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正岡子規・夏目漱石関連簡易年表(1857~1910)
1857(安政4) 陸羯南(~1907)誕生。 【インド、セポイの乱(~59)】。
1858(安政5) 日米修好通商条約調印(続いて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも調印)。安政の大獄始まる(~59)。
1859(安政6) 秋山好古(1859~1930)、加藤恒忠(旧姓大原、号は拓川、1859~1923)誕生。
1860(万延1) 1月、勝海舟、福澤諭吉、咸臨丸で渡米する。3月、大老井伊暗殺される。8月、徳川斉昭死去。
1861(文久1)【ロシア、農奴解放令、アメリカ、南北戦争(~65)】。
1865(元治2・慶応1) 中江兆民(1847~1901)、長崎で龍馬を知る。 森有礼、五代友厚、藩命でイギリス留学。【トルストイ、『戦争と平和』(~69)】。
1866(慶応2) 1月22日、坂本龍馬、薩長連合を成立させる。6月、幕長戦争始まる。【普墺(プロイセン・オーストリア)戦争。ドストエフスキー、『罪と罰』】
* * *
1867(慶応3) 漱石、1月5日(新暦2月9日)、父夏目小兵衛直克、母千枝の5男として出生(~1916)、本名金之助。
子規、9月17日(旧暦、新暦10月14日)、父正岡常尚(35歳)、母八重の長男として出生(~1902)。本名常規、幼名処之助、のちに升(のぼる)。
6月15日、龍馬、「船中八策」を成文化する。 11月15日、龍馬、中岡慎太郎とともに暗殺される。12月9日、王政復古の大号令。
1868(明治1) 漱石、11月、四谷の名主塩原昌之助の養子となり、塩原姓を名乗る。
1月、戊辰戦争始まる(~69)。3月、江戸城総攻撃を中止。 3月、五ヶ条の御誓文。神仏分離令。秋山真之(~1918)、徳富健次郎(蘆花)(~1927)誕生。
1869(明治2) 子規、年末、失火により家が全焼
1月、横井小楠暗殺される。5月、榎本武揚軍降伏。大村益次郎(蔵六)襲撃され、傷がもとで死亡。
1870(明治3) 漱石、種痘がもとで疱瘡を病み、顔にあばたが残る。
子規、10月、妹律、誕生。
【普仏戦争(~71年)、ナポレオン3世退位】。
1871(明治4) 廃藩置県、岩倉使節団、欧米へ出発。中江兆民、フランス留学。 【ドイツ帝国成立】。
1872(明治5) 子規、3月7日(旧暦、新暦4月10日)、父死亡(40歳)
7月、大江卓、マリア・ルス号事件の裁判で奴隷を解放。8月、学制を発布。10月、徴兵令を制定。12月3日(旧暦、新暦1月1日)、太陽暦を採用。皇紀の制定。山城屋事件で山県有朋辞職。福沢『学問のすすめ』(初編)。
1873(明治6) 子規、三並良と祖父大原観山の私塾に通い素読を習う。末広小学校入学。
福沢、明六社結成に参加。山県有朋、初代陸軍卿として復職。 征韓論破れ、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助など政府を去る。徴兵反対一揆。内務省設置。
1874(明治7)漱石、浅草寿町戸田学校下等小学第八級に入学。1月、民撰議院設立建白書の提出。2月、江藤新平の佐賀の乱。5月、台湾出兵(~6月)
1875(明治8)子規、1月、勝山学校へ転校。4月、祖父観山死去。土屋久明に漢学を学ぶ。 秋山好古、大阪師範学校受験、合格。
讒謗律、新聞紙条例発布。
1876(明治9) 3月、廃刀令、7月、秋山好古、大阪師範学校卒業。大阪府北河内58番小学校、名古屋師範学校付属小学校勤務。10月、熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱。
