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夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較・関連年表

夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較・関連年表

明治憲法、「ウィキペディア」

(憲法発布略図、楊洲周延画、出典は「ウィキペディア」クリックで拡大できます)

1889(明治22)1月、夏目金之助(漱石)、落語を介して正岡常規(子規)と交遊を始める。2月11日、大日本帝国憲法発布陸羯南の新聞『日本』が発刊。当日の朝、国粋主義者に脇腹を刺された文部大臣森有礼が翌日死亡。5月、子規『七草集』脱稿。5月9日、夜喀血、時鳥の句を作り「子規」と号す。漱石、『七草集』を漢文で批評し七言絶句九編を添えて「漱石」の号を用いる。9月に房総の紀行漢詩文『木屑録』(ぼくせつろく)を書き子規に批評を求める。

1890(明治23) 2月1日、徳富蘇峰の『国民新聞』が創刊(総合雑誌『国民之友』は1887年2月~1898年8月)。漱石・子規、9月、東京帝国大学文科大学に入学。10月、「教育勅語」渙発

教育勅語

(図版は「ウィキペディア」より、クリックで拡大できます)

1891(明治24) 1月、「教育勅語」に対する「不敬事件」。子規、2月、 国文科に転科。5月、皇太子ニコライが大津で襲撃される。6月、木曽路を経て松山へ帰省。試験放棄。寄宿舎追放事件後、12月に駒込追分町へ転居。小説「月の都」の執筆に着手。冬、「俳句分類丙号」に着手。12月、漱石、『方丈記』を英訳する。

1892(明治25) 漱石、5月、東京専門学校(現在の早稲田大学)講師に就任。子規、「かけはしの記」を5月から、6月からは「獺祭書屋俳話」を『日本』に連載。7月 帰省、漱石も松山を旅行。12月、子規が日本新聞社入社。【3月、徳富蘇峰が本郷教会会堂で「吉田松陰」を講演し、『国民之友』に10回連載(5月~9月)。5月、北村透谷、評論「トルストイ伯」、11月、内田魯庵訳『罪と罰』(巻之一)】。

1893(明治26) 子規、2月、俳句欄を『日本』に設ける。7月19日~8月20日 東北旅行。俳諧宗匠を歴訪する。11月「芭蕉雑談」、「はてしらずの記」を『日本』に連載。【1月、北村透谷、評論「『罪と罰』の殺人罪」。『文学界』創刊(~1898年1月)。2月、透谷、雑誌『文学界』の第2号に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」を発表し、雑誌『国民之友』に発表された山路愛山の史論「頼襄を論ず」を厳しく批判。内田魯庵訳『罪と罰』(巻之二)。4月、井上哲次郎『教育ト宗教ノ衝突』発行。5月、透谷「井上博士と基督教徒」(雑誌『平和』)。12月、蘇峰『吉田松陰』発行。】

1894(明治27) 子規、2月、羯南宅東隣へ転居。2月11日『小日本』創刊、編集責任者となり、小説「月の都」を創刊号より3月1日まで連載。

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(図版は大空社のHPより、『小日本』全2巻・別巻、大空社、1994年〉

5月、北村透谷の追悼文が『小日本』に掲載される。内田魯庵の「損辱」(『虐げられた人々』)の訳が『国民之友』に連載される(5月~1895年6月)、7月、『小日本』廃刊により『日本』に戻る。日清戦争(7月29日~1895年4月)

1895(明治28) 漱石、横浜の英語新聞「ジャパン・メール」の記者を志願したが、不採用に終わる。4月、高等師範学校を退職し、愛媛県尋常中学校(松山中学)教諭に就任。子規、4月10日、宇品出港、近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。金州で従弟・藤野潔(古白)のピストル自殺を知る。5月4日、金州で森鴎外を訪問。17日、帰国途上船中で喀血。23日、県立神戸病院に入院、7月23日、須磨保養院へ移る。8月20日、退院。8月27日、松山中学教員夏目金之助の下宿「愚陀仏庵」に移る。10月、帰京、「俳諧大要」を『日本』に連載。

1896(明治29)1月3日、子規庵で句会。鴎外・漱石が同席。「従軍記事」の連載。3月、カリエスの手術を受ける。4月、「松蘿玉液」(~12月)。漱石、4月、熊本県の第五高等学校講師となる。

