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「ラピュタ」3(閑話休題)――丸山穂高氏のツイッターの手法と比較という方法の意義

「ラピュタ」3(閑話休題)――丸山穂高氏のツイッターの手法と比較という方法の意義

 今回の一連の考察では、現在の日本で起きている事件なども視野に入れながら、宮崎駿監督のアニメに対する理解の問題を、短い言葉で自分の意見や感情を述べるツイッター文化の特徴についても少し踏み込んで考えています。

宮崎駿監督の会見映像とともに、「彼の深く壮大な作品に込めた想いと共に、こうした現実に対する問題意識も多く人々に届くことを」と記したにゃん吉氏の8月19日のコメントと映像に対しては、「平和ボケの九条信者」と監督を揶揄したり、「作品とは関係のない政治的発言はやめるべきだ」などという批判のツイートも多く寄せられていました。(なお、私のツイッターでは読めなくなっていた投稿記事もここには残っていました)。

https://twitter.com/umetaro_uy/status/1163449741352419330

今回は閑話休題という形でツイッターと扇情的な週刊誌の手法の類似性と危険性についてだけでなく、その批判を行う際の比較という方法の意義について考えることにします。

    *   *   *

 前回は北方領土での言動が激しい顰蹙を買ったにもかかわらず丸山穂高氏が、日韓で領有権が争われている竹島についても、「戦争で取り返すしかないんじゃないですか?」とツイッターに投稿して論議を呼んでいることについて触れました。しかし、それはやはり氷山の一角だったようで、今度は『週刊ポスト』が「韓国なんて要らない」などと題する特集を組んで、 「嫌韓ではなく断韓だ」「厄介な隣人にサヨウナラ」と表紙に大書きしたのです。

 Paul氏はこの「断韓」という用語が、在特会がヘイトデモで掲げた「断韓」の旗と同じ用語であるとツイートしていますが、ジャーナリストの布施祐仁氏もツイッターで「こういう時こそ冷静な言論が必要なのに、販売部数を伸ばすために逆に韓国への敵対心や排外主義的なナショナリズムを煽るメディア。売れれば何でもいいのか?言論機関としての矜持はないのか?」との鋭い批判の矢を放ちました。

 執筆中の作家などからも一斉に「差別的だ」と批判されたことで、『週刊ポスト』は一転してこの特集について、「誤解を広めかねず、配慮に欠けていた」と謝罪しました。しかし、そこでは誠意が全く感じられず、北方領土問題のあとで、プロフィール欄に「憲政史上初の衆院糾弾決議も!」と書きこんで、支持者を煽っている丸山氏のレベルとあまり変わりないように感じます。

 この意味で宗教学者のKawase Takaya氏が「今回の『週刊ポスト』の件、酷いのは言わずもがなだが、毎月それを上回る酷い煽り文句と記事(という名のヘイト)を垂れ流している『WILL』やら『Hanada』に多くの現役議員が寄稿したり対談やってたりする異常さも忘れてはダメ」とツイッターに投稿していることは重要でしょう。

 実際、月刊『Hanada』の10月号では「韓国という病」というヘイト特集に、韓国への輸出規制交渉の責任者である世耕経産大臣が誌上で「改憲」派の急先鋒である櫻井よしこ氏と対談をし、冷静な外交を行うべき佐藤正久・外務副大臣が「嫌韓」を煽るような記事を書いていたのです。

 そのことを考えるならば、140字という短い文字数で自分の主張を記すツイッターの手法は煽情的な週刊誌の手法にも通じているようです。なぜならば、冷静に相手の主張も記してその後にその反論と言う形で自分の考えを述べるという比較と言う方法を行うには文字数が足らないからです。

 思い出されるのは、『枝野幸男、魂の3時間大演説「安倍政権が不信任に足る7つの理由」』が大ヒットした際に、『1分で話せ』という本の題名を出して揶揄するツイートが多く見られたことです。

緊急出版! 枝野幸男、魂の3時間大演説「安倍政権が不信任に足る7つの理由」(書影は「アマゾン」より)

ここにも一部のツイッターの書き手の短絡的な特徴がよく現れていると思われます。政治でも外交と同じように相手の立場や状況をよく聞き、理解してから自分の考えを述べることが必要なのですが、揶揄者はそれを失念してセールスマン的な資質を政治家に求めていたのです。

 (以下、加筆と改訂)

 こうして、ツイッターや週刊誌などで扇情的な文章や記事が横行するようになる中、先週、在日韓国大使館に銃弾1発と脅迫文を入れた封書が届いていたことが分かりました。司馬遼太郎は「征韓論」など日本における外交が、内政上の危機を逸らすために用いられてきたことを指摘していますが、安倍内閣にもそのような危険性が感じられます。

 このブログの記事やツイートではオリンピックを名目にした「共謀罪」法案が、テロ対策よりも批判者を取り締まる法案であることが「国連」からも指摘されていたことに注意を促して、幻となった1940年の東京オリンピックの状況と今度のオリンピック前の状況が似てきたと記しました。

  アベノミクスなどの破綻が徐々に明白になってきている一方で、先ほどは東京五輪の組織委員会が旭日旗の持ち込みを禁止しないと発表したことで、オリンピックがベルリン・オリンピックと同様の国威発揚の場とされる危険性が高くなってきました。

→ https://this.kiji.is/541527294797661281?c=39550187727945729

  

〔手塚治虫のマンガ『アドルフに告ぐ』は、 ナチスの宣伝の場となった1936年の華やかなベルリン・オリンピックの最中に電話をかけてきた弟が殺されたことを主人公の新聞記者が知るところから始まり、ドイツと日本の悲劇を壮大な規模で描いている。〕

このような事態に冷静かつ的確に対処するためにも、比較という方法を活かして文学作品だけでなく今回、考察している宮崎駿のアニメ映画などをブログだけでなくツイッターでも紹介することにより、扇情的なナショナリズムを乗り越える道を模索していきたいと考えています。

半藤一利と宮崎駿の 腰ぬけ愛国談義 (文春ジブリ文庫)

 (2019年9月4日、改訂)

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