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夭逝した作家・高橋和巳のドストエフスキー観―『悪霊』論を中心に

夭逝した作家・高橋和巳のドストエフスキー観―『悪霊』論を中心に

はじめに

太平洋戦争末期にウォルインスキーの『偉大なる憤怒の書――「悪霊」の研究』を翻訳した埴谷雄高(一九〇九~九七)は、戦後に日本におけるドストエフスキー作品の評価の変化を概観して、「吾国の社会状勢に見あってのことと思いますが」としながら、昭和初期の日本では「ドストエフスキイの最高作品は『悪霊』だということにまでなった」と記していた(「『偉大なる憤怒の書』の訳本」)。

しかも、大江健三郎との対談では埴谷は「(ナスターシヤ・フィリッポヴナは)物心つかないうちに妾にされた。これがある意味でナスターシヤのニヒリズムの条件であって、ナスターシヤが成長し、優れた素質を発揮するのは、そういうことを自覚してはじめて行なわれるようになる」と語っている(「革命と死と文学」)。そのことに留意するならば、先の埴谷の言葉は昭和初期の日本における『白痴』から『悪霊』への流れをよく把握していると思える。

一方、一九四五年の大阪空襲で焼け出されるという体験をしていた高橋和巳(一九三一~七一)は、日本が混沌としていた一九四九年七月に新制京都大学文学部の第一期生として入学し、同人雑誌を刊行した頃について『あのころのこと』でこう記している。「私達の会は『京大作家集団』という倨傲な名称をなのり、同人雑誌を作るのが第一目的で、三十五人ぐらい集まりました。朝鮮戦争がおこるまでガリ版で、五号まで出した。」

そして、「雑誌を出しながら、同時に研究をしようと、ドストエフスキー、次にバルザック、チェーホフと三年間ぐらい」続けたと記した高橋は、「日本のドストエフスキー関係の文献の中では、埴谷雄高氏のが一番いいと思います」と続けていた(一二・二三八~九、以下、本文中のかっこ内の漢数字は、『高橋和巳全集』〔河出書房新社、一九七七~八〇年〕の巻数と頁数を表す。なお、表記は現代表記に改めた)。

本稿では高橋の作品をとおして一九六九年に『日本の悪霊』を上梓するにいたる彼のドストエフスキー観に迫りたい。

一、高橋和巳のドストエフスキー観

大阪のスラム街・釜ヶ崎に隣接した地区で育ち、貧民街の様子とそこでの苦しい生活を『貧者の舞い』などの短編や後述する長編『憂鬱なる党派』で描いた高橋和巳は、「日本の場合は、『貧しい人々』の作者が同時に『悪霊』の作者(……)でもあることはまれだった」(一三・一八七)と書いて日本のドストエフスキー受容の問題を指摘している。

国家から弾圧された分離派に対する関心を強く持っていたドストエフスキーは、シベリア流刑後に自分の体験を踏まえて記した『死の家の記録』では分離派の敬虔な老人を描き、それ以降の大作でも分離派の問題を描いた。このようなテーマを受け継いだ高橋和巳は長編『邪宗門』(一九六六)で女性を開祖とする「ひのもと救霊会」に飢餓状態だったところを救われて育てられた孤児の千葉潔を主人公として黙示録的な終末観を持ち「世なおし」を唱えたために国家神道の価値観と対立して二度にわたり大弾圧を受けた皇国大本をモデルにして新宗教の問題を描いた。

三部からなるこの大作の第一部では弾圧後に独立して戦争に協力した「生長の家」的な分派「皇国救世軍」との対立を公開討論の形で描き出し、第二部では太平洋戦争が始まり活動が禁じられて苦境に立った教団を救うために「皇国救世軍」の指導者の次男との意に沿わぬ結婚に合意した教主の長女・行徳阿礼の苦悩が記されている。さらに、第三部では行徳阿礼の偽書により三代目の教主となった千葉潔が、占領軍に支配された戦後の日本で「剣を持つ」キリストの理念を説いて武装蜂起し、敗れて餓死するまでが記述されている。

