夏目漱石(1867~1916、本名は金之助)。以下の図版は、いずれも「ウィキペディア」より。
夏目漱石は断片「無題」の最後に、自分の留学中に亡くなった盟友・子規への思いを次のように記していました。
「霜白く空重き日なりき、我西土より帰りて、始めて汝が墓門に入る。爾時汝が水の泡は既に化して一本の棒杭たり。われこの棒杭を周る事三度、花も捧げず水も手向けず、只この棒杭を周る事三度にして去れり。汝は只汝の土臭き影をかぎて、汝の定かならぬ影と較べなと思ひしのみ」。
文芸評論家の江藤淳は、この文章を「子規に托し、嫂登世の墓を前にしての「孤愁」を述べた」ものであると解釈し、「棒杭とは登世の戒名を書いた『卒塔婆』であることが判明する」と注記していました。
これに対して、「卒塔婆はどうみても板で」あるが、「子規の墓はこの頃は例の墓標で、まさに『棒杭』だったのである」と指摘した大岡昇平は『子規全集』の監修者の一人として、「私はこの文献を江藤氏の三文小説的な曲解から守るつもりである」と記していました。(「江藤淳の『漱石とアーサー王傳説』を読む」、『文学における虚と実』、講談社、1976年、89~94頁)。
漱石の作品を嫂登世への思いという視点からスキャンダラスに解釈した文芸評論家の江藤淳は、「『文学論』を書いていた漱石には、自らの復讐の対象である文学の感触を楽しんでいるような、奇妙に倒錯した姿勢がある」とも記していました(下線引用者、江藤淳『決定版 夏目漱石』新潮文庫、1979年、45頁)。
しかし、正岡子規についての著作もある末延芳晴氏は、ロンドンでの漱石を考察して、江藤のような解釈は「『文学論』とその『序』が持つ本質的意味を読み誤ってしまって」いると厳しく批判しています(末延芳晴『夏目金之助 ロンドンに狂せり』青土社、2004年、462~464頁)。
この意味で注目したいのは、作家で小林秀雄の直弟子といえる大岡昇平が、こう記していたことです。
「私は、漱石は子供のとき読んだきりでございまして、むしろ若いころは、漱石は何かあまりおもしろくないんだというような雰囲気の中にいたわけで、私は高等学校のころから、つまり昭和の初めですが、いろいろ教えていただいた小林秀雄、河上徹太郎、あのグループには漱石論はないのです。」
しかも、大岡は江藤淳の夏目漱石論について「江藤さんの学術的探索は、こういう風に常にテクストから遊離したところで行われています」と、批判しています。(「漱石の構想力 江藤淳の『漱石とアーサー王伝説』批判、『文学における虚と実』、95頁、108頁)。
この大岡の言葉からは、『罪と罰』論に続く「『白痴』についてⅠ」で小林秀雄が、貴族トーツキーの妾にされていた美女のナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたことが思い起こされます。なぜならば、両親が火災で亡くなったために孤児となったナスターシヤは、少女趣味のあったトーツキーによって無理矢理に妾にさせられていたのです。
「憲法」がなく表現の自由も厳しく制限されていた帝政ロシアで苦闘していたドストエフスキーの作品を主人公たちの情念に絞ってスキャンダラスに分析した小林秀雄の解釈の手法は、文芸評論家・江藤淳の漱石論にも受け継がれているといえるでしょう。
他方で大岡昇平は、島崎藤村の『若菜集』を新聞『日本』で厳しく批判した子規の「若菜集の詩と画」について、子規の評論には「同じ直截な論理と、歯に衣きせぬ語法において、今日でも私たちが手本とすべき多くのものを含んでいると思われる」と書いていました。
北村透谷の死後に島崎藤村が正岡子規と会って新聞『日本』への入社の相談をしていたことを考えるならば、『若菜集』から長編小説『破戒』への移行を考えるうえで、子規の批評についての大岡の評価はきわめて重要だと思えます。
(2018年4月24日、改訂。5月6日、改訂と改題)
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