少し古い記事になりますが、「東京新聞」の13日の記事に、文部科学省が「中学校の英語の授業を、原則として英語で行うことを決めた」ばかりでなく、小学校においても次のような方針が決められたことを報じていました。
「正式な教科でない『外国語活動』として実施している小学校は開始時期を小学5年から小学3年に前倒しし、5、6年は教科に格上げする」。
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この記事を読んですぐに連想したのは明治維新以降の文部官僚が行った教育政策のことでした。
正岡子規は英語の試験で苦しめられていましたが、それは当時の政府も「文明開化」のために英語のできる知識人の養成につとめていたからです。
しかし、日露戦争に勝ったことで日本が「一等国」になったとみなすようになった政府は、太平洋戦争に突入するころには英語を「敵性言語」と見なして、野球の用語からも英語を排斥するようになったのです。
ここにみられたのは「語学力」の偏重による「読解力」の軽視の結果だとも思えます。
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テレビやゲームなど視覚的な「情報」が増えてきた現在の日本では、すでに読解力の低下が見られ、文学作品などもその構造をふまえてきちんと読み解くのではなく、自分の主観による一方的な解釈を下す傾向が強くなっているようにも見えます。
母国語で書かれている「情報」を正しく読み取るだけでなく、自分の考えを正確に相手に伝えるためには、子供のころに日本語の能力を高めることが必要ですが、その時期に英語を強制的に学ばさせれることは、「英語を文明的な言語」と見なす若者を作り出す一方で、英語に対する反発をも産み出してしまうでしょう。
日本の伝統的な文化や「愛国心」を強調する一方で、経済政策だけでなく言語教育の面でもアメリカの要請に追随しているようにみえる安倍政権の政策は、「欧化と国粋」の二極化という危険性を孕んでいるように見えます。
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