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《デルス・ウザーラ》

年表7、黒澤明・小林秀雄関連年表(1902~1998)

黒澤明・小林秀雄関連年表(ドストエフスキー論を中心に、年号や特に重要な事項はゴシックで、原爆、原発関係の出来事はオレンジ色で示した)。【】内は、本論に関連する国内外の主な出来事。  005l (帯の図版は、1956年に行われた黒澤明と小林秀雄の対談時の写真)    

1902年(明治35年) 小林秀雄(以下、小林と略記)、4月11日、東京に生まれる(~83年)。9月、正岡子規没

1904年(明治37年)   【日露戦争(1904年2月~1905年9月)】

1908年(明治41年)夏目漱石『夢十夜』、『三四郎』

1910年(明治43年) 黒澤明(以下、黒澤と略記)、3月23日、東京に生まれる(~98年)。    【4月、『白樺』創刊、5月、大逆事件、8月、日韓併合、11月、トルストイ歿】。

1913年(大正2年) 芥川龍之介 9月、東京帝国大学文科大学英吉利文学科に入学。

1914年(大正3年)    【第一次世界大戦(~1918)】。   

1915年(大正4年)  芥川、 11月、「羅生門」(『帝国文学』)。漱石の木曜会に参加する。

1916年(大正5年)  12月、夏目漱石没。

1922年(大正11年) 芥川、「将軍」(『改造』1月号)、「藪の中」(『新潮』」1月号)

1923年(大正12年)  黒澤、兄丙午の勧めで関東大震災を観察する。

1924年(大正13年)  黒澤丙午、新宿「武蔵野館」で映画説明者の見習い。

1925年(大正14年)     【治安維持法、普通選挙法公布】。 小林、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。中原中也と識る。 黒澤丙午、映画説明者として須田貞明と名乗る。

1927年(昭和2年)  芥川龍之介『河童』、自殺。 小林、9月、「芥川龍之介の美神と宿命」(『大調和』)

1928年(昭和3年、以下略)   【治安維持法が強化される】。 小林、3月、東京帝国大学卒業。 黒澤、第15回「二科展」入選、油彩「静物」。

1929年  3月、堀辰雄「芥川龍之介論――藝術家としての彼を論ず」(「東京帝国大学卒業論文」)。 黒澤、4月、日本プロレタリア美術家同盟(ナップ)に参加。小林多喜二「蟹工船」。 小林、9月、『様々なる意匠』が『改造』懸賞評論二席入選。

1930年    【1月、ロンドン海軍軍縮会議、浜口首相が狙撃される】。 黒澤、徴兵検査後、兵役免除。この頃から地下活動(~1932年春)。

1931年      【満州事変】。

1932年      【上海事変、満州国成立、五・一五事件】。 小林、4月、明治大学に文芸科が創設され、講師に就任 6月、「小説の問題Ⅰ」(映画《アメリカの悲劇》論、『悪霊』論)。 6月、「現代文学の不安」(『改造』) 9月、「Xへの手紙」(『中央公論』)。 黒澤、地下活動より脱落、兄丙午の長屋に身を寄せつつ映画館に通う。

1933年     【1月、ヒトラー内閣成立、2月、小林多喜二が拷問で死亡。         3月、日本、国際連盟から脱退。5月、京都帝国大学で滝川事件】。 小林、1月、「『永遠の良人』」(『文藝春秋』)。 黒澤、7月、兄・丙午が自殺。 小林、10月、『文學界』の創刊にかかわる。 12月、「『未成年』の独創性」(『文藝』)。

1934年     【ワシントン条約の破棄を通告する】。 小林、1月「文学界の混乱」(『文藝春秋』、ドストエフスキー論への意欲)。 1月「アンドレ・ジイドのドストエフスキイ論」。 2月、「『罪と罰』についてⅠ」(第1回、『行動』)。 4月、「レオ・シェストフの『悲劇の哲学』」(『文藝春秋』)。 5月、「『罪と罰』についてⅠ」(第2回、『文藝』)。 7月、「『罪と罰』についてⅠ」(第3回、『行動』)。 9月、「『白痴』についてⅠ」(~35年10月、『文藝』)。    「レオ・シェストフの『虚無よりの創造』」(『文學界』)。

