目次
1、グローバリゼーションとナショナリズム
2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって
3,大正時代と世代間の対立――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を中心に
4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』
5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期「別国」の考察
6、記憶と継続――窓からの風景
7、司馬遼太郎の憂鬱――昭和初期と平成初期の類似性
4,ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』
「伊丹の家」の章は、秋山好古の娘である土井健子の仲人によってあや子と所帯をもつにいたった忠三郎を中心に話が進められていく。それとともに、ほとんど同年の生まれであった子規と秋山真之と同じように、忠三郎の実父拓川が好古と同じく「井伊直弼が大老職にあった安政六年(一八五九)のうまれで」、幕藩の世に呼吸しており、藩校明教館に入った彼らが「めずらしいことに、九歳で相並んで助手」を命ぜられたことや二人ともほぼ同じ時期にフランス留学を経験したことも紹介している。
そして、拓川について「天性、文明と人間を批評する資質にめぐまれていたし、ルソーの刺激をうけて独自の自由主義思想をもっていたが、かといって思想家としてなにごとかを遺したひとでもなかった」と述べた司馬は、「忠三郎さんは世俗のなかでは、世間と不調和になることを案じつつも秘かに独自の倫理的スタイルをもっていた点、拓川に酷似している」とも記している。
さらに「子規旧居」、「子規の家計」では、患っていた子規の面倒を見続けた大原・加藤家や拓川の親友であった陸羯南とその家族のことが中心に記されている。すなわち、司馬は子規の父が亡くなった後、「正岡家は大原家の家督をついだ伯父恒徳(つねのり)(拓川の長兄)の後見をうけ」、「大原恒徳の手をへて出されてくるこの金を小出しにして食べていた」ことに注意を向け、「子規の拓川あての書簡が幾通も伊丹の忠三郎家にのこっている」が、「内容は一、二の例外をのぞき、月々の家計の不足を告げ、援助を乞うというものであることにおどろかされる」とし、拓川は「貯えはつねに乏しかった。それでも子規から手紙がくると、そのつど応じ、一度も渋い色を見せたこと」がなかったと書いた。
そして、「子規の東京での学資は、旧松山藩の奨学制度である、常磐会から出ていた」が、「大学国文科二年の学年試験に落第し、中退したことで、この支給は絶え」、中退を決意したとき、子規が働くことにしたのが拓川の親友だった陸羯南の「主宰する日本新聞社」であり、月俸は十五円と少なかったが、子規が「人間は最も少ない報酬で最も多く働くほどエライひとぞな。…中略…人は友を択ばんといかん。『日本』には正しくて学問の出来た人が多い」(「子規の家計」)として、他の新聞社ではなく『日本』を選んだことを誇りにしていたと記したのである。
こう記したとき『坂の上の雲』においてはあまり『日本』に言及していなかった司馬もまた『日本』に強い関心を評価をするようになっていたといえるだろう。なぜならば、司馬は、『子規全集』の刊行に尽くした自分と同年生まれの松井勲が亡くなった後に、友人たちの手で出版された非売品の遺稿集には、『新聞「日本」の人々』という題がついていることに注意を促して、「かれは編集という埒から、そういうことを調べるところにまで入りこんでいた」と後に書いているからである(下・「洗礼」)。そして、司馬自身も後に後輩の青木彰に手紙で、「たれか、講師をよんできて、”陸羯南と新聞『日本』の研究”というのをやりませんか」と呼びかけただけでなく、さらに「もしおやりになるなら、小生、学問的なことは申せませんが、子規を中心とした『日本』の人格群について、大風に灰をまいたような話をしてもいいです。露はらいの役です」とも記したのである(*26)。
この手紙は『ひとびとの跫音』を執筆していた当時の司馬の陸羯南に対する関心のあり方をも語っているように見える。なぜならば、蘇峰は一八九九年に「帝国主義の真意」と題する記事で、「帝国主義」は、「平和的膨張主義」であると主張していたが、陸羯南はその翌日に「帝国主義」は「侵略主義」であるとしてこれを批判した論文を新聞『日本』に掲載して、「膨張主義」の危険性を指摘していたのである(*27)。
