(1)アジア・アフリカ作家会議と『インドで考えたこと』
1968年9月にタシケントで開催されるアジア・アフリカ作家会議に参加する準備をしていた堀田善衞にとって、8月21日にワルシャワ条約5カ国軍によってチェコスロバキア全土が武力で占領下におかれたことは、青天の霹靂のような出来事であったと思われる。
後に堀田は1956年のハンガリー事件を連想して、「単純な怒りとともに、呆れてしまい、また同時に、彼らのやりそうなことをやったものだ、という感をもったものであった」と記している(「小国の運命・大国の運命」『堀田善衞全集』、1974年、以下、かっこ内には全集の頁数のみを記す)。
ただ、堀田は九月二〇日から二五日までタシケントで開催されるアジア・アフリカ作家会議の一〇周年記念集会に出席して、「長年の友人である」ソ連の作家たちが「どんな顔をして何を言うか、このことだけをでもたしかめてみようと思い立った」と書いている。
一九五六年一二月にニューデリーで開催された第一回アジア作家会議に、「作家としては唯一の日本人として参加」しただけでなく、事務局員として大会の準備も行っていた堀田はその後も深くこの運動に関わり、「この運動をめぐる日本人随一の功労者であると同時に、国際的にも創始者の一人と目されていた」のである(水溜真由美『堀田善衞 乱世を生きる』ナカニシ書店、2019年)。
それゆえ、「小国の運命・大国の運命」の冒頭近くで堀田は「この運動は、アジアとアフリカにとってはどうしても必要であり、日本文学もまた、このような現実を知る必要がある、と少々バカ正直というものではないか、と自分でも思いながら、従事するだけはしてきたものであった」と書いている(191)。
日本とロシアの近代化を夏目漱石とドストエフスキーの考察を比較している個所もある『インドで考えたこと』については拙著でもふれたが、堀田は農村の老人から次のように厳しく批判されていた。
「日露戦争以来、日本はわれわれの独立への夢のなかに位置をもっていた。しかし、日本は奇妙な国だ。日露戟争に勝って、われわれを鼓舞したかと思うと、われわれアジアの敵である英国帝国主義と同盟を結び、アジアを裏切った。(……)戦後には、アジアで英国支配の肩替りをしようとするアメリカと軍事同盟を結んだ。つくづく不思議な国だ」。
さらにそこでは、戦時中に読んだ川端康成氏の『末期の眼』という文章に述べられている思想は、若い私に「一切の努力は空しい、闘争も抵抗も空しい、この世にある醜悪さも美しさも、なにもかもが同じだ、同じことだ、という、毒のようなものを注ぎ込んだ」と記した堀田は、こう続けていたのである。
「数年前、ある座談会で私はあの思想は、「人類の敵だ」というようなことを云い、同席した亀井勝一郎、三島由紀夫の両氏も、しぶしぶながら、であったらしいが、私のこの暴言を是として認めた…。」(11巻・113頁)
寡聞にして、晩年の三島由紀夫についての堀田善衞の文章を知らないが、三島は『英霊の聲』では2・26事件の「スピリットのみを純粋培養して作品化しようと思った」(「『道義的革命』の論理」)と記し、戦時中の「日本浪曼派」的な「美意識」から戦前や戦時中の価値観を讃美するようになっていた。
以下、この論考では以前に見た三島のチェコ事件観にも注意を払いながら堀田がこの事件をどのように見たのかに迫りたい。
(2)1968年の国内外の情勢と『小国の運命・大国の運命』の構成
チェコスロヴァキアへの侵攻が起きた1968年は世界的に見ても動乱の年であった。すなわち、1961年以降はベトナムのゲリラの根拠地に対する枯れ葉剤の大量散布や 、北ベトナムへの大々的な爆撃は1965年から続いていたばかりでなく、3月には南ベトナムのソンミで米軍による大虐殺事件が起きた。そして、アメリカ本土でも、4月4日には黒人運動指導者のキング牧師が、6月5日には有力な大統領候補のロバート・ケネディが暗殺されるという事件が起きた。
フランスでも5月にパリで学生デモと警官隊衝突が起こり、19日には全仏でゼネストが実行されるなど5月革命と呼ばれる事態が発生した。その一方で、8月24日には仏領の南太平洋で水爆実験が行われていた。
日本でも1月16日には原子力空母エンタープライズの佐世保寄港反対を社・公・共3党が政府に申入れたにもかかわらず入港が強行されたという事件や10月には新宿駅を新左翼の学生らが占拠する暴動が発生していた。