1935年      【美濃部達吉の天皇機関説が問題となる。スタンバーグ監督の《罪と罰》】 小林、1月、『ドストエフスキイの生活』を連載し始める(~37年3月号)。 3月、「再び文藝時評に就いて」(『改造』)。 山本嘉次郎、3月、映画《坊つちゃん》公開。 小林、10月、「『地下室の手記』と『永遠の良人』」(~36年2月)。

1936年      【ロンドン軍縮会議から脱退。二・二六事件】。 小林、1月、「作家の顔」(『読売新聞』)。 2月、「私信」 4月、「思想と実生活」(『文藝春秋』)。 山本嘉次郎、5月、映画《吾輩は猫である》公開。 小林、6月、「文学者の思想と実生活」(『改造』)。 8月、「『ドストエフスキイの精神分析』」(書評、『帝国大学新聞』) 9月、「J・M・マリィ『ドストエフスキイ』」(書評、『文學界』)。 11月、「『罪と罰』を見る」(『読売新聞』) 黒澤、PCL映画製作所(東宝の前身)に助監督として入社。 小林、明治大学で「日本文化史研究」を講じる。

1937年        【蘆溝橋事件から日中戦争がおこる。~1945年】。 小林、1月、「ドストエフスキイの時代感覚」(『改造』)。 6月、「『悪霊』について」(~11月、未完、『文藝』)。 11月、「戦争について」(『改造』)。

1938年     【国家総動員法が公布される】。 小林、6月、明治大学教授に昇格。  黒澤、8月、助監督として参加した山本嘉次郎監督の『綴方教室』公開。 小林、10月、「歴史について」(第一章、第二章、『文學界』)。

1939年  小林、3月、「映画批評について」(『日本映画』)    5月、「歴史について」(全五章、『文藝』)。    5月、「歴史について」を序文とし『ドストエフスキイの生活』(創元社)を出版。    8月、「疑惑Ⅱ」(『文藝春秋』)。

1940年   【チャップリンの《独裁者》。日本での公開は1960年】

Dictator_charlie5 (独裁者ヒンケルが地球儀のバルーンをもてあそぶシーン。図版は「ウィキペディア」より)  

小林、9月、「ヒットラアの『我が闘争』」(書評、『朝日新聞』)    10月、林房雄、石川達三との鼎談「英雄を語る」(『文學界』)。

1941年     【国民学校令の公布、12月、真珠湾攻撃、太平洋戦争が始まる】。 黒澤、3月、製作主任としてついた山本嘉次郎演出、高峰秀子主演の映画《馬》公開。 小林、3月、「歴史と文学」(『改造』、芥川龍之介の『将軍』を否定的に言及)。 10月、「カラマアゾフの兄弟」(~42年9月、未完、『文藝』)。

1942年 黒澤、3月、脚本『雪』が国策映画脚本募集に入選。 小林、3月、「戦争と平和」(『文學界』)、    座談会《文化総合会議 近代の超克》(『文學界』、10月)、    日本文学報国会評論随筆部会常任理事に就任。

1943年 黒澤、1月、脚本に参加した映画《愛の世界・山猫とみの話》が公開。 3月、《姿三四郎》公開。 小林、9月、「ゼークト『一軍人の思想』について」(『文學界』)。 1944年 黒澤、4月、《一番美しく》公開。

1945年   【3月、沖縄戦が始まる。8月、広島・長崎に原爆投下、日本、ポツダム宣言受諾】。        【ロックフェラー財団会長レイモンド・フォスディックが原爆投下の知らせを聞いて「私は良心の呵責に苦しんでいる」と手紙に記す】。 黒澤、5月、《続・姿三四郎》公開。 《虎の尾を踏む男達》制作。

1946年 小林、2月、座談会「コメディ・リテレール――小林秀雄を囲んで」(『近代文學』)。 明治大学教授、辞任。 黒澤、10月、《わが青春に悔なし》公開。 小林、11月、「感想――ドストエフスキイのこと」(『時事新報』)。

1947年   月、日本国憲法発布

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(日本国憲法施行記念切手。図版は「ウィキペディア」より)

