高橋誠一郎 公式ホームページ

ドストエフスキー

中川久嗣著『ミシェル・フーコーの思想的軌跡――<文明>の批判理論を読み解く』(東海大学出版会、2013年)

ミシェル・フーコーの思想的軌跡 - 〈文明〉の批判理論を読み解く (書影は「KINOKUNIYA WEB STORE」より)

 

序に代えて フーコーとドストエフスキー

私がフーコーを強く意識するようになったのは、『講座比較文明』第1巻の『比較文明学の理論と方法』に掲載された中川氏の「ヨーロッパ近代への危機意識の深化(2)――ニーチェとフーコー」を読んだときであった*1。

この論文の題名に(2)という番号が付いているのは、ドストエフスキーを中心にロシア思想史の流れを概観した私の論文「ドストエーフスキイの西欧文明観」が「ヨーロッパ近代への危機意識の深化」の(1)として置かれていたからである。

ただ、なぜ「ドストエフスキー」から「フーコー」なのか、私には当初その流れがよく理解できなかったが、フーコーは最初の著作『狂気の歴史』の冒頭でパスカルとドストエフスキーに触れてこう書いていた。

「パスカルによると、『人間が狂気じみているのは必然的であるので、狂気じみていないことも、別種の狂気の傾向からいうと、やはり狂気じみていることになるだろう』。またドストエフスキーには『作家の日記』のなかに、『隣人を監禁してみても、人間は自分がちゃんと良識をもっているという確信をもてない』という文章がある」。

そして、「非理性が理性の恥辱、その表向きの恥辱であることをやめるためには」、パスカルから2世紀後の「ドストエフスキーとニーチェまで」待たねばならないと第5章で記したフーコーは、「キリストは万人の目に自分が狂人――自らの托身によって、人間の失墜のあらゆる惨めさをたどる狂人――に見えることをも欲したのである」とも書いていた*2。

この文章を目にしたときに私は、若きドストエフスキーが兄ミハイルへの手紙で「私にはプランがあります。それは狂人になることです」と記していたことを思い出した。ドストエフスキーが「哲学に反対することは、それ自体哲学することです」とも書いていたことを想起するならば、フーコーの記述は検閲がきわめて厳しく「言論の自由」がほとんどなかった「暗黒の30年」と呼ばれる時代に青春を過ごしたドストエフスキーの小説の方法をも説明しているように思われる*3。

それゆえ、『狂気の歴史』を読んだ後では、この論文集の「総論」で「ヨーロッパ文明が唯一の文明と想定されるにいたった」19世紀の学的〈近代〉パラダイムを超える「新しい知の形成」の必要性を強調していた比較文明学会理事(当時)の神川正彦氏が、近代的な知の根源に迫ろうとしていたドストエフスキーとフーコーの作品の考察をも組み込むことで、「比較文明学という学的パラダイムの構築」を企画していたことに気づいた*4。

この論文集に掲載された「トインビーのルネサンス論をめぐる再検討」などを含む三宅正樹・明治大学名誉教授の『文明と時間』(東海大学出版会、2005年)についてはこの学会誌に書く機会を得た*5。今回はミシェル・フーコーの最初の著作『狂気の歴史』(1961年)から最晩年の『自己への配慮』(1984年)に至るまでの著作までが詳しく論じられている中川氏の『ミシェル・フーコーの思想的軌跡』が出版された。この著作からも強い知的刺激を受けたので、この機会に本書の内容をなるべく忠実に紹介しながら、比較文明学的な視点からドストエフスキーの作品にもふれつつフーコーの意義を考えてみたい。

1,フーコーの著作と「他者の思想」

「はじめに」でフーコーについて「哲学と歴史(そしてしばしば心理学や文学)を軸とした幅広い人文諸科学の領域において、実に多様な思想を展開した思想家であった」と記した著者は、彼の行った知的活動を次のように簡単に紹介している。

「精神医学、司法、監獄、言説(ディスクール)、権力、知、生-権力(バイオ・パワー)、性(セクシュアリテ)」など、「多様なテーマ・領域を貫く形で」、「『権力』と『知』の間の濃密な結びつき(すなわち『権力-知』」)の分析およびそれに対する批判的な論述を行った」。

その後で著者は本書の方法について、「フーコーのテクストを丹念に追いながら、彼が諸著作・諸論文において展開した『権力-知』についてのさまざまな批判的分析を、可能な限り一貫したやり方で」行うと明確に記している。

本書は以下の章から構成されている。

第1章 『狂気の歴史』と思考の可能性 ――フーコー・デリダ論争をめぐって

第2章 『言葉と物』における他者の思考について

第3章 『知の考古学』における言表/言説の実定性について

第4章 『知への意志』から『快楽の活用』へ――フーコーの「自己の倫理」の問題系と「権力-知」批判

第5章 ローマ帝政期における自己への配慮と批判的知の問題――古代倫理をめぐるミシェル・フーコーの比較研究について

第6章 ミシェル・フーコーの批判理論――いわゆる規範的問題をめぐって

第7章 ミシェル・フーコーの比較文明論――境界からの批判的思考の可能性について

『狂気の歴史』(正式な題名は『古典主義時代における狂気の歴史』)を扱った第1章では、この書でフーコーが「西洋近代理性が、非理性的存在(ここでは狂気)を自分自身にとって根本的な『他者』として同定し、それを分離・排除することで自らのアイデンティティーを確定してゆく有様を叙述」していることを明らかにしている。

