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1789 父ミハイルがポドーリヤの宗教合同派の司祭の家に生まれる。【フランス革命】
1790 ラジーシチェフ『ペテルブルグからモスクワへの旅』。
1792 【第1回ロシア使節として、ラクスマンが漂流民の大黒屋光太夫を伴って来日】。
1794 【桂川甫周、大黒屋光太夫からの聞き取りで『北嵯聞略』を書く。 →井上靖『おろしや国酔夢譚』→映画《おろしや国酔夢譚》】。
1800 母マリア・ネチャーエヴァ、モスクワの商人の家に生まれる。
1802 父ミハイル、神学校に入学。
1804 【第2回ロシア使節レザノフが長崎に来航、通商を求めるが日本側に拒否される。ナポレオン、皇帝となる】。
1806 【ロシア将校フヴォストフ、樺太襲撃(翌年も再度襲撃)。神聖ローマ帝国滅亡】。
1809 父ミハイル、モスクワの医学アカデミーに入学(家族との関係を断絶する)。
1811 【ロシア艦の艦長ゴロヴニーンが逮捕され、日露の緊張が高まる】。
1812 ナポレオン、ロシア帝国へ侵攻(「祖国戦争」)。父ミハイル、軍医として参戦。【高田屋嘉兵衛、日本とロシアの衝突回避に尽力(→司馬遼太郎『菜の花の沖』)】。
1813 【ロシア、「諸国民の解放戦争」に参戦(~14年)】。
1814 【ウィーン会議(~15年)の結果、ロシア帝国はワルシャワ公国の大部分を獲得し、ポーランド立憲王国を建国(*注1)】。
1817 プーシキン政治詩「自由」。
1819 父ミハイル、マリアと結婚、 プーシキン「村」で農奴制を批判。
(Мать писателя — Мария Фёдоровна,Отец — Михаил Андреевич、図版はロシア版「ウィキペディア」より)
1820 父ミハイル、軍を退官し、聖マリア慈善病院の医師となる、 兄ミハイル誕生。
1821 作家フョードル、モスクワの聖マリア慈善病院に生まれる。
(Здесь родился Ф. М. Достоевский. Мариинская больница для бедных,NVO – собственная работа,図版はロシア版「ウィキペディア」より)
1822 長女ワルワーラ誕生。
1824 グリボエードフ『知恵の悲しみ』。
1825 父ミハイル、聖アンナ3等勲章を受章。アレクサンドル1世の死、ニコライ1世即位。憲法の発布や農奴制の廃止を求めて近衛軍将校が蜂起するが、すぐに鎮圧され、厳しく処罰される(デカブリストの乱)。
「デカブリストの乱」の絵、Karl Kolman作(図版は「ウィキペディア」より)
1827 父ミハイル、8等官に昇進、貴族の身分となる。
1828 貴族台帳にドストエフスキー家のことが記載される。トルストイ誕生(~1910年)。【露土戦争(~29年)】。
1830 プ-シキン『ベ-ルキン物語』、ポーランドで反乱(~31年)。
1831 母の名義で約150キロ南のトゥーラ県のダーロヴォエ村に領地を買う。
1832 父、聖アンナ2等勲章を受章、7等官に昇進、父名義の領地チェルモーシニャ村を買う。
1833 火災で2つの領地が被災する、ウヴァーロフの通達「正教・専制・国民性」、プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』、『青銅の騎士』(死後発表)。
1834 9月、私立学校チェルマークに入学、年末、両親の激しい口論。
1835 父ミハイル、不倫の疑いをかけて母を苦しめる。
1836 母の病状悪化する。ゴ-ゴリ『検察官』、チャアダーエフ『哲学書簡』。
1837 1月、プーシキン決闘で死亡。
『アレクサンドル・プーシキンの肖像画』(キプレンスキー作、1827年、トレチャコフ美術館所蔵、画像は「ウィキペディア」より)
2月末、母マリアの死。5月、ペテルブルグに出発、6月、中央工兵学校入学試験の準備のために兄ミハイルとともにコスト マーロフの寄宿学校に入学。7月、父ミハイル退職し、村に移る。【大塩平八郎の乱】。
(26歳時のドストエフスキーの肖像画、トルトフスキイ絵、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)
1838 1月、工兵士官学校入学するが落第(兄ミハイルは身体検査の結果入学が許されなかった)。父親との軋轢から妹ワルワーラがクマーニン家に引き取られる。【英、第一次アフガン戦争(~42年)】
(Инженерное училище,図版はロシア版「ウィキペディア」より)
1839 6月、父、農奴達によって殺される。
1840 妹ワルワーラ、カレーピンと結婚、レ-ルモントフ『現代の英雄』。【英国と清国のアヘン戦争始まる(~42年)】。