黒澤、6月、《素晴らしき日曜日》公開。   坂口安吾、6月、「教祖の文学」で小林秀雄を批判(『新潮』)。

1948年 黒澤、4月、《酔いどれ天使》公開。 8月、黒澤の脚本による映画《肖像》が木下恵介監督により公開。 小林、8月、湯川秀樹との対談「人間の進歩について」で原子力エネルギーを批判(『新潮』)。 11月、「『罪と罰』についてⅡ」(『創元』)。 12月、「ゴッホの手紙」(『文體』)。

1949年  【ソ連、原爆実験】。 黒澤、3月、《静かなる決闘》公開。 10月、《野良犬》公開。   11月、湯川秀樹、ノーベル物理学賞受賞

1950年 黒澤、4月《醜聞(スキャンダル)》公開。 8月《羅生門》公開。

1951年 小林、1月、「ゴッホの手紙」(~1952年2月、『藝術新潮』)。 黒澤、5月《白痴》公開。

Читаем роман Идиот в фильмах Куросавы Акиры»  (Сэйбунся,2011)

9月、ヴェネツィア国際映画祭で《羅生門》がグランプリを受賞。  小林、9月『ドストエフスキイの生活』(『創元文庫』)。

1952年 小林、5月「『白痴』についてⅡ」、(~1953年1月、『中央公論』)。 黒澤、10月《生きる》公開。

1953年    【アメリカ、「原子力の平和利用」政策を発表】。

1954年      【1月、原潜ノーチラス号進水、『読売新聞』で特集記事「ついに太陽をとらえた」、 3月、アメリカの水爆実験で「第五福竜丸」被爆】。

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(「キャッスル作戦・ブラボー(ビキニ環礁)」の写真。図版は「ウィキペディア」より)

黒澤、4月《七人の侍》公開。

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(東宝製作・配給、1954年、図版は「ウィキペディア」より)。

木下恵介、9月、《二十四の瞳》公開。 黒澤、9月、小國や橋本と映画《生きものの記録》の脚本『死の灰』の執筆を始める。 本多猪四郎監督、11月《ゴジラ》公開

ゴジラ (製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

1955年       石原慎太郎、『太陽の季節』(『文學界』、7月号)          【7月、「ラッセル・アインシュタイン宣言」】。 小林、8月「ハムレットとラスコオリニコフ」(『新潮』)。 黒澤11月《生きものの記録》公開

430px-Ikimono_no_kiroku_poster (作成:Toho Company, © 1955、図版は「ウィキペディア」より)  

11月、「原子力平和利用博覧会」が各地で開催される(~57年)。12月19日、「原子力基本法」成立】。 黒澤、湯川秀樹との対談(時期は11月~2月の間と思われる)。

1956年     1月、石原慎太郎、『太陽の季節』で第34回芥川賞受賞。 黒澤、木下恵介・武田泰淳の鼎談「人間像製作法」(『中央公論』2月号)。 小林、8月、「ドストエフスキイ七十五年祭に於ける講演」(~10月、『文學界』)。 11月、木下恵介監督、太陽族を批判した映画《太陽とバラ》公開 12月、黒澤明と小林秀雄の対談(未掲載)。

1957年  黒澤、1月《蜘蛛巣城》公開 4月、徳川夢声、「こんにゃく談義」で、水爆実験と太陽族を批判 黒澤、9月、《どん底》公開。

1958年 黒澤、12月《隠し砦の三悪人》公開。

1959年    【ソ連の原子力潜水艦K-19進水 小林、12月、藝術院会員となる。                             

1960年 小林、5月、「ヒットラアと悪魔」で『悪霊』に言及(『文藝春秋』)。 黒澤、9月《悪い奴ほどよく眠る》公開。

1961年  【ソ連の原子力潜水艦K-19の大事故 黒澤、4月《用心棒》公開。

1962年    【キューバ問題で核戦争の危機】。 黒澤、1月《椿三十郎》公開。  8月 『ヒロシマ わが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』、筑摩書房。(アインシュタインと共同宣言を出したラッセル卿の「まえがき」を所収)。

1963年  黒澤、3月《天国と地獄》公開。 黒澤、10月、映画《赤ひげ》の制作開始記念パーティー。 小林、11月、「ネヴァ河」(『朝日新聞』、『死の家の記録』や『悪霊』に言及)。