このような中で9月19日に日本を出発してモスクワに降り立った堀田は記念集会に参加した後で、ヘルシンキ、ストックホルム、ロンドン、パリ、プラハ、ウィーン、ベルリン、ブラティスラバなどヨーロッパ各地を訪問して、チェコスロヴァキアには前後二回、約一カ月滞在して、さまざまな人々と話し合い、約三カ月後の12月24日に日本に帰国した。
その間に見聞きしたことや考えたことを詳しく記したことが、翌年の1月から6月まで『朝日ジャーナル』に掲載された後に、同年9月に筑摩書房から刊行されたのが『小国の運命・大国の運命』である。
まず、本書の構成を示すことで全体像を示しておきたい(かっこ内の数字は全集の頁数)。
はじめに(188),/1,一人の作家の結びつき(190)/2,“人喰い鬼”の詩(196)/3,ソヴェトの中のロシア(204)/4,奴らとわれわれ(212)/5,逆効果の“白書” (218)/6,言わない部分の多い会話(226)/7,見失われた共通価値(233)/8,第三世界から生まれつつあるもの(240)/9,チェコの歴史と作家の心(246)/10,パリでの時間表(253)/11,プラハに入る(262)/12,“友は選べるが、兄弟は選べない”(267)/13,暗黒時代の政治裁判(274)/14,黒いユーモア(282)/15,国際学生行動日の会話(291)/16,スロヴアキアの民心(282)/17,人民の前衛化と前衛党(306)/あとがき(314)
最初の章「一人の作家の結びつき」ではアジア・アフリカ作家会議との関りについて記されている。ロシアやチェコスロヴァキアなどで見聞きしたことやその考察は、その次の章から始まる。
(3)二つの侵攻との比較――ソ連の満州国侵攻と日本軍のシベリア侵攻
前回は『小国の運命・大国の運命』の目次を記すことで全体像を示したが、本書は大きく分けると三つの部分から構成されている。
すなわち、第2章「“人喰い鬼”の詩」から第5章「逆効果の“白書”」までが、ロシアやソヴィエトの作家たちのチェコスロヴァキア事件についての考えや対応が、第6章「言わない部分の多い会話」の途中から第10章「パリでの時間表」まではヘルシンキやパリなどでのこの事件にたいする反応が記され、第11章の「プラハに入る」から第16章「スロヴァキアの民心」でチェコとスロヴァキアの民衆や知識人の対応が観察されている。
注目したいのは、第9章「チェコの歴史と作家の心」でチェコスロヴァキアに入国する前に調べたこの国の歴史が記述されているように、今起きている出来事だけでなく、遠くフス戦争との関りをも明らかにしていることである。この問題を深く分析することは、後に詳しく考察するようにダニレフスキーの「全スラヴ同盟」の思想が帝政ロシアの崩壊後も続いていたことを示すことにつながるだろう(拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、157~163頁参照)。
さらに堀田は、ドストエフスキーの『悪霊』中に出て来るシガリョフの「無限の自由より発して、無限の専制主義に到達するのだ」というセリフに言及することにより、社会主義の問題だけでなく、「近代社会そのもの」の問題にも迫っている。
スターリンの時代の政治を考察した章で、「プラハの、旧王宮(大統領官邸)のある丘からほど遠からぬ、同じくブルタワ河に臨むレトナーの丘の上に」、「背丈二〇メートルを越す、巨大とも怪異とも、なんとも言いきれぬスターリン像が、赤軍兵士たちとチェコスロヴァキア国民とを統率した格好でたっていた」ことを指摘した堀田は、「大東亜共栄圏」を主張して「鬼畜米英」との戦争を宣言した日本とも比較してこう記している。
「かつて皇軍と称していた日本軍隊も、南京にも溝陽にもシンガポールにも巨大な神社を建立したものであったが、いったい彼らが、〝解放″したすべての国に、そういう巨像を作ることを許したスターリン、あるいはスターリニスムの心理、あるいは神経というものも現代の謎の一つであろう」。
ダニレフスキーなどが唱えた「全スラヴ同盟」と太平洋戦争時の「大東亜共栄圏」の思想との詳しい比較は本稿の最後に行うことにしたいが、ここではまずチェコスロヴァキアへの問題を考える前に、ロシア軍の満州国侵攻と日本軍のシベリア侵攻の問題を簡単に比較しておきたい。
