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「司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって」(5)

「司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって」(5)

目次(最新版

1、グローバリゼーションとナショナリズム

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3,大正時代と世代間の対立――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を中心に

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期の「別国」への道

6、窓からの風景――「国家神話をとりのけた露わな実体」への関心

7、司馬遼太郎の予感――「帝国の前途」から「日本の前途」へ

 

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期の「別国」への道

このような「拓川居士」の章の主題は忠三郎の親友・タカジと、大正から昭和への変わり目に一年だけ存続した同人誌「驢馬」とのつながりや、詩人だったタカジが革命家へと変貌する過程を描いた「阿佐ヶ谷」の章へと直結している。

しかもそれは唐突なことではなく、すでに司馬は「伊丹の家」の章で、忠三郎が結婚をした一九三七年の七月に「ふたりで外出中、号外で戦争の勃発を知った。宣戦布告という形式こそとられていないが、北京南郊の蘆溝橋で日華両軍が衝突し、交戦がつづいているということは、このあとの段階をどのようにも深刻に予想することができた」として、主人公たちと時代との関わり注意を向けていた。

このような流れは、弟蘆花の厳しい指摘にもかかわらず、「要するに我が日本国民は、国家が剃刀の刃を渡るが如く、只だ帝国主義に由りて、此の国運を世界列強角遂の際に、支持せざる可からざる大道理」を、まだ徹底的には会得していないと主張して、さらなる「平和的膨張」、すなわち侵略を主張していた蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』とも深く関わっていただろう(*37)。

なぜならば、司馬はこのとき「歩いている忠三郎さんの表情が暗くなり、度のつよいめがねだけが、凍ったように光っているのをあや子さんは見た」とし、彼女が自分の夫を「ただの気のいい呑気坊主とは見ていなかった」と続けていたからである(「伊丹の家」)。ここで司馬が「呑気坊主」という少し文章の流れとは違和感のある単語を用いているが、実は蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』には「大正青年は、八方を見廻すも、未だ嘗て日本帝国の独立を心配す可く、何らの事実を見出さざる也」とし、「亦た呑気至極と云ふべし」という表現が用いられていたのである。

そして蘇峰は、このような精神のたるみは「全国皆兵の精神」が、「我が大正の青年に徹底」していないためだとし、『教育勅語』を「国体教育主義を経典化した」ものと評価しつつも(*38)、「尚武の気象を長養するには、各学校を通して、兵式操練も必要也」とし、さらに「必要なるは、学校をして兵営の気分を帯ばしめ、兵営をして学校の情趣を兼ねしむる事也」と記していた(*39)。

一方、小学校時代から「とにかく、あらゆる式の日に非常に重々しい儀式を伴いながら、教育勅語が読まれた」が、その意味が分かりにくかったとした司馬は(*40)、「太平洋戦争の戦時下にみじかい学生時代を送った」が、「そのころから軍人がきらいで」あったが、それは「どういう学校のいかなる学生生徒にも好意をもたれなかったはずの学校教練の教師というものが予備役将校で、たえず将校服をきていたことと無縁ではないかもしれない」と記していた(「律のこと」)。こうして、蘇峰が主張した「学校をして兵営」となすという教育方針は大正から昭和にかけて徐々に実現していったのである。

この意味で注目したいのはタカジを中心に描いた「阿佐ヶ谷」の章で、司馬が「大正がおわる一九二六年からその翌年の昭和二年にかけての一年余が、タカジにとって重要な青春であった」とし、「かれらの詩の同人雑誌である『驢馬』ができ、一年余で全十二冊を出し、いさぎよく終刊になった」と記していることである。そして司馬は、「『驢馬』とその同人たちは、「タカジの生涯にとって一塊の根株のようなもの」であり、「さらには、同人の中野重治を知り、これに傾倒することによって革命運動の徒」になり、「悪法とされる治安維持法違反」で逮捕されたと続けている。