『邪宗門』では五族協和や王道楽土の理念によって建国された満州に派遣された「ひのもと開拓団」の悲劇も描かれているが、満鉄の調査部に勤めて満州の建国にもかかわった青木を主人公とした『堕落――あるいは、内

なる曠野』(一九六五)では、「(戦後に)半ば無意識的に忘却されようとしたもののうち、もっとも重大なものの一つ」である、「幻の帝国――満州国の建国とその崩壊」(一四・四一四)の問題がさらに深く考察されている。

『地下生活者の手記』を転回軸として、ドストエフスキーが「《緻密な観察者》からやがて現実とは考察すべき素材にすぎないと知って《巨大な思索者》に成長していった」(一四・一三五)と捉えた埴谷雄高のドストエフスキー観への共感を示した高橋は、「ひたすら知識人の生き方を追求した」ロシア文学作品として「主人公ラスコリニコフの超人思想による無用者の殺害」(一三・一八六)が考察されている『罪と罰』を挙げた。

一方、一六章からなる長編『憂鬱なる党派』(一九六五)では、すでに『悪霊』のテーマが取り入れられており、第八章では党の厳しい査問の後で自殺した古志原の七回忌に集まるようにとの文面を読んだ青戸が「あの五人組組織でも真似るつもりなのか」(五・二九七)と考えたことが記され、七回忌ではネチャーエフ的組織をめぐる激しい議論が交わされている。

しかも、この長編では韓国系の教団・統一教会が黙示録的な視点から「神の罰」と捉えている被爆も重要なテーマをなしており、被爆しながらも「(僕たちの世代は)不意に恩赦を蒙って、平和になったからといって、観念して目をつむっていた首から縄をはずされても、ムイシュキン公爵のような善人には、誰もなれない」(五・二〇三)と暗い諦念を語っていた主人公の西村が、憤怒に駆られて退職し、五年の歳月をかけて原爆で被爆して亡くなった身近な人々の伝記を書きそれを出版しようとしたことも描かれている。

そして、長編の終わり近くでは元特攻隊員の藤堂が、「蛸壷に身をひそめ、頭上を敵の戦車が通過する瞬間、自爆する方法を教えられていた」同世代の若者たちを思い起こした後でこう考えたと記されている(五・四五二~四五三)。

「一たび死刑台に立たされ、不意に許された苛酷な経験のゆえに、もはや正常な生活者の道を歩めず、無限に寛大な〈白痴〉とならざるをえなかったムイシュキン公爵が、この国には何万、何十万といたはずだった。なぜ彼らは皆、黙っているのか? なぜ激怒して、いまだかつてこの世にない思想を、いかなる前人も思い及ばなかった大哲学を築こうとしなかったのか。」

ムイシュキン公爵自身は原作では死刑台に立たされてはいないので、ここでは黒澤映画『白痴』の主人公像を踏まえて考察されているといえるだろう。なぜならば、次節で見る『日本の悪霊』でも登場人物が酔っ払いだが博愛的な精神を持つ医師が描かれている黒澤映画『酔いどれ天使』のことを熱く語るシーンが描かれているからである。

一九六九年に発表された「内的葛藤の原型」の冒頭で「『カラマーゾフの兄弟』は、私にとっては座右の書というよりは、すでに心の中にはいってしまった作品である」と記した高橋はこう続けて自作との深いかかわりを明らかにしていた。
「激情的なドミートリイ、悪魔的な思索家のイヴァン、無限に善意なアリョーシャ、そしててんかん持ちの私生児スメルジャコフ。同じくロシヤの血をうけ、同じく時代の苦悩を背負い、同じくドストエーフスキイの分身として生命をあたえられ、たがいに愛憎しつつそれぞれの運命からはずれ得ぬ劇の構図は、単に革命前夜のロシヤの時代精神の象徴であるばかりか、いつしか私自身の内部の葛藤の原型ともなった。(……)この上は自らも、日本の現代のカラマーゾフ家の人々をつくりだすより他に救われる道はないかのようである。」(一四・四二八)

