リンク先→タイトル一覧(年表とブログ・タイトル)
(ネヴァ川から見たエルミタージュ美術館。かつてはロマノフ王朝の冬の宮殿。図版は「ウィキペディア」より)
「ロシア史関連年表」
Ⅰ、キエフ・ロシアとギリシャ正教の受容
313 ロ-マ帝国、キリスト教を公認
392 キリスト教がロ-マ帝国の国教となる
395 東ローマ帝国(ビザンツ帝国、~1453)と西ローマ帝国(~476)に分裂
4~6世紀 諸民族の大移動。スラヴも移動を開始。
862頃 リューリク、ノヴゴロドの支配者となる→リューリク朝
863 キリル兄弟、大モラヴィア国(現在のチェコの一部)で布教開始
864 第一ブルガリア帝国、キリスト教を受容
867 キリスト教の東西教会分裂
882 オレ-グ、イーゴリを擁してキエフ占領(キエフ公国成立)
926 シメオン、ブルガリア教会の大主教を総主教に昇格
962 ザクセン国王オットー1世、神聖ローマ帝国を建国
966 ポーランドのミエシコ1世、カトリックを受容
980頃 ウラジ-ミル、キエフ大公となる
988頃 東ローマ帝国からキリスト教を受け入れ、ロシア正教会はコンスタンチノープル*総主教区の府教区となる
1019 ヤロスラフ賢公の治世
1037 キエフにソフィア聖堂建立(ペチェネグ人に対する勝利記念)
1054 東方教会と西方教会の最終的分離
1095 ノヴゴロドで公を初めて選出、自立化進む
1113 ウラジーミル・モノマフ、キエフ大公となる。『ロシア原初年代記』(『過ぎし年月の物語』)が編まれる
1132 スズダリがキエフより分離、ユーリー・ドルゴルーキーが統治
*コンスタンチノープルは現在のイスタンブール。
Ⅱ.キエフ大公国の滅亡とモスクワ公国の台頭(1147~1547)
1147 初めて年代記にモスクワの名前が現れる。
1187頃 『イーゴリ公軍記』
1204 第四回十字軍コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)占領
1223 モンゴル軍の最初の来襲。
1240 モンゴル軍、キエフを破壊。
1242 ノヴゴロドのアレクサンドル・ネフスキー、ドイツ騎士団を破る。
1243 バトゥ、キプチャク・カン国を建てる。
1283頃 ダニール・アレクサンドロヴィチ、モスクワ公となる。
1299 府主教座がキエフからウラジーミルに移る。
1380 モスクワ公ドミトリー・ドンスコイ、クリコヴォの戦いでモンゴル軍を破る。
1437頃 カザン・カン国成立。
1438~39 フィレンツェの宗教会議(東西教会の合同)
1448 ロシア正教会、コンスタンチノープル総主教を離れ独立教会となる
1453 コンスタンチノープル陥落
1472 イワン3世(大帝)、東ローマ皇帝の姪ソフィアと結婚
(双頭の鷲を紋章として東ロ-マ帝国の後継者と称する)
1478 モスクワ、ノヴゴロドを併合。北東ロシア統一進む。
1479 古都ウラジーミルのウスペンスキー聖堂を模範とするウスペンスキー寺院がクレムリンに完成。
1480 ロシア、キプチャク・カン国の支配から脱する。
1492 スペインでレコンキスタ(再征服運動)終了。
1530 イワン4世誕生(雷帝、~84)。→織田信長(1534~82)。
1534 ヘンリー8世、「国王至上法」発布、イギリス国教会成立。
1547 イワン4世(雷帝)、ロシア最初のツァ-リとして即位する。
*クレムリン(ロシア語ではクレムリ)とは城壁のこと。古い街にはクレムリがある。
〔この年表は栗生沢猛夫『ロシアの歴史』(河出書房新社)、外川継男『世界の歴史』第18巻(講談社)、烏山成人『ビザンツと東欧世界』(講談社)、『ロシア・ソ連を知る事典』(平凡社)、R・ブラウニング、金原保夫訳『ビザンツ帝国とブルガリア』(東海大学出版会)、柴宣弘『バルカン史』(山川出版社)などを参考にして作成した〕