1877(明治10) 2月14日、西南戦争始まる。5月、秋山好古、陸軍士官学校(旧制3期生)に入学。9月24日、西南戦争終結。【露土戦争~78、英領インド成立】。
1878(明治11) 漱石、2月、回覧雑誌に「正成論」を書く。10月、錦華小学校・小学尋常科二級後期卒業。子規、夏、土屋久明から漢詩の手ほどきを受ける。
5月14日、紀尾井坂で大久保利通が暗殺される。8月、竹橋事件、軍人訓誡。陸軍省参謀局が参謀本部に改称。福沢『通俗民権論』、『通俗国権論』発行、大久保利通暗殺、自由民権高まる。【露土戦争のロシア勝利後に列強による干渉、第2次、第3次アフガン戦争】。
1879(明治12) 漱石、東京府立第一中学校正則科第七級に入学。子規、12月、回覧雑誌(『桜亭雑誌』『松山雑誌』『弁論雑誌』)を始める。勝山学校卒業。
秋山好古、陸軍士官学校騎兵科を卒業。 加藤恒忠(拓川)、原敬、陸羯南、福本日南などともに司法学校退学。加藤恒忠、中江兆民の仏学塾に入塾。福沢『民情一新』。【ドイツ、オーストリア二重同盟締結】。
1880 (明治13)子規、3月、松山中学校入学。竹村鍛・三並良らと五友会で漢詩集回覧。
4月、集会条例。この年国会開設請願運動激しくなる。【イギリス、アフガニスタンを保護国化、フランス、タヒチを領有】。
1881(明治14) 漱石、1月、実母千枝死去。府立一中を中退。私立二松〔にしょう〕學舍に転校し、漢学を学ぶ。
中江兆民、西園寺公望の『東洋自由新聞』主宰。坂本直寛(龍馬の甥)など「日本憲法見込案」起草。7月、開拓使官有物払い下げ事件。10月の政変で大隈重信と慶應義塾門下生が政府から追放され、1890年を期して国会を開設するがドイツの憲法を模範とするとの詔勅。【3月、ロシア皇帝・アレクサンドル2世暗殺される。3世の即位、専制護持の詔書】。
(図版は「ウィキペディア」より)
1882 (明治15) 子規、9月、県会を傍聴。自由党員訪問など政治への関心が強まる。12月、北予青年演説会で演説。翌年まで熱中。
1月、軍人勅諭頒布、3月、立憲改革党結成、蘇峰、自宅に大江義塾を開く。福沢、『時事新報』創刊。中江兆民『民約論』翻訳。【ドイツ、オーストリア、イタリア間で三国同盟】。
1883(明治16) 子規、1月、演説草稿「天将ニ黒塊ヲ現ハサントス」。5月、松山中学を退学。6月、叔父加藤拓川より上京に同意する旨手紙をもらい上京。陸羯南を訪問。7~9月、須田学舎に入り、従弟藤野潔(古白)と同宿。10月、共立学校入学。11月、叔父の拓川が渡仏。
漱石、9月、神田駿河台の成立学舎に入学。
坂崎紫瀾、民権派の新聞『土陽新聞』に龍馬の伝記小説『汗血千里駒』を掲載。【フランス、ベトナムを保護国化】。
1884(明治17) 子規、2月、随筆「筆まかせ」を起筆(明治25年まで)。3月、 旧藩主久松家の給費生となる。月額7円(大学入学後は10円)・教科書代の支給を受ける。子規、漱石、9月 東京大学予備門入学(同級生に芳賀矢一・夏目金之助・山田美妙・菊地謙二郎がいた)。
新渡戸稲造、欧米留学。加波山の蜂起。自由党解散。甲申政変。【清仏戦争(~85)】。
1885(明治18) 子規、春、哲学への関心を募らせる。7月、妹律が結婚。夏、帰省中に秋山真之と親しくなり、桂園派の歌人井出真棹(まさお)に和歌を学ぶ。9月、坪内逍遙の『当世書生気質』に感動。
漱石、中村是公、橋本左五郎ら約10人と猿楽町の末富屋に下宿。
福沢『脱亜論』発行 蘇峰『第十九世紀日本之青年及教育』自費出版。
1886(明治19) 子規、秋山真之と一時同居。この年から3年間、野球に夢中になる。
漱石、7月、腹膜炎のため落第するが、こののち卒業まで首席を通す。中村是公と本所江東義塾の教師となり、塾の寄宿舎に転居。
