「国民」の健康や安全、さらは財産にも深く関わるTPP交渉について議論すべき国会に黒塗りにされた資料が出されても不思議に思わない自民党や公明党の議員には唖然とさせられました。
さらに、それを批判すべき新聞やテレビなどのマスコミさえもが口をつぐんでいる現在の日本の状況に強い危機感を覚えています。
そこで思い出したのが権力者の汚職などが蔓延していたソ連の末期のペレストロイカの時期に、エルモーロワ劇場で上演されたフォーキンの劇《語れ》のことです。
ここでは同人誌『人間の場から』(第13号、1989年)に掲載した劇評「見ることと演じること(4)――記憶について」から引用することによってこの劇を紹介します。グラースノスチ(情報公開)を求める「国民」の声によってソ連全体が変わり始める時期の劇です。
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最近ソヴィエトの演劇が変わりつつある。そんな実感を一ケ月程前にモスクワのエルモーロワ劇場で見たベケットの劇『ゴドーを待ちながら』でも感じた。この劇場はかつてはいつでも券が手に入れられるような劇場だったのだが、最近は以前とは雰囲気が違うのだ。観客はすでに「何か」を期待して集まり、その期待が観客席に一種の緊張感を生み出す。
幕はなく、舞台には両端に黒い屏風と中央に枯木そしてその木の下に黒いマットレスがあるばかりだ。次第にホールが暗くなり、一瞬闇がホールを包む。だが闇の中でも舞台に向って観客の視線が突き刺さるのが感じられた。そして舞台に一本のローソクがともり、劇が始まった。劇は「待つ」という行為を象徴にまで高め、殊に第二幕では他者の記憶の喪失を通して人間の孤独感、断絶感を浮きぼりにしていた。
雰囲気を変えたもの、それは恐らく首席演出家フォーキンの存在と彼の問題意識だろう。彼は自分が演出した劇『語れ』の中で、十年一日のように型通りの報告をしていた人間が、自分の声で語り出そうとするその一瞬を見事にとらえていた。
彼は劇の一登場人物ばかりでなく、劇場自体にも「自分の声」で語ることを要求しているかのように見える。そしてそのような「声」を期待する観客の視線は俳優をも変えたように見えた。
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福島第一原子力発電所のレベル7の大事故がまだ完全には収束していないにもかかわらず原発の再稼働が行われ、危険な「戦争法」でさえもがきちんとした議論もないままに強行採決されるような日本で、今、必要なのは一人一人が自分の「声」で語る勇気とグラースノスチ(情報公開)のように思えます。
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