の血脈として生きていた。特にクロさん(引用者注――黒澤監督)はその影響を受け、自分の脚本にも反映している」と書いている。
そして堀川は、《続 姿三四郎》(脚本・黒澤明)を撮る前には黒澤が原作者の富田常雄と「酒を酌み交わすうちにすっかり打ち解けて、ロシア文学の話になり、富田がロシア文学に造詣の深いのには、ちょっとびっくりしたが、特にドストエフスキーでは『白痴』のムィシキン公爵について、『その白痴のような純粋』さの解釈で大いに盛り上がった」ことを紹介している。
実際、自分の命をも狙うような敵の憎しみや苦悩にも理解を示す「白痴のような純粋」さを持つ《姿三四郎》や《続 姿三四郎》の主人公は、ムィシキンと多くの共通点を有しているのである。さらに、映画《白痴》の脚本を協同で書いた久板栄二郎は、黒澤がドストエフスキーの『虐げられた人々』の映画化の意図を持っていたが、それは実現しなかったものの、《赤ひげ》の少女の形象として実現しているとインタビューで証言している。
それゆえ一九四三年に公開された《姿三四郎》(脚本・黒澤明)のころから『白痴』映画化の構想を温めていたのではなかいかと想定した堀川は、《白痴》について「ドストエフスキーの小説の息吹をこれ以上伝えた映画は、今までなかったと思っている」と評価しただけでなく、「全作品中でも、一、二を争う意義ある作品」と位置づけているのである。
しかも、このような堀川の指摘に先だって《白痴》の公開後にインタビューした清水千代太は、《酔いどれ天使》(1948)における医者とヤクザの描かれ方にも言及しながら、黒澤映画とドストエフスキー作品との関連について鋭く迫っていた。また、先駆的な研究書である『黒沢明の世界』において佐藤忠男は、終戦直後に公開された《わが青春に悔なし》(1946)や、「第五福竜丸」事件の後で撮られた《生きものの記録》(1955)などの作品の主人公にムィシキンとの共通性を見ている。
これらの指摘に留意しながら黒澤映画を見るとき、《白痴》の前後に公開された諸作品や《天国と地獄》(1963)、《赤ひげ》(1965)ばかりでなく、原発や原爆の問題を扱った晩年の《夢》(1990)や《八月の狂詩曲》(1991)にいたるまで、実に多くの作品が長編小説『白痴』のテーマを受け継いでいることに気づく。
二、作家・堀田善衞の映画 《 姿三四郎》観
黒澤映画 《天国と地獄》 がたいへんなヒット作となったことを受けて『朝日ジャーナル』(1963年5月5日)では、「映画『天国と地獄』が博した人気の秘密はなにか。一つは、この映画のスリリングなテーマであり、もう一つは、黒沢明監督その人の人間味であろう」という切り口から、「黒沢明の人間研究」と題して作家の安岡章太郎、映画評論家の岩崎昶と堀田善衞の座談会が行われていた*4。堀田善衞の黒澤明観を示す重要な発言なので『姿三四郎』を中心に少し詳しく紹介する(この節では堀田善衞の表記に従って題名は『』に記し、かっこ内には頁数を示す)。
その冒頭で「たいへんな人気を博して、戦後最大の観客を動員するのじゃないかと見るむきもあります」との編集部の言葉を受けて、「二度見た、三度見たという人がいましたよ、それも女の人」と堀田は応じている。
しかし、編集部が「 『天国と地獄』を中心にして、黒沢明の内面の世界、あるいはその人間観を探ってみたら、と思う」 と続けると堀田は、「黒沢明さんの人間観というが、人間観というようなものはぼくはあまり感じない」(30)と否定的に答えている。堀田が長編小説『祖国喪失』(1952)では『わが青春に悔なし』の広告から主人公が日本の将来の希望を感じたと記しており、昭和初期の時代を描いた自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では女主人公・マドンナと映画『馬』の関りを描いていたことを考慮するならば、このような評価は意外だった。
ただ、映画『野良犬』(1949)に対しては好意的な評価をしていることを考慮するならば、長編小説『記念碑』(1955)で登場人物の言動をとおして特高警察の問題を詳しく描き、『審判』(1963)では基地問題などで暴力を振るうようになった警察の過剰警備を明らかにしていた堀田にとって、『天国と地獄』では警察制度の問題がきちんと描かれていないという不満を持ったのだと思われる。
興味深いのは、このように『天国と地獄』には「分裂的だ」と批判した堀田が戦時中に公開された 『姿三四郎』については、「処女作 『姿三四郎』はシンメトリーの建物みたいなものでしょう。方一方に柔道派があって、方一方に柔術派みたいなものがあって、そうして娘がいて……」(31)と評価しており、座談会の最初の頁の上段でも『姿三四郎』の決闘のシーンが大きく示されている。