そして、フーコーとデリダの論争を中心に考察しながら、「狂気」の問題は、「理解不可能な他者を前にして、思考がいったい何をなしえるのか、また何をなすべきか(あるいは何をなすべきでないか)という、倫理的問題に帰着する」とした著者は、フーコーが「デカルト的省察を西洋近代文明における理性の思考の代表であるとして、それ以外の思考の可能性を認め、また他者的要素の思考の内部への方途を模索しようとするのである」と書いている。

このような指摘は齋藤博・元東海大学文明学会会長が、「我思う、ゆえに我あり」を哲学の第一原理としたデカルト以降、近代西欧哲学では「世界観としての自我論的なパラダイム」が定着する中で、「他者」が「廃棄」されてしまったので、共存の問題を考える「文明理論の構築には、他者論の展開が不可欠の基礎作業である」と記していたことを想起させる*6。

著者にはすでに「他者」を主題とした共著があるが、フーコーの著作をとおして他者論の問題を深く考察したこの著書は、「文明理論の構築」を求めた重たい要請に答えるものでもあるといえるだろう*7。

本稿における私の関心は、フーコーの後期の著作『監視と処罰』(1975年)とドストエフスキーの『死の家の記録』との関係を中心に分析することで、「権力-知」と「他者」の問題がどのように深められているかを考察することにある。この意味で注目したいのは、「前期フーコーの方法論とされる『考古学』が、いかに後期フーコーの権力論の下地を形作り、準備するものであったのか」についても著者が詳しく検討していることである

フーコーの主著の一つとされる『言葉と物』(1966年)を論じた第2章では、古典主義時代(17・18世紀)の「表象作用によって人間に獲得された世界という記号群」が何よりも「同一性と差異性の原理に従って」、「『表』の形をした体系のうちに分配」され、「この時代の三つの大きな学問」である「一般文法」「博物学」「富の分析」もそれぞれの体系を完成することを目指していたと指摘している。

前期最後の著作として位置づけられる『知の考古学』(1969年)を論じた第3章では、この時期にフーコーが、「一貫した特徴・型・形式を抽出することの可能な独自のシステムを持つひとかたまりの総体、つまり社会や文化や文明といった、時間空間的に限定された大きな歴史的単位を分析するという基本姿勢をとっている」ことに注意を促した著者は、『知の考古学』が「各時代の支配的な知を構成する言表/言説の出現と、それにかかわる規則性の分析に主たる関心を払うこの時期のフーコーの、いわば理論的な総括となっている」と指摘している。

それとともに注目したいのは、第2章で「古典主義的な世界認識にあっては、たとえば博物学などに典型的に見られるように『自然のうちには連続性がある』と考えられなければならない」と分析していたフーコーが、第3章では「一九世紀の思考を規定している」「歴史的・時間的連続性」を指摘しているとし、「連続性の原理を基盤とする『同一者の思考』に対して、フーコーがひとつのアンチ・テーゼとしてこの『非連続性』の観点を提出しようとしていること」に著者が注意を促していることである。

2,「権力-知」の分析と「監視社会」の考察

論文「ニーチェ、系譜学、歴史」(1971年)には「フーコーの思想において中心的な役割を持つ『他者』『知』『批判』という三つの大きな概念を有機的に結びつける核心がある」と指摘した著者は、後期の方法論たる「系譜学」が、「ものごとの今現在の価値づけや意味づけを批判的に動揺・解体させようと試みるもの」であり、「『系譜学』は現在を批判するために、まさしく歴史を用いるのである」と記している。

そのような方法で書かれたのが1975年の『監視と処罰』であり、前期の諸著作にあっては「言表/言説の編制とそれを支配する規則性の分析にウエイトが置かれていた」ために、「具体的な社会的諸制度との関わりへの視点が比較的希薄であったが」、この著作は「一七世紀以来の近代西欧を全面的に覆う規律-訓練型権力システムの出現について」考察している。

では、『監視と処罰』においてはこの問題がどのように描かれているのだろうか。フーコーはロシアのエカテリーナⅡ世(在位1762~96)が、1767年に発布した『訓令』(ナカース)には死刑や体罰の廃止を強く求めたベッカリーアの『犯罪と刑罰』(1764年)の思想やモンテスキューなどの思想が盛り込まれ、実際にはあまり機能しなかったものの、理念的には法哲学の最新の成果が取り入れられていたことを指摘している*8。

この記述からは作家ドストエフスキーを生んだロシア帝国の法制度に対するフーコーの強い関心がうかがえるので、ドストエフスキーの場合と比較しながら具体的に見ていきたい。

農奴制の廃止や言論の自由などを求めたために1848年のペトラシェフスキー事件で逮捕され、死刑の宣告を受けた後に減刑されてシベリアの監獄に流刑になったドストエフスキーは『死の家の記録』において、肺病で死んでいく病人ですら足枷を外されなかったことに注意を促して、「足枷は――恥辱をあたえる一つの罰なのである。恥辱と苦痛、肉体と精神に加えられる罰なのである」と記している*9。

