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「劇《石棺》から映画《夢》へ」を再掲

「劇《石棺》から映画《夢》へ」を再掲

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(4号炉の石棺、2006年。チェルノブイリ原発4号炉の石棺の画像は「ウィキペディア」より。Carl Montgomery – Flickr)

劇《石棺》から映画《夢》へ

はじめに チェルノブイリ原発事故と劇《石棺》

チェルノブイリ原発事故をモスクワで体験していた私は、黒澤映画や帝政ロシアや現代ソヴィエトにおける厳しい検閲の問題にもふれつつ、現代のチェーホフとも称されているヴァンピーロフの劇『去年の夏、チュリームスクで』と、原発事故をテーマにしたソ連の劇《石棺》を考察したエッセーを一九八八年に同人誌『人間の場から』(第10号)に書いた。

作家のヴァムピーロフが「時代の病気である人間の中の自然破壊に最初に気づき、劇作の筆をとりはじめた」ことを紹介した訳者の宮沢俊一氏は、「ヴァムピーロフを読み直すたびに《美が世界を救う》というドストエフスキーの有名な言葉が何度も何度も新たな希望をもって思い出されるのです」という作家ラスプーチンの言葉を紹介している。

映画《夢》が公開される二年前のエッセーだが、このとき私がチェルノブイリ原発事故のことを考えつつ、《美が世界を救う》という言葉が記されている長編小説『白痴』を映画化した映画《白痴》や映画《生きものの記録》などの黒澤映画に対する関心を深めていたことは確かなように思える。

それゆえ、ここでは劇『去年の夏、チュリームスクで』の感想は省略し、ロシアにおける「表現の自由」の問題と劇《石棺》を中心に、国民の生命にかかわる原発事故と情報の隠蔽の問題を確認しておきたい。そして最後に「表現の自由」という視点から、黒澤明監督の発言などをとおして福島第一原子力発電所の事故とその後の経過を考察する。(なお、ここでは用語や人名表記の一部を改めた)。

一、「演じることと見ること」

前回、私はモスクワの舞台においてドストエフスキー劇が予想以上に演じられていることを紹介したが(次項参照)、それは分野が異なるにせよ文学と演劇が密接な関わりを持ち続けていること、さらに演劇が生活の中に深く入り込んでいることを物語っていると言えるだろう。

最近、本場のイギリスで『マクベス』を上演して高い評価を受けた演出家の蜷川氏と主演女優栗原小巻もイギリスでは演劇が市民から愛されているのに対し、日本での観客層は主に婦人であると先日のテレビで語っていた。すなわち、働きバチの日本男子には観劇などをする暇はなく、又、ますます都市から離れていく日本の住宅事情では夜に妻と共に劇を見ながらゆっくりと人生について考える余裕も持ちにくく、さらにはヨーロッパの国々と比べて切符の値段もはるかに高いのだ。

ところで演劇の力ということで思い出されるのは『白痴』の映画化についてふれながら、「映画というのは考えるということにあんまり適した形式ではない」と述べた黒澤明監督の言葉である。それは一見、ドストエフスキーの本場ソヴィエトでも高い評価を受けた映画『白痴』の監督の言葉とは見えないだろう。だが氏の言葉が事実を突いていることも確かだ。現代において長編小説が読まれなくなってきたのは、恐らくそれがあまりに〈考えるということに適している〉からだろう。

それに反して、映画やテレビのドラマでは一度始まってしまえば、途中で多少の不満は残ったにせよ、ほとんど考えるというエネルギーを使わないまま最後まで見ることができる。そしてそのように観客を引っ張っていけるのは直接感覚に訴えることができるという映画の力であり、観客の前で直接演じる演劇はその力が一層強いといえるだろう。

〈なんだ、そんな事か、それならば演劇の力なんて大したことではないじゃないか〉と思われるかも知れない。確かにそれだけならば演劇は世の中を改善しうるような力強い力を持ち得ないはずだからである。だが後に見るように、その面でも演劇は力を持ち得ていたし、今も持っているのだ。では黒沢氏の定義が間違っているのだろうか。そうではない。恐らく、私達は氏の表現を限定するだけでよい。「上映中は」と。そう、映画や演劇は上映中は考えるということにはあまり適さないのだ。

沢山の印象や感覚が観客を襲い、観客はそれに呑み込まれる。しかし、時の経過と共に観客は自分を取り戻す。今見たシーンを思い出してみる。語られたせりふが浮んでくる。蜷川と栗原の両氏は、イギリスの劇場のレストランは真夜中でも開いていると語っているが、それは食欲を満たすばかりではあるまい。そこには語る時間と語る相手がいる。

そう、多少極端に言うならば、映画(演劇)がその思索的な力を発揮するのは、それが終わった時からなのだ。だが、余韻と余白の美を作り上げた私達日本人は今、終わった後の創造的な余韻を持ち得ているだろうか。

