(広島に投下されたウラン型原子爆弾「リトルボーイ」によるキノコ雲。画像は「ウィキペディア」)
このブログでは1962年に発行された『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房)を分析することにより、「地獄火に焼かれる広島の人々の幻影に苦しみつづけ、〈狂人〉と目された〈ヒロシマのパイロット〉」と文芸評論家・小林秀雄の良心観を比較することで、「原爆」の問題と「道義心」の問題を5回にわたって考察してきました。
明日はまた「広島原爆の日」が訪れますが、日本における「原子力エネルギー」の危険性の認識は深まりを見せていないどころか、岸政権以降、徐々に風化が進んで安倍政権下での「安全保障関連法案」にまで至ってしまったように思えます。
このことを痛感したのは、〈武藤貴也議員の発言と『永遠の0(ゼロ)』の歴史認識・「道徳」観〉と題したブログ記事を書くために、武藤貴也議員(36才)のことを調べている中で、彼が「わが国は核武装するしかない」という論文を月刊『日本』の2014年4月22日号に投稿していたことが分かったからです。
今回は武藤氏の論文の内容を批判的な視点からごく簡単に紹介した後で、「安全保障関連法案」を衆議院で強行採決した安倍首相の核認識との関わりを分析することにします。
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「武藤 日本は自力で国を守れるように自主核武装を急ぐべきなのです。日本の核武装反対論は、論理ではなく感情的なものです。かつて広島、長崎に原爆を落とされた国として核兵器を許さないという心情的レベルで反核運動が展開されてきたのです。しかし、中国の台頭、アメリカの衰退という国際情勢の変化に対応して、いまこそ日本の核武装について、政治家が冷静な議論を開始する必要があると思っています。
核武装のコストについては様々な試算がありますが、私は安上がりな兵器だと考えています。何より、核の抑止力によって戦争を抑止することができます。核武装国家同士は戦争できないからです。」
ここでは二つの問題点を指摘しておきます。まず、第一点は「日本の核武装反対論は、論理ではなく感情的なものです」と記されていますが、1948年の時点で小林秀雄が明確に「原子力エネルギー」の危険性をきわめて論理的に、しかも「道義心」の面からも明らかにしていたことです。
次に、日本の核武装の理由として「核武装国家同士は戦争できないからです」と断言していますが、おそらく武藤氏は「キューバ危機」の際には核戦争の寸前までなっていたが、アメリカとソ連首脳の決断であやうく回避できたという歴史的な事実を軽視しているように思われます。もし、「きわめて情念的な」安倍首相があのときアメリカの大統領だったならば、核戦争は避けられなかった可能性が高いと思われるのです。
では、なぜ若い武藤議員が「日本の核武装」を唱えるようになったのでしょうか。 「小渕内閣時代の1999年10月に防衛政務次官に就任した西村眞悟氏は『核武装の是非について、国会で議論しよう』と述べて、辞任に追い込まれました。中川昭一氏も非核三原則見直し論議や核武装論議を提起しましたが、誰も彼に同調しようとしませんでした」という武藤氏の文章はその理由を明快に説明しているでしょう。
つまり、戦争の時代をよく知っている議員が力を持っていた小渕内閣の頃には、「日本の核武装」論は自民党内でもタブーだったのです。
このような党内の雰囲気が変わり始めたのは、安倍晋三氏が官房副長官になったころからのようです。ブログに掲載されている情報では、2002年2月に早稲田大学で行った講演会における田原総一朗との質疑応答では、「小型であれば原子爆弾の保有や使用も問題ない」と発言したと『サンデー毎日』 (2002年6月2日号)が報じて物議を醸していたのです(太字は引用者)。
この際に安倍氏は国会で「使用という言葉は使っていない」と記事内容を否定し、政府の“政策”としては非核三原則により核保有はあり得ないとしながらも、岸内閣の国会答弁によりながら憲法第九条第二項は、国が自衛のため戦力として核兵器を保持すること自体は禁じていないとの憲法解釈を示していたのです。
安倍氏が首相のときに選挙で当選した武藤氏は、安倍氏に気に入られようとしたこともあり、「日本の核武装」論を安倍氏の主張にそった形でより強く主張していたのだと思われるのです。
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今日(5日)の参院平和安全法制特別委員会では、中谷元・防衛相は安全保障関連法案に基づく他国軍への後方支援をめぐり、核兵器の運搬も「法文上は排除していない」と答弁したとの仰天するようなニュースも飛び込んで来ました。このニュースについては詳しい続報が出たあとで考察するにします。
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