2015年8月8日の産経新聞・デジタル版では「ソ連軍157万人が満州侵攻 戦車に潰された王道楽土の夢」という題で日ソ中立条約を破って終戦間際に参戦してきたロシア軍の満州国侵攻の問題を大きく取り上げている。「満州国」の実態が「王道楽土」や「五族協和」のスローガンとは大きくかけ離れていたことは、このブログでも何回も取り上げて来たが、すでに三島由紀夫は自決前に行った「学生とのティーチ・イン」でロシア軍を批判しつつ、次のように日本軍の下士官の行動を賛美していた。
「私が一番好きな話は、多少ファナティックな話になるけれども、満州でロシア軍が入ってきたときに――私はそれを実際にいた人から聞いたのでありますが――在留邦人が一カ所に集められて、いよいよこれから武装解除というような形になってしまって、大部分の軍人はおとなしく武器を引き渡そうとした。その時一人の中尉がやにわに日本刀を抜いて、何万、何十万というロシア軍の中へ一人でワーツといって斬り込んで行って、たちまち殴(なぐ)り殺されたという話であります。/私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが言論だと思うのです。」
日ソ中立条約を破って終戦間際に参戦してきたロシア軍の蛮行についてはよく知られているので、降伏に甘んじずに切り込んだ中尉の話は勇ましく聞こえるが、実際には関東軍の将校たちだけでなく、司馬遼太郎が記しているように現地の日本人を守るべき戦車隊も、いち早く日本に引き揚げていたのである。
一方、日本ではあまり知られていないものの、堀田善衞が1955年に発行された長編小説『夜の森』で描いたように、ソ連が建国された1918年に日本はアメリカなどの連合国とともにシベリア出兵に踏み切っていた際には、日本軍もロシア人の村を焼き払い住民を殺戮するなどの蛮行をすでに行っていた。
しかも、その際に「出兵数は間違いなく、一万ないし一万二千以下である」ことや、「ウラジオストック以外の方面に出動したり、増援部隊を派遣したりすることは決してない」と日本が確約していたにもかかわらず、10月末にはすでに7万2千に上る日本軍将兵が戦闘任務に従事していた(細谷千博『シベリア出兵の史的研究』岩波現代文庫、209~210頁)。しかも日本軍は協定に違反してイルクーツクの一部も占領下に置き、アメリカなどの連合軍が1920年に引き上げたあとも1922年まで残って傀儡国家の樹立を策していたのである。
イワン雷帝後の動乱の時代にポーランドによるモスクワ占領やナポレオンのロシア侵攻を経験していたロシア帝国では、同じキリスト教でも宗派が異なるゆえにフス派が被ったような西欧からの「十字軍」の派遣を潜在的に恐れていたがが、建国当初の連合国によるシベリア出兵もそのようなトラウマにつながった可能性は否定できないだろう。
(4)「“人喰い鬼”の詩」と『プラウダ』の衝撃
9月19日に日本を出発して直行便の飛行機でモスクワに降り立った堀田は、出迎えに来ていた友人の作家が「ほんのさっき入手した」ばかりのイギリスの詩人W・H・オーデンの「一九六八年八月」という題の英語の詩を見せられた。
自分の訳では「原文にある、韻を踏んでの深く荘重な感じがまったく出ないのが遺憾である」としながらも堀田は、この詩を次のように訳している。
「人喰い鬼はまことに人喰い鬼らしく/人にとって不可能なことをやってのけるものだ/しかし獲物として一つだけ奴の手の届かぬものがある/ 人喰い鬼は言葉をものにすることは出来ないのだ(後略)」。
それゆえ、この詩を渡した後では黙り込んでしまった「友人の絶望」の深さを感じ、この友人が去った後で「ノートに写しとったW・H・オーデンの詩をくりかえして読み、また別に『プラウダ(注:真実という意味のロシア語)』宣言の英訳パンフレット」を読みつづけた堀田は、「それは頭が二つに分裂するような経験というもの」であると思い、さらに「ベトナム戦争をいまだにつづけているアメリカへ行く多くの私たちの同僚たちもまた、そういう分裂的な経験をしたものであったかどうか」と考えたと記している。
注目したいのは、堀田がこの詩から画家ゴヤの『わが子を喰うサトウルヌス』の絵を想起したと書いていることである。「戦中戦後を通じて、次第に私を内面からゴヤに、あるいはスペインに導いて行ったものは、ドストエフスキーの小説であった」と書き、ロシアの「祖国戦争」をも視野に入れながらスペインの独立戦争や異端審問の問題を描いた長編評伝『ゴヤ』でこの絵についての詳しい考察を行っている堀田のこの連想が示唆することの意味は重い。