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一方、ロシアの演劇史を見ると、そこには上演禁止の戯曲が累々と死体のように横たわっている。ロシアの検閲官は文学に対しても厳しかったが、演劇にはさらに厳しかったのだ。以下、少し長くなるがドストエフスキーの場合を見てみよう。

《ドストエフスキーが亡くなってから暫くの期間は、概して演劇界は不毛であり、ロシアの伝統的レパートリーを豊富にできた筈の当時の作家や劇作家の問題作は、殊に激しい弾圧を受けた。八〇年代には…中略…ドストエフスキーの長編小説が舞台にのる可能性は開かれていなかった。演劇の検閲官は、上演のための改作が度々要求されていた『罪と罰』、『虐げられた人々』、『白痴』、『カラマーゾフの兄弟』などの上演を徹底して禁止したのである。かつて舞台にかけられたことがあり、ドストエフスキーの目からは「罪のない」小説『伯父様の夢』による喜劇ですらも一八八八年には検閲官によって禁止の措置を受けた。

ドストエフスキーのこの小説を改作した喜劇『うつつの夢』について、演劇の検閲官ダナウーロフは、通常の上申の中で、この喜劇が「舞台で許可しえるリアリズムの限界を越えており、その内容においても表現においても、検閲の条件には全くそぐわない」と報告し、さらに彼は「概して、審査の対象であるこの喜劇は、筋書き自体の無道徳性と作者自身によって与えられた粗野で汚れた色彩の結果、極端に好ましからぬ、重苦しい印象を引き起こすものであり、それゆえ本官はこの喜劇の舞台での上演を許可することはできないと判断するものである」と結論している。検閲官はこの月並みな意見を、ドストエフスキーの他の作品にも拡大して、それらが劇場にかかり、観客に対して直接的で情念的な影響を与えることを妨げたのである》(A・ニーノフ、「ドストエフスキー劇の誕生」『ドストエフスキーと演劇』)。

この事実はロシアの為政者が演劇をいかに恐れていたかを端的に物語るものだろう。だが演劇の力を恐れたのは帝政ロシアの為政者ばかりではなかった。『去年の夏、チュリームスクで』の作者ヴァンピーロフの場合をみてみよう。訳者の宮沢俊一氏は、優れた演出家トフストノーゴフが「ソヴェート戯曲の最高傑作の一つである『鴨猟』が書かれてから十一年も上演を妨げられていた事態を絶対に容認する訳にはいかない」と一九八六年の初めに「文学新聞」紙上で検閲の廃止を要求したことを紹介しながら、「スターリン批判と自由化の波を食い止めようとしていた六十年代のブレジネフ政権の官僚は、執拗に新しい純粋なものの出現を抑えようとしていた」と書き、ヴァンピーロフの主な作品が両首都で演じられるようになったのは「彼の死後のことである」と解説している。

二、劇《石棺》

グーバレフの戯曲『石棺』もまたソヴィエトの現実を鋭くえぐり出したと言えるだろう。この戯曲はチェルノブイリの事故を扱っているが、この事故が起きた時、私は学生と共にモスクワにいた。周知のようにこの事故はウクライナばかりでなく、近隣諸国にも多くの被害を与えたが、たまたまこの数日間南風がずっと吹いていたためにかろうじてモスクワは汚染から逃れ得た。だがそれは単なる偶然に過ぎず、もし北風が吹いていたら、私達も又汚染から逃れることはできなかった筈であり、その事は私に核の時代に生きることがいかなる危険性と隣接しているかを再認識させもしたのだ。

それゆえ、ソヴィエトでこの事故を扱った戯曲が発表されたと知った時にはどのような視点からこの事故が描かれるかに強い興味を惹かれた。

「ぐでんぐでんに酔っ払って実験用原子炉のそばで寝てしまった」ために多量の放射能を浴びたのだが奇跡的に生き残り病院に一年以上も入院しているこの作品の主人公は『罪と罰』の大酒呑みマルメラードフを思わせるような、道化の患者である。そして、チェルノブイルの原発事故の実体はこの男が治療を受けている放射線治療病院を舞台にして解明されていく。

この場面設定はすぐれている。なぜならばこの患者やこの病院で医師たちの視点からはこの苛酷な事件もある程度、客観的に見ることができるし、また、事故の患者たちとじかに接する彼らは、たとえば、市役所や裁判所を舞台とする場合よりも、内部の視点からこの事件を描きえる。さらに作者はここに三人の新入りの研修医を登場させ、放射能の恐ろしさをほとんど知らなかった彼女たちを瀕死の病人たちが次々と運ばれる戦場のような場に立たせあるいは若い患者の一ときの愛を描いて戯曲に幅と深みを与え得ている。そして、何よりも自ら「不死身の男」と名のる自分も放射線の被害者である道化を介在させることによって事故の悲劇性を笑いを通して鋭く描きだしているのだ。

