リンク→ 木下豊房氏「小林秀雄とその同時代人のドストエフスキー観」を聴いて
ドストエーフスキイの会「第225回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.126)より転載します。
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第225回例会のご案内
下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。
日 時:2015年1月24日(土)午後2時~5時
場 所:千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)
℡:03-3402-7854
報告者:泊野竜一 氏
題目: 『カラマーゾフの兄弟』における対話表現の問題
*会員無料・一般参加者=会場費500円
報告者紹介:泊野竜一(とまりの りょういち)
所属・身分は早稲田大学大学院文学研究科人文科学専攻ロシア語ロシア文化コース後期博士課程1年。源ゼミに所属。研究テーマは、修士課程では、対話表現としての長広舌と沈黙との問題を、ドストエフスキー作品において取り扱った。博士課程では、19-20世紀ロシア文学における対話表現の問題を研究していきたいと考えている。具体的に研究する作品としては、ドストエフスキーの作品を中心として、その先駆となるもの、あるいは後継となるものとして、オドエフスキー、ゴーゴリ、アンドレーエフ、ガルシン、ブリューソフの作品を選択。そして、その間の変化の中での「分身」「狂気」「内的対話」の問題に取り組む予定。
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『カラマーゾフの兄弟』における対話表現の問題
ドストエフスキーは、知人宛ての書簡で、『カラマーゾフの兄弟』の中に、ある宗教的な意図を含めたことを記している。それは、「プロとコントラ」の章においてイワンが語る涜神論は、次の「ロシアの僧侶」の章においてゾシマ長老の思想に論破されるというものである。この二つの章には、相似的な構造が用意され、宗教論争上のイワンの敗北とゾシマ長老の勝利が対照的に示される予定であったことが伺える。だが「ロシアの僧侶」の原稿を出版社に送った直後、ドストエフスキーは、この目論見が揺らいでしまったと、別の書簡で告白している。一体どうしてそのようなことが起こったのであろうか。
ドストエフスキーは長編小説中で、一つの独特な対話表現を用いていると考えられる。それは、対話者の片方は長広舌を続け、もう片方は沈黙しそれを拝聴するという形式をもっている。つまり見かけ上は、一方的なモノローグの様相を呈している。ところがこれは、通常の相互通行の対話よりも、はるかに豊かな内的対話の表現となっているのである。
ドストエフスキーに特徴的である対話表現が、もっとも発達していると考えられるのは、『カラマーゾフの兄弟』の中の《大審問官》である。そこで《大審問官》における二人の主要登場人物である、大審問官とキリストと目される男の対話に注目し、これに具体的な分析を加えることとする。
分析の結果、この対話表現には以下のような4つの特徴が存在すると見られる。まず、対話者の片方が沈黙を守り、その様子もほとんどわからない「聞き手の様子不明の特徴」。次に、長広舌を揮う対話者が、相手の発言を遮り、かつまた相手の発言を先取りしてまで、自らの発言を聞くことを強要する「長広舌強要の特徴」。そして、今度は逆に、長広舌を揮っていた対話者が、沈黙を守る相手に発言を乞うようになる「返答要請の特徴」。最後に、見かけ上の対話は終了するが、対話者の心の中で内的な対話が永続する「対話継続の特徴」である(このような対話表現を仮に「長広舌と沈黙との対話」と呼ぶこととする)。
そこで「プロとコントラ」と「ロシアの僧侶」の二つの章の中にある、《大審問官》と、「故大主教ゾシマ長老の生涯」における対話を分析することを試みると、どちらも「長広舌と沈黙との対話」の体をなしていると見られる。したがって、この二つの対話は、そのもっとも重要な特徴である「対話継続の特徴」を有していると考えられる。それならば、この二つの対話は対話者の内部においては終了しないし、結論も確定しないということとなる。つまり、これらの対話は、その表現方法によって、対話者間の議論に優劣をつけうるような性質のものではなくなってしまったのではないかと思われる。
すなわち、ドストエフスキーが生み出した文学上の表現方法である「長広舌と沈黙との対話」が、作者の、イワンの涜神論が、ゾシマ長老の思想に論破されるというような宗教的な意図を結果的に裏切ってしまっているのである。以上のような読みの可能性を、ここでは提案したい。
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例会の「事務局便り」については、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。
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