東京大学予備門が第一高等中学校と改称。3月、「参謀本部」が設立される。4月、師範学校令発布。蘇峰『将来之日本』刊行。
1887(明治20) 子規、7月 柳原極堂と大原其戎(きじゅう)を訪ね、俳諧を学び始める。8月、「虫の音を踏み分け行くや野の小道」が其戎の主催誌に載る。
漱石、3月に長兄大助、6月に次兄栄之助が共に肺病のため死去。急性トラホームを病み、自宅に帰る。
保安条例公布、坂本直寛(坂本龍馬の甥)ら逮捕される。蘇峰、民友社設立、雑誌『国民之友』創刊。中江兆民、『三酔人経綸問答』、『平民のめざまし』刊行。
1888(明治21) 子規、7月、第一高等中学校予科卒業。8月、鎌倉江の島で2度喀血。夏休みを東京向島の桜餅屋で過ごし、『七草集』を執筆。三並良、藤野古白と同宿。9月、第一高等中学校本科一部(文科)に進む。常磐会寄宿舎に入る。
漱石、塩原家より復籍し夏目姓に変える。7月、第一高等中学校予科を卒業。9月、英文学専攻を決意し本科第一部に進む。英作文「討論――軍事教練は肉体錬成の目的に最善か?」執筆。
陸羯南『東京電報』を主宰。
1889(明治22) 子規、1月、夏目金之助(漱石)と落語を介して交遊を始める。2月11日、新聞『日本』創刊号を読む。5月、『七草集』脱稿。5月9日、夜喀血、時鳥の句を作り「子規」と号す。
漱石、5月、『七草集』を漢文で批評し七言絶句九編を添え、これに初めて「漱石」の号を用いる。8月に学友と房総を旅行し、9月、紀行漢詩文『木屑録』(ぼくせつろく)を書き、松山の子規に批評を求める。
(憲法発布略図、楊洲周延画、出典は「ウィキペディア」クリックで拡大できます)
1月、徴兵令を全面的に改定。大日本帝国憲法発布。陸羯南、政論新聞『日本』発刊。文部大臣森有礼、暗殺される。
1890(明治23) 子規、4月 碧梧桐の句を添削、文通をはじめる。9月、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。秋、幸田露伴の『風流仏』を読んで傾倒する。
漱石、9月、帝国大学文科大学英文科入学。文部省の貸費生となる。
2月、蘇峰『国民新聞』創刊。10月、「教育勅語」渙発。11月23日、『大日本』創刊(不定期刊行、廃刊の時期は不明)。
(図版は「ウィキペディア」より、クリックで拡大できます)
1891(明治24) 子規、2月、 国文科に転科。3月、 房総地方を旅行。高浜虚子と文通始まる。4月、内藤鳴雪が寄宿舎監督に着任。6月、木曽路を経て松山へ帰省。試験放棄。寄宿舎追放事件後、12月に駒込追分町へ転居。小説「月の都」の執筆に着手。冬、「俳句分類丙号」に着手。
漱石、7月、特待生となる。12月、『方丈記』を英訳する。
1月、内村鑑三による「教育勅語」に対する「不敬事件」。5月、皇太子ニコライ大津で襲撃される。陸羯南、『近時政論考』発刊。福沢「痩我慢の説」執筆。
1892(明治25) 子規、2月 露伴を訪問。「月の都」の批評を依頼する。上根岸(羯南宅西隣)へ転居。5月、「かけはしの記」を、6月、「獺祭書屋俳話」(38回『日本』6.26~10.20)を『日本』に掲載始める。学年試験落第、退学を決意する。7月 帰省、漱石も松山を旅行。10月 退学。11月 母と妹を呼び寄せる。12月 日本新聞社入社、月給15円。福本日南、三宅雪嶺、千葉亀雄、佐藤紅緑、長谷川如是閑などがいた。
漱石、4月、分家し北海道平民となる。5月、東京専門学校(現在の早稲田大学)講師に就任。
内田魯庵、『罪と罰』翻訳(前半部分)。5月、北村透谷、評論「トルストイ伯」。
1893(明治26) 子規、2月、俳句欄を『日本』に設ける。3月、帝国大学を中退する。5月、『獺祭書屋俳話』刊。7月19日~8月20日 東北旅行。俳諧宗匠を歴訪する。11月「芭蕉雑談」、「はてしらずの記」を『日本』に連載開始。