事故の実態や危機に際しての個々の行動は運ばれてきた患者たちの会話や彼らと事情調査を行う検事の会話を通して徐々に明らかにされていく。たとえば、決死の覚悟で消火にあたった消防士や変圧器を接続するために現場に止まったオペレーター、あるいは出張で来ていただけなのに科学者として反応の変化を気を失うまで追い続けた物理学者の行動が再現される一方で、被害の大きさを熟知しながらも、上司や市民に知らせる事を怠った研究所長の行為が暴露される。

始めは温厚で人情味豊かな人間と思われていた消防指令の将軍も、実は対人関係をスムーズにし、摩擦を起さないために原子炉の屋根に禁じられていた可燃性の素材を用いる許可を与えていたことや、現所長が上部の受けのみを狙って計画の遂行だけにきゅうきゅうとしていたことが明らかにされる。そして事故の発端となった緊急炉心冷却装置を切ったのは誰だという物理学者の問いに対して、「不死身の男」は作者の声を代弁して、それはシステムだ、「無責任体制だ」と断言する。

この劇の題名ともなっている「石棺」という言葉は、劇の冒頭から「不死身の男」が解いているクロスワードの答えという形で巧妙に劇中に挿入されている。研究所長との対決の場で彼は「ファラオ王朝のピラミッドにしたって、まだ五千年の歴史があるだけだ。しかし、この原子炉のピラミッドは(中略)少なくとも一万年以上はしっかりと立っているだろうよ」と語るのである。訳者の解説によれば、この原子炉の埋葬には三十万立方メートルのコンクリートが使われたが、「しかしコンクリートの耐用年数は五十年だから、五十年ごとに石棺の上にコンクリートを塗り補強しつづけねばならない」、「まさに現代科学技術の生みだしたピラミッド」と言わねばならぬような代物なのである。

こうしてこの戯曲は原発の管理者や行政者の責任を激しく糾弾するばかりでなく、きわめて進んだ文明と共に危険とも隣接した核の時代という現代に生きる私達の原子力に対する関心の薄さや、後世への倫理的な責任をも鋭くついており、この劇はソヴィエトの現実を痛烈に批判するばかりでなく、その批判力の鋭さで未来への扉を少しにせよこじあけているようにも見える。

(ウラジーミル・グーバレフ、金光不二夫訳『石棺――チェルノブイリの黙示録』、リベルタ出版、参照)

三、映画《夢》と福島第一原子力発電所の事故

Earthquake and Tsunami damage-Dai Ichi Power Plant, Japan(←画像をクリックで拡大できます)

(2011年3月16日撮影:左から4号機、3号機、2号機、1号機。)

このエッセーを書いた翌年の一九八九年にリュブリャーナで開かれた国際ドストエフスキー学会に参加した私は、そこで多くのロシアの研究者と出会ったことで、作家や演出家たちが自分の職を賭けて勝ち取った「表現の自由」の重みと演劇や映画などの力を実感した(「ドストエーフスキイの会」会報、第一〇〇回例会報告、「国際ドストエフスキー・シンポジウムに参加して」、一九八九年一二月、参照)。

一方、日本では「絶対安全」とされていた福島第一原子力発電所で、映画《夢》の第六話で「赤富士」のエピソードを描いた黒澤明監督が危惧していたようなチェルノブイルの原発事故に匹敵するような地球規模の大事故が二〇一一年三月一一日に起きた。

そのあとで明らかになったのは、原子力発電所には原子炉を消火する消防車がなく、きちんとした防御服もなく、さらに日本が最先端の技術を有すると誇っていたロボットも動かなかったことである。使用済み核燃料も放置された古タイヤのように燃え出したばかりでなく、原子炉建屋が爆発してメルトダウンで汚染した放射能が原子炉から空気中に放出され、さらに放射能に汚染された大量の水が海に流れ出るなどの事態が次々と発生した。

推進派の学者や政治家、高級官僚がお墨付きを出して「絶対に安全である」と原子力産業の育成につとめてきた日本には、「美しい日本の自然」が強調されてきたにもかかわらずその大地や大気、そして海を汚しつつある原発事故の拡大を制御する技術がなく、核実験を続けることで危機的な事態へのノウハウを蓄積してきた核大国の援助によって、ようやく最悪の事態を当面は免れることができたのである。

スイスやドイツなどでは今回の「フクシマ」後に脱原発の政策が明確に打ち出され、続いて国民投票を行ったイタリアでもその方向性が示された。チェルノブイリ原発事故の際に十分な情報を与えられていたこれらの国々では、マグマの上にある薄い地表の上に成立している世界における原発の危険性をきちんと判断することができたのだと思われる。

