『永遠の0(ゼロ)』についてのブログ記事を書き始めてから、太平洋戦争を批判的に考えている人でもこの本を評価している読者が少なくないことに気づきました。
たとえば、『マガジン9』のスタッフの寺川薫氏は、〈どうしても違和感を覚えてしまう『永遠の0』への「戦争賛美」批判〉という題名の「コラム」で、ツイッターなどで「憎悪表現」を多用する百田氏とその作品とは区別すべきであるとし、「対話」の必要性を強調しています。
〈私は小説を読み終えたとき「この作品のどこが戦争賛美、特攻隊賛美なのだろう」と素直に疑問を感じました。以下に記す旧日本軍上層部に対する批判や、特攻という作戦そのものへの批判などをしっかりと書き込んでいるだけでも、少なくとも「戦争賛美」や「特攻賛美」と本作を切り捨てるのは間違いだと思います。〉
2014年3月14日付けの記事ですので、すでに見解は変わっているかもしれませんが、「人を信じたい」という思いが率直に記されている文章だと思います。しかし、それゆえに小説『永遠の0(ゼロ)』の構造に惑わされているとも感じました。
「オレオレ詐欺」の場合は、少なくとも数日中には、被害者がだまされていたことを分かると思います。一方、「五族協和」「八紘一宇」などの「美しい神話」が語られていた「昭和国家」では、敗戦になるまで多くの「国民」がそれを信じ込まされていたのです。
そのような「神話」を支える「美しい物語」と同じような働きをしている『永遠の0(ゼロ)』を讃えることは、意図せずに人々を「戦争」へと導く働きに荷担してしまう危険性がありますので、少し長くなりますが、この文章を詳しく検証することで問題点に迫りたいと思います。
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「『永遠の0』では、旧日本軍の組織としてのダメさ加減や作戦の杜撰さなどに対する記述が繰り返し出て」くることを指摘した寺川氏は、次のような戦争批判の記述をその具体的な例として挙げています。
〈たとえば、太平洋戦争の分岐点となったガダルカナルでの戦いを取り上げ、戦力の逐次投入による作戦の失敗や、参謀本部が兵站を軽視したことによって多くの兵士が餓死や病死したことが書かれています。また、ゼロ戦の航続距離の長さを過信した愚かな作戦によって、多くのパイロットの命が失われたことなども記述されています。
もちろん本作のテーマである「特攻」に関する批判も随所に出てきます。特攻はパイロットの志願ではなく強制のケースが多かったこと、米軍の圧倒的な物量や新型兵器によって特攻機のほとんどが敵艦にたどり着く前に撃ち落とされたこと、それを軍上層部は分かっていながらも特攻という作戦を続けたこと。さらには 「俺もあとから行くぞ」と言った上官たちの中には責任をとることなく戦後も生き延びた人がたくさんいたことなど、特攻という作戦を立案・推進した「軍上層部」への批判が展開されます。〉
これらの点を指摘した寺川氏は、次のように結論しています。
〈「作品」でなく「人」で判断することの愚かさは、「主張の内容」でなく、それを唱えている「人や組織」で事の是非を判断することと似ています。憲法九条、原発、死刑制度ほか国論を二分する議論はいくつもありますが、ともすると「どうせあの人(団体)が言っているのだからロクなことはない」と決めつけてしまうことが、よくあるような気がします(引用者注――「作者と作品の関係」に言及したこの文章の問題点については稿を改めて考察します)。
憲法や安全保障について具体的に国を動かそうという政権が現れたいま、少なくともそれに反対する側は、レッテル貼りをして相手を非難している場合ではなく、意見の違う相手とも、その違いを知ったうえで議論し、考えていくことが大事なのではないか――。〉
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たしかに、『永遠の0(ゼロ)』の第5章には、「ガダルカナル島での陸軍兵士」の悲惨な戦いについて語られる次のような記述もあります。
少し長くなりますが具体的に引用しておきます
〈「あわれなのはそんな場当たり的な作戦で、将棋の駒のように使われた兵隊たちです。
二度目の攻撃でも日本軍はさんざんに打ち破られ、多くの兵隊がジャングルに逃げました。そんな彼らを今度は飢餓が襲います。ガダルカナル島のことを『ガ島』とも呼びますが、しばしば「餓島」と書かれることがあるのはそのためです。」
「結局、総計で三万以上の兵士を投入し、二万人の兵士がこの島で命を失いました。二万のうち戦闘で亡くなった者は五千人です。残りは飢えで亡くなったのです。生きている兵士の体にウジがわいたそうです。いかに悲惨な状況だったかおわかりでしょう。
ちなみに日本軍が『飢え』で苦しんだ作戦は他にもあります。ニューギニアでも、レイテでも、ルソンでも、インパールでも、何万人という将兵が飢えで死んでいったのです」〉。
(ガダルカナルの戦い。図版は「ウィキペディア」より)
第6章ではラバウル航空隊整備兵として祖父の機体などを整備していた元海軍整備兵曹長の永井清孝からの話を聞いた語り手の「ぼく」の激しい批判が記されています。
