今日、大城貞俊氏の『島影 慶良間や見いゆしが』(人文書館)が届きました。
以前にご贈呈頂いた伊波敏男氏の『島惑ひ 琉球沖縄のこと』(人文書館)と同じように、沖縄の歴史を踏まえつつ、日常的な生活の視点から厳しい状況を描いて書き手の感性が光る作品だと思いました。
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沖縄の問題は、きわめて重く、どのようなを切り口から記せばよいかが分からず、作品についての感想を書くことはこれまで延び延びになってきました。アメリカ軍と戦って勝てる可能性もなくなっていたにも関わらず、日本軍は沖縄を戦場として戦ったことで悲惨な状況を生み出していました。そして、戦後も政府はアメリカ軍の基地を沖縄に押しつけてきたのです。
しかし、伊波敏男氏は「特定秘密保護法」の危険性についてホームページ「かぎやで風」で「国凍てて民唇寒し枯れ落ち葉」と詠んでいますが、12月6日に「特定秘密保護法」が強行採決されたことで、今後は日本全体が急速に「沖縄化」していくことになると思われます。
厳しい状況を耐えつつ、粘り強く新しい価値観の模索をしてきた沖縄のことを知ることは、これからの日本を考える上でもきわめて重要でしょう。
これらの著作についてはいずれきちんと論じたいと考えていますが、今はまだ時間的な余裕がないので「書評・図書紹介」のページでこの二作の目次などの簡単な紹介をすることにします。
それとともに、沖縄の問題を考察した司馬遼太郎氏と「沖縄の石」が重要な役割を演じている映画《白痴》について考察の一部を以下に掲載することで、沖縄問題の重要性に注意を促すことにしたいと思います。
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私が初めて沖縄を訪れたのは比較文明学会第18回大会が行われた2000年のことで、ガマと呼ばれる洞窟などを見学する中でおぼろげながら沖縄戦の激しさの一端を体感することができた。
その翌年に 司馬遼太郎氏の『沖縄・先島への道』(一九七四)を考察する論文を書き、拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)に収めた。
「石垣・竹富島の章で司馬氏は、ペリーの艦隊が沖縄にも「上陸して地質調査をしたところ、石炭が豊富であることがわかったと書いていた。
その記述について、私は 「『沖縄・先島への道』での司馬の視線は、日本の近代化に大きな役割を果たしたペリーの開国交渉が、すでに沖縄の位置の戦略的な重要性を踏まえており、現在の基地の問題にも直結していることを見ていたのである」と記した。ここではその後の司馬氏の文章を引用しておく。
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こうして、この作品の冒頭近くにおいて司馬は、「住民のほとんどが家をうしない、約一五万人の県民が死んだ」太平洋戦争時の沖縄戦にふれつつ、「沖縄について物を考えるとき、つねにこのことに至ると、自分が生きていることが罪であるような物憂さが襲って」くると書いている。
さらに、その頃論じ始められていた沖縄の独立論に触れつつ、「明治後、『日本』になってろくなことがなかったという論旨を進めてゆくと、じつは大阪人も東京人も、佐渡人も、長崎人も広島人もおなじになってしまう。ここ数年間そのことを考えてみたが、圧倒的に同じになり、日本における近代国家とは何かという単一の問題になってしまうように思える」(傍点引用者)という重たい感想を記すのである(『沖縄・先島への道』「那覇・糸満」)。
この時、司馬遼太郎はトインビーが発した「国民国家」史観の批判の重大さとその意味を実感し、「富国強兵」という名目で「国民」に犠牲を強いた近代的な「国民国家」を超える新しい文明観を模索し始めるのである。
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私の沖縄観が強い影響を受けているのが、映画《白痴》における「沖縄の石」のエピソードである。
映画《白痴》では、まず冒頭のシーンで、戦場から帰還した亀田欽次(ムィシキン――森雅之)が北海道に向かう船の三等室で夜中に悲鳴をあげる。近くにいた赤間伝吉(ロゴージン――三船敏郎)に問われると、自分は復員途中で戦犯として死刑の宣告を受け、銃殺寸前に刑は取りやめになったが、その後何度も発作を起こして沖縄の病院で治療したものの、癲癇性痴呆になり今も夢の中で銃殺される光景を見たのだと説明する。
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後に、那須妙子をめぐって二人の緊張が高まったころに、赤間が「お守り」を大事に持っていることを知った亀田は自分は「石ころ」大切に持っていると語り、それは死刑の「そのショックで発作を起したって言ったろ……その時、夢中でその石つかんでたのさ」と説明した。
沖縄が第二次世界大戦でも有数の激戦地となり、軍人だけでなく多くの民間人も殺されていたことを考慮するならば、この映画では激戦地沖縄で拾った「石ころ」が、戦争という悲劇のシンボルとして描かれていたように思える。
こうして黒澤明は《白痴》において「十字架の交換」のシーンを、「お守り」と「沖縄の石」の交換に代えることで、「殺すなかれ」という理念が、キリスト教だけでなく、仏教や社会主義においても共有される「普遍的な理念」であることを視覚的に示していたのである。
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伊波敏男氏と大城貞俊氏の著作を読んで感じたのは、お二人が詩人としての感性を持った作家だということです。
「図書紹介」では著者の詩を紹介することで書評に代えます。
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