1897(明治30)島崎藤村が正岡子規と会って新聞『日本』への入社についての相談。

1898(明治31) 子規、2月、「歌よみに与ふる書」を連載(~3月)。10月、発行所を東京に移し、『ホトトギス』第一号発刊。

1899(明治32) 子規、1月 『俳諧大要』刊。漱石、4月、エッセー「英国の文人と新聞雑誌」(『ホトトギス』)。10月、「飯待つ間」(『ホトトギス』)。

猫の写生(「猫の写生画」、図版は青空文庫より)

1900(明治33)子規、8月、大量喀血。8月26日、漱石、寺田寅彦と来訪。9月、第1回「山会」(写生文の会)を開催。漱石、9月、イギリスに留学。

1901(明治34) 1月、「墨汁一滴」を『日本』に連載開始(~7月)、5月、漱石の「倫敦消息」が『ホトトギス』に掲載される。9月、「仰臥漫録」を書き始める。11月6日、子規が漱石宛書簡に「僕ハモーダメニナツテシマツタ」と書く。

1902(明治35) 1月、日英同盟締結。5月、「病牀六尺」を『日本』に連載開始(~9月)。9月18日、絶筆糸瓜三句を詠み、翌日死亡。12月、漱石、帰国の途につく。

1903(明治36) 漱石、4月、第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。藤村操、投身自殺。幸徳秋水たちが『平民新聞』創刊。

1904(明治37) 木下尚江、「火の柱」を東京毎日新聞に連載(1月~3月)、日露戦争(2月8日~1905年9月5日)。4月、瀬沼夏葉「貧しき少女」(『貧しき人々』のワルワーラの手記の訳、『文芸倶楽部』)。8月、トルストイの「悔い改めよ」と題する非戦論が『平民新聞』に掲載される。

1905(明治38) 漱石、1月、『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表(翌年8月まで断続連載。4月、内田魯庵訳の『復活』が新聞『日本』に掲載(~12月)。9月5日、ポーツマス条約の条件に不満をもつ群衆が国民新聞社を襲撃、10月、単行本『吾輩は猫である』上編。

1906(明治39)  1月、漱石が内田魯庵に『イワンの馬鹿』贈呈の礼状、「趣味の遺伝」(日露戦争時の突撃への厳しい批判の記述)。3月、島崎藤村『破戒』。4月、「坊つちやん」(『ホトトギス』)。5月、『漾虚集』。9月、「草枕」。10月、「二百十日」。11月、『吾輩は猫である』中編(子規の手紙を掲載)。

1907(明治40) 漱石、1月、「野分」を『ホトトギス』に発表。4月、朝日新聞社に入社。5月、『文学論』、『吾輩は猫である』下編。6月、「虞美人草」を朝日新聞に連載(~10月)。

1908(明治41) 漱石、1月「坑夫」(~4月)。4月、島崎藤村、「春」(~8月まで「東京朝日新聞」に連載)、7月、8月、「夢十夜」。9月「三四郎」(~12月)。10月、蘇峰、改訂版『吉田松陰』。

1909(明治42) 漱石『永日小品』(1月~3月)。3月『文学評論』(春陽堂)。『それから』(6月~10月)。10月、伊藤博文、ハルビンで暗殺される。『満韓ところどころ』(~12月)。11月25日「朝日文芸欄」を創設。

1910(明治43) 漱石『門』(3月~6月)。4月、雑誌『白樺』創刊。5月、大逆事件。6月~7月、胃潰瘍で入院。8月22日、日韓合併条約調印。8月24日、修善寺温泉での「大患」。11月、トルストイ死去。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

1914年(大正3年)  第一次世界大戦(~1918)。

1915年(大正4年)  芥川龍之介「羅生門」、漱石の木曜会に参加する。

1916年(大正5年)  12月、夏目漱石没。徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』

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本年表は夏目漱石生誕150年によせて「夏目漱石と世界文学」をテーマとして7月22日に行われた「世界文学会」の第4回研究会での配布資料に加筆したものである。

例会発表の際には正岡子規や夏目漱石と池辺三山との関係や『それから』と「大逆事件」との関係には時間の都合で言及できなかったが、発表を踏まえて書いた論文〔夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較――「教育勅語」の渙発から大逆事件へ〕では言及した。

夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ(レジュメ 

ユーチューブの動画

http://youtu.be/nhIPCAoGNsE (1)

http://youtu.be/_1KBH3Lx0Fc (2)

(2017年8月10日、記事を差し替えて図版を追加。9月8日、加筆)

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