前回はまず、『罪と罰』で「法律」の問題を深く考察することになるドストエフスキーが、言論の自由がほとんどなかったニコライ一世の時代に、第一作『貧しき人々』で「教育制度」の問題を深く考察していたばかりでなく、裁判のテーマも取り上げていたことに注意を促しました。
その後で文芸評論家の小林秀雄が『貧しき人々』など前期の作品をほとんど論じていないことや、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注――ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈したことの問題点を指摘しました。
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(少女・コゼットの絵、ユーグ版より。図版は「ウィキペディア」より)
一時期、熱心に読んでいた小林秀雄のドストエフスキー論に疑問を抱くきっかけになった一因は、フランス文学者にもかかわらず、小林氏がシェストフには言及する一方で、『罪と罰』や『白痴』を書く際にドストエフスキーが強く意識していたユゴーの『レ・ミゼラブル』については、ほとんど沈黙していたことにもあると思われます。
『白痴』のムィシキンについて、「使嗾する神ムイシキン! けっして皮肉な読みではありません。ムイシキンは完全に無力どころか、世界の破滅をみちびく役どころを演じなくてはならない」と記した亀山郁夫氏も、戦後、実証的な研究がなされて、ドストエフスキーの『レ・ミゼラブル』観についても、多くの文献が出ていたにもかかわらず、このことにはまったく言及していません。
ドストエフスキーの『レ・ミゼラブル』観を著名な二人がまったく無視していたのは、その発言に言及することは自分の解釈を根底から崩すことになる危険性があることを察知していたためだろうと私は考えています。
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実は、初めてのヨーロッパへの旅行で1862年に出版されたばかりのこの作品をフィレンツェで手に入れたドストエフスキーは、街の見学も忘れて読みふけっていました。
そして、兄ミハイルとともに発行した雑誌『時代』の9月号に掲載された『ノートルダム・ド・パリ』の翻訳の序文でドストエフスキーは、「(ユゴーの)思想は十九世紀のあらゆる芸術の根本的な思想」であると高く評価し、それは「状況や数世紀にもわたる停滞、社会的偏見の圧迫によって不当に押しつぶされた者、滅亡した者の復興」であると説明し、「ユゴーはこうした〈復活〉のイデアの我らの世紀の文学において最も重要な伝道者である」と記していたのです。
さらに、結婚後に出発したヨーロッパ旅行の際に『レ・ミゼラブル』を読んだ妻のアンナは、夫が「この作品をとても高く評価していて、楽しみながら何度も読み返して」いたばかりでなく、「この作品に描かれた人物たちの性格のいろんな面を私に指摘し、説明してくれた」と日記に記していました。
このようなアンナ夫人の記述に従うならば、このときドストエフスキーは主人公のジャン・ヴァルジャンだけでなく、裕福な学生の恋人から身重の身で捨てられ、娘を育てるために自分の豊かな髪や歯などを徐々に売って、ついには売春婦にまで身を落とすことになったファンティーヌの悲劇やその娘コゼットについても妻に語っていたと思われるのです。
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注目したいのは、明治時代の評論家・北村透谷が評論「『罪と罰』の殺人罪」(1893年)において、「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中(なか)に、学問なく分別なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と書いていたことです。
この記述を初めて読んだ時には、「憲法」がなく言論の自由も厳しく制限されていた帝政ロシアで書かれた長編小説『罪と罰』に対する理解力の深さに驚かされたのですが、透谷とその時代を調べるうちに、このような透谷の言葉は単に彼の鋭い理解力を示すものではなく、権力者の横暴を制止するために「憲法」や「国会」の開設を求める厳しい流れの中での苦しい体験と考察の結果でもあったことが分かりました。
実は、自由民権運動に対する厳しい圧迫が続く中で、民権運動が下火になった状況下で過激化した大井憲太郎らのグループが、朝鮮での独立運動を支援するために、強盗をして資金を得ようとした際に、透谷も友人の大矢正夫から参加を求められていたのです。
しかし透谷は、「目的」を達するためとはいえ、強盗のような「手段」を取ることには賛成できずに、苦悩の末、頭を剃り盟友と決別し、その後、ユゴーのごとき文学者となろうとしていました。
このような透谷の思いは、「罪と罰(内田不知庵譯)」(1892年)における「嘗(か)つてユーゴ(ママ)のミゼレハル(ママ)、銀器(ぎんき)を盜(ぬす)む一條(いちじょう)を讀(よ)みし時(とき)に其(その)精緻(せいち)に驚(おどろ)きし事(こと)ありし」という記述にも現れています。