一方、監獄の考察をとおして鋭く「権力-知」の問題に迫ったフーコーも、囚人たちが足枷につながれて移送されることについて、「鉄鎖の一群の大がかりな光景(=見世物)は、身体刑の公開の古い伝統につながっていた」と指摘している*10。

興味深いのはドストエフスキーが「病院」が、「民衆をおびやかしているいちばん大きな理由」として、「ドイツ式の病院規則、病気のあいだじゅう見知らぬ人に取巻かれていなければならぬこと、食事のきびしい制限、衛生兵や医師のがんこなきびしさについての噂、死体の切開や解剖の話など」を挙げていることである。

ドストエフスキーは「病院」と題したこの章で、笞刑を行うことに慣れた刑吏の心理を分析して、「他者」の存在に対して、「もっとも残酷な方法で侮辱する権力と完全な可能性を一度経験した者は、もはや自分の意志とはかかわりなく感情を自制する力を失ってしまうのである」と指摘し、「暴虐は習慣である」と断言していた。

ドストエフスキーはさらに「刑吏の特性の芽は現代の人々のほとんどが持っている」と書き、「わたしが言いたいのは、どんなりっぱな人間でも習慣によって鈍化されると、野獣におとらぬまでに暴虐になれるものだということである。血と権力は人を酔わせる」と書き、「どんな工場主でも、どんな事業経営者でも、自分の労働者はときには家族ぐるみすっかり自分の思いどおりになるのだと考えて、一種のうずくような満足をおぼえるに相違ないのである」と続けている。ここには「権力」の危険性が鋭く指摘されているといえよう*11。

厳しい刑罰のことが詳しく描写されるこれらの章が「病院」と題され、病院や医師の考察がなされているのは一見奇妙に思われる。しかし、フーコーは近代における病院の役割が軍隊に続いて大きかったとし次のように記している。「病院、ついで学校、もっと後に工場は、単に規律・訓練によって《秩序化される》にとどまらなかったのであり、規律・訓練のおかげで、それらは、客体化のあらゆる機構がそこでは服従強制の道具という価値をもちうる、しかもそこでは権力のあらゆる増大が存在可能な知識を生み出す、そうした装置になった」*12。

このように見てくると、ドストエフスキーの監獄観とフーコーの監獄観がきわめて似ていることに気づくが、類似の一因は若い頃に「空想社会主義者」のフーリエから強い影響を受けていたドストエフスキーが、たとえ理想社会に見えようともプライヴァシーさえも完全に管理されるような社会の問題点を、シベリア流刑後に『地下室の手記』で鋭く指摘することになるためだろう*13。ベンサムを「治安本位の社会のいわばフーリエ」であると呼んだフーコーも、フーリエの提唱した理想社会の住居である「ファランステール(共同体住居)」を「〈一望監視施設〉の形式」をとっているようだとも記している*14。

フーコーの記述によって功利主義者のベンサムが考案した監獄の新しい建築様式「一望監視施設」を一瞥しておこう。それは「中心に塔を配して、塔には円周上にそれを取巻く建物の内側に面して大きい窓」をいくつも持ち、周囲の「円環状の建物」は、「独房に区分け」されており、「中央の塔のなかに監視人を一名配置して、各独房内には狂人なり病者なり受刑者なり労働者なり生徒なりをひとりずつ閉じ込めるだけで十分」な施設なのである。

つまり、フーコーの言葉を借りれば、「一望監視施設」は「見る=見られるという一対の事態を切離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである」*15。

こうして、技術が発展した近代においては「監視」の面でも、「権力を持つ」「少数者に、さらには唯一の者に、大多数の者の姿を即座に見させる」ことを可能としたことを指摘したフーコーは、ナポレオンを「過去の王権の簒奪者であると同時に新しい国家の組織者である君主」と位置づけ、ナポレオンこそが「統治権の君主的で祭式本位な行使」と「際限のない規律・訓練」との「接合点に位置する」と規定している*16。

この意味で注目したいのはドストエフスキーが長編小説『罪と罰』で、自分をナポレオンのような「英雄」であると見なし、「悪人」と決めつけた高利貸しの老婆の殺害を行った若き主人公の行動と苦悩をとおして、「自己」の絶対化の問題点をえぐり出していたことである。

『監視と処罰』では言及されていないが、権力者の元にすべての情報が集まるような仕組みの危険性は、核戦争後で3つの超大国によって分割統治されるようになった世界が描かれているジョージ・オーウェルの長編小説『1984年』(1949年)ですでに描かれていた。ことに「テレスクリーン」という双方向のテレビによって市民のほとんどの活動が監視されているという状況は、全体主義的な国家のみならず、現代の監視管理社会の問題をも先取りしていたといえよう。

ロシア文学との関わりで興味深いのは、革命後の1920年から21年にザミャーチンが書いた長編小説『われら』ではどんな個人的な会話も記録されることで個性を全く奪われるという未来の全体主義国家をすでに詳しく描いており、1924年に英訳されたこの作品は1949年に刊行されたオーウェルの小説にも影響を与えていたことである。

ザミャーチンが「この小説は人類をおびやかしている二重の危険――機械の異常に発達した力と国家の異常に発達した力――に対する警告である」と語っていたことを紹介した訳者の川端香男里氏は、「自然を圧殺する科学技術、産業文明、組織化される統治技術など」に向けられたザミャーチンの視野は、『カラマーゾフの兄弟』における「大審問官伝説」や『悪霊』のシガリョフの言葉とも深く関わっていると記している*17。

