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《かぐや姫の物語》考Ⅱ――「殿上人」たちの「罪と罰」

《かぐや姫の物語》考Ⅱ――「殿上人」たちの「罪と罰」

 

ブログ記事「《かぐや姫の物語》考Ⅰ」に書いたように、高畑勲監督のアニメ映画《かぐや姫の物語》は、竹から生まれた「かぐや姫」が美しい乙女となり五人の公達や「帝」から求婚されながら、それを断って月に帰って行くという原作のSF的な筋を忠実に活かしながら、日本最古の物語を現代に甦えらせていました。

ただ、「かぐや姫の罪と罰」というこの映画のキャッチフレーズにひかれて見たこともあり、『罪と罰』のとの関連では今ひとつ物足りない面もありました。なぜならば、レフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》でもラスコーリニコフが殺した老婆たちの血で「大地を汚した」ことの「罪」を批判するソーニャの次のような言葉もきちんと描かれていたからです。

「いますぐ行って、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから全世界に、東西南北に向かって頭を下げ、皆に聞こえるようにこう言うの。『私が殺しました!』 そうすれば、神さまはあなたに再び生命を授けてくださる」(第5部第4節)。

また、ドストエフスキーには夢の中で他の惑星に行くというSF的な短編小説『おかしな男の夢』もあります。

それゆえ、「かぐや姫の罪と罰」というキャッチフレーズを持つこのアニメ映画でも福島第一原子力発電所の事故で明らかになったような環境汚染の問題が、「月」からの視線で描かれているのかもしれないとの期待を密かに抱いていたのです。

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結果的にいうとそれは過大すぎる期待でしたが、「かぐや姫の罪と罰」こそ描かれてはいないものの、庶民たちから集めた税で優雅に暮らしながらもその問題には気づかない「殿上人」たちの「罪と罰」は、きちんと描かれているという感想を持ちました。

先日のブログ記事では 『竜馬がゆく』における「かぐや姫」のテーマに言及しましたが、司馬氏は『竹取物語』が書かれたと思われる平安時代の頃の制度を鎌倉幕府の成立との関係をとおして,明治維新後の日本における「公」という理念の問題点を鋭く指摘していたのです。ここでは拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』 (人文書館、2009年、120頁)からその箇所を引用しておきます。

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司馬は武士が「その家系を誇示する」時代にあって、竜馬に自分は「長岡藩才谷村の開墾百姓の子孫じゃ。土地をふやし金をふやし、郷士の株を買った。働き者の子孫よ」とも語らせているのである(四・「片袖」)。

ここで竜馬が自分を「開墾百姓の子孫」と認識していることの意味はきわめて重いと思われる。なぜならば、「公地公民」という用語の「公とは明治以後の西洋輸入の概念の社会ということではなく、『公家(くげ)』という概念に即した公」であったことを明らかにした司馬が、鎌倉幕府成立の歴史的な意義を高く評価しているからである(『信州佐久平みち、潟のみちほか』『街道をゆく』第9巻、朝日文庫)。

すなわち、司馬によれば「公地公民」とは、「具体的には京の公家(天皇とその血族官僚)が、『公田』に『公民』を縛りつけ、収穫を国衙経由で京へ送らせることによって成立していた制度」だったのである。そして、このような境遇をきらい「関東などに流れて原野をひらき、農場主になった」者たちが、「自分たちの土地所有の権利を安定」させるために頼朝を押し立てて成立させたのが鎌倉幕府だったのである。

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それゆえ、『坂の上の雲』において農民が自立していた日本と「農奴」とされてしまっていたロシアの農民の状態を比較しながら、戦争の帰趨についても論じて司馬遼太郎氏は、「海浜も海洋も、大地と同様、当然ながら正しい意味での公のものであらねばならない」が、「明治後publicという解釈は、国民教育の上で、国権という意味にすりかえられてきた」と指摘したのです。

そして「大地」の重要性をよく知っていた司馬氏は、「土地バブル」の頃には、「大地」が「投機の対象」とされたために、「日本人そのものが身のおきどころがないほどに大地そのものを病ませてしまっている」ことも指摘していました。

さらに、明治以降の日本において「義勇奉公とか滅私奉公などということは国家のために死ねということ」であったことに注意を促した司馬氏は、「われわれの社会はよほど大きな思想を出現させて、『公』という意識を大地そのものに置きすえねばほろびるのではないか」という痛切な言葉を記していたのです(『甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか』、『街道をゆく』第7巻、朝日文庫)。

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実際、司馬氏が若い頃には「俺も行くから 君も行け/ 狭い日本にゃ 住み飽いた」という「馬賊の唄」が流行り、「王道楽土の建設」との美しいスローガンによって多くの若者たちが満州に渡ったが、1931年の満州事変から始まった一連の戦争では日本人だけでも300万人を超える死者を出すことになったのです。

同じように「原子力の平和利用」という美しいスローガンのもとに、推進派の学者や政治家、高級官僚がお墨付きを出して「絶対に安全である」と原子力産業の育成につとめてきた戦後の日本でも「大自然の力」を軽視していたために2011年にはチェルノブイリ原発事故にも匹敵する福島第一原子力発電所の大事故を産み出したのです。

それにもかかわらず、「積極的平和政策」という不思議なスローガンを掲げて、軍備の増強を進める安倍総理大臣をはじめとする与党の政治家や高級官僚は、「国民の生命」や「日本の大地」を守るのではなく、今も解決されていない福島第一原子力発電所の危険性から国民の眼をそらし、大企業の利益を守るために原発の再稼働や原発の輸出などに躍起になっているように見えます。

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日本の庶民が持っていた自然観をとおして、「タケノコ」と呼ばれていた頃からの「かぐや姫」の成長を丁寧に描き出すとともに、「天」をも恐れぬ「殿上人」の傲慢さをも描き出して日本最古の物語を現代に甦えらせたアニメ映画《かぐや姫の物語》は、現代の「大臣(おおおみ)」たちの「罪」をも見事に浮き彫りにしているといえるでしょう。

名作《となりのトトロ》と同じように、時の経過とともにこの作品の評価も高まっていくものと思われます。

 

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