最近になって、安倍政権にも強い影響力を持つ「日本会議」の実態に迫る書籍が次々と発行されたことにより、「日本会議」の憲法観が明らかになってきました。
たとえば、山崎氏雅弘は『日本会議 戦前回帰への情念』において、NHKの大河ドラマ《花燃ゆ》では吉田松陰の妹・文が再婚した相手の小田村伊之助がクローズアップされていたが、この人物こそは小田村四郎・日本会議副会長の曽祖父であることを指摘しています。
その小田村氏は「日本を蝕(むしば)む『憲法三原則』国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という虚妄をいつまで後生大事にしているのか」というタイトルの記事を寄稿していました。
つまり、安倍首相を会長とする創生「日本」東京研修会で長勢甚遠・元法務大臣が、「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」と語っている動画が最近話題となりましたが、これは小田村副会長の言葉のほとんど繰り返しにすぎなかったのです。
ここでは拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)から、日本と帝政ロシアの「教育勅語」の類似性について記した箇所を引用しておきます。
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「明治憲法」の発布によって日本では「国民」の自立が約束されたかにみえたのですが、その日の朝に起きた文部大臣有礼への襲撃によって暗転します。その日のことを漱石は、長編小説『三四郎』で自分と同世代の広田先生にこう語らせています*11。
「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺された。君は覚えていまい。幾年(いくつ)かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列すると云って、大勢鉄砲を担(かつ)いで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引っ張って行って、路傍(みちばた)へ整列さした。我々は其処へ立ったなり、大臣の柩(ひつぎ)を送ることになった。」
この出来事はその後の日本の歴史を理解するうえでも、きわめて重要だろうと考えています。なぜならば、森文部大臣が殺された後で山県有朋が内務大臣の時の部下であった芳川顕正を起用して作成を急がせたことで、憲法発布の翌年には「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」と明記された「教育勅語」が渙発されることになったからです。
文明史家としての司馬氏の鋭さは、『「昭和」という国家』において「教育勅語」は難しかったと記すとともに、その理由を文章が「日本語というよりも漢文」であり、「難しいというより、外国語なのです」とその模倣性を的確に指摘していることです*12。
実際、明六社にも参加した教育家の西村茂樹が書いた「修身書勅撰に関する記録」によれば、ここでは清朝の皇帝が「聖諭廣訓を作りて全國に施行せし例に倣ひ」、我が国でも「勅撰を以て普通教育に用ひる修身の課業書を作らしめ」るべきだと記されていました*13
しかも、「祖国戦争」の後で憲法などの制定を求めて一八二五年に蜂起したデカブリストの乱を厳しく処罰したニコライ一世は、ロシアの若者にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」の理念に対抗するために「ロシアにだけ属する原理を見いだすことが必要」と考えて、「愛国主義的な」教育をおこなうことを求める「通達」を文部大臣に出させていましたが、「教育勅語」がこのロシアの「通達」をも意識して作成されていた可能性があるのです。
たとえば、西村が編んだ「修身書勅撰に関する記録」は、「西洋の諸國が昔より耶蘇〔ルビ・キリスト〕教を以て國民の道徳を維持し来れるは、世人の皆知る所なり」とし、ことにロシアでは、形式的にはともかく実質的には皇帝が「宗教の大教主」をも兼ねているとし、「國民の其の皇帝に信服すること甚深く、世界無雙の大國も今日猶〔なお〕君主獨裁を以て其政治を行へるは、皇帝が政治と宗教との大權を一身に聚めたるより出たるもの亦多し」と書いています*14。
そして西村は、我が国でも「皇室を以て道徳の源となし、普通教育中に於て、其徳育に關することは 皇室自ら是を管理」すべきであると説いていたのです。
しかも、ロシア思想史の研究者の高野雅之氏は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調した「ウヴァーロフの通達」を「ロシア版『教育勅語』」と呼んでいますが、司馬氏が中学に入学した翌年の一九三七年には文部省から『國體の本義』が発行されました。
注目したいのは、「國體の本義解説叢書」の一冊として教学局から出版された『我が風土・國民性と文學』と題する小冊子では、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」と強調されていたことです*15。
この「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっている」という文言は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」による「愛国主義的な」教育を求めたウヴァーロフの通告を強く連想させます。「教育勅語」が渙発された後の日本は、教育システムの面ではロシア帝国の政策に近づいていたといえるでしょう。
(拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年、105~108頁より)
(2016年7月21日。青い字の箇所を追記)
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