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年表8、『若き日の詩人たちの肖像』関連年表(1918~1945)

年表8、『若き日の詩人たちの肖像』関連年表(1918~1945)

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

『若き日の詩人たちの肖像』関連年表(1918~1945)

*芥川龍之介は芥川と小林秀雄は小林、黒澤明は黒澤、堀田善衞は堀田と略記する)

1918年(大正7年)  【第一次世界大戦終結。1914~】。堀田善衞、7月17日、富山県射水郡伏木町(現・高岡市)に生まれる。父・堀田勝文、母・くにの三男で末っ子。生家は江戸時代から続く廻船問屋を営む旧家だった。

1922年(大正11年) 芥川、「将軍」(『改造』1月号)、「藪の中」(『新潮』」1月号)

1923年(大正12年)  黒澤、兄丙午の勧めで関東大震災を観察する。

1925年(大正14年)     【治安維持法、普通選挙法公布】。堀田、七歳。伏木尋常小学校に入学。小林、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。中原中也と識る。 黒澤丙午、映画説明者として須田貞明と名乗る。

1927年(昭和2年)  芥川龍之介『河童』、7月、自殺。 小林、9月、「芥川龍之介の美神と宿命」(『大調和』)

1928年(昭和3年)   【治安維持法が強化される】。 小林、3月、東京帝国大学卒業。 黒澤、第15回「二科展」入選、油彩「静物」。

1929年(昭和4年)  3月、堀辰雄「芥川龍之介論――藝術家としての彼を論ず」(「東京帝国大学卒業論文」)。 黒澤、4月、日本プロレタリア美術家同盟(ナップ)に参加。小林多喜二「蟹工船」。 小林、9月、『様々なる意匠』が『改造』懸賞評論二席入選(一席は宮本顕治『「敗北」の文学』)

1930年(昭和5年)   【1月、ロンドン海軍軍縮会議、浜口首相が狙撃される】。 黒澤、徴兵検査後、兵役免除。この頃から地下活動(~1932年春)。林房雄、日本共産党への資金提供を理由に検挙。治安維持法違反で検挙。のち起訴され、豊多摩刑務所に入る。

1931年(昭和6年) 【満州事変】。堀田、13歳。石川県金沢市の県立第二中学校に入学。家業が傾いたため、中学時代は親戚の楽器店やアメリカ人宣教師宅に下宿する。音楽家志望だったが、耳の病気にかかり断念。

1932年 (昭和7年)   【上海事変、満州国成立、五・一五事件】。小林、4月、明治大学に文芸科が創設され、講師に就任 6月、「小説の問題Ⅰ」(映画《アメリカの悲劇》論、『悪霊』論)。 6月、「現代文学の不安」(『改造』) 9月、「Xへの手紙」(『中央公論』)。 黒澤、地下活動より脱落、兄丙午の長屋に身を寄せつつ映画館に通う。/林房雄、 転向して出所。鎌倉に転入。『青年』発表。「新潮」で『作家として』で転向を表明。

1933年(昭和8年)   【1月、ヒトラー内閣成立。2月、小林多喜二が拷問で死亡。 3月、日本、国際連盟から脱退。5月、京都帝国大学で滝川事件】。 小林、1月、「『永遠の良人』」(『文藝春秋』)。 黒澤、7月、兄・丙午が自殺。 小林、林房雄などと10月、『文學界』の創刊にかかわる。 12月、「『未成年』の独創性」(『文藝』)。

1934年(昭和9年)  【ワシントン条約の破棄を通告する】。 小林、1月「文学界の混乱」(『文藝春秋』)。 1月「アンドレ・ジイドのドストエフスキイ論」。 2月、「『罪と罰』についてⅠ」(第1回、『行動』)。 4月、「レオ・シェストフの『悲劇の哲学』」(『文藝春秋』)。 5月、「『罪と罰』についてⅠ」(第2回、『文藝』)。 7月、「『罪と罰』についてⅠ」(第3回、『行動』)。 9月、「『白痴』についてⅠ」(~35年10月、『文藝』)。 「レオ・シェストフの『虚無よりの創造』」(『文學界』)。

1935年(昭和10年)  【「天皇機関説」事件】。小林、1月、『ドストエフスキイの生活』を連載し始める(~37年3月号)。 3月、「再び文藝時評に就いて」(『改造』)。雑誌『日本浪曼派』創刊(~1938年3月)、8月3日、「国体明徴声明」、8月12日、相沢事件(皇道派の将校による統制派の永田鉄山の殺害、10月、「第二次国体明徴声明」、小林、「『地下室の手記』と『永遠の良人』」(~36年2月)。