著者はフーコーがヨーロッパ社会を「監視文明」と呼んでいたことを紹介しているが、現代の世界ではインターネットの普及により情報の量は格段に増える一方で、米国家安全保障局による世界各国首脳の通話の盗聴が明るみに出るなど、「敵対国」だけでなく「友好国」相互でも「監視」が進んでいる。

その意味でも「監獄」の詳しい分析を通して「権力」と「他者」の問題に迫った『監視と処罰』の意義は大きいといえるだろう。

 3,「自己への配慮」とフーコーの比較文明論的な視野

フーコーが死ぬ直前に発行された『快楽の活用』と『自己への配慮』が出版されると、「多くの失望」の声があがったと著者は記している。たしかに『監視と処罰』の後で、急に古代のギリシアやローマの倫理をめぐる比較研究という幾分古めかしいテーマを示されると腰が引ける感じがしていた。

しかし、「古代ギリシアにおける自己の倫理と『権力-知』の問題――ミシェル・フーコーの古代研究について」という題名で行われた第91回比較文明学会の例会での講演を聴いて驚いたのは、それが現代にも通じるきわめて新鮮な切り口であったことである*18。

本書でも著者は「フーコーはあくまでも考古学者として、古典古代という古層を発掘し、それをありのままに復元している」という批判に対して、「古典古代の自己・主体の倫理に関する」研究も、「あくまでも系譜学、しかも出来事が力の場で繰り広げられるダイナミックなあり様を分析しようとする批判的な系譜学の試みとして、受け取る必要がある」と主張している。

著者によれば、「中世キリスト教の修道的倫理とその自己認識を一貫して『自己放棄』を目指したもの」であると指摘したフーコーは、「ギリシア的自己認識」についても、その本質は「記憶や想起に基礎を置いて行われる『神的な要素としての自己の認知』である」と指摘していた。

一方、フーコーが例に挙げている「ローマ的な自己認識」は、「自己の不適正な言動や誤った行為に対して注意深く警戒・審査・査察の視線を注ぎ、絶えず試練のふるいにかけるような知の形式」であり、それは「自己に向けられた強力な『批判』的な視線であると言ってよい」と著者は記している。

興味深いのはセネカなどのストア哲学を好んだロシアの作家チェーホフが、友人の俳優にマルクス・アウレリウスの『自省録』を勧めて次のように語っていたことである。

「あなたが読みたがっておられるマルクス・アウレリウスを送ります。空欄に鉛筆で書き込みがありますが、気にしないでお読みください。続けて全部、お読みください――なぜなら全部、同じように素敵ですから。」

このことを記したロシア文学者の佐藤清郎氏は、19世紀末のロシアではセネカなどのストア哲学が、「多くの知識人の間でかなり広く読まれていたそうです」とも記している*19。

ストア派のセネカの著書『心の平静について』にも言及した著者は、「フーコーがしばしばローマ期の自己への配慮と医学・医術との類比に注目している」ことを指摘しているが、世紀末の混乱の時期を生きた作家のチェーホフが医師でもあったことを思い起こすと彼の言葉は「古典古代の自己・主体の倫理に関する」フーコーの哲学を考える上でも含蓄の深い言葉だと思える。

なぜならば、2001年の「同時多発テロ」を「新しい戦争」の勃発ととらえて「報復の権利」の行使としてアフガンへの空爆を行ったブッシュ政権は「悪の枢軸国」と名付けたイラクとの戦争にも踏み切っていたからである。しかし、「大量破壊兵器」が見つからなかったために、この戦争には「大義」がなかったことが明白になった*20。こうして、圧倒的な軍事力の差からアフガンのタリバン政権やイラクのフセイン政権は簡単に打倒されたが、それが中東情勢やアフガンの混乱、さらには「イスラム国」の問題とも直結しているように見える。

『比較文明学の理論と方法』に載せた論文で私は若い頃にフーリエの思想から強い影響を受けていたダニレフスキーがクリミア戦争(1853~56)によって激しく西欧文明に幻滅した後では、『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的政治的諸関係の概観』(1869)で、攻撃的な西欧から仕掛けられる戦争で亡ぼされないために「全スラヴ同盟」を作ることの必要性を説き、ドストエフスキーも『悪霊』や『作家の日記』を書いていた頃にはこのような考えから強い影響を受けていることを示唆した*21。

後期のドストエフスキーとダニレフスキーの文明論の問題点についてはいずれ稿を改めて考察することにしたいが、ここでは権力の奪取の方法を想定していなかったために批判されたフーリエの思想を、若きドストエフスキーが「悪意ある攻撃によってではなく、人類愛によって人を鼓舞する」と説明していたことを指摘しておきたい*22。

「権力-知」の問題をとおして他者の「理解可能性」を模索したフーコーの著作が、「思考のうちに『他者』を取り込んだ形で、『他者』とともに成立する新しい主体性の形式を目指そうとするものである」と著者は記している。最近はドストエフスキーの文学を「父殺しの文学」とスキャンダラスに捉えるような傾向も見られるが、ドストエフスキーは最後の長編小説『カラマーゾフの兄弟』で、「他者」を殺すことや自然との関わりの問題を哲学的な深さで展開していたのである。