二、ドストエフスキー作品と長編『日本の悪霊』

全九章からなる高橋和巳の長編『日本の悪霊』は雑誌『文藝』に一九六六年一月から一九六八年の一〇月まで断続的に掲載された。この長編では八年前に軽い罪で捕らえられた主人公・村瀬と戦時中に特攻を志願して敗戦後は大学に戻らずに警官になっていた刑事・落合との追う者と追われる者の鋭い対決が『罪と罰』を思い起こさせる手法で描かれている。

また、大地主の屋敷を襲う犯罪に加担するように主人公の村瀬が友人の峯をなんとか説得しようとしたが、それを拒否した峯が自殺をするという『悪霊』のテーマと重なる場面もある。

さらに、「私のドストエフスキー」において、『死の家の記録』を「リアリスライク(ママ)な観察から、人周の可能性をそのぎりぎりの境界まで押しのばしてみせる巨大な形而上学的世界への飛翔にいたる、その転換点に位置するものといっていいだろう」(一三・四一五)と評価した高橋は、自作のインタビューでもこの長編を「『日本の悪霊』と称しながら」、「むしろ『死の家の記録』の方に近いようなところがある」(一九・二五六)と認めている。

実際、第二章「牢獄と海」で拘置所での裸にされての身体検査の後で村瀬は、強姦常習犯、暴行犯などが収容されている雑居房に入れられ、麦飯を食べていると彼らが脅すように村瀬のまわりを廻り出した。彼らの挑発に怒って暴力をふるった村瀬はその行為をとがめられ、後ろ手に手錠をかけられて懲罰用の独房に入れられた。

第七章「闇の遺産」では留置場の風呂場でのいざこざが克明に描写され、その後では「生爪をはぐ拷問よりも、四六時中の共同生活こそが地獄である」(九・二六六)という『死の家の記録』の記述を思い起こさせるような監獄制度に対する鋭い批判も記されている。

ただ、前節では『カラマーゾフの兄弟』についての考察に現れているように、ドストエフスキーは家族関係、ことに父親の問題を抉りだした。『罪と罰』では子供の養育を放棄したスヴィドリガイロフの問題を示唆し、『白痴』でも孤児のナスターシヤを性的犯罪により愛人としたトーツキーを「白い手」の紳士と描いたドストエフスキーは、『悪霊』でも理想を語る一方で、息子ピョートルの養育を放棄していたステパン氏の生き方と思想を批判的に描いている。

『悪霊』では黙示録的な雰囲気が作品全体を覆っているためにこの父親と息子の関係は、くっきりとは浮かび上がりにくいが、高橋が長編評論『暗殺の哲学』でたびたび言及しているアルベール・カミュは、長編『ペスト』で黙示録的な終末論を説く神父を厳しく批判していた。劇『悪霊』でもカミュは第一幕の冒頭で語り手とカルタをしているステパン氏の姿を示すことにより、教え子・スタヴローギンの母親の屋敷に居候をしながらカルタに大金を賭け、損金は息子が相続した亡くなった妻の領地を密かに切り売りしてその場をしのいできたステパン氏が、過激な思想を持つようになった息子との腹を割った議論からも逃げていことを浮き彫りにしている。

『悪霊』におけるステパン氏と息子・ピョートルとの父と息子とのそのような関係は、『日本の悪霊』では初めは明らかにされないが、徐々にその関係が犯罪にも結び付いていたことが明らかになる。ようやく、第五章の裁判で生年月日や本籍地について問われた村瀬は、本籍地を隠さなければならなかった『破戒』の主人公の悲劇を思い起こしながら、私生児ゆえに雇用されなかったことや、奉公に出された「妹の住み込み先が、港近くの小料理屋」で、そこが実質的には売春もさせる店であることを知って、「いつかはかならず見返ししてやる」と考えたことなどを思い起こす。