1964年 小林、5月、第9章を追加して『「白痴」について』(角川書店)を発行。

1965年    【米、北ベトナム爆撃開始(~73年)】。 黒澤、4月《赤ひげ》公開 小林、数学者の岡潔と対談「人間の建設」(『新潮』10月号)でアインシュタインを批判。

1966年      【中国、文化大革命起こる】。

1968年    【ソ連・東欧軍、チェコ侵入】。

1969年     【日本、大学紛争激化】。 黒澤、《トラ・トラ・トラ!》の監督を降りる。 

1970年 黒澤、10月《どですかでん》公開。

1971年     【沖縄返還】。 黒澤、12月、自殺未遂。

1973年  黒澤、モスクワで映画監督タルコフスキーとともに《惑星ソラリス》を見る。

1975年 小林、4月、東京都知事選に際して、後に原発推進だけでなく、核武装も唱えることになる石原慎太郎の推薦人となる。 黒澤、7月、座談会で小林の『白痴』観を批判(『週刊プレイボーイ』)。 黒澤、8月《デルス・ウザーラ》公開。 森敦との対談「文明社会に警告する『デルス・ウザーラ』」(『サンデー毎日』8月3日号)

1979年    【イランでイスラム革命。ソ連軍、アフガニスタン侵攻(~八八年)、アメリカ、スリーマイル島原発事故】。 小林、7月、河上徹太郎との対談「歴史について」で『白痴』を「トルソ」と呼ぶ。

1980年  【イラン・イラク戦争(~88年)】。 黒澤、4月《影武者》公開。 

1983年 3月1日、小林秀雄死去。 9月、木下恵介、映画《この子を残して》公開。

1985年 黒澤、6月《乱》公開。

1986年    【4月、チェルノブイリ原発事故5月、タルコフスキーの映画《サクリファイス》上映】。 黒澤、映画《夢》の脚本『こんな夢を見た』第一稿脱稿。

1989年    【米、パナマ侵攻】。 1990年    【イラク、クウェート占領】。 黒澤5月《夢》公開。  井上ひさしとの対談「夢は天才である」(『文藝春秋』6月号) 10月、ガルシア・マルケスとの対談「第二部 核をめぐる論争――人間が核を制御できると考えるのは傲慢だ!」(『宝石』1999年6月号)

1991年 【1月、湾岸戦争、5月、ユーゴスラヴィアで内戦、9月、ソ連邦崩壊】。  黒澤5月《八月の狂詩曲(ラプソディー)》公開

1993年  黒澤、4月《まあだだよ》公開。

1995年 【12月、 高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウムの漏洩による火災事故】。

1997年 【3月11日、茨城県東海村の動燃でレベル3の原子力事故】。

1998年 9月6日、黒澤明死去。  

黒澤明 死して15年 直筆ノートにあった“メッセージ”– 長さ: 13:26。

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 【作成に際しては、浜野保樹編「黒澤明 関連年表」『大系 黒澤明』(講談社)、黒澤明研究会のホームページ「黒澤明監督年譜」、横田公次・他「黒澤明の地図」(『黒澤明 夢のあしあと』黒澤明研究会編、共同通信社、1999年所収)、槙田寿文「黒澤明の青春――ナップとその時代」(『黒澤明研究会誌』第24号)、堀伸雄「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー ~『七人の侍』に始まる魂の共鳴」(『黒澤明研究会誌』第32号)、および『小林秀雄全集』(新潮社)の「解題」、「小林秀雄とその時代」(ブログ『やりみず』一九九九年)、菅原健史「小林秀雄年表」(ネット版、2011年)、『新日本史主題史年表』(清水書院、1991年)、などを参照した】。

 (2014年5月5日、6月11日、2015年4月19日、訂正と加筆。6月4日、「ブラボー(ビキニ環礁)」の写真追加。(12月11日。チャップリン監督『独裁者』を追加。図版は「ウィキペディア」より、2018年5月31日、『黒澤明で「白痴」を読み解く』の書影と映画《七人の侍》のオスターを追加、図版は「ウィキペディア」より)。