文芸評論家の小林秀雄氏は、黒澤映画《白痴》が公開されてから1年後に書き始められた『白痴』論の末尾で次のように記していました。
「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである。〈後略〉」。
「不注意な読者」という句を小林氏は以前から愛用していたが、拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』では、この表現が1951年に映画《白痴》を公開していた黒澤明監督に向けられている可能性が強いこと指摘しました。
文芸評論家の小林秀雄氏と数学者の岡潔氏との対談『人間の建設』(新潮社)からも同じような印象を受けましたので、両者の『白痴』観に絞って考察することで、小林秀雄のドストエフスキー観の問題点に迫りたいと思います。
リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観
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