堀田善衞は映画『生きる』に対しても批判的な言説を述べているが、座談会の終了近くでは「日本映画の一つの完成者であることはたしかです」と高い評価を述べ、「これからも黒沢さんの映画をぼくは見たいと思う」と語り、こう結んでいる。
「いちばんいいのは、無理な叙情のないことはありがたいな。助かるね。『姿三四郎』で、ハスの花を写しても無理な叙情はない、あれはほんとうに助かるな。『姿三四郎』は非常にぼくは好意を持ったな。/ あれと吉川英治さんの武蔵と比べたら、規模が違うからちょっと言えないけれども、あの姿三四郎のほうが単純に神様があるのじゃないかしら、吉川英治さんの宮本武蔵よりも」(37)。
最後に「神様」が出て来るのには驚いたが劇作家の井上ひさしも 、「ユーモアの力・生きる力」と題された黒澤との対談の冒頭で「国民学校の三年生のときに《姿三四郎》を見て以来、黒澤さんを神様のようにあがめて生きてきた」と語っていた。そのことにも留意するならば、戦時中の暗い時代に黒澤映画が若者たちに与えた希望の大きさが感じられる。
三、堀田善衞の映画 『用心棒』 観
国立映画アーカイブの開館記念企画として2018年に開催された展覧会「旅する黒澤明・槙田寿文ポスターコレクションより」に出展されたポスターの絵などを収録した『旅する黒澤明』にはフランスで作成された映画《白痴》やイギリス版の《生きものの記録》、そしてアメリカ版の映画《夢》、さらにはポーランド版の映画《八月の狂騒曲》のポスターも載っており興味深かった。
ことに目を惹いたのはここにキューバで作成された映画《赤ひげ》のポスターも掲載されていたことである。キューバにおける『七人の侍』や『用心棒』の受容については、奴隷貿易や植民地政策の悲惨さにも触れた『キューバ紀行』(1966)で記されている(ルビは省略した)。キューバにおける映画《赤ひげ》や映画《白痴》の受容について触れられていないのが残念だが、堀田善衞の黒澤明観の一端は伝わってくる。
堀田の黒澤映画《白痴》観 については、拙著『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』(群像社)で詳しく言及し、や ゴーリキーの劇《どん底》とのかかわりについてもふれたが、映画《用心棒》については省いていたので、少し長くなるがここで引用しておきたい。
「ここにある西と東の反撥と疎隔は、未来に深刻な問題を用意するものであるかもしれないと思われる。しかもその間にあって、日本の現代絵画や彫刻、建築、さらに日本映画が、とりわけて黒澤氏の 『七人の侍』 や『用心棒』が――『用心棒』は大評判で、あれはフィデル・カストロをモデルにしたものではなかろうか、と(通訳の:注)レナルド氏はそっと秘密でもうちあけるようにして言うのである。つまり、一つの村で二組のギャングが張りあっていて村人たちは困り果てている、そこへ〝用心棒″の三船敏郎氏が入って行って、一度は失敗して(フィデルは一度はモンカグ要塞を攻撃して失敗した)村はずれの御堂にとじこもり(フィデルはシエラマエストラの山にこもった)、そこで策をねって、村人たちと力をあわせて、ついに二組のギャングを鉢合せさせて退治し、村人を解放する……。ここで二組のギャングとは、言うまでもなくバチスタ独裁政権であり、アメリカの植民地資本なのである。レナルド君によれば、ハバナで人々はこの映画を、また『七人の侍』を歓呼し、涙を流して見たものだというのである。黒澤氏は大いなる功徳をほどこしたものと言うべきであり、かつそのことは私などにとっても、ある晴れがましい気持を与えるものであった。」。
おわりに
原住民の「虐殺」に近いスペインの植民地政策とそれに続く奴隷貿易の悲惨さを1964年に訪れたキューバで詳しく知ることになるが、 1961年に公開された東宝映画《モスラ》 の原作『発光妖精とモスラ』を盟友の中村真一郎、福永武彦との共作で書き上げていた( 拙著『堀田善衞とドストエフスキー』の第3章参照)。
放射能の危険性をも訴えていた怪獣映画《ゴジラ》の本多猪四郎監督による映画《モスラ》 が大ヒットしたのも、この映画が娯楽映画としての側面を持つとともに、岸政権下が結んだ「新安保条約」と「日米地位協定」の危険性をも予告し得ていたからだろう。
注 *1 題名は 『黒澤明研究会誌』(No.45) 掲載時の 「黒澤明のドストエフスキー理解と映画『姿三四郎』」より変更し、漢数字をローマ数字に改め会員の人名の削除など一部を変更し、「おわりに」を加筆した上で再掲。/ *2 この節は拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社 ) より引用。 / *3 この資料は丸川珪一氏のご教示による。
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