司馬遼太郎氏が「昭和初期の別国」と呼んだ時代の問題点についてはこれまでいろいろと書いてきました。
ここでは『永遠の0(ゼロ)』を論じた記事を中心に、半藤氏の一利氏の「転換点」の感想を記した記事を纏めました。
戦前の戦争のための「勇ましい標語」と安倍政権の「美しいスローガン」の類似性については、別な形でまとめることにします。
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