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『罪と罰』

山城むつみ著『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』(新潮社、2014年)

 

山城むつみ著『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』(新潮社、2014年)

著者の山城むつみ氏については、詳しい説明の要はないだろう。一九九二年に「小林批評のクリティカル・ポイント」で第三五回群像新人文学賞を受賞し、二〇一〇年には『ドストエフスキー』(講談社)で毎日出版文化賞を受賞している。この他にも中野重治、椎名麟三、吉本隆明などを論じた『転形期と思想』(講談社、一九九九年)、『文学は〈人間学〉だ。』(佐藤泰正氏との共著、笠間書院、二〇一三年)などを次々と発表しており、本書もそうした知的蓄積の上に書かれている。

満州国が建国された翌年の一九三三年からドストエフスキー論を書き始めた小林にあった『ドストエフスキイの文学』という「作品論集成の腹案」が、「小林の望んだ形ではついに刊行されなかった」と記した著者は、その「空白」に焦点を絞って考察した本書で、「ゆっくり読もう。焦点が合いさえすれば、その先には何かそら恐ろしいものさえ見えるはずである」と書いている。評者もゆっくりと読むことで、戦争の時代における殺人や人の心の闇に迫った本書を考察したい(以下、敬称は略す)*1。

 

〈回帰する一八七〇年代〉と題された序章で、山城は小林が『罪と罰』に続いて「『白痴』を論じた後に「すぐには『悪霊』を論じず、むしろ、禁欲的に作品への論評を避けながら作家の実生活とその時代に分け入ってゆく『ドストエフスキイの生活』の連載に直ちに着手し」、とくに「ネチャアエフ事件」を論じた次のような文章を引用していることを指摘している。

「この動機の為に、心の清らかな単純な人間でも、あの様な厭はしい罪悪の遂行に誘惑され得るのだ。其処に、恐ろしいものがあるのだ。僕等は、厭ふべき人間に堕落しないでも厭ふべき行為を為し得る」(『作家の日記』一八七三年十二月十日)。

そして、「約二年をかけた周到な用意の上で」書き始められた小林の『悪霊』論が、「一九三七年七月に始まった日中戦争の展開と雁行するように連載され、いわゆる南京事件の前月の号に掲載された第四回で中断された」ことに注意を促した著者は、「急速にテロリズムに傾斜していった」ロシアのナロードニキの運動と、「心の清らかで純粋な人々が、ほかならぬアジアを侵略し植民地化して、まさしくスタヴローギンのように『厭はしい罪悪の遂行』に誘惑されて」いった「昭和維新の運動」が酷似していると書いている。

〈一九三八年の戦後〉と題された第一章は、「第二次上海事変、杭州湾上陸、そして南京事件という一連の大きな動きのあった直後に上海、杭州、南京と戦跡の生々しい各地を転々と」していた小林秀雄が、最初の従軍記事「杭州」を「上海時間と日本時間の時差のため杭州行きの汽車に乗り遅れる」という出来事から書き出し、「同じ場所で二つ時間があるといふ事にたゞもう無性に腹が立つた」と書いていることに注意を促し、次のように記している。

「小林が『そこ』に渡っていくつもの失錯につまずきながら次第に感受していくのは、『そこ』の日常には、ほんの『一時間』(東京と上海の時差)程度の些細なひずみによって、感知できない小さな穴がいくつも空いていて、そこに踏み入ってしまえば、強姦へであろうと、虐殺へであろうと、掠奪へであろうと、放火へであろうと、どんな『ど強い』異常へもこの日常から地続きにわずか一歩で易々と至り着いてしまうこと」の「恐ろし」さだった。

『悪霊』におけるスタヴローギンが自ら告白する少女凌辱の場面で小林秀雄が中断していたことに触れていた著者は、「文藝春秋」一九三八年六月号に発表された従軍記事「蘇州」の検閲で伏字になっていたり、ページが破り取られたりしている箇所を様々な図書館で確認しながら復元し、小林がこの従軍記事で「皇軍慰安所なるものがあってその『切符』に『一発』何円と書いてあるなど、あまりに露骨で、とうてい『ここ』の感覚では考えられない馬鹿馬鹿しいことである。しかし、そのありえないことが『そこ』では」、「平然と通用している」ことを明らかにしていたことを確認している。