「フーコーの一連の批判的な歴史分析の仕事は、具体的には西欧文明の『権力-知』をめぐる合理性の歴史を扱い、権力や力に貫かれた西欧文明の来歴を明らかにし、その実際の姿をあらためて認識すること」であったとした著者は、「自己の歴史こそが唯一の正当性を持つとの考えの否定は、自己とは異なる他者の歴史の存在、自己とは異なる別のあり方の再認識に私たちを導いてくれるのである」と続けている。

このようなフーコーの「他者」の認識は、比較文明学の創始者といわれるトインビーの見方にも通じるであろう。世界戦争を引き起こすにいたった近代西欧の「自国」中心の歴史観がはらむ危険性を深く認識したトインビーは、『フランス文明史』を書いたギゾーや『イギリス文明史』を書いたバックルが唱えた歴史観を大著『歴史の研究』において「自己中心の迷妄」と厳しく批判したのである*23。

「比較」という方法の重要性にも注意を喚起した著者は、「フーコーは力のシステムたる文明の現実/裏面を単に顕わにし、分析するだけではない。彼の仕事は、そうした文明の力のシステムを批判し、かつそれを変容させようとする強い動機に裏打ちされている」と書き、次のように結んでいる。

「過去と未来を同時に見据えようとするフーコーの『〈文明〉の批判理論』は、それ自体、そうした力の可能性のひとつを明らかにしてくれるものなのである」。

本書の書評で加藤泰氏は、フーコーが最初の著作で明らかにしたことは〈「狂気」をまえにした「理性」にとってのみならず、人類が「深い多元性」(コノリー)をもつ存在である限り根源的な意義をもつ〉と指摘するとともに、「フーコーを『文明』についての批判理論として明晰に理解する試みはこれまでほとんどなされたことはないのではないか」と結んで本書の意義を高く評価している*24。

博士論文をもとにした著作なので多少難解な点は残るが、哲学や歴史の研究者のみならず、文学や比較文明学をめざす若手の研究者にもぜひ読んでもらいたい書物である。

 

*1 中川久嗣「ヨーロッパ近代への危機意識の深化(2)――ニーチェとフーコー」、伊東俊太郎・梅棹忠夫・江上波夫監修『講座比較文明』第1巻、神川正彦・川窪啓資編『比較文明学の理論と方法』、朝倉書店、1999年、64~79頁。

*2 フーコー、田村俶訳『狂気の歴史――古典主義時代における』、新潮社、1975年、177~178頁。

*3 高橋『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』、成文社、2007年、66~67頁。

*4 神川正彦「比較文明学という学的パラダイムの構築のために」、前掲書、『講座比較文明』第1巻、1~13頁。

*5 高橋、書評「三宅正樹著『文明と時間』」、『文明研究』、第31号、2012年。

*6 齋藤博「他者のトポロジー」、『文明』、第39号、1983年、20頁

*7 中川久嗣・石浜弘道・浅見聡『他者の風景──自己から関係世界へ』、批評社、1990年。

*8 フーコー、田村俶訳『監獄の誕生――監視と処罰』、新潮社、1977年、121頁。

*9 ドストエフスキー、工藤精一郎訳『死の家の記録』、『ドストエフスキー全集』第5巻、新潮社、1979年参照。

*10 フーコー、田村俶訳、前掲訳書『監獄の誕生――監視と処罰』、262頁。

*11 高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年、第3章〈権力と強制の批判――『死の家の記録』と「非凡人の思想」〉参照。

*12 フーコー『監獄の誕生――監視と処罰』、引用は桜井哲夫『「近代」の意味――制度としての学校・工場』、NHKブックス、1984年、90頁より。

*13 リチャード・ピース、池田和彦訳『ドストエフスキイ 『地下室の手記』を読む』、のべる出版、2006年、102~128頁。

*14 フーコー、田村俶訳、前掲訳書『監獄の誕生――監視と処罰』、224頁。

*15 同上、202~204頁。

*16 同上、217~218頁。

*17 川端香男里「解説」、ザミャーチン、川端香男里訳『われら』、岩波文庫、1992年、357~371頁。

*18 2011年7月に東海大学高輪校舎で行われた第91回比較文明学会の研究例会については、比較文明学会HPの「研究例会」の頁を参照。

*19 佐藤清郎『わが心のチェーホフ』、以文社、2014年、「チェーホフとストア哲学」参照。

*20 戦争によって問題を解決しようとすることの危険性については、日本価値観変動研究センターの季刊誌「クォータリーリサーチレポート」に連載した8編の論考を再構成した拙論「戦争と文学 ――自己と他者の認識に向けて」『日本ペンクラブ電子文藝館』、2005年参照。

*21 髙橋「ドストエーフスキイの西欧文明観」、前掲書『比較文明学の理論と方法』、58~59頁。

*22 若きドストエフスキーとフーリエ主義との関係については、ベリチコフ編、中村健之介訳『ドストエフスキー裁判』北海道大学図書刊行会、1993年参照。

*23 トインビー、長谷川松治訳『歴史の研究Ⅰ』、社会思想社、1967年、75~76頁。

*24 加藤泰「書評」、『比較文明』第30号、2014年、255頁。

(『文明研究』第33号、東海大学文明学会、2014年、77~81頁)。

(2018年1月20日、書影を追加)

