ルージンとは誰のことか分からない方が多いと思いますが、ルージンとはドストエフスキーの長編小説『罪と罰』に出て来る利己的な中年の弁護士のことです。
日本の「ブラック企業」について論じた以前の記事で、ロシアの近代化が「農奴制」を生んだことを説明した頃にも、「アベノミクス」という経済政策がルージンの説く経済理論と、うり二つではないかという印象を持っていたのですが、経済学者ではないので詳しい考察は避けていました。
リンク→「ブラック企業」と「農奴制」――ロシアの近代化と日本の現在
しかし、デモクラTVの「山田厚史のホントの経済」という番組で「新語・流行語大賞」の候補にもノミネートされた「トリクルダウン」という用語の説明を聞いて、私の印象がそう的外れではないという思いを強くしました。
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「ウィキペディア」によれば、「トリクルダウン(trickle-down)」理論とは、「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウン)する」という経済理論で、「新自由主義の代表的な主張の一つであり」、アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンが「この学説を忠実に実行した」レーガノミクスを行ったとのことです。
興味深いのは、『罪と罰』の重要人物の一人である中年の弁護士ルージンが主人公・ラスコーリニコフに上着の例を出しながら、これまでの倫理を「今日まで私は、『汝の隣人を愛せよ』と言われて、そのとおり愛してきました。だが、その結果はどうだったでしょう? …中略…その結果は、自分の上着を半分に引きさいて隣人と分けあい、ふたりがふたりとも半分裸になってしまった」と批判していたことです。
そしてルージンは「経済学の真理」という観点から、このような倫理に代わるものとして、「安定した個人的事業が、つまり、いわば完全な上着ですな、それが社会に多くなれば多くなるほど、その社会は強固な基礎をもつことになり、社会の全体の事業もうまくいくとね。つまり、もっぱらおのれひとりのために利益を得ながら、私はほかでもないそのことによって、万人のためにも利益を得、隣人にだって破れた上着より多少はましなものをやれるようになるわけですよ」と自分の経済理論を説明していたのです(二・五)。
ルージンは「新自由主義」の用語を用いれば「富める者」である自分の富を増やすことで、貧乏人にもその富の一部が「したたる」ようになると、「アベノミクス」に先んじて語っていたとも思えるのです。
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「トリクルダウン理論」については、「実証性の観点からは、富裕層をさらに富ませれば貧困層の経済状況が改善することを裏付ける有力な研究は存在しないとされている」ことだけでなく、レーガノミクスでは「経済規模時は拡大したが、貿易赤字と財政赤字の増大という『双子の赤字』を抱えることになった」ことも指摘されています。
その理由をシャンパングラス・ツリーの図を用いながら、分かり易く説明していたのが山田厚史氏でした。私が理解できた範囲に限られますが、氏の説明によれば結婚式などで用いられるシャンパングラス・ツリーでは、一番上のグラスに注がれてあふれ出たシャンパンは、次々と下の段のグラスに「滴り落ち」ます。
しかし、経済においてはアメリカに巨万の富を有する者や企業が多く存在するように、頂点に置かれてシャンパンを注がれるグラス(大企業)自体は、大量のシャンパン(金)を注がれてますます巨大化するものの、それらを内部留保金として溜め込んでしまうのです。それゆえ、下に置かれたシャンパングラス(中小企業)は、ほとんどシャンパン(金)が「滴り落ち」てこないので、ますます貧困していくことになるのです。
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「トリクルダウン理論」の危険性に気付けば、日本よりも150年も前に行われたピョートル大帝の「文明開化」によって、「富国強兵」には成功していたロシア帝国でなぜ農民の「農奴化」が進んだかも明らかになるでしょう(商業と農業との違いはありますが…)。 再び『罪と罰』に話を戻すと、ドストエフスキーがペテルブルクに法律事務所を開こうとしているかなりの財産を持つ45歳の悪徳弁護士ルージンにこのような経済理論を語らせた後で、ラスコーリニコフにそのような考えを「最後まで押しつめていくと、人を切り殺してもいいということになりますよ」(二・五)と厳しく批判させていたのは、きわめて先見の明がある記述だったと思えます。
しかし、文芸評論家の小林秀雄は意外なことに重要な登場人物であるルージンについては、『罪と罰』論でほとんど言及していないのです。そのことはマルクスにも言及したことで骨のある評論家とも見なされてきた小林秀雄が『白痴』論で「自己中心的な」貴族のトーツキーに言及することを避けていたことにも通じるでしょう。 しかしそれはすでに別のテーマですので、ここでは「アベノミクス」という経済政策の危険性をもう一度示唆して終わることにします。
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