「蘇州」の記事の「慰安所」の箇所などが削除された翌日の新聞に小林は、「今日までの思想家、文学者に対して行はれた当局の非常的処置については、僕は当然な事だと考へてゐた。今もさう思つてゐる」と書いた。しかし、小林がこの後で、従軍記者として現地を見た文学者は「日本人として今日の危機に関する生ま生ましい感覚だけは必ず持つて還るのだ…中略…そしてそれは、彼等の書くものに必ず現れるだらう」と書いていたことを指摘した山城は、小林が「文学」という方法で戦争に肉薄しようとしていたと解釈した。

第二章の〈日本帝国のリミット〉では、「満蒙開拓青少年義勇隊孫呉訓練所」を見学した小林が、「日本の国民が大人もこども」も「事変」に処するにいかに「黙つて」いるかを思い知り、「説明となると、僕の才能を越える」などと従軍記事「満洲の印象」で少なくとも三度も表現を断念していたが、それは単に「検閲」を考慮してのことではなく、この「時点ですでに『帝国』の果てようとしている境界まで来て歴史の硬い岩盤にぶつかっていたのだ」とし、小林が訪ねた「綏棱移民地瑞穂村」の四百九十五人の村民が「青酸カリで自決」したことにもふれている*2。

検閲で削除された従軍記事のテキストを再現しようとした山城の明晰な文章からは異様な迫力も伝わってくるが、「自分でもはつきりしないが、見物して来た戦後のど強い支那の風物は、僕の心のうちの何かを変へたらうとは感じてゐる」と書いていた小林秀雄のドストエフスキー論に「歴史の硬い岩盤」は、どのように反映されているのだろうか。

〈世界最終戦争と「魂の問題」〉と題された第三章では、「やはり中断」された『カラマーゾフの兄弟』論を中心に考察されているが、まず、確認しておきたいのは、「『白痴』についてⅠ」で「キリスト教の問題が明らかに取扱はれるのを見るには、『カラマアゾフの兄弟』まで待たねばならない」と書いていた小林がここで、「今日、僕等が読む事が出来る『カラマアゾフの兄弟』が、凡そ続編といふ様なものが全く考へられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思はれる」と断言していたことである*3。

山城も「自由」という「耐え難く『恐ろしい贈物』を与える者」としての「キリスト」への「飢ゑ」を強調しながら、「その眼が見ている位相においては、殺したラスコーリニコフと殺さなかったミーチャとが『まったく等価』になる」とし、小林の記述が突然、断ち切られたことに「加害者」としての「ミイチャの魂の問題」との関わりを見て、戦後に書かれた『罪と罰』論との強い関連を示唆している。

〈戦後日本からの流刑〉と題された第五章は、一九四六年に行われた座談会「コメディ・リテレール」での小林の発言の紹介から始まっている。

「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた。これは千枚も書いて、本を出すばかりになっているんですが、また読返してみると詰らなくて出せなくなった。しかし、まだ書き直す興味は充分あるのです」。

小林のこの言葉を受けて著者は「戦争中に心血を注いだ『ドストエフスキイの文学』は一応、完成していたようだが、敗戦という事実の後に読み返せば、『一向に纏まりのつかぬ疑はしい多量な研究ノオト』でしかなかったようだ」と記し、戦後に書いた『罪と罰』論で小林がエピローグについてこう書いていることに注意を促している。

「そこに一つの眼が現れて、僕の心を差し覗く。突如として、僕は、ラスコオリニコフという人生のあれこれの立場を悉く紛失した人間が、そういふ一切の人間的な立場の不徹底、曖昧、不安を、とうの昔に見抜いて了つたあるもう一つの眼に見据ゑられてゐる光景を見る。言はば光源と映像とを同時に見る様な一種の感覚を経験するのである。」

この文章について著者は、「小林は、エピローグに、作中人物が作者の視線を異様な忍耐で堪えているという『小説形式に関する極限意識と言ふべき異様な終止符』を見ようとしている」と書いている。そして、「『白痴』についてⅠ」で小林が「ドストエフスキーにとつて、この純粋さの象徴がキリストであった事は、疑ふ余地がない」と書いた時、「そこでは、キリストは象徴でしかなかった。だが、今では、比喩や象徴ではなく、『一つの眼』となって小林の心を差し覗いている。それが見ているのだ。それが見えるのではない」と続け、「『犯罪』を犯して丸太の上に腰を下ろして黙想しているのは敗戦後の小林秀雄自身である」と記した著者は、小林の『罪と罰』論の印象的な文章を引用している。