オーデンの詩からの連想はとはいえ、アメリカやソ連などの「大国」との関係でベトナムやチェコスロバキアなどの「小国」の問題を考えようとしていた堀田は、近代社会や大国の深い闇をも直視しようとしていたのだと思える。
言論の自由、多党性の問題にふれた『プラウダ』宣言の英訳パンフレットには次のような教条的な文章が記されていたのである。
「わが(ソ連)党の指導者は、この文献(二千語宣言)が反革命活動のより二層の強化のための土台としての危険性をもつものであることについて、A・ドプチェクの注意をもとめた」が、「大まかな言葉による非難のほかには、いかなる明確な処置もとられなかった。」
これだけの説明では分かりにくいが、4月のチェコスロバキア・党中央委員会総会で採択された『行動綱領』では、次のような新しい方針が盛り込まれていた。
- 党への権限の一元的集中の是正
2,粛清犠牲者の名誉回復
- 連邦制導入を軸とした「スロヴァキア問題」の解決
- 企業責任の拡大や市場機能の導入などの経済改革
- 言論や芸術活動の自由化
このような方針に対する市民の側からの支持や期待を表明するために著されたのが『二千語宣言』だった。それゆえ堀田はこの文章を読むと「ソ連の党」が「何を『不安と危惧』として出兵、占領までしたかが、実に明らかに透けて見えて来るのである」と記している。
ここで堀田は出迎えに来ていた友人の名を挙げていないが、その理由についてはアジア・アフリカ作家会議との関りについてふれた「一人の作家の結びつき」でこう記されているのである。
「中ソ抗争のはなはだしかったときに、思い余って私は自分が仲介をして中国の作家たちとソ連の作家たちの話合いの場をつくり、どうにか一致点を見出し得るようにはからった」が、「そのこと自体が双方の作家たちのうちのどちらか、あるいはだれかに、政治的に不利なマイナスを形成したのではなかったか、と今は考えている」。
それゆえ、そういう作家たちの「名をあげるどころか、頭文字をあげることも私にははばかられる」とした堀田はこの文章では公式的な立場を代表している人物以外の作家の名前は一切記していない。
この記述からは当時の中ソの厳しい検閲や報道統制に接した堀田の深い苦悩が感じられるが、それはタシケントで行われた大会にも続いており、「この会議の草分け、あるいは創始者の一人」だった彼が、しばらく考えてから「東京を出る際に、わが家の女房が、〝それでもあなたは行くのか?″と言った」と語ると、「白い顔、黒い顔、浅黒い顔、黄色い(?)顔の爆笑が起ったが、爆笑はすぐに消えて」、アフリカ中央部から来ていた一人も、「おれのところでは、女房が学校の先生をしているのだが、おれがカバンの用意をしていると、やっぱりうちの女房も、それでもあんたは行くのか、と言った。」と言われたと語ったことを記している。
その場には「私が話合うことを求めて来ていた、アルジェリアの文学者たちの姿は見えなかった。アルジェリア作家同盟は一致して、五カ国軍によるチェコスロヴアキア占領に反対声明を出し、参加を拒否して来たものであった。それは私の胸にもこたえた。」
実際、第三世界の状況と比較しつつソヴェトの「民族政策はたいへんに成功した部類」としながらも、「コーカサスのチェチェン人七〇万人とクリミアのタタール人三万人がナチスとの協力を理由に家郷を追われるといったこと」()を堀田は指摘しているが、ソ連の崩壊後にこの問題は顕在化することになるのである。
タシケントでのシンポジウムでは「文学におけるナショナリズムとインタナショナリズム」というテーマで多くの人々が演壇にのぼったが多くは紋切型で空虚なものであり、二日目に会場の入ったものかどうかと迷っていた時には、「会場のなかには何もないよ」という「名言」をある作家から告げられたことを記している。
さらに第4章の「奴らとわれわれ」や「逆効果の“白書”」や「言わない部分の多い会話」などの章でも、“プレス・グループ”が作成した「白書」を考察してソヴェト型社会主義の硬直化した官僚主義の問題点が鋭く指摘されている。
ただ、これらの記述だけならば堀田が参加を決断してはるばるタシケントまで行ったことは無駄であり、無意味だったようにも思える。しかし、その後で夜の宴会と作家同盟の幹部中でも最古参に近いスルコフ氏との公式の面会での会話をとおして、堀田はロシアの作家の本音や第二次世界大戦を経験した老詩人の危惧に迫っている。