この意味で注目したいのは、鹿野政直氏がついに太平洋戦争にまで突き進むことになった日本のナショナリズムについて考察して、「なにか別の可能性はなかったのだろうか」と問い、このような視点から見るとき、最初に現れるのは「明治二十年代のナショナリズム」であり、「その代表的な思想家としての陸羯南(一八五七~一九〇七)と三宅雪嶺(一八六〇~一九四五)」であるとし、彼らはいずれも、「それまで<欧化>へのみちを追求してきた日本の思想界にあたらしい視点を提供した」と高く評価していることである(*28)。
そして、鹿野氏は『日本』が、「一八八九年の大日本帝国憲法発布とともに第一号を出した」ことを紹介しつつ、「国粋主義もしくは日本主義と称されるこの思潮は、この当時の表面において、政府のとる”貴族的欧化主義”および徳富蘇峰の主宰する『国民之友』『国民新聞』の”平民的欧化主義”と鼎立した。とりわけ蘇峰の平民主義と、羯南や雪嶺らの国粋主義は、ともにあたらしい世代の明治青年たちの自己主張として、大きく論壇をリードしてゆくことになった」と説明している。
ただ、鹿野氏は一年前に発行されていた三宅雪嶺の『日本人』における定義や、それまでの慣例に従って『日本』の思潮を「国粋主義」と規定している。しかし陸羯南自身は、自分たちの思潮を「国民論派」と呼び、これが「欧化風潮に反対して」起こったことを認めつつも、「国粋保存と言える異称」が自国の伝統以外を認めない「守旧論派の代名詞」として、「国民論派の発達を妨げる一大妨障なりき」とこの呼び方を批判している(*29)。
実際、「創刊の辞」において陸羯南は、「『日本』は国民精神の回復発揚を自任すといえども、泰西文明の善美はこれを知らざるにあらず。その権利、自由道義の理はこれを敬し、その風俗慣習もある点ではこれを愛し、とくに理学、経済、実業のことはもっともこれを欣慕す」としている(*30)。このことを考えるならば、本稿では『日本』の思潮を陸羯南の用語にならって「国民主義」と呼ぶ方がよいと思われる。
なぜならば、鹿野氏が指摘しているように、「大日本帝国憲法で、日本が『臣民』と規定されたのをよそにみながら、かれがあえて『国民』の名に固執したのは、やはり、国家の設定した臣民的コースからの抵抗であった」と考えられるからである。
このことは、『国民新聞』などで相変わらず「国民」という用語を用いながらも、一九一六年に著した『大正の青年と帝国の前途』においては、「されば帝国臣民 の教育は、愛国教育を以て、先務とせざる可らず」(*31)として、「国民」を「臣民」と考えるようになっていた蘇峰の場合と比較すればより明白であろう。すなわち、蘇峰はここで「明治の元勲」が「愛国心」を持ちつつも、「怖外心と崇外心とを長養」する一方で、「力の福音を閑却」し、「無差別的な欧化主義を宣伝」し、「自屈的外交」を行ったと鋭く批判した(*32)。そして、蘇峰はスペンサーが「日本人種」を「劣等人種」と見なしたとして(*33)、「白閥を打破し、黄種を興起」することが、「我が日本帝国の使命にして、大和民族の天職」であるとして、そのためには青年が「日本帝国を愛し、日本帝国に全身を献げ」るように、「国家を宗教とせんことを望む」としたのである(*34)。
一方、陸羯南は「創刊の辞」において、「ゆえに『日本』は狭隘(きょうあい)なる攘夷論の再興にあらず、博愛の間に国民精神を回復発揚するものなり」とも述べている。私たちの視点からきわめて興味深いのは、このような蘇峰の「国民主義」の主張が、大改革の時期にドストエフスキー兄弟が「欧化」を批判し、自己中心的な「国粋」をも諫めて、自分の大地であるロシアに立脚しつつ、そこから世界にも通じる普遍的な理念を生み出すべきだと主張したドストエフスキー兄弟の『時代』誌の「大地主義」に似ていることである(*35)。
このように見てくるとき、司馬遼太郎が下巻の冒頭に「拓川居士」の章をおいて中江兆民と陸羯南や拓川との関わりを再考察していることはきわめて重要である。すなわち、司馬は明治初年には「私塾は相変らず貧困であった」が、「このようなありさまのなかで、明治七年、フランスから帰ってきた土州人兆民中江篤介の存在」は大きく、「明治十年、私塾仏蘭西学会(のち仏学塾)を麹町中六番四十五の借家でひらいた」。一方、正岡子規に頼られることになる若い伯父の拓川は、「廃刀令が出た明治九年」に、「十八歳で給費の官吏養成所である司法省法学校に入り、フランス語とフランス法」を学んだが、「司法省法学校を退学した明治十二年に、この兆民の塾に入っている」とした。
そして司馬は、「兆民の第一の門弟ともいうべき同郷の幸徳秋水」が、『兆民先生』で「先生は仏蘭西学者として知られて居たけれど一面立派な漢学者であった」と記していたことに注意を促して、「この言葉は、拓川についてもあてはまるようである」とした。
さらに司馬は「拓川にとって法学校以来の友人である陸羯南」が、「明治二十四年、一種の同時代史として『近時政論考』(日本新聞社刊)一巻をあらわし、維新以来の政論の変遷を分類」して、「兆民らの思想と運動」を「それ以前の悒鬱(ゆううつ)民権や翻訳民権よりも「一層深遠」で、「西洋十八世紀末の法理論を祖述し多く哲学理想を含蓄した」と高く評価したことに注意を促している(「拓川居士」)。