〈「永井に会った後、ぼくは太平洋戦争の関係の本を読み漁った。多くの戦場で、どのような戦いが行われてきたのかを知りたいと思ったのだ。
読むほどに怒りを覚えた。ほとんどの戦場で兵と下士官たちは鉄砲の弾のように使い捨てられていた。大本営や軍司令部の高級参謀たちには兵士たちの命など目に入っていなかったのだろう。」〉
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これらの文章だけに注目するならば、『永遠の0(ゼロ)』は「反戦」的な強いメッセージを持った小説と捉えることも可能でしょう。
しかし、これらの文章が小説の中盤に記されており、新聞記者の高山が罵倒され、追い返されるシーンが描かれている第9章の前に位置していることに注意を払う必要があるでしょう。
戦争の「実態」に関心のある読者にとっては、第5章や第6章の描写は強く心に残ると思われますが、一般の読者にとっては小説が進みその「記憶」が薄れてきたころに、「私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と記者の高山が怒鳴りつけられる場面が描かれているのです。
「『永遠の0』の何が問題なのか? 」と題された冷泉彰彦氏のコラム記事は、この小説の構成の問題点に鋭く迫っていると思えます(「ニューズウィーク」、2014年02月06日、デジタル版)。
〈問題は「個々の特攻隊員の悲劇」へ感情移入する余りに、「特攻隊全体」への同情や「特攻はムダではなかった」という心情を否定しきれていないのです。作戦への批判は入っているのですが、本作における作戦批判は「主人公達の悲劇性を高める」セッティングとして「帳消しに」されてしまうのです。その結果として、観客なり読者には「重たいジレンマ」を感じることなく、悲劇への共感ないし畏敬の念だけが残ってしまうのです。〉
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原作の『永遠の0(ゼロ)』を高く評価する一方で、映画《永遠の0(ゼロ)》を「小説とは似て非なる映画」と厳しく批判した寺川氏自身の次の文章は、小説自体の問題点をも浮き彫りにしていると思われます。
〈それに対して映画ですが、「どうしてこのような作品になってしまったのか」と私は残念に思います。その理由は簡単。上記の小説でしっかりと描かれた軍部批判や特攻批判等の部分が相当薄まっていて、「特攻という問題」が「個人の問題」に見えてしまうからです。〉
そして、筆者は「この作品にとっての生命線である「軍部批判」や「特攻批判」の要素を薄めてしまっては、まったく別の作品となってしまいます。」と続けています。
映画から受けた印象についての感想は、「軍部批判」や「特攻批判」の記述が「戦争に批判的」な読者をも取り込むために組み込まれた傍系の逸話に留まり、この小説の流れには本質的な影響を及ぼしてはいないことを明らかにしていると思われます。
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この小説の構造で感心させられた点は、主に「空」で戦ったパイロットの視点から戦争を描いていることです。そのために、「五族協和」「八紘一宇」などの「美しい神話」を信じて、満州国に移民した「満蒙開拓移民」の悲惨な実態や、植民地における現地の民衆と日本人との複雑な関係は全く視野に入ってこないことです。
最近書いた論文「学徒兵 木村久夫の悲劇と映画《白痴》」では、中国名・李香蘭で多くの映画に出演していたために祖国を裏切ったという罪で銃殺になるはずだった女優の山口淑子氏が、日本人であることが証明されて無罪となり、戦後は「贖罪」として平和活動をされていたことにも触れました。
『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』と題された山口氏の著書の「獄中からの手紙」では、満州国皇帝につながる王族の一員で、日本人の養女となった川島芳子氏の悲劇が描かれています。「軍上層部」への批判が記されているものの『永遠の0(ゼロ)』では批判は「軍上層部」で留まり、「満州経営に辣腕」を振った岸信介氏などの高級官僚や、戦争の準備をした政治家、さらには徳富蘇峰などの思想家にはまったく及んでいません。
たとえば、第一章では武田の「反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた」という言葉が描かれています。しかし、すでに見たように、『国民新聞』が焼き討ちされたのは、政府の「御用新聞」だったからであり、しかも、蘇峰は『大正の青年と帝国の前途』において、自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを褒め称えていたのです。
「論理」よりも「情念」を重視する傾向がもともと強い日本では、疑うよりは人を信じたいと考える善良な人が、再び小説『永遠の0(ゼロ)』の構造にだまされて、戦争への道を歩み出す危険性が高いと思われます。
(2016年11月18日、図版を追加)
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