『罪と罰』のソーニャが家族のために娼婦になったように、家父長的な価値観が支配的であったロシア帝国や戦前・戦中の日本では、「国家」のために若者が戦場に駆り出されるように、「家」のために女性が犠牲になることは当然とされていたのである。

第七章で主人公の村瀬には「生れた時からして父が存在しなかった」と記した作者は、生れた子供に狷輔などという名を付けた「その姿を見せぬ父が、郡一番の金持であり大地主であり」、「堀をめぐらした邸に住んでいる」と記して、その父への激しい恨みが村瀬を大地主の殺害に踏み切らせていたことを示唆している。

一方、村瀬たちの指導者で僧侶くずれの鬼頭は、「放っておけばいつまでも無明の世界をさまよう者の悪しき因縁を絶ち、往生させてやるのはむしろ菩薩の行(ぎょう)」(九・二一九)と語っていたように、「一殺多生」を唱えて「血盟団事件」を起こした日蓮宗の信者・井上日召を連想させるような人物である。

この長編では刑事・落合の執拗な追及を受けた村瀬は八年前に犯した自分の犯罪を徐々に克明に思い出していくとともに、自分たちを率いた鬼頭の言動の問題点を認識し、暴力団による暴力事件も調べていた落合も警察と暴力団との癒着に気付いて村瀬たちの事件捜査の不可解さに気づくことになる。

ドストエフスキーは『悪霊』でピョートルがロシアの秘密警察にも通じておりそれがばれると国外に逃亡した社会革命党の暗殺団の指導者で二重スパイだったアゼーフのような人物であったことを描き出していた。高橋も開高健、小田実、真継伸彦、柴田翔と創刊した『人間として』(一九七〇年~七二年)での自作の合評会では鬼頭が「アゼーフにあたる人物」(一九・三六六)であることを認めて、この事件にはより大きな闇が秘められていることを示唆しているのである。

おわりに

三島事件の一年後に若くして病死したこともあり、高橋への関心は弱まったように見えたが、黙示録のハルマゲドンを強調したオウム真理教によるサリン事件などが起き、右派による「改憲」が叫ばれるようになると『憂鬱なる党派』や『邪宗門』などの高橋作品への関心が再び高まってきた

たとえば、「生長の家」の学生組織の元書記長で一九六九年には右派学生の全国組織の委員長になったが解任された鈴木邦男は、「挫折につぐ挫折で、『生きている意味があるのか』と何度も思った」が、「そのたびに、『生きていていいんだよと』となぐさめてくれたのが高橋(注:高橋の文学)だったと思う」と記している。

そして、「生長の家原理主義者」たちが「『日本会議』の中心メンバー」になって改憲運動をしていることを、「冗談じゃない。三島は勿論、高橋だって、この問題には強く反対するだろう」と厳しく批判している(アンソロジー『高橋和巳 世界とたたかった文学』二〇一七年)。

実際、黙示録的な終末観を持つ統一教会と右派的な政治勢力の癒着の問題などが明らかになってきた。「苦悩教」の教祖とも称される高橋和巳の多くの作品は悲劇的な終わり方をしている。しかし、高橋作品では問題の解決はできていないものの、ドストエフスキー的な手法で問題の所在は明らかにしていた。

しかも、高橋は『罪と罰』の人物体系を分析して「ラスコリニコフを見舞う親友ラズーミヒンがあり、事件や状況の全体は絶望的であっても、ソーニャと主人公の関係のありかたが、ある救いの感情をともなう情緒を読者につたえる」(一三・一二六)と記していた。

高橋が大病から癒えていたら彼が望んだ『カラマーゾフの兄弟』的な作品を書き得ていたと思えるが、残された作品にもそのような可能性の端緒は感じられる。今後、高橋和巳の研究が深まることを期待したい。

近著『黙示録の終末観との対峙――ドストエフスキーと日本の文学』(改題)

『ドストエーフスキイ広場』第33号、2024年、111~117頁)

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