興味深いのは「フランスのベトナム侵略を機に始まった清仏戦争」を論じた福沢諭吉が、個人における「修身」とは異なり、国家間の外交では「国家はたとえ過誤を犯しても容易に謝罪すべきではない」と主張し、フランスが「国益」のために「力を尽くして罪を支那に帰するの策」を講じるのは当然であるとしたが、拓川の反応が福沢諭吉とはまったく反対であったことである(*36)。
すなわち、司馬は「兆民の徒である拓川にとって不幸なことに、かれがながい船旅のあげくにパリについたとき、仏蘭西の新聞は、フランス政府が極東侵略(ヴェトナム支配や対清戦争)に熱中しているのを、連日、記事や銅版画で報じつづけていたことであった」と指摘した。そして司馬は拓川がフランス留学をすることになった時期に、故国日本では官憲が「沸騰する民権運動やその刊行物をおさえこむことで、気ぐるいしたようになって」、「新聞、出版に関する取締条例を強化し、さらには政論に関する集会を綿密に監視し、ささいなことでも解散を命じたり」するようになっていたことにもふれてと、拓川は「維新を経た少年のころの攘夷家として憤りを感じた」にちがいなく、「国家や愛国ということの本質を、そこざらえにして考えざるをえなかったのではないか」とした。
そして、司馬は「世間に瀰漫している愛国主義を嫌悪」した拓川がフランスで書いた論文「愛国論」の本文は七章から成り、「第一章は愛国の本義、次いで愛国心の過去未来、土地所有権と愛国心の関係、電信鉄道と愛国心の関係、愛国心より起る古今経済学者(註・この場合の経済は政治という意味)の謬説」とつづき、「第六章にいたって『天下を乱るものは愛国者なり』という見出しがつき、第七章では『愛国の臣たらんよりは寧ろ盗臣たれ』とまことにはげしくなる」と記した。
すなわち、拓川によれば「愛国心と利己心とは其心の出処も結果の利害も同様」なので、「愛国主義の発動はとかくに盗賊主義に化して外国の怨を招き、外国の怨は人類相対の怨となる」のである。そして司馬は、こうして人間世界に愛国心があると「天下太平は望みがたし」と考えた拓川が、「孔子が説きつづけた仁の実践方法というべきもの」である、「おのれのまごごろをつくし、他人への無限の思いやりをもつという忠恕」こそが、「地球を『同類相喰』の場から救う」と考えたのだと説明した。そして、拓川が「たとへ我国人に利あるも世界の人に害ある事は是罪悪なりと仏国の学者(モンテスキュー)は言へり」とも説いていたこと紹介していたのである。
司馬は、もし拓川が「このまま思想と文章による在野活動をしていれば」、「幸徳秋水よりもさきに似たような思想を先唱する人になっていたかもしれない」と結んでいた。実際この先の文章は拓川の思想が、日露戦争後に政府やジャーナリズムなどによって煽り立てられるナショナリズムの危険性を鋭く認識して「爾が戦勝は即ち亡国の始とならん、而して世界未曾有の人種的大戦乱の原とならん」と強い危機感を表明した徳冨蘆花や将来の世界大戦の「帝国主義」の危険性を指摘した幸徳秋水の思想に先んじていたことを明らかにしていたといえよう(*37)。
註(4)
*26 青木彰『司馬遼太郎の跫音』、三六八頁。
*27 宇野田尚哉「成立期帝国日本の政治思想」『比較文明』第一九号、行人社、二〇〇三年、二六頁。
*28 鹿野政直「ナショナリストたちの肖像」、『陸羯南・三宅雪嶺』、(『日本の名著』第三七巻)、中央公論社、一九八四年、一一頁。
*29 陸羯南「国民論派の発達」、前掲書(『陸羯南・三宅雪嶺』)、一二四頁。
*30 同右「創刊の辞」、二三一~二頁。
*31 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、二八一頁。
*32 同上、一五八頁。
*33 同上、一六三頁。
*34 同上、三一六頁。
*35 ドストエフスキー兄弟が掲げた「大地主義(土壌主義)」については、高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇二年参照。
*36 松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』中公新書、二〇〇一年、一四七~八頁。
*追記 加藤拓川および陸羯南と正岡子規との関係については、拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、二〇一五年)の第四章〈「その人の足あと」――新聞『日本』と子規〉を参照。
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