1月、北村透谷、評論「『罪と罰』の殺人罪」。12月、蘇峰『吉田松陰』(初版)。【フランス、ラオスを保護国化】。
1894(明治27) 子規、2月、上根岸82番地(羯南宅東隣)へ転居。2月11日『「小日本』創刊、編集責任者となり、月給30円。小説「月の都」を創刊号より3月1日まで連載。
(図版は大空社のHPより、『小日本』全2巻・別巻、大空社、1994年〉
3月 挿絵画家として浅井忠より中村不折を紹介される。5月、北村透谷の自殺についての記事を書く。7月、『小日本』廃刊により『日本』に戻る。
蘇峰『大日本膨張論』刊行。
日清戦争――7月29日、清国軍を攻撃。8月1日、清国に宣戦布告。9月黄海海戦で勝利、11月、旅順を占領。
1895(明治28) 子規、3月、日清戦争への従軍許可がおりる。4月10日、宇品出港、近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。金州で従弟・藤野潔(古白)のピストル自殺を知る。「陣中日記」を『日本』に連載。5月4日、金州で森鴎外を訪問。17日、帰国途上船中で喀血。23日、県立神戸病院に入院、一時重態に陥る。7月23日、須磨保養院へ移る。8月20日、退院。8月27日、松山中学教員夏目金之助の下宿「愚陀仏庵」に移る。10月、松山を離れ、広島、大阪、奈良を経て帰京。10月、「俳諧大要」(27回、『日本』10.22~12.31)。12月、道灌山で虚子に文学上の後継者となることを要請するが断られる。
漱石、横浜の「ジャパン・メール」の記者を志願したが、不採用に終わる。4月、高等師範学校を退職し、愛媛県尋常中学校(松山中学)教諭に就任。
日清戦争――2月、清国北洋艦隊降伏。4月、下関で講和条約、三国干渉。10月、閔妃が殺害される。
1896(明治29)子規、1月3日、子規庵で句会。鴎外・漱石が同席。30日、鴎外主催の『めざまし草』が創刊。子規を中心とした「日本派」の俳句が掲載される。2月、左腰が腫れ以後臥床の日が多くなる。3月、カリエスの手術を受ける。4月、「松蘿玉液」(32回、『日本』4.21~12.31)。8月、新体詩「父の墓」、「文学」(7回、『日本人』8.5~11.20)。9月5日、与謝野鉄幹ら新体詩人の会に人力車で参加。
漱石、4月、熊本県の第五高等学校講師となる。6月、熊本で借りた家で中根鏡子と結婚。7月、教授に昇任。
蘇峰、欧米旅行に出発(~1897年7月、帰国後勅任参事官に就任)。
1897(明治30) 子規、1月、松山で『ほとヽぎす』創刊。「明治二十九年の俳句界」を『日本』に連載。3月27日、腰部手術。4月13日、「俳人蕪村」の連載(19回、『日本』4.13~12.29)5月 病状悪化、重態。5月28日、子規編集の『古白遺稿』刊。12月、子規庵で第一回蕪村忌を開催。
漱石、6月、実父直克死去。
蘆花『トルストイ』出版、『不如帰』(~1899年)。足尾銅山鉱毒事件高まる。
1898(明治31) 子規、1月、月給が40円となる。2月12日、「歌よみに与ふる書」(10回,『日本』2.12~3.4)を発表し、短歌の革新運動に着手する。3月 子規庵ではじめての歌会。7月、自らの墓誌銘を記し、河東可全(碧梧桐の兄)宛ての手紙に託す。10月、東京発行所を東京に移し、『ホトトギス』第一号発刊。
漱石、9月、寺田寅彦ら五高生に俳句を教える。
【米西戦争、ハワイを合併、フィリピン・グアムを領有】。
1899(明治32) 子規、1月 『俳諧大要』刊。3月、 歌会再開、以後定期的に開催する。秋、不折からもらった絵の具で水彩画を描く。10月、「飯待つ間」(『ホトトギス』)。12月 『俳人蕪村』刊、病室の障子をガラス張りにする。