日本でもようやくこの事故のあとで、「政治家・学者・マスコミ」などが「原発マネー」に群がっていたことや、官僚の「天下」など「利権」による「癒着」の構造が明らかになった。ことに私を驚かしたのは、莫大な予算を投じて『わくわく原子力ランド』のような教科書の副読本が配布され、戦前や戦中の「不敗神話」と同じような形で「安全神話」が小中学生に教えられていたことであった(『東京新聞』四月一九日号の「”安全神話”教える 不適切な原発副読本」など参照)。日本の原子力行政では、戦前の日本さながらに「国策」の名の下に反対を許さずに、莫大な広告費を費やして進められてきたのである。

さらに、福島第一原子力発電所が爆発すれば大量に放出されることになる放射能の被爆を防ぐために開発された「SPEEDI」の情報が、国民には知らされなかった一方で、アメリカ軍には伝えられていたことが翌年になって新聞に載り、八〇キロ圏内に住むアメリカ人に退避命令が出された理由が明らかになった。

しかも、『東京新聞』一二月四日付けの朝刊では、東京電力の社員たちが記者会見では、「事故やトラブル」を「事象」と、「老朽化」を「高経年化」と、さらに「汚染水」を「滞留水」と、「放射能汚泥」を「廃スラッジ」などと言い直していることが報じられている。

このような用語の言い換えは、「退却」を「転進」と「全滅」を「玉砕」と呼び、「敗戦」を「終戦」と「占領軍」を「進駐軍」と言い換えた当時の日本と、現在の日本の体制がほとんど変わっていないのではないのかという深刻な思いを抱かせる。

ドキュメンタリー映画『一〇〇,〇〇〇年後の安全』を撮ったデンマーク出身のマドセン監督は、「日本には、事実を国民に教えない文化があるのか」と問いかけ、「福島事故で浮き彫りになったのは、日本人の”心のメルトダウン”だ」と感じていると語った(「処理先送り 倫理の問題」[こちら特報部]『東京新聞』二〇一一年一二月二三日)。

四、日本の原発行政と「表現の自由」

このような事態は、「日本映画と、日本人の国際性を問う」と題したジャーナリスト筑紫哲也との一九九三年の対談で、「繁栄」や「自由」を謳歌しているように見える日本には、権力の問題を指摘するような「表現の自由」がないことを批判していた黒澤監督の指摘がいかに正鵠を射ていたかを物語っているだろう。

黒澤「……たとえば政治の問題とか。/アメリカの場合は、こんなこと映画にしてもいいのかっていうものもやらせているでしょう。そこがアメリカのいいところでね。…中略…日本でああいうものを作ろうと思ったら、大騒ぎになる。第一、金出すのがいないでしょう。それから、作っても上映されないかもしれない。」

筑紫「だから今こそ、『悪い奴ほどよく眠る』を上映したらいいと思う。まったく今のテーマですよね。」

黒澤「絶対やらないです。『生きものの記録』でも、どっかで抑えられているんだと僕は思いますよ。」(『大系 黒澤明』第四巻。初出、『BART』一九九三年四月二六日号)。

実際、多くの東北の人々が苦しみ放射能もれなどの事故が相次いでいるさなかに、外務省の初代原子力課長が会長を務める「エネルギー戦略研究会」や、「日本原子力学会シニア・ネットワーク連絡会」、さらには「エネルギー問題に発言する会」などの原発推進団体が、原発問題を検証した昨年末のNHKの報道番組にたいして「(番組内容には)誤りや論拠が不明な点、不都合な事実の隠蔽(いんぺい)がある」との抗議文を送っていたことが明らかになった(東京新聞、二月一日朝刊、一面)。

「高濃度の汚染水」がまだ大量に残り、原子炉の状態もはっきりしていないにもかかわらず、「冷温停止状態」が報告されると昨年末には「事故収束」が高らかに宣言され、「武器の輸出原則の緩和」に続いて昨年末には国民レベルでの議論や国会での討議もないままに原発の輸出が決められた。さらに、自民党政権が発足すると、戦後の原子力政策をそのまま受けついで、原子力の推進が謳われるようになり、安倍首相が先頭にたって原子力発電所の輸出に乗り出すようになっている。

これまで日本は「被爆国」として同情的に見られてきたが、「地震大国」でもある日本で同じような原発事故を繰り返したならば、今度は「放射能」による「加害国」として厳しい批判を世界中から浴びることになるだろう。私たちの子孫が「加害者」として肩身の狭い思いをするのではなく、日本人の誇りを持って世界で活躍できるようにするためにも、私たちはきっぱりとした決断を下す必要があるだろう。

(初出、『人間の場から』第10号、1988年。2013年7月8日、加筆、7月23日.改訂。2016年3月15日、図版を追加)

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