1936年(昭和11年) 【ロンドン軍縮会議から脱退。二・二六事件。11月、日独防共協定】。堀田、18歳。入試のために上京したところ、二・二六事件に遭遇する。慶応大学法学部政治学科予科に進学。/ 小林、1月、「作家の顔」(『読売新聞』)。 2月、「私信」 4月、「思想と実生活」(『文藝春秋』)。「中野重治君へ」(東京日日新聞)、 5月、合評会『夜明け前』について(『文学界』)。 小林、6月、「文学者の思想と実生活」(『改造』)。 8月、「『ドストエフスキイの精神分析』」(書評、『帝国大学新聞』) 9月、「J・M・マリィ『ドストエフスキイ』」(書評、『文學界』)。 10月、「林房雄『浪曼主義のために』11月、「『罪と罰』を見る」(『読売新聞』)、12月、小林、「文学の伝統性と近代性」。/黒澤、PCL映画製作所(東宝の前身)に助監督として入社。 小林、明治大学で「日本文化史研究」を講じる

1937年(昭和12年)【3月、『国体の本義』発行。7月、蘆溝橋事件から日中戦争がおこる。~1945年、11月、防共協定にイタリアが参加】。小林、1月、「ドストエフスキイの時代感覚」(『改造』)。3月、中野重治「文学における新官僚主義」。 小林、6月、「『悪霊』について」(~11月、未完、『文藝』)。 11月、「戦争について」(『改造』)。

1938年(昭和13年)  【国家総動員法が公布される】。 『日本浪曼派』(3月終刊)。小林、6月、明治大学教授に昇格。  黒澤、8月、助監督として参加した山本嘉次郎監督の『綴方教室』公開。 小林、10月、「歴史について」(第1章、第二章、『文學界』)。

1939年(昭和14年) 【5月~9月、ノモンハン事件】 堀田21歳。慶応大学法学部政治学科に進学。/  小林、3月、「映画批評について」(『日本映画』)    5月、「歴史について」(全5章、『文藝』)。  5月、「歴史について」を序文とし『ドストエフスキイの生活』(創元社)を出版。  8月、「疑惑Ⅱ」(『文藝春秋』)。

1940年(昭和15年) 【9月、日独伊三国同盟締結。11月、紀元2600年式典】 堀田、文学部仏蘭西文学科に転科。在学中の学友に白井浩司(仏文学者) 加藤道夫(劇作家)、芥川比呂志(俳優)らがいた。 / 小林、9月、「ヒットラアの『我が闘争』」(書評、『朝日新聞』)。10月、林房雄、石川達三との鼎談「英雄を語る」(『文學界』)。11月、林房雄との対談「歴史について」(『文學界』)。

1941年(昭和16年) 【3月、国民学校令の公布、7月、『臣民の道』発行、12月、真珠湾攻撃、太平洋戦争が始まる】 黒澤、3月、製作主任としてついた山本嘉次郎演出、高峰秀子主演の映画《馬》公開。 小林、3月、「歴史と文学」(『改造』、芥川龍之介の『将軍』を否定的に言及)。 10月、「カラマアゾフの兄弟」(~42年9月、未完、『文藝』)。林房雄、『転向について』を発表

1942年(昭和17年) 堀田、9月、大学を繰上卒業。国際文化振興会に就職する。卒業論文はランボーと『白痴』のムィシキンについて、大学在学中から詩の同人誌「荒地」などに参加し、鮎川信夫、田村隆一、中村真一郎、加藤周一らを知り、大学卒業後は、吉田健一を通じて「批評」の同人となり、中村光夫、河上徹太郎、小林秀雄、山本健吉らを知る。これら同人誌に詩、エッセイ、評論などを発表する。/小林、3月、「戦争と平和」(『文學界』)、 9月、10月、座談会《文化総合会議 近代の超克》(『文學界』)、日本文学報国会評論随筆部会常任理事に就任。

1943年(昭和18年) 【5月、アッツ島で日本軍全滅】。堀田、軍令部臨時欧州戦争軍事情報調査部に徴用される。黒澤、1月、脚本に参加した映画《愛の世界・山猫とみの話》が公開。 3月、《姿三四郎》公開。 小林、9月、「ゼークト『一軍人の思想』について」(『文學界』)。

1944年(昭和19年) 堀田、東部第48部隊に召集されるが、骨折による胸部疾患のため召集解除となる。

1945年(昭和20年)【3月、沖縄戦が始まる。8月、広島・長崎に原爆投下、日本、ポツダム宣言受諾年表】。

堀田、国際文化振興会に戻り、3月10日の東京大空襲を体験。その後、派遣されて中国に行く。上海で中日文化協会に勤めていた武田泰淳、石上玄一郎と知り合う。また草野心平を知り、詩誌「歴程」の同人となる。敗戦後の12月、中国国民党宣伝部に留用される。     

 

(本年表はスタジオジブリの「堀田善衞年譜」とホームページの「黒澤明・小林秀雄関連年表などを参考に作成した)

スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI

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