「特定秘密保護法案」に関する少し以前の記事をネットで探していたところ2013年11月28日の「毎日新聞」地方版に「やっぱりやってくれましたね、安倍首相…」という題名の記事が載っていたことが分かりました。
衆院での強行採決を取り上げたこの記事は、安倍首相が就任当時の所信表明で「数の力におごることなく国民の声に耳を傾けたい」と語っていたのは「偽りだったようです」と指摘し、「秘密法案の是非を論じる以前に、国民の大半は『なぜ成立を急ぐのか』という疑問が解けていない、と思います」と続けています。
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昨日のブログでは、特定秘密保護法案に反対するために国会周辺で行われている市民のデモについて石破茂幹事長が「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらない」と自分のブログに記していたことに言及しました。
この石破茂幹事長の記述は「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか」と語っていた麻生副総理の発言を思い起こさせます。
毎日新聞の記事は、就任演説での所信表明を守らない安倍首相を批判していましたが、これらの発言に注目すると今回の強行採決は、「約束」を守るよりも自分の信じる「正義」を実行する勇気が大事であると安倍首相が考えているからではないかと思います。
なぜならば、安倍内閣の首脳たちの発言は、司馬遼太郎氏がその危険性を鋭く指摘していた「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとした明治期の国家観から今も脱却し得ていないことを示していると思われるからです。
それゆえ、このような安倍内閣によって提出された「特定秘密保護法案」に私は強い危機感を抱いており、今回の問題は単なる政治の問題ではなく、学問の根幹に関わる問題だと思っています。
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拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』では、フロムの『自由からの逃走』にも言及しながら、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」と第一次世界大戦後のドイツにおける「非凡民族の思想」との関連をも考察していました。
ドイツが福島第一原子力発電所の大事故の後で、国民的な議論と民衆の「英知」を結集して「脱原発」に踏み切れたのは、ドイツ帝国やヒトラーの第三帝国の負の側面をきちんと反省していたからでしょう。
青年の頃に「神州無敵」などのスローガンに励まされて学徒出陣した司馬氏も、イデオロギーを「正義の体系」と呼んでその危険性に注意を促していました。
しかも政治的な問題には極力関わらないような姿勢を保持しながらも司馬氏は、日本が「昭和初期の別国」のような状態になることは、なんとしても防ぎたいとの強い覚悟も記していたのです。
(「司馬遼太郎の洞察力――『罪と罰』と 『竜馬がゆく』の現代性」参照)
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次回は社会心理学者フロムの『自由からの逃走』の考察をとおして、『罪と罰』の現代的な意義を再考察したいと思います。それは現代の日本の政治が抱えている「権威主義的な価値観」の問題にも迫ることにもなるでしょう。
(2016年2月10日。リンク先を追加)
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