そして司馬はこの前年の一九二五年(大正一四年)に制定された「治安維持法」を、「国体変革と私有財産制否認を目的とする結社と言論活動」に関係する者に対し、国家そのものが「投網、かすみ網、建網、大謀網のようになっていた」とし、「人間が、鳥かけもののように人間に仕掛けられてとらえられるというのは、未開の闇のようなぶきみさとおかしみがある」と鋭く批判した。

治安維持法と同じ年に全国の高校や大学で軍事教練が行われるようになったことに注意を促した立花隆の考察は、この法律が「革命家」や民主主義者だけではなく、「軍国主義」の批判者たちの取り締まりをも企てていたことを明らかにしているだろう(*41)。すなわち、軍事教練に対する反発から全国の高校や大学で反対同盟が生まれて「社研」へと発展すると、文部省は命令により高校の社研を解散させるとともに、「学問の自由」で守られていた京都大学の「社研」に対しては、治安維持法を最初に適用して一斉検挙を行ったが、後に著名な文化人類学者となる石田英一郎が、治安維持法への違反が咎められただけでなく、天長節で「教育勅語」を読み上げ最敬礼させることへの批判が中学時代の日記に書かれていたとして不敬罪にも問われていたのである。

そして立花隆は京都帝国大学法学部の教授全員だけでなく助教授から副手にいたる三九名も辞表を提出し抗議した「滝川事件」にふれて、滝川幸辰教授に文部大臣が辞任を要求した真の理由は滝川教授が治安維持法に対して「最も果敢に闘った法学者だった」ためではないかと推定している。

二・二六事件の頃に青年時代を過ごした若者を主人公とした長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の著者である堀田善衛などと一九九二年に行った対談では司馬も、同人雑誌『驢馬』にも寄稿していた芥川龍之介が一九二七年(昭和二)に自殺し、その後でこの雑誌に係わっていた同人たちが「ほぼ、全員、左翼になった」とていることを指摘して、「そういう時代があったということは、これはみんな記憶しなければいけない」と続けて、「国家」の名の下に青年から言論の自由を奪い、学校を兵営化することの危険性に注意を向けた(*42)。

しかし、大正の青年に「戦争への覚悟」を求めた蘇峰は、「忠君愛国は、宗教以上の宗教也、哲学以上の哲学也」として(*43)、「日本魂」育成の必要を説き、「然も若し已むを得ずんば、兵器を以て、人間の臆病を補はんよりも、人間の勇気を以て、兵器の不足に打克つ覚悟を専一と信ずる也」と記したのである(*44)。

そして蘇峰は『教育勅語』の徹底とともに、「錦旗の下に於て、一死を遂ぐるは、日本国民の本望たる覚悟を要す。吾人は此の忠君愛国的教育に就ては、日本歴史の教訓に、最も重きを措かんことを望まざるを得ず」と主張していた(*45)。

このような教育によって学徒出陣を強いられた若き司馬は、ノモンハン事件について「ソ連のBT戦車というのもたいした戦車ではなかったが、ただ八九式の日本戦車よりも装甲が厚く、砲身が長かった」ことに注意を促し、「戦車戦は精神力はなんの役にもたたない。戦車同士の戦闘は、装甲の厚さと砲の大きさだけで勝負のつくものだ」と書き、「ノモンハンで生きのこった日本軍の戦車小隊長、中隊長の数人が、発狂して癈人になったというはなしを、私は戦車学校のときにきいて戦慄したことがある。命中しても貫徹しないような兵器をもたされて戦場に出されれば、マジメな将校であればあるほど発狂するのが当然であろう」と結んでいたのである(*46)。

ここではこのような事態を生み出した「皇国史観」の担い手であった徳富蘇峰を直接的には批判していない。しかし、吉田松陰を主人公とした長編小説『世に棲む日々』(一九六九~七〇)のあとがきで司馬は、「日本の満州侵略のころ」、自分は「まだ飴玉をしゃぶる年頃だったが、そのころすでに松陰という名前を学校できかされ」、「国家が変になって」くると、「国家思想の思想的装飾として」、「松陰の名はいよいよ利用された」と続け、「いまでも松陰をかつぐ人があったりすれば、ぞっとする」と記していた(*47)。