(「猫の写生画」、図版は青空文庫より)
漱石、4月、エッセー「英国の文人と新聞雑誌」『ホトトギス』。
福沢諭吉、『福翁自伝』。【義和団事件(~1901)。南アフリカ戦争(~1902)。ロシアのニコライ2世の提唱による第1回ハーグ平和会議(毒ガスの使用禁止)】。
1900(明治33)子規、1月、 伊藤左千夫来訪、短歌会の常連となる。1月29日 「叙事文」を『日本』に連載、写生文を提唱。3月28日 長塚節来訪。4月15日、 第1回万葉集輪講会。8月、大量喀血。8月26日、漱石、寺田寅彦と来訪。9月、第1回「山会」(写生文の会)を開催。11月、静養のため、子規庵での句会、歌会を中止。
漱石、5月、文部省より現職のままで英語研究のため満2ヶ年の英国留学を命ぜられる。 9月、イギリスに留学。10月、途上パリで万国博覧会を訪問。
蘆花『不如帰』刊行、新渡戸稲造”Bushido, the Spirit of Japan”。
1901(明治34) 子規、1月、「墨汁一滴」を『日本』に連載開始(1.26~7.2)、9月、「仰臥漫録」を書き始める。10月13日、母と妹の不在中に自殺を考える。11月6日、漱石宛書簡に「僕ハモーダメニナツテシマツタ」と書く。
漱石、5月、「倫敦消息」が『ホトトギス』に掲載される。帰国まで『文学論』の執筆に専念。
福沢諭吉『丁丑公論・痩我慢の説』刊行、蘇峰の批判と福沢の反論、2月福沢諭吉死去、幸徳秋水『帝国主義』発行。
1902(明治35) 子規、1月、 病状悪化。3月、碧梧桐・左千夫・虚子などが交替で看護にあたる。5月5日、「病牀六尺」を『日本』に連載開始(5.5~9.17)。6月、「菓物帖」、8月「草花帖」、9月「玩具帖」の写生を行う。9月、 随筆「九月十四日の朝」を口述筆記。9月18日、絶筆糸瓜三句を詠む。19日、永眠。享年34歳。21日、田端・大龍寺に埋葬される。会葬者150余名。戒名「子規居士」。
漱石、9月、強度の神経衰弱に陥り、気分転換をはかって自転車の練習を始める。12月、ロンドンを発ち、帰国の途につく。
蘆花「黒潮」(1月26日~6月)、加藤忠三郎(正岡子規の死後養子)誕生。 日英同盟締結。
1903(明治36) 漱石、4月、第五高等学校を辞して第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。
藤村操、投身自殺。幸徳秋水たちが『平民新聞』創刊。『小説 寄生木』の主人公・小笠原善平がはじめて蘆花を訪問。
1904(明治37) 漱石、4月、明治大学講師を兼任。12月、虚子の勧めで初めて書いた創作『吾輩は猫である』が子規門下の文章会“山会”(やまかい)で虚子の朗読により発表され、好評を博す。
木下尚江、『火の柱』を東京毎日新聞に連載(1月~3月)、2月、日韓議定書、8月、トルストイの「悔い改めよ」と題する非戦論が『平民新聞』に掲載される。
日露戦争――2月8日 日本の連合艦隊、旅順を奇襲。2月10日、ロシアに対して宣戦布告。2月24日~5月3日、旅順口閉塞作戦。9月遼陽を占領。徴兵令改正、兵役年限の延長。10月26日~31日、第2回旅順総攻撃。11月26日~12月5日、第3回旅順総攻撃。
1905(明治38) 漱石、1月、『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を発表(翌年8月まで断続連載。10月、単行本『吾輩は猫である』上編)。1月、「倫敦塔」「カーライル博物館」。3月、講演「倫敦のアミューズメント」。4月、「幻影の盾」。5月、「琴のそら音」、談話「批評家の立場」。9月、「一夜」。11月、「薤露行」。
内田魯庵訳でトルストイの『復活』が、新聞『日本』に掲載(4月5日~12月22日)。
