関東大震災の年に生まれた司馬遼太郎氏は、阪神・淡路大震災の後で書いたエッセーの冒頭で「私は大阪府の生駒や金剛の山々のみえる野に住んでいる。震災こそまぬがれたが、情念のなかの震災は、日々心の深部でふるえつづけている。」と書いています(『風塵抄二』)。
この文章を読んだときに私は『竜馬がゆく』の「竜馬」という主人公は、やはり司馬氏が自分の心の中から取り出した人物だったと感じました。
なぜならば、『竜馬がゆく』では嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に発生した東海地震に遭遇した際の竜馬の反応について、こう記されているからです。拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』(人文書館)でも引用しましたが、竜馬の息づかいさえも伝わってくるような文体で書かれているので再掲します。
(天が叫んでいる)
竜馬が望むと、黒い天が西の方角にあたって橙とも茜ともつかぬぶきみな色に染まっていた。
(おれは誤った。天が、おれにむかって叫んでいる)
竜馬は、体の奥からわきあがってくるふるえを奥歯でかみ殺しながら思った。
竜馬は、詩文こそあまり作らなかったが、詩人だといっていい。
詩人だけが感ずる心をもっていた。
ここでは竜馬には「詩人だけが感ずる心」があったと書かれていますが、司馬氏はこの歴史小説で「黒潮の流れ」や「時流」をも感じる心を持っていた竜馬が、日本の危機を救うために「時勢の孤児」になることも覚悟して行動し、「歴史の扉」を「未来へ押しあけた」ことを描き出していたのです。
* * *
昨日(すでに一昨日になりましたが)、石巻で再び起きた「震度5強」の地震が、2年前の東日本大震災時の余震であるとの発表がありました。
幸い、原子炉などに異常はなかったとの見解がすぐに示されたのですが、汚染水の問題に表れているように地中の状況は全く分からないので、今回の地震でコンクリートの罅(ひび)が広がった可能性は少なくないと思われます。
司馬氏の学生時代には、「僕も行くから 君もいけ/ 狭い日本にゃ 住み飽いた」という威勢のよい歌詞を持つ「馬賊の唄」が流行しており、司馬氏も馬賊に憧れた時期もありました。しかし、満州の戦車部隊で現実を見てきた司馬氏は、威勢のよいスローガンで「国民」を戦争へと導いた政治家たちを厳しく批判するようになります。
福島第一原子力発電所の事故がいまだに収束していないことが明確になった現在、国民の生命を預かる為政者に求められるもっとも重要な資質は、事実を見つめる冷静な眼と自然の力を素直に感じることのできる感性だと思えます。
(2017年6月3日、図版を追加)
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