お知らせが遅くなりましたが、「第219回例会のご案内」と「報告要旨」を「ニュースレター」(No.120)より転載します。
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下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。
日 時:2014年1月25日(土)午後6時~9時
場 所:千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分) ℡:03―3402―7854
報告者:金 洋鮮 氏(職業:フリー、大阪外国大学地域文化東欧博士前期過程終了、新潮新人賞評論部門、最終候補「三位一体のラスコーリニコフ」)
題 目:謎のトライアングル(スヴィドリガイロフの場合)
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第219回例会報告要旨
芸術作品の粋を評価するうえで欠かせない「韜晦」と「虚実皮膜」、この最も重要なふたつの要素を極めた作家が、ドストエフスキーだと思う。言い換えれば、彼の作品ほど謎とリアリティに満ちた作品は古今東西ないのではないだろうか?
バフチンの「ドストエフスキーの詩学」によって、登場人物の対話がポリフォニックであることは、今やドストエフスキー読者にとって人口に膾炙したものとなっているが、言葉だけでなく人物そのものが多重であることを付け加えたい。
作家はピカソに先駆けて、人物を360度の視座から捉えるキュビズム手法を、逸早くその作品に取り入れた。
それゆえ一読ぐらいでは、画期的な描写により衝撃を受けたとしても、その内容の把握はおぼつかない。
『罪と罰』は、彼の全作品においてキュビズムが最も際立った作品で、登場人物の殆どが、キュビズムを把握しやすいアンビヴァレントで描かれているということを、最も謎とされているスヴィドリガイロフと彼の恋を通して確認したい。
スヴィドリガイロフは過去においては少女姦、下男殺し、そして現行では妻を毒殺した、その背後にどれほどの闇があるのか測りようのない真っ黒な人物として現れる。
が、キルポーチンが指摘したように(スヴィドリガイロフはどこにおいても一本調子で書かれていない、彼は、一見そうみるような黒一色の人物ではない[・・・]スヴィドリガイロフは悪党、淫蕩で、シニカルであるくせに小説全体にわたって数々の善行を行うが、それは他の作中人物たちをみんな合わせたよりも多いほどである。)
また「スヴィドリガイロフこそ真の主人公」とミドルトン・マリが指摘する通り、「スヴィドリガイロフの方がラスコーリニコフよりも存在感がある」と感じる読者は結構いる。
清水孝純氏も彼のドーニャとの恋に「謎」を感じ、また(所詮彼の側からは、発動できない受身の求愛の形だったのです)と、従来とは違う新しい見解を述べている。
スヴィドリガイロフ側からすれば、〈私の気持は純粋そのものだったかもしれないし、それどころか、本気でふたりの幸福を築こうと思っていたかもしれませんものね!・・・私の受けた傷のほうがよほど大きかったようですよ!・・・〉と話が逆転する。
今回は反論を覚悟で、大胆な仮説を述べる。
ドストエフスキー作品には、森有正やモチュリスキーが述べたように、有に一大長編となるものが、一挿話として片付けられている。
一挿話を一大長編にするのも、ドストエフスキー作品を読む上での楽しみのひとつであろうし、それが整合性あるものであれば、聞くに耐えられるのでは・・・、このような思いで報告します。
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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。
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