1841 自作の戯曲『マリア・スチュアート』、『ボリス・ゴドゥノフ』朗読、 レ-ルモントフ死去。
1842 ゴ-ゴリ『外套』、『死せる魂』
1843 8月、工兵士官学校卒業。工兵局製図室に勤務。12月末、バルザックの『ウージェニー・グランデ』翻訳
1844 2月、一時金を受け取って土地と農奴の相続権を放棄する。10月、中尉の位で退官する。
1845 5月、『貧しき人々』完成。ベリンスキーから絶賛される。
1846 1月、『貧しき人々』(ネクラーソフ編『ペテルブルグ文集』に掲載)、『分身』(『祖国雑記』2月)、ベリンスキー無署名で『貧しき人々』と『分身』を批評(同誌、3月)、ベケートフ兄弟、プレシチェーエフなどと知り合う。『プロハルチン氏』(同誌、10月)。10月、ゲルツェンと知り合う。11月、ベケートフ兄弟たちと共同生活を始める(~翌春)。
1847 1月、ゴーゴリ『友人達との往復書簡選』、『9通の手紙からなる小説』(『同時代人』1月)、ベリンスキー『同時代人』1月号で『プロハルチン氏』を酷評、ゴーゴリの『書簡選』を2月号で批判。2月、コロムナにあるペトラシェフスキーの家を訪れる。『ペテルブルク年代記』(4月~6月)、『家主の妻』(『祖国雑記』10、12月)。【キリル・メトディウス団がウクライナで活動(翌春逮捕される)】。
1848 『他人の妻』(『祖国雑記』1月)、『弱い心』(『祖国雑記』2月)、『ポルズンコフ』(『現代人』の付録『絵入り文集』が発行禁止)、5月、ベリンスキーの死。9月、『クリスマス・ツリーと結婚式』(『祖国雑記』)、秋、ペトラシェフスキー会にドーロフ・サークル発足。12月、『白夜』(『祖国雑記』)【2月、フランス2月革命、3月中旬。オーストリア、プロシア、ハンガリー、南ドイツ諸国、イタリア王国で暴動、11月、ルイ・ナポレオン大統領になる】。
1849 スペシネフがドーロフ・サークルの事実上の指導者となる。1月~2月、5月『ネートチカ・ネズワーノワ』(『祖国雑記』)。4月、会合でベリンスキーの手紙を朗読。ペトラシェフスキーの会員、逮捕される。7月、ハンガリー出兵。『小さな英雄』(要塞の独房で執筆)。12月、死刑執行の直前、特赦。シベリア流刑になる。
(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)、
1850 1月、オムスクの懲役監獄に着く(~54年)。【清で太平天国の乱(~64年)】。
1852 【ルイ・ナポレオン皇帝となり、3世と称す。英、第二次ビルマ戦争(~53年)】。
1853 【6月、ペリー提督がアメリカ艦隊を率いて浦賀来航。7月、プチャーチン提督がロシア艦隊を率いて長崎に来航。10月、トルコ、ロシアに宣戦を布告、クリミア戦争が始まる(~56年)】。
1854 2月、出獄。3月、セミパラチンスクで一兵卒として勤務(~59年)。詩「(1854年の)ヨーロッパ事件に寄せて」。【3月、英仏がロシアに宣戦布告してクリミア戦争に参戦。3月、日米和親条約。7月、日英和親条約。12月、日露和親条約】。
1855 1月、ニコライ1世の死。アレクサンドル2世即位(~81年)。 【1月、ナポレオン3世の呼びかけで、サルデーニャ王国も英仏側に参戦】。
1856 クリミア戦争に敗北。ニコライ1世の頃の政策の見直しが始まる(→大改革の時代)。【英仏、清との第二次アヘン戦争(~60年)】。
1857 2月、マリヤ・イサーエワと結婚。 【ロシアの対ポーランド政策の緩和化が始まる。インド、セポイの乱(~59年)】。
1859 3月、少尉に昇進、退官。トヴェリに移る。『伯父様の夢』(『祖国雑記』3月)、『スチェパンチコヴォ村とその住人』(同誌11~12月)。ペテルブルク居住許可。【4月、井伊直弼大老となる。6月、日米修好通商条約調印(続いて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも調印)。9月、安政の大獄始まる(~59年)】。
1860 『死の家の記録』(序章と第一章、『ロシア世界』9月)、ツルゲーネフ『その前夜』、【3月、大老・井伊直弼暗殺される】。
1861 1月、雑誌『時代』創刊。『虐げられた人々』(『時代』1~7月)。2月、農奴解放令。『死の家の記録』(『時代』9月~1862、12月)。【米、南北戦争(~65年)〕、 仏、メキシコに軍隊を派遣(~67年)】。
1862 6月、最初のヨーロッパ旅行。ベルリン、ロンドン、パリなどを訪れ、ロンドンではゲルツェンやバクーニンと会う。『いやな話』。ツルゲーネフ『父と子』。【1月、幕府が使節団をヨーロッパに派遣、福沢諭吉たちはフランス、イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルを訪れて、1年後に帰国。8月、生麦事件。ロシア、10月にポーランド立憲王国で徴兵実施を予告。仏、カンボジアを保護領とする】。
