「第46回総会と第227回例会のご案内」と「報告要旨」を「ニュースレター」(No.128)より転載します。
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下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。
(ご注意! 今回の会場は奥の和室です)
日 時:2015年5月16日(土)午後1時30分~5時
場 所:千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分) ℡:03-3402-7854
総会:午後1時30分から40分程度、終わり次第に例会
議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算などについて
例会報告者:樋口稲子 氏
題 目: 旧約聖書「エデンの園」と「大審問官」における「カーニバル原理」と「救済原理」―「自由」に対する観点から―
*会員無料・一般参加者=会場費500円
報告者紹介:樋口稲子(ひぐち いねこ)
ロシア文学作品を読み始めたのはラスプーチン、パウストフスキー等の比較的現代の作家の作品からであったが、次第に古典に関心が移り、主にドストエフスキーの作品と関わるようになった。それと同時に、聖書、特に旧約の原初史に関心を持ち、広大な聖書の世界を覗いた。ドストエフスキーの作品でも『死の家の記録』は、他の作品には無い魅力を感じている。現在では、多くの作家の作品に関心を持っているが、特に、オドエフスキー、ドストエフスキー、ザミャーチンを一線上に関連付けて見ている。
第227回例会報告要旨
古来より楽園と見なされてきた「エデンの園」と、「大審問官」の言説をとりあげ、「カーニバル原理」と「救済原理」の機能的内容を見ながら「自由」の問題を考察してゆく。カーニバル原理については、ミハイル・バフチンのカーニバル文学理論を適用し、キリスト教の救済原理については、プロテスタントのジョン・マーレーの救済理論を適用した。言うまでもなく、二つの原理は全く対立する原理である。さらに、バフチンは、「カーニバル理論」の一応の要件と特性の定義をしているが、どうみてもその定義には揺れがある。
「エデンの園」の物語において最も関心を引くのは、〈蛇〉の存在である。彼は、謎に満ち同時に魅力的な存在である。だが、神が万物の創造主であるならば、神の似姿を以って創られ、神の愛を他の誰よりも受けた人間が生きるエデンの園に、神に背信し人間を神に立ち向かわせる蛇が、神の被造物として何故存在するのか、こうした疑問は今までも多くの研究者の提起してきたものであった。しかも、創世記の「エデンの園」の登場人物は、アダムとイヴの関係を除けば互いに対立する存在であり、(蛇と神のように)、また、初めは神に対して従順な人物(アダムとイヴ)が蛇の唆しをきっかけに、神への反抗という背反的行動をして、そのことにより追放され、神の恩寵から離れ、異なる世界に移行することになる。エデンの園の物語は、こうした対立要素を必須要素として含有することで初めて成り立つ。こうした対立関係が生まれるための具体的な役割を持った存在が「蛇」である。もし「蛇」が存在しなければ、エデンの園の物語は成立しない。従って、人間が神の禁を破り〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べて、独立と自由を獲得するというプロセスはありえなくなる。人間の発展にとって、絶対に必要な存在である蛇は、否むべき存在として位置づけられているが、しかし、その否むべき存在が、なぜ神の言葉と真実との矛盾を知っていて、人間にその神の言葉と真実との矛盾を告げる正しき者の役割を果たしたのか、そして同時に唆しの罪を犯す役割を担わされているのか、一体「蛇」はどの様な存在として理解すればよいのか、この点については今もって謎である。
「大審問官」には、最大のカーニバル性が認められる。キリストに対して奪冠し卑俗な存在におとしめたのは、つまり、カーニバル化の立役者は大審問官なのである。これは単に彼がイエスという神の一人子に対する奪冠を行ったというのではない。彼が本当に奪冠をした相手は、キリストの神性に対して行ったのであって、それは〈神〉に対する奪冠であった。だから、キリストの卑俗化、奪冠とは結局、キリスト教と神に対する卑俗化であり、奪冠なのである。それは、公認されたものへのこの上ない挑戦である。それにもかかわらず大審問官が、微塵もひるむことなく、キリストを見据えて、堂々と語った〈背信の思想〉は人間の真実であり真理でもあった。しかも、キリスト教が抱えることの出来ない、肯定もできない、キリスト教とは対極にある真理である。大審問官は人間の真理を代表し、キリストは神の真理を代って現わそうとしている。(大審問官の物語では、メニッペアの基本的性格5の特性が濃い。)
「大審問官」には、世界を支配する二つの原理が相克するさまが描かれている。取るに足らぬ存在の真理と神の真理は、それぞれ互いに対立する極に足場を置いて、その真理の正当性を主張する。
作家にとって、我々が神の原理を取ることにも、あるいは人間の原理を取ることにも、どちらの選択をするかについて本当は無関心であろう。彼の関心は、神の原理が、キリスト教的な言い方をすれば、神の〈愛〉の原理が、彼の理論に従えば、崩壊するということにある。これは、キリスト教文明の世界が今までの価値を失う事を意味する。それを承知で、作家はこの問題を提示しないではおれなかった。何故なら、彼が自らを〈懐疑と不信の子です〉と言い、信仰の危機に到ったのは、この問題、すなわち神の原理の崩壊の可能性に気付いたからではないだろうか。この問題は、作家自身が述べているとおり一生作家を悩まし続けたに相違ない。作家の最後の作品に組み込まれた『大審問官』は作家の答えになるべく構成され、神の原理と人間の原理の相克を描いたものである。
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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。
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