それはペレストロイカや言論の自由や報道の自由の回復を目指したゴルバチョフ政権の試みの必然性を示唆しているだろう。それとともに、チェルノブイリ原発事故が大きな引き金となってソヴェトが崩壊したあとに権力を握ったエリツィン政権を受け継いだプーチン政権によってなぜウクライナ侵攻が行われたのかの謎を解明することにもつながると思える。
(5)ロシアの“魂”とペレストロイカの挫折
「会場のなかには何もないよ」という「名言」を記した堀田善衞は、その後で「検閲その他に見られるような自身の欠如は、いったいどうしたものなのであろうか。大国主義とは自己自身に対しての自信を欠いている大国を意味する」と記している。
ただ、そのような重苦しい雰囲気に覆われた大会においても、「夜の宴会というものを軽く見ることは出来ない、ということを強調したいと思う。宴会や晩餐において、ロシア人たちはおどろくほど率直になるのであって、ドストエフスキーが描いたロシアの〝魂″は、まだまだ人々の深部に生きていて、そこではたとえ外国人が同席していようとも、その外国人とよく知合っているとするならば、ソルジェニツィン書簡(注:検閲の中止を求めた)でもチェコスロヴアキアでもなんでもが真に裸になって飛出してくる。
チェコスロヴアキア占領には、自分は反対だ、だが反対だと公表する勇気が自分にはない、だからおれは偽善者だ! という、真に痛切な叫びを私は何度聞いたことであろうか! 」
実際、私がロシアに留学したのは1975年のことであったが、このような「痛切な叫び」はすでに上映されていた映画やドストエフスキー劇をとおして聞くことができ、ロシアにおいても言論や報道の自由が徐々にではあれ拡がっているのを確認することができた。
それゆえ、ゴルバチョフが書記長として就任した1985年に学生の引率として再びモスクワを訪れた際には多くのドストエフスキー劇を観劇することができた。これらの劇についての簡単な劇評を書き、『罪と罰』を分析して「どんな『良心』も『知性』を欠いては、あるいはどんな『知性』も『良心』を欠いては、世界を理解し、改造することはできない」というカリャーキンの言葉を紹介した。
翌年にゴルバチョフはペレストロイカ(再建)をスローガンとして進め、さらにグラースノスチ(情報公開)をも大胆に試みたことで1987年12月には中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)が成立し、西欧社会との共存も進むかに見えた。
しかし、チェルノブイリ原発事故の影響は予想以上に深く、ゴルバチョフ政権に対するクーデターが発覚し、それを鎮圧したエリツィン・ロシア大統領が1991年にロシア・ウクライナ・ベラルーシ三国のソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS) の樹立を宣言したことで、ソヴェトは一気に崩壊した。
エリツィンが急激な市場経済を導入したために、一時はモスクワのスーパーの棚にはロシア産の商品がないような状態も生じて、「エリツィンは共産党政権ができなかったアメリカ型の資本主義の怖さを短期間で味わわせた」との小話も流行った。その一方で、第一次チェチェン紛争での強硬策の失敗や腐敗も見られたために、第二回目の大統領選挙では共産党に僅差まで追い上げられ、新興財閥からの巨額の選挙資金などでかろうじて乗り切ったものの、その後は新興財閥との癒着や民族主義的傾向も強まり、政権末期にはそれまでのNATOとの融和的な路線も修正されていた。
しかも、政治の腐敗や汚職などで裁判にかけられることを恐れたエリツィンは、刑事訴追から免責するという条件で、第二次チェチェン紛争を強引に収束させた元情報将校のプーチンを自分の後継者に指名していたのである。
こうして、堀田善衞は1968年の夜の宴会では、「おれは偽善者だ!」という痛切な叫びばかりでなく、「チェコスロヴァキアにおいてソ連兵一〇万の死者を出して得た権益を、なんでムザムザと西欧にわたしてたまるものか」という、「率直な主張とが、同じテーブルにおいて、実に率直に飛びかうのである」と書いていたが(208)、エリツィン政権の末期にはそのような好戦的な傾向がむしろ強まっていたといえよう。
(2022年3月28日)
コメントを残す