1863 『冬に記す夏の印象』(『時代』2~3月)。5月ストラーホフのポーランド論が原因で、『時代』が発行禁止となる。8月、スースロワと外国旅行。【1月、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニアで蜂起(~64年)。リンカーン、奴隷解放宣言】。
1864 3月、雑誌『世紀』創刊、『地下室の手記』(『世紀』3~4月)。4月、妻マリアの死。7月、兄ミハイルの死。【2月、プロシアとオーストリアによる第二次デンマーク戦争が起こる(~7月)。3月、ポーランド王国に農奴解放令と農村自治令。7月、蛤御門の変。8月、下関で四ヵ国連合艦隊との戦い】。
1865 2月、『鰐』。6月、『世紀』廃刊。7月、外国旅行。
1866 『罪と罰』(『ロシア報知』1~12月)。
『賭博者』(12月)。【1月、ポーランド王国で学校のロシア化、行政上の独自性の解消政策を実施(~68年)。5月、プロシア・オーストリア戦争(~7月)でプロシアが勝利】。
1867 2月15日、アンナ・スニートキナと再婚、4月14日、ヨーロッパへ旅立つ(~71年)。【2月、フランス軍、メキシコから撤退。マクシミリアン皇帝、銃殺される】5月、ドレスデン美術館でホルバイン、ラファエロ、レンブラント等鑑賞。5月、モスクワでスラヴ大会(~6月)。【6月、パリでポーランド人によるロシア皇帝暗殺未遂事件】。7月、バーデンでツルゲーネフを訪問。論争、絶交を決意。夏~秋、ルーレットに熱中。8月、バーゼル博物館でホルバインの《キリストの屍》鑑賞。【9月、ジュネーヴで国際会議(バクーニンなどが参加)】。9月中旬、「ベリンスキーとの交遊」完成(後に紛失)。『白痴』起稿。11月中旬、『白痴』第1稿破棄。構想をたてなおす。12月、『白痴』の最終プラン決定。【11月、坂本龍馬暗殺される。12月、王政復古の大号令。12月、オーストリア・ハンガリー2重王国の成立】。
1868 『白痴』(『ロシア報知』1~12月)。2月、長女ソフィア誕生、5月、ソフィア死亡。【1月、戊辰戦争始まる(~69年)。3月、五ヶ条のご誓文】。
1869 『白痴』(『ロシア報知』2月号付録)、ダニレフスキー『ロシアとヨーロッパ』(『黎明』)。9月、リュボーフィ誕生。11月、ネチャーエフ事件。
1870 『永遠の夫』(『黎明』1~2月)。【5月、プロシア・フランス戦争(~71年1月)、9月、ナポレオン3世退位】。
1871 7月、ロシア帰国。『悪霊』(『ロシア報知』1月~11月)。【1月、ドイツ帝国成立。3月、パリ・コミューン勃発。12月、岩倉使節団、米欧回覧に出発(~73年)】。
1872 『悪霊』(『ロシア報知』11月~12月)。12月、雑誌『市民』の編集責任者となる(~74年)。
フョードル・ドストエフスキー(ペロフ画、「ウィキペディア」より)
1873 『作家の日記』を『市民』に掲載。【日本、1月、徴兵令の発布。11月、内務省設置】。
1874 【2月、佐賀の乱、5月、台湾出兵。5月、メーチニコフ来日(~75年)】。
1875 『未成年』(『祖国雑記』1~12月)。 トルストイ『アンナ・カレーニナ』(~77年)
1876 1月、個人雑誌『作家の日記』創刊。
1877 4月、『おかしな男の夢』。【2月、西南戦争(~9月)。露士戦争(~78年)】。
1880 『カラマーゾフの兄弟』(『ロシア報知』1月~11月)。6月、プーシキン像除幕式で講演。【英、アフガニスタンを保護国化、仏、タヒチを領有】。
1881 1月28日死去。 3月、アレクサンドル2世暗殺される。【10月、1889年の国会開設の詔勅】。
注*1、 ポーランド立憲王国は「祖国戦争」後のウィーン会議で認められた王国で、ロシアとの同君連合を柱にし、外交権はロシアに委ねて軍隊も皇帝の統帥 権下におかれたが、自由主義的な憲法を有し、ポーランド語を公用語とした。しかし、1829年にポーランド王として即位したニコライ1世によって、憲法の破棄と王国軍の廃止が宣言され、翌年にポーランドで大規模な蜂起が起きた。
〔グロスマン、松浦健三訳編「年譜(伝記、日記と資料)」『ドストエフスキー全集』別巻、新潮社、1982年、『ロシアとソ連邦』(『世界の歴史』第18巻、講談社、1978年)、『新日本史主題史年表』(清水書院、1991年)、および『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』(人文書館、2009年)などを元に編集、作成した。【】内には外国での主な出来事を示し、日本での出来事は靑い字で記す〕。