「権力欲」と「服従欲」の考察――フロムの『自由からの逃走』(東京創元社) を読む

1,「権威主義的な価値観」への盲従の危険性と「非凡人の理論」

自らがナチズムの迫害にあった社会心理学者のエーリッヒ・フロム(1900~1980)は、『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社、1985)において、ヒトラーの考えと社会ダーウィニズムとの係わりに注目して、ヒトラーが「自然の法則」の名のもとに「権力欲を合理化しよう」とつとめていたことを指摘していました。さらにフロムは、「種族保存の本能」に「人間社会形成の第一原因」を見るヒトラーの考えは、「弱肉強食の戦い」と経済的な「適者生存」の考え方を導いたと述べています*14。

注目したいのはフロムが、人間の歴史が個人の自由の拡大の歴史であることを確認しながら、それとともに、あまりに個人の自由が大きくなった時、獲得した自由が重みにもなり、人が自らそれを放棄することもあることを指摘しえていることです。

たしかに、近代以降、それまで土地や職業に縛られていた人間は、職業の選択の自由、移動の自由、さらには恋愛の自由など様々な個人の自由を拡大してきました。しかし、自由が大きくなればなるほど、どの道を選ぶかの選択の際の苦悩や不安は深まります。こうして、フロムは自らの道を選ぶことが難しい危機的な状況になればなるほど、人間は自らの自由の重みに耐えられずに、それをより強大な他の人物に譲り、彼に道を選んでもらうことで不安から逃れようとする傾向があることを明らかにしたのです。

この際にフロムはサディズムとマゾヒズムという心理学の概念を用いながら、人間の「服従と支配」のメカニズムに迫り得ています。すなわち、彼によれば、「権力欲」は単独のものではなく、他方で権威者に盲目的に従いたいとする「服従欲」に支えられており、自分では行うことが難しい時、人間は権力を持つ支配者に服従することによって、自分の望みや欲望をかなえようともするのです*15。

フロムは「神経症や権威主義やサディズム・マゾヒズムは人間性が開花されないときに起こるとし、これを倫理的な破綻だとした」(ウィキペディア)としていますが、彼の説明は第一次世界大戦の後で経済的・精神的危機を迎えたドイツにおいて、なぜ独裁的な政治形態が現れたかを解明していると言えるでしょう。

フロムは自分の分析をより分かり説明するために、ドストエフスキーの最後の大作『カラマーゾフの兄弟』から引用していますが*16、私たちにとって興味深いのは、このような問題がすでに『罪と罰』においても扱われていることです。

すなわち、ラスコーリニコフは「凡人」について「本性から言って保守的で、行儀正しい人たちで、服従を旨として生き、また服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務で」ある(三・五)と規定するのです。別な箇所でラスコーリニコフは「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。…中略…自由と権力、いやなによりも権力だ!」と語った後で、「ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(四・四)と続けています。

この「おののく」という特徴的な言葉は、彼がナポレオンのことを想起しながら、路上に大砲を並べて「罪なき者も罪ある者も片端から射ち殺し」「言訳ひとつ言おう」しなかった者の処置こそ正しいと感じた時にも、「服従せよ、おののくやからよ、望むなかれ、それらはおまえらのわざではない」(三・六)と用いられていました。

創作ノートにはラスコーリニコフには「人間どもに対する深い侮蔑感があった」(一四〇)と書かれています。ドストエフスキーは自分の「権力志向」だけではなく、大衆の「服従志向」にも言及させることでラスコーリニコフのいらだちを見事に表現しえているのです。

こうして、ラスコーリニコフの「非凡人」の理念は、劣悪な状況におかれながらも、社会を改革しようとはせず、ただ耐えているだけの民衆に対するいらだちや不信とも密接に結びついていたのです。(中略)

しかも、ドストエフスキーは予審判事のポルフィーリイに「もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ」とラスコーリニコフを批判させていました。

実際、世界を「生存闘争」の場ととらえるならば、かつての「イデオロギー」的な連帯から、「同種の文明国家」の連帯へと変わったと言っても、自らが「鬼」として滅ぼされないために、「圧倒的な力」を持つ文明に対抗して、他の文明も国力を挙げて軍備の拡大や「抑止力」としての核兵器の開発へと進まざるを得なくなるでしょう。

現在も「国益」や「抑止力」の名目で未臨界実験をも含む核実験や核兵器の保持が続けられていますが、多くの学者が指摘しているように、核兵器の使用は「核の冬」など地球環境の悪化による諸文明だけでなく、地球文明そのものの破滅をも意味するでしょう。

そのことをドストエフスキーは、ラスコーリニコフがシベリアの流刑地で見る「人類滅亡の悪夢」をとおして明らかにしていました。夢の中で彼は「知力と意志を授けられた」「旋毛虫」におかされ自分だけが真理を知っていると思いこんだ人々が互いに自分の真理を主張して「憎悪にかられて」、互いに殺し合いを始め、ついには地球上に数名の者しか残らなかったという光景を見るのです。

2,スピノザの「感情論」と『罪と罰』における感情の考察

興味深いのは、ドストエフスキーがこの「人類滅亡の悪夢」を描いた後でソーニャと再会したラスコーリニコフの「復活」を描いていたことです。

つまり、「だれが生きるべきで、だれが生きるべきじゃないか」などと裁くことが人間にできるのかとラスコーリニコフを鋭く問い質していたソーニャの考えには、論理化はされていないにせよ、存在や生命の尊厳に対する直感的な理解があると言えるでしょう。(中略)