「見える人には見えるであらう。そして、これを見て了つた人は、もはや『罪と罰』という表題から逃れる事は出来ないであらう。…中略…聞こえるものには、聞こえるであらう『すべて信仰によらぬことは罪なり』(ロマ書)と」。

「キリスト」や「一つの眼」に言及しつつ、緊迫した文体で書かれた山城の文章からは、高校生の時に小林秀雄のドストエフスキー論に夢中になった時に感じた「異様な熱気」を再び体感することができた*4。

しかし、この『罪と罰』論の後に書いた『白痴』論で小林は、太平洋戦争直前の一九四一年一〇月号から翌年の九月号まで掲載されていた『カラマーゾフの兄弟』論以前のレベルへと後退していると思われる。

なぜならば、本書に掲載されている詳しい関連年表からは抜けているが、『「白痴」について』(角川書店)が単行本として発刊された翌年の一九六五年一〇月に『新潮』に掲載された対談で、「ムイシキン公爵は悪人ですか」と数学者の岡潔から問われた小林秀雄が、「悪人と言うと言葉は悪いが、全く無力な善人です」と言い直し、こう続けているからである。

「もっと積極的な善人をと考えて、最後にアリョーシャというイメージを創(つく)るのですが、あれは未完なのです。あのあとどうなるかわからない。また堕落させるつもりだったらしい」(『人間の建設』新潮文庫)。

一方、〈まえがき〉でこの「『白痴』についてⅡ」について、「何とも異様な書記の運動なのだ。小林も、このような文は二度とは創りえなかった。いったい、どうしたらこれほどの強度と密度の文が出来上がるのか」と書いていた著者は、〈戦後日本への復員〉と題された終章で戦後の『白痴』論について、こう記している。

「『白痴』読解の位相を突き破りそれを別の位相に容赦なく転換する『一つの眼』の視線に堪えながら」、『白痴』論を書いている小林には、「殺したロゴージンの不安と殺さなかったムイシュキンの不安とが全く同格に並列する世界があることが最初から『はつきり』しているのだ」(太字は引用者)。

そして、「『或る一点』とは、無論、『死』の事だ」とした小林の文章を引用した著者は、「あの『或る一点』の悩ましい感触から発している彼の『限りない憐憫の情』は、人々には『魔性』として、どこか破滅的に働きかけずにいないのだ」と続け、「ムイシュキンがロゴージンの『共犯者』であると小林が最後に仄めかしたのはこのことだ」と好意的に解釈している。

しかし、岡潔との対談で「無明」を強調しながら「だいいちキリスト教というものが私にはわからないのです。私は『白痴』の中に出ている無明だけを書いたのです」と語った小林は、「ムイシキンという男はラゴージンの共犯者なんです」と続けていた*5。

この説明から浮かんでくるのは、戦後の『白痴』論において小林がムイシキンの「魔性」を強調したことが、『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャの解釈の変更をも招いた可能性が高いということである。

デビュー作「様々な意匠」で小林は「指嗾」という用語を用いながら、「劣悪を指嗾しない如何なる崇高な葉」もないと書いていた。そのことに注目するならば、『カラマアゾフの兄弟』論が「中断」せざるを得なかった一因は、自殺したスメルジャコフに自分が殺人を「指嗾」をしていたことに気づいたイワンが「良心の呵責」に激しく苦しんだことにも触れざるをえなくなるのを恐れたことにあると思われる。

「たしかに、小林はミーチャ同様、犯罪者ではなかった。だが、敗戦後には罪人(単独者)になったのだ」と山城は書いている。しかし、先に見た座談会「コメディ・リテレール」でトルストイ研究者の本多秋五から戦前の発言について問い質された日本の代表的な知識人の小林秀雄は、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した」と語っていた(太字引用者)。

小林が自分を「罪人」と感じた期間はきわめて短く、「『白痴』読解の位相を突き破り」、テキストから離れた『新白痴』論を創作していたのではないだろうか*6。

ただ、著者が小林秀雄の『白痴』論に「異様な書記の運動」を見いだしているのは、戦争の苦しい体験から産み出された武田泰淳の「審判」、「ひかりごけ」や『森と湖のまつり』、さらには大