第八回国際ドストエフスキー・シンポジウムは、ソ連邦の崩壊が起きボスニア・ヘルツェゴビナでは激しい内戦が行われていた1992年にオスロで開催されました。
このような国際情勢を反映してシンポジウムでも、ロシアにおける「ナシズム(我々主義)」とも名付けられるような全体主義の傾向を批判して激しい議論を呼んだポーランドの研究者ラザリ氏の発表などが行われましたが、ドストエフスキー作品における常用暦と教会暦の問題を詳しく分析したザハーロフ氏の説得力のある発表からは、ロシアにおけるドストエフスキー研究の新しい潮流を強く感じました。
私がモスクワ大学への長期留学の際に「初期作品の研究」をテーマに選んだ理由の一つは、ソ連ではドストエフスキー作品の宗教的な側面を研究することは難しいと考えたからだったのですが、ザハーロフ氏の指摘はシベリア流刑以前の作品の傾向を具体的に明らかにするものでした。
一方、この当時のロシアでは「エリツィン(大統領)はすごい奴だ。共産党が50年もかかって証明できなかったことを、あっという間に証明した」というアネクドート(小話)が流行っていましたが、ソ連の崩壊後にロシアが直面したのは宗教や言論の自由の獲得だけでなく、経済の予想もしなかったような混乱だったのです。つまり、先の小話の「答え」は、エリツィンはアメリカのような資本主義の脅威を体験させてくれたというものですが、実際に、あるときにスーパーから品物がまったく消え失せ、次に現れた時にはそのほとんどが外国製品だったことには驚かされました。
このときの混乱がペレストロイカを主導していたゴルバチョフの頃にはあった普遍性への志向から、民族的な思考への回帰にも深く関わっているのではないかと私は感じています。
このようなロシアの状況をドストエフスキーの『鰐』の分析をとおして詳しく考察したのが、1971年に出版された主著『ドストエフスキイ:主要作品の検討』(Dostoyevsky: An Examination of the Major Novels)で、世界中のドストエフスキー研究者に強い影響を与えたピース氏の発表でした。このシンポジウムからもさまざまな研究者の方との出会いや発表をとおして多くの知的刺激を受けることができましたが、ピース教授との出会いはブリストル大学への研究留学へとつながることになりました。
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