日露戦争――1月1日、旅順陥落。1月22日、ロシアで「血の日曜日事件」。韓国、義兵闘争。5月27~8日、日本海海戦。6月27日、ポチョムキン号の反乱。7月、ロシアの全権ヴィッテ、ポーツマスに出発。9月5日、ポーツマス条約調印。
9月、日比谷焼打ち、国民新聞社も襲撃を受ける。【10月26日、ペテルブルクに労働者代表ソビエト成立、 ニコライ2世、立法権を持つ議会招集を宣言(翌年、この10月宣言を修正】。
1906(明治39) 漱石、1月、「趣味の遺伝」。4月、『坊つちやん』(『ホトトギス』)。5月、『漾虚集』。9月、「草枕」。10月、「二百十日」。
島崎藤村、3月、『破戒』。徳富蘆花、6月30日、トルストイを訪ねる。雑誌『黒潮』を創刊。第一高等学校で講演した「勝利の悲哀」を掲載する。12月『巡礼紀行』。
1907(明治40) 漱石、1月、「野分」を『ホトトギス』に発表。4月、朝日新聞社に入社。5月、『文学論』。6月、『虞美人草』を朝日新聞に連載(~10月)。
【第2回ハーグ平和会議(常設の仲裁裁判所の設立を規定。ハーグ密使事件起こる。英露協商締結。英・仏・露の三国協商成立】。
1908(明治41) 漱石、1月『坑夫』(~4月)。4月「創作家の態度」(『ホトトギス』)。6月、『文鳥』(「大阪朝日新聞」)。7月、8月、『夢十夜』。9月『三四郎』(~12月)。蘇峰、改訂版『吉田松陰』。島崎藤村、『春』。【オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合。清、溥儀が即位】。
1909(明治42) 漱石、1月、『永日小品』(~3月)。3月『文学評論』(春陽堂)。6月、『それから』(~10月)。満洲と朝鮮(当時)を旅行。10月『満韓ところどころ』(~12月)。11月、「『煤煙』の序」。11月25日「朝日文芸欄」を創設。
伊藤博文、ハルビンで暗殺される。蘆花『寄生木』出版。【アメリカで排日運動がさかんになる】。
1910(明治43) 漱石、3月、『門』(~6月)。6月~7月、胃潰瘍で入院。8月24日、修善寺温泉での「大患」。
4月、「白樺」創刊。5月、大逆事件。8月22日、日韓合併条約調印。9月、関寛斎が蘆花宅を訪問。石川啄木「時代閉塞の現状」。【11月トルストイ死去】。
(図版は「ウィキペディア」より)
(本年表は、子規に関しては坪内稔典氏の『正岡子規 言葉と生きる』(岩波新書)に掲載されている「正岡子規略年譜」の記述や「子規庵保存会」作成の略年譜、および柴田宵曲『評伝正岡子規』1986.6.16,岩波文庫。今西幹一・室岡和子『子規 百首・百句」1990.5.1,和泉書院。坪内稔典『子規山脈』1997.10.20,日本放送出版会。正岡子規『子規三大随筆』1992.3.20,講談社学術文庫を参考にして作成されたブログ「正岡子規年表」を元に加筆と訂正を行った。
夏目漱石に関しても『別冊 太陽――夏目漱石』(第32号)、水川隆夫『夏目漱石と戦争』(平凡新書)などの年表や『『小日本』と正岡子規』(大空社)を元に加筆をし、さらに、『新日本史主題史年表(改訂版)』(清水書院)、『新世界史主題史年表』(清水書院)『新日本史主題史年表』(清水書院)なども参考にして編集、作成した。
年表の開始は、正岡子規の師ともいうべき陸羯南が生まれた1857年とし、終わる年はトルストイが亡くなったばかりでなく、大逆事件が起きた1910年にした。年表では正岡子規は子規と、夏目漱石は漱石、福沢諭吉は福沢、徳富蘇峰は蘇峰、徳冨蘆花は蘆花と略記した)。
リンク→『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年)
(2017年8月15日、12月29日図版を追加、加筆)