一方、蘇峰は日露戦争後に改訂した『吉田松陰』(一九〇八)において、「松陰と国体論」、「松陰と帝国主義」、「松陰と武士道」などの章を書き加えていたのである(*48)。 司馬はここで、「松陰という名が毛虫のようなイメージできらいだった」ときわめて感情的な表現を用いていたが、自作では司馬が松陰を明るいすぐれた教育者として描いていることを想起するならば、「毛虫のようなイメージ」は、改訂版の『吉田松陰』において、松陰を「膨張的帝国論者の先駆者」と規定した徳富蘇峰とその歴史観に向けられていたと言っても過言ではないだろう。

実際、『大正の青年と帝国の前途』において蘇峰は、白蟻の穴の前に硫化銅塊を置いても、蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸で硫化銅塊を埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを讃えて、「我が旅順の攻撃も、蟻群の此の振舞に対しては、顔色なきが如し」とする一方で、「蟻や蜂の世界には、彼の非国家文学なきを、寧ろ幸福として、羨まずんばあらず」(*49)と記していたのである。

司馬は「尼僧」の章で、日本の修道女が「布教ということを看板に、親日感情をもたせよう」としてカトリック国のフィリピンに送られることになったときの修道女となった妹たえに対する忠三郎の思いやりを描くとともに、「統帥権という超憲法的な機能を握ることで満州、華北を占領し、やがて日本そのものを占領した軍人たちは、アジアを占領するというばかげたこと」を思いついたとして、「平和的膨張主義」を唱えて侵略を正当化した思想家や昭和初期の軍人たちを厳しく批判した。

こうして司馬は、『この国のかたち』では拓川と同じ様に「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手でゆさぶられると、一国一民族は潰滅してしまうという多くの例を残している(昭和初年から太平洋戦争の敗北までを考えればいい)」と記して、「愛国心」を強調しつつ、「国家」のために「白蟻」のように勇敢に死ぬことを青少年に求めた蘇峰の教育観を鋭く批判したのである(*50)。

註(5)

*37 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、二二一頁。

*38 同上、二一五頁。

*39 同上、二九三頁。

*40 司馬遼太郎「教育勅語と明治憲法」『司馬遼太郎が語る日本』第四巻、朝日新聞社、一九九八年、一六二~五頁

*41 立花隆『天皇と東大――大日本帝国の生と死』文藝春秋、二〇〇六年、下巻、四一~五一頁

*42 司馬遼太郎・堀田善衛・宮崎駿『時代の風音』朝日文芸文庫、一九九七年、四二~四四頁。昭和初期の日本とクリミア戦争前のロシアの類似性については、高橋「司馬遼太郎のドストエフスキー観――満州の幻影とペテルブルクの幻影」『ドストエーフスキイ広場』第一二号、二〇〇三年参照

*43 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、二八四頁。

*44 同上、二九三頁。

*45 同上、三一九頁。

*46 司馬遼太郎「軍神・西住戦車長」『歴史と小説』、集英社。

*47 司馬遼太郎「あとがき」『世に棲む日々』第四巻、一九七五年、二九四頁。

*48 米原謙『徳富蘇峰――日本ナショナリズムの軌跡』、中公新書、二〇〇三年、一〇五頁、一〇八頁。 なお、徳富蘇峰の『吉田松陰』については、拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』人文書館、二〇〇九年、二三八~二三九頁、三五四~三五七頁参照。

*49 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、三二〇頁。

*50 司馬遼太郎『この国のかたち』(第一巻)文春文庫。

*追記 このような「国民」に「白蟻」となることを強いた徳富蘇峰の歴史観への批判こそが、『坂の上の雲』における度重なる「自殺戦術」の批判となっていると私は考えている。(拙著『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』東海教育研究所、二〇〇五年、第三章〈「三国干渉から旅順攻撃へ――「国民軍」がら「皇軍」への変貌〉および、『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、二〇一四年、第五章〈「君を送りて思うことあり」――子規の視線〉、第四節〈虫のように、埋め草になって――「国民」から「臣民」へ〉参照。

 

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