目次 *ウクライナ危機とガザ危機――黙示録とのかかわりで *キリスト教シオニズムと満州国の建国――『悪霊』の受容の背景 *「大審問官」としての原爆と核戦争の危機の克服
*ウクライナ危機とガザ危機――黙示録とのかかわりで
2021年のドストエフスキーの生誕二百年に際して作家を「天才的な思想家だ」と賛美したプーチン大統領は、その翌年の2月にウクライナ侵攻に踏み切った。核戦争に至る危険性もはらみながら武力による攻撃を行い続けていることは世界を恐怖に陥れている。
この戦争がドストエフスキー研究者にとって深刻なのは、ナチス・ドイツの占領下にあったパリで研究を続けて『悪霊』における『ヨハネの黙示録』(以下、黙示録と略す)の重要性を明らかにしたモチューリスキーが「(ドストエフスキーは)世界史を、ヨハネの黙示録に照らしあわせ、神と悪魔の最後の闘いのイメージで見、ロシアの宗教的使命を熱狂的に信じていた」と『評伝ドストエフスキー』で記していたからである。
2020年には大統領経験者とその家族に対する不逮捕特権を認める法律を成立させて独裁を強めていたプーチン大統領による武力侵攻は厳しく批判されるべきである。 ただ、比較文明論的な視点から見るとき、2023年の10月にハマスによる大規模なテロに対してイスラエル政権が報復としてジェノサイドと批判されるような大規模な空爆と地上での攻撃を行い、ハマスの最高幹部をイランで暗殺したことからはより複雑な深層が見えて来る。
思想史の研究者・加藤喜之は論考「福音派のキリスト教シオニズムと迫り来る世界の終わり」で、黙示録だけでなく旧約聖書の預言も重視している米国の福音派教会牧師のジョン・ハギーが、創世記12章に記されている言葉を根拠に「パレスチナの土地は全てイスラエルのものだ」と主張しているだけでなく、ロシアなどとのハルマゲドンによって福音派の信徒は救済されると考えていることに注意を促している。
仮にホロコーストの被害の歴史からネタニヤフが自国を包囲しているイスラム教の国々に過剰な恐怖を抱いたとしても不思議ではないというのならば、百万近い餓死者を出したレニングラード包囲戦で自分の兄を亡くしていたプーチンが、NATOに包囲されることに過剰な恐怖を抱いても不思議ではない。ウクライナ危機とガザ危機は黙示録の終末論を媒介として根深いところでつながっているように見える。
*キリスト教シオニズムと満州国の建国――『悪霊』の受容の背景
第1次大戦末期にイギリス外相バルフォアが大戦後にパレスチナにユダヤ人の国家を建設することを認めたことでキリスト教シオニズムが盛り上がった。 たとえば、1918年から翌年にかけて内村鑑三とともに再臨運動を行っていた中田重治は、1930年代になると「原理主義的な聖書解釈と日本のナショナリズムとを結び付け」、満州事変が起こると「関東軍に同調する立場をあきらかにして」、「日本は黙示録7章2節にある日出国の天使である。世界の平和を乱す事のみをして居る4人の天使(欧州4大民族)から離れて宜しく神よりの平和の使命を全うする為に突進すべきである」と述べた。
『悪霊』のシャートフは黙示録の「再臨のキリスト」論の独自な解釈をとおしてロシア・メシヤ思想を主張しているが、日本におけるドストエフスキー作品の受容を概観した埴谷雄高は、「吾国の社会状勢に見あってのことと思いますが」としながら、昭和初期の日本では「ドストエフスキイの最高作品は『悪霊』だということにまでなった」と「『偉大なる憤怒の書』の訳本」に記した。
埴谷の影響を色濃く受けた高橋和巳は『邪宗門』で大本(おおもと)などをモデルに激しい宗教弾圧を受けた「ひのもと救霊会」の受難とその分派「皇国救世軍」との対立を描いた。『堕落』では満州国の建国に関わっていた主人公をとおして満州国の理念が戦後の日本にも受け継がれていることを明らかにした。
*「大審問官」としての原爆と核戦争の危機の克服
2022年7月に安倍元首相が散弾銃で殺害された事件のあとでは、黙示録の解釈により文鮮明を「再臨のメシア」とし、「(サタン側と天の側に)分立された2つの世界を統一するための(……)第3次世界大戦は必ずなければならない」と『原理講論』で説いている統一教会(現・世界平和統一家庭連合)と自民党や維新などとの強いつながりや公共空間の危機が明らかになった。
イスラエルが引き起こした「天井のない監獄」と呼ばれるようなガザの状態やヨルダン西域での入植地の拡大などは国際的な批判を浴びているが、長崎での平和式典にイスラエルの代表を呼ばないことを市長が表明するとアメリカなどG7各国の大使が不参加を表明したことは、今も核兵器の抑止論に依存するNATO諸国の二重基準をも浮かび上がらせた。
こうして、黙示録に見られる「神と悪魔の最後の闘い」という2項対立的な見方を重視するとき、ウクライナ戦争とガザ危機は核兵器の使用も含む第三次世界大戦へと至る危険性もはらんでいる。
一方、危機の時代を直視したドストエフスキー文学を高く評価して「原子爆弾は現代の大審問官であるかもしれない」と記した堀田善衞は、『若き日の詩人たちの肖像』では昭和初期の『悪霊』の受容の問題に鋭く迫り、『審判』では原爆投下にかかわったパイロットの深い苦悩を描いた。
私自身は宗教学者ではないので黙示録は難しいテーマであるが、いつかはきちんと考察をまとめなければならないと考えていた。ドストエフスキーは時事的な情報も積極的に取り込んで宗教や政治の問題を描いた。 本書でも政治的な問題をも取り込みながら比較文学と比較文明論の手法でドストエフスキーの作品とその受容を考察する。
すなわち、第一章では『罪と罰』や『白痴』における黙示録への言及を検証し、第二章では黙示録に引き付けた『悪霊』解釈の問題を考察する。第三章では黙示録と「八紘一宇」の理念とのかかわりなどに注目しながら昭和初期の『悪霊』の受容の問題を考える。第四章では高橋和巳の三島由紀夫作品の考察も視野に入れて、『日本の悪霊』に至る日本文学の流れを分析する。
第五章では『橋上幻想』でカルト的国家の危険性を描いた堀田が、『路上の人』では黙示録だけでなく旧約聖書の預言の問題を踏まえて、物語詩「大審問官」における福音書的なキリスト像の意義に迫っていることを確認する。これらの作業を通して黙示録的な終末観の危険性を見据えた日本文学の意義を明らかにしたい。 (本稿では敬称を略すとともに、注も省いた。2024年9月24日)
ウクライナ危機とガザ危機――黙示録とのかかわりで
キリスト教シオニズムと満州国の建国――『悪霊』の受容の背景
「大審問官」としての原爆と核戦争の危機の克服
本書の構成
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