貧しさのために大学を退学しなければならなくなり、「自尊心」を傷つけられた中で自分の専門的な知識で組み上げたラスコーリニコフの「論理」の矛盾を、ラズミーヒンが指摘しつつも彼に直接的な影響力を持てなかったのに対し、ソーニャの言葉は彼の感情に訴えかける力をもっていたのです。

この意味で注目したいのは、エーリッヒ・フロムが無意識的力に注目した思想家として、マルクスとフロイトの名を挙げながら、「西欧の思考的伝統の中で」、彼らに先立って「無意識についての明白な概念を持っていた最初の思想家は、スピノザであった」と書いていることです*7。

実際、スピノザは感情の分析をとおして「人間は、常に必然的に受動感情に屈従」するとし、「感情の力は、感情以外の人間の活動、あるいは、能力を凌駕することができる。それほどに感情は頑強に人間に粘着している」という事実を指摘しえています*8。

このような認識は自分が感情や他人の意見に左右されずに、主体的かつ理性的に行動していると考えていた人々にとっては苦痛でしょう。しかし、スピノザが指摘しているように、多くの場合「人々が自由であると確信している根拠は、彼らは自分たちの行為を意識しているがその行為を決定する原因については無知である」という理由に基づいているのです*9。

『未成年』の登場人物は、ある感情のとりこになった人間を正常に戻すには「その感情そのものを変えねばならないが、それには同程度に強烈な別な感情を代りに注入する以外に手はない」(六四)と語っています*10。この言葉は「感情は、それと反対の、しかもその感情よりももっと強力な感情によらなければ抑えることも除去することもできない」というスピノザの定理を強く思い起こさせます*11。

実際、ドストエフスキーが出版していた雑誌『時代』にはストラーホフの訳による「神に関するスピノザの学説」という論文が掲載されており、ドストエフスキーがスピノザの考えをある程度知っていたことは充分に考えられるのです*12。

つまり、評論家のシェストフは、ドストエフスキーが『地下室の手記』(一八六四)で「かつて、自分が拝跪していたものを…中略…泥の中に踏みつけてしまった」と記し、この作家をスピノザなどの哲学とは対立し、ニーチェとともに「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定していましたが、ドストエフスキーにはスピノザ的な哲学にたいする深い理解があったと思えるのです。

私たちはスピノザの感情論を高く評価したフロムの考察をとおして『罪と罰』を読み解くことで、現代日本の問題点にも迫り得るでしょう。

*     *   *

エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳『自由からの逃走』(東京創元社、1985)

序文

第一章  自由――心理学的問題か?

第二章 個人の解放と自由の多義性

第三章 宗教改革時代の自由

1、中世的背景とルネッサンス

2、宗教改革の時代

第四章 近代人における自由の二面性

第五章 逃避のメカニズム

1、権威主義

2、破壊性

3、機械的画一性

第六章 ナチズムの心理

第七章 自由とデモクラシー

1、個性の幻影

2、自由と自発性

付録 性格と社会過程

(拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、初版1996年、新版2000年)、第8章「他者の発見――新しい知の模索」および、第9章「鬼」としての他者」より。註の記述は省いたが、*7については、フロム著、阪本健二・志貴孝男訳『疑惑と行動』、東京創元社、1985、167頁。*8については、スピノザ『エティカ』(『世界の名著』第二五巻)工藤喜作・斎藤博訳、中央公論社、1969、273頁を参照)。

(2016年7月28日。「『罪と罰』とフロムの『自由からの逃走』』」を大幅に改訂)

 

都築政昭著『黒澤明の遺言「夢」』(近代文芸社、2005年)

 

はじめに

1986年のチェルノブイリ原発事故の際に長期留学生を引率してモスクワに滞在しており、原発事故の危険性を身にしみて感じていた私は、この原発事故を扱った劇《石棺》を見た後では黒澤明監督の言葉にも触れつつ簡単な劇評を書いた。

しかし、専門外の人間が発言してもあまり影響力は持たないだろうと考えて、映画《生きものの記録》や映画《夢》など原発や原爆を扱った黒澤作品には言及してこなかった。それゆえ、3月11日に起きた福島第一原子力発電所の爆発事故のあとでは、黒澤監督の先見の明や採算を度外視してでもこの映画を実現した勇気を改めて強く感じた。

それとともに原発の危険性について粘り強く語ってこなかった自分の不明を強く恥じたが、大学の図書館で、[見なければならない「夢」もある]というプロローグから始まる『黒澤明の遺言「夢」』を見付けたのは、拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』を発行した後のことであった。

著者の都築政昭・黒澤明研究会会長は、この著作で全七話から成るこの映画の詳しい分析だけでなく、関係者の方々へのインタビューや多くの映画の画像やロケの写真を通して、様々な困難を克服してついに公開にまでこぎつけるまでの経過も詳しく描いていた。

