ドストエーフスキイの会、第237回例会のご案内を「ニュースレター」(No.138)より転載します。
* * *
第237回例会のご案内
下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。
日 時:2017年1月28日(土)午後2時~5時
場 所:場 所:千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)
℡:03-3402-7854
報告者:大木貞幸氏
題 目: キリストの小説――ドストエフスキー・マルコによるキリスト教批判
*会員無料・一般参加者=会場費500円
報告者紹介:大木貞幸(おおき さだゆき)
65歳。団体役員。埼玉大学理工学部卒業。40歳位から文芸誌新人賞に文学批評の投稿を続ける。年1作。対象は、大江健三郎、本居宣長、源氏物語、ロラン・バルト、柄谷行人、ドストエフスキーなど。主に表現と方法、日本的なものと西欧的なものの比較論を扱う。定年を機に「カラマーゾフ論」をまとめて、昨年3月に自費出版。同年当会に入会。
第237回例会報告要旨
キリストの小説――ドストエフスキー・マルコによるキリスト教批判
『カラマーゾフの兄弟』について書こうと思ったのは、マルコ福音書の、転じて「歴史」を創生するかのような高度な虚構性について考えていた際、作家がこのことの「証人」の一人であると確信したからです。ドストエフスキーが、その遺作の構想に当たって「キリストの小説」という言葉に想到したとき、作家はおそらく福音書に小説でしか達成できない世界を認め、そのモデルに相即し、かつ流動させることによってキリストその人の小説を書きうると考えた。この試みは、正教ロシアに連なることになるのですが、作家の表現はどこまでマルコに切迫し、西欧キリスト教世界に対したかを確かめようとしたものです。報告では、拙論の趣旨と概要をお話しするとともに、前後して上梓された芦川進一氏の『カラマーゾフの兄弟論』にもふれさせていただきます。
拙論は、2007年に執筆した未発表の評論と追加した「論註」から成ります。以下、章立てに沿って、本論と論註を併せた簡単な梗概を示します。
1 もうひとつの「福音書」――「方法」のモデル
「イエス・キリストについての本を書くこと」という覚書の二重の意味、『カラマーゾフ』における主題と方法に関する課題設定です。作家が、モデルとしての福音書に対し、記者たちと同じ位置から「もうひとつの福音書」を書こうとしたという趣旨です。
2 小児虐待の「思想」――常識の「原理」
小説の第5篇第3章と第4章「叛逆」を扱っています。「神」と「世界」と「小児の苦痛」をめぐる、イワンの思考の型の「未熟さ」を批判しています。作者がこれに気づいたこと、このことが主題の大きな転換と「方法」への踏込みになったという趣旨です。
3 「大審問官」のキリスト――「方法」の経験
第5章「大審問官」におけるイワンの劇詩の明白な「失敗」と、これを引き取った、アレクセイの接吻とイワンの歓喜の叫び、これと同時に生起した作者の方法的転換の経験という脈絡です。作者はある「形式」に想到し、初めて福音書の世界に踏込みます。
4 ゲッセマネの「憂愁」――流動するアナロギア
第6章の表題、「いまはまだそれほどはっきりしたものではない(が)」のとおり、父の家の門の前でのイワン=スメルヂャコフの交感と、マルコにおけるイエス=ユダの「分身関係」が、流動しつつ重なり、二つの「作品」が「一つ」になっていきます。
5 ペテロの「躓き」――超越論的アナロギア
第5編最終章の一挿話、「父の家の階段の下り口」でのイワンの奇怪な行動を、倫理の「内面」の点描ととらえます。そこにマルコの「大祭司の官邸の中庭」でのペテロの「躓き」、そしてありうべきペテロの倫理的行為を重ねる作家の「好奇心」を仮説します。
6 ゾシマの「罪」と「革命」――純粋倫理批判
第6篇の、若いゾシマとミハイルの「絶対的関係」が主題です。「ほんものの人殺しは殺さない」、この命題が二度目にゾシマ=イエスを訪れるミハイル=ペテロの倫理的可能性の「実現」として、「躓き」を認容せぬ作家のマルコ批判を成します。作家は純粋倫理を定着し、「一粒の麦」の死から、イエスたりうる「人間たち」の未来を望みます。
7 小説の過去と未来――「論理」の行方
「キリストの小説」の過去と未来、その敗れた論理の行方として小説全体を概観します。第11篇におけるスメルヂャコフの論理的「復活」は、この未完の大作の一つの帰結です。作家は「すべてのことに対して小説に復讐する」かのような作品を成しました。
コメントを残す