このブログのタイトルで使っている「大地」という単語は、『虐げられた人々』や『死の家の記録』などで重要な役割を担っていたドストエフスキーの「大地(土壌)主義」から用いたものです。
この理念は『罪と罰』や『白痴』だけでなく、『カラマーゾフの兄弟』の頃までもドストエフスキーの中で脈々と続いていますので、「大地主義」と長編小説との関係についてはじっくりと考えていきたいと思っています。
ただ、ここでは「文明史家」ともいえる司馬遼太郎氏においても、「大地主義」とも呼べるような理念が近代の功利主義的な考え方に対する批判の核になっていることを指摘しておきたいと思います。
たとえば、 日本の「文明開化」を導いた福沢諭吉は、『文明論之概略』において「水火を制御して蒸気を作れば、太平洋の波濤を渡る可し」とし、「智勇の向ふ所は天地に敵なく」、「山沢、河海、風雨、日月の類は、文明の奴隷と云う可きのみ」と断じていました。
しかし、夏目漱石は自ら「俳諧的小説」と名づけた長編小説『草枕』において、「汽車程二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟(ごう)と通る」と記し、「おさき真闇(まっくら)に盲動する汽車はあぶない標本の一つである」と結んでいます。
ここには、「蒸気」を用いて「山沢、河海」などの「自然」を「文明の奴隷」とすることができるとした福沢の文明観に深い危惧の念も読み取ることができるでしょう。
そして、福沢諭吉の比較文明論的な方法を高く評価していた歴史学者の神山四郎も、福沢のこの記述については、「これは産業革命時のイギリス人トーマス・バックルから学んだ西洋思想そのものであって、それが今日の経済大国をつくったのだが、また同時に水俣病もつくったのである」と厳しく批判していました(『比較文明と歴史哲学』)。
このことは大量に流出した放射能により日本の大地や河川、さらに海が汚された今回の原発事故の場合に、より強く当てはまるでしょう。
歴史小説家の司馬遼太郎氏は『坂の上の雲』においては、農民が自立していた日本と「農奴」とされてしまっていたロシアの農民の状態を比較しながら、戦争の帰趨についても論じていました。
それゆえ、「大地」の重要性をよく知っていた司馬氏は、「土地バブル」の頃には、「大地」が「投機の対象」とされたために、「日本人そのものが身のおきどころがないほどに大地そのものを病ませてしまっている」ことを「明石海峡と淡路みち」(『街道をゆく』第7巻)で指摘していました。
しかもそこで、「海浜も海洋も、大地と同様、当然ながら正しい意味での公のものであらねばならない」が、「明治後publicという解釈は、国民教育の上で、国権という意味にすりかえられてきた。義勇奉公とか滅私奉公などということは国家のために死ねということ」であったと指摘した司馬氏は、「われわれの社会はよほど大きな思想を出現させて、『公』という意識を大地そのものに置きすえねばほろびるのではないか」という痛切な言葉を記していたのです。
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