福島第一原子力発電所事故の後では、第六話「赤富士」がこの事故を予言していたと話題になったが、都築氏は2005年に出版されたこの著書でこの映画の全体像をとおして黒澤監督がこの映画に托した思いを明らかにしている。この著作から強い知的刺激を受けたことが、私の新しい著作の構想が生まれるきっかけともなった。都築政昭氏の労作『黒澤明の遺言「夢」』の内容を以下に簡単に紹介しておく。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

『黒澤明の遺言「夢」』の冒頭には、ドストエフスキー博物館のあるスターラヤ・ルッサで撮った作家の写真が掲げられている。

そのことに象徴的に表されているように、[第一章 夢は天才である]では映画《乱》の公開の翌年に浮かんだ映画《夢》のアイデアが、生涯にわたって敬愛していたドストエフスキーの作品『罪と罰』にヒントを得たものであることが記され、さらに、最初は完成時の八つの話以外に「飛ぶ」「阿修羅」やラストに予定された「素晴らしい夢」の三つの夢も出来ていたことも紹介されている。

[第二章 ハリウッド資本で動き出す]や[第三章 三年ぶりで《夢》始動]では、日本の会社にそのアイデアと意義を訴えても通じなかった企画が、脚本を読んで感動したスティーヴン・スピルバーグ監督の働きかけによってワーナー・ブラザーズ社が配給する形でようやく実現することになったことが記されたことや、さらに翻訳や資金の問題をようやく克服して撮影に至るまでの経過が記されている。

[第四章 自然の”精”との交感 ――懐かしい夢]から始まる、[第五章 鎮魂――悲痛な夢]、[第六章 心の一番奥の怖れ ――恐ろしい悪夢]、[第七章 自然との共生 ――ユートピアの夢]などの章では、原発事故の問題を扱った第六話「赤富士」のシーンだけでなく、八つの話全部を黒澤監督の個人史にも迫りながら、広い視野でこの映画の面白さと深さを論じている。

そしてエピローグでは、「地球がダメなら、人類は生存できない」との強い使命感から、環境問題や原発事故の問題を正面から捉えたこの作品が、黒澤明の「遺言」ともいえるような重みを有していることを確認している。

 

黒澤監督の対談や「ノート」などを詳しく研究した都築氏は、映画《夢》のヒントとなったのが、ドストエフスキーの長編小説『罪と罰』(一八六六年)に記された「やせ馬が殺される夢」であり、その文章から強い感銘を受けた黒澤が「ノート」に次のような一節をそのまま書き写していたことを明らかにしている。

映画《夢》と『罪と罰』との深い関連を理解するためにも重要だと思えるので、少し長くなるが書き写された全文を引用しておきたい。

 

「夢というものは病的な状態にある時には、並はずれて浮き上がるような印象とくっきりとした鮮やかさと並々ならぬ現実との類似を特色とする。そういうことがたびたびあるものである。時とすると奇怪な場面が描き出されるが、この場合夢の状況や過程全体が場面内容を充実させる意味で芸術的にぴったり合った、きわめて微細な、しかも奇想天外なデテールを持っている。それはたとい夢を見る当人が、プーシキンやツルゲーネフほどの芸術家でも、うつつには考え出さないほどである。こうした夢、こうした病的な夢はいつも長く記憶に残って攪乱され、興奮した人間の組織に強烈な印象を与えるものである」。         (『ドストエフスキイ全集』小沼文彦訳・筑摩書房)

そして都築氏は、黒澤監督が引用した『罪と罰』の文章の横に、「夢というものの特質を把握しなければならない。現実を描くのではなく、夢を描くのだ。夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」というメモを記していることにも注意を促している。

黒澤監督のこのメモからは、夢の問題についての深い関心がうかがえるだけでなく、エピローグでは「人類滅亡の悪夢」も描かれている『罪と罰』のテーマや構造に対する黒澤監督の認識の深さも感じられる*1。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

福島第一原子力発電所での大事故の後では、この事故の大きさに衝撃を受けたドイツやイタリアなどでは脱原発という大きな決断がなされた。しかし、地震国であるだけでなく、近い将来に大地震が起こることが予測されている日本の原子力政策はあまり変わらず、未曾有の大危機に直面して原発再稼働の見直しを進めていた菅直人元総理は、政財界からの激しい非難を浴びて退陣に追いやられ、国民レベルでの議論や国会での討議もないままに原発の輸出さえもが決められた。

このような事態に対して、まだ未見ではあるが、ドキュメンタリー映画『100,000年後の安全』を撮ったデンマーク出身のマドセン監督は、「日本には、事実を国民に教えない文化があるのか」と問いかけ、「福島事故で浮き彫りになったのは、日本人の”心のメルトダウン”だ」と感じていると語ったことが報道されている*2。

映画《白痴》を撮った黒澤監督は、ロシアのみならず世界できわめて高い評価を受けているが、日本では「第五福竜丸」事件の影響を扱った映画《生きものの記録》や映画《夢》などは、いまだに低い評価が続いていると思える。

黒澤映画《夢》の現代的な意義を考察することで、現在の問題を直視するためにも多くの方にぜひ読んで頂きたい書物である。

*1 映画《夢》と『罪と罰』に描かれた夢の詳しい比較は、近く「主な研究(活動)」のページで比較文学会での例会発表や黒澤明研究会の『会誌』に発表した論文の概要を掲載する予定である。

*2 「処理先送り 倫理の問題」[こちら特報部]『東京新聞』2011年12月23日。