その透谷の追悼記事を新聞『小日本』に書いた可能性の高い俳人の正岡子規も全集で4頁ほどですが、ジャン・ヴァルジャンがミリエル僧正を殺そうとした際に、月の光に照らされた僧正の微笑を見て、殺害を止めるという「良心」の重要性が示唆されている重要な箇所の短い部分訳をしていました。
しかも、1897年に子規と会った作家の佐藤紅緑(こうろく)は、ミリエル僧正の逸話に強い関心を示していた子規が、物騒であるとは感じつつもミリエル僧正にならって人が入ってくることができるように「裏木戸の通行を禁止」せずに、そのままにしてもいると語っていたことを証言しています。
このことは俳人の正岡子規も『レ・ミゼラブル』において核心ともいえる重要な役割を果たしていた「良心」の問題を深く認識していたことを示していると思えます。
なぜならば、透谷よりも1年前に松山で生まれた子規も、自由民権運動が盛んな頃に政治への関心を強めて1882年の12月には北予青年演説会で演説し、翌年の1月には「国会」と「黒塊」とを重ねて国会の意義を訴える「天将ニ黒塊ヲ現ハサントス」という演説を行っていたからです。
そして、それを校長から咎められたことで松山中学を退学し、上京して東京帝国大学に入学した子規は、北村透谷が雑誌『平和』を創刊した年の12月1日に東京帝国大学を中退して新聞『日本』に入社していました。
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作家の司馬遼太郎氏は夏目漱石の長編小説『三四郎』について、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と記し、「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。…中略…下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした」と指摘しています(『本郷界隈』)。
そして、1872年にできた「司法職務定制」により、「弁護士の前身といえる」「代言人という職と機能が」成立したことを指摘した司馬氏は、1881年に明治大学の前身である明治法律学校が出来たのをはじめ、英吉利法律学校(後の中央大学)や日本法律学校(後の日本大学)が次々と設立されていることに注意を促し、「明治は駆けながら法をつくり、法を教える時代」だったと記しているのです。
この説明は『三四郎』の社会的背景だけでなく、名門サンクト・ペテルブルク大学の法学部を中退したラスコーリニコフを主人公とした『罪と罰』の社会的背景をも説明し得ていると思えます。
母親のプリヘーリヤは手紙の中で、妹のドゥーニャが首都に法律事務所を開こうとしている弁護士ルージンと結婚すれば、ラスコーリニコフもやがて法律事務所の「共同経営者にもなれるのじゃないか、おまけにちょうどお前が法学部に籍を置いていることでもあるしと、将来の設計まで作っています」と書いていました。
ロシアの官等制度のもとでは八等官になると世襲貴族になれたので、この意味においては貧しい境遇から七等文官にまで独力で出世したルージンは、ラスコーリニコフの輝かしい未来像の一つだったはずでもあったのです。
しかし、ドストエフスキーは首都に法律事務所を開こうとしていたルージンが、「いろいろな新しい傾向とか、改革とか、新思想とか」を見るためには、「やっぱりペテルブルクにいなければなりません」と述べたことを、ラズミーヒンに「科学、文化、思索、発明」などの知識がロシアの知識人にはまだまだ未熟でありながら、それなのに「他人の知識でお茶をにごすのが楽でいいものだから、すっかりそれになれっこになってしまった」と鋭く批判させています。
このような彼の批判は、明治末期の1911年に「内発的」ではない日本の開化を厳しく批判した漱石の「現代日本の開化」という講演ときわめて似ているように私には思えるのです。
リンク→日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって
(続く)
追記: 〈『罪と罰』における「良心」をめぐる劇〉と題した次回の考察で、このシリーズをひとまず終える予定です。
ただ、このシリーズも思いがけず長いものとなりましたので、次のブログ記事には〈「なぜ今、『罪と罰』か」関連記事一覧〉を掲載します。
また、小林秀雄のドストエフスキー観の問題点については、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』で詳しく考察しましたが、私は司馬遼太郎氏も実は小林秀雄の厳しい批判者の一人だったのではないかと考えています。
それゆえ、次回の考察を行う前に〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉と題した評論を「主な研究」に掲載することにしたいと思います。
なお、このシリーズでは詳しい引用文献などは示しません。拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、2002年)や『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)などの注に記した文献を参照して頂ければ幸いです。
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