広島に続いて長崎でも68回目の「長崎原爆の日」が訪れた。この時期に起きたことは、多くの人がすでに知っていることとは思うが、自分自身の備忘録としても残しておきます。
広島の平和式典に参加したオリバー・ストーン監督は、アメリカによる原爆の投下の正当化を「それは神話、うそだと分かった」と語るとともに、米軍が各国に軍事基地を展開していることも「非常に危ない」と批判しました(『東京新聞』、6日付け、朝刊)。
広島市の松井一実市長は6日の平和宣言で、核兵器を「絶対悪」と規定するとともに、4月にスイス・ジュネーブであった核不拡散条約(NPT)再検討会議の準備委員会などででは、核兵器の非人道性を訴える共同声明に80カ国が賛同するなど、「核廃絶を訴える国が着実に増加している」のに、日本政府が賛同しなかったことを批判していました。
日本政府が進めている「インドとの原子力協定交渉についても、「良好な経済関係の構築に役立つ」としても、核兵器を廃絶する上では障害となりかねません」とも指摘していました。
9日の平和宣言で田上市長も、4月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会で、核兵器の非人道性を訴える80カ国の共同声明に日本政府が賛同しなかったことを「世界の期待を裏切った」と強く批判し、「核兵器の使用を状況によっては認める姿勢で、原点に反する」と糾弾しました。
NPT非加盟のインドとの原子力協定交渉についても「核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めたNPTを形骸化する」と懸念を示した。イスラエルやパキスタン、さらには北朝鮮などが現在、NPTに加盟していないことを思い起こすならば、この交渉が北朝鮮との非核化交渉にも影を落とすことは確実でしょう。
日本は島国ということもあり、国際的な視点から見ると奇妙に思える安倍首相の憲法観や麻生副総理のワイマール憲法観には、国内からの厳しい批判は出ていません。戦前の日本のように、いつの間にか「国際政治から孤立化」する危険性さえ見え始めています。
この意味で思い出されるのは黒澤明監督が、長崎で被爆した祖母を主人公とした映画《八月の狂詩曲(ラプソディ)》(一九九一)で、アメリカで経済的に成功した親戚に招かれたことで有頂天となり、アメリカの原爆投下を批判しない子供の世代を、孫たちの視点をとおして描くことで、日本の問題点を浮き彫りにしていたことです。
このことについてはすでに、拙著で触れていましたので「映画・演劇評」で引用しておきます。
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