福島第一原子力発電所の大事故の後で、ドイツがいち早く脱原発に踏み切ったのに反して、チェルノブイリ原発事故と同程度の大事故を起こした日本では、政府レベルではそのような動きはあまり見られませんでした。
その時にまず感じたのは、チェルノブイリ原発事故の際にたいへんな危機感を感じていたドイツとは異なり、原発のさらなる増設に向けて動き始めていた日本ではおそらく報道の量も少なかったのだろうということでした。
さらに大きな違いとして私が考えたのは、ドイツ国民は「内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとしたビスマルク的な国家観から脱却し、国民的なレベルでの議論の必要性を痛感していたのだろうということでした。
すなわち、ヒトラーはフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調し、ドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「復讐」への「新たな戦争」へと突き進んでいました。
しかし、ドイツ帝国は50年足らずで崩壊していましたが、第三帝国を目論んだヒトラー政権は、母国だけでなくヨーロッパ全域に甚大な被害を与えたあとで、あっけなく滅んでいたのです。
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一方、日本ではどうだったでしょうか。すでにブログ記事「麻生副総理の歴史認識と司馬遼太郎氏のヒトラー観」で紹介したように、『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬氏は次のような厳しい批判をしていました。
「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒットラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか」(「『坂の上の雲』を書き終えて」)。
敗戦の原因と責任を議論してきちんと認識した本場のドイツとは異なり、日本では「プロシア風の政体」の危険性を敗戦後もきちんと議論しなかったために、認識していなかったのです。
その結果、『翔ぶが如く』の後書きで司馬氏が記しているようなことがおきました。
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それは大蔵官僚の主導した「土地バブル」に多くの民衆が踊らされて、人々の生命をはぐくむ「大地」さえもが投機の対象とされていた時期のことでした。
この問題で「土地に関する中央官庁にいる官吏の人に会った」司馬氏はその官僚から、「私ども役人は、明治政府が遺した物と考え方を守ってゆく立場です」という意味のことを告げられたのです。
「私は、日本の政府について薄ぼんやりした考え方しか持っていない。そういう油断の横面を不意になぐられたような気がした」と書いた司馬氏は、こう続けています。
「よく考えてみると、敗戦でつぶされたのは陸海軍の諸機構と内務省だけであった。追われた官吏たちも軍人だけで、内務省官吏は官にのこり、他の省はことごとく残された。/ 機構の思想も、官僚としての意識も、当然ながら残った」(文春文庫、第10巻、「書きおえて」)
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福島第一原子力発電所の大事故のあとで、原子力産業を優遇してこのような問題を発生させた官僚の責任が問われずに、地震大国である日本において再び国内だけでなく国外にも原発の積極的なセールスがなされ始めた時、痛感したのは「書きおえて」に記された司馬氏の言葉の重みでした。
このような状態のまま「特定秘密保護法」が成立すると、政官財の癒着や国民の生命に関わる問題も「秘密の闇」に覆われることになる危険性が高いと思われます。
(2016年11月1日、リンク先を変更)
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