靖国神社には坂本龍馬が「英霊」として祀られているだけでなく、戦争の歴史や武器・兵器を展示している「遊就館」にも大きく龍馬の写真が展示されています。
そのために「神国思想」の危険性の鋭い分析をした小島毅氏も、「龍馬がここまでのし上がってきたのは、司馬遼太郎の小説のおかげであろう」と書き、さらに「これは別段『靖国史観』とわざわざ言うまでもなく、司馬遼太郎のような明治維新礼賛派の歴史小説家が好んで描く図式」であると断言して、長編小説『竜馬がゆく』の歴史観も「靖国史観」の亜流であるかのような記述をしています(『増補 靖国史観』ちくま学芸文庫、103~109頁)。
それゆえ、そのような誤解を解くために〈坂本竜馬の「船中八策」と独裁政体の批判〉と題した下記の短い引用を〈司馬遼太郎の「神国思想」の批判と憲法観〉の項目に追加しました。
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3,坂本竜馬の「船中八策」と独裁政体の批判
坂本竜馬が「船中八策」で記した「上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛(さんたん)せしめ、万機よろしく公議に決すべき事」という「第二策」を、「新日本を民主政体(デモクラシー)にすることを断乎として規定したものといっていい」と位置づけるとともに、「他の討幕への奔走家たちに、革命後の明確な新日本像があったとはおもえない」と書いた司馬は、「余談ながら維新政府はなお革命直後の独裁政体のままつづき、明治二十三年になってようやく貴族院、衆議院より成る帝国議会が開院されている」と続けていた。
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《ただ、竜馬はこのような広い視野を偶然に得たわけではなかった。すなわち、高知の蘭学塾でのオランダ憲法との出会いに注意を促しながら司馬は、「勝を知ったあと、外国の憲法というものにひどく興味をもった」竜馬が、「上院下院の議会制度」に魅了されて「これ以外にはない」と思ったと説明している。
つまり、「流血革命主義」によって徳川幕府を打倒しても、それに代わって「薩長連立幕府」ができたのでは、「なんのために多年、諸国諸藩の士が流血してきた」のかがわからなくなってしまうと考えた竜馬は、それに代わる仕組みとして、武力ではなく討論と民衆の支持によって代議士が選ばれる議会制度を打ち立てようとしていたのである。》
(『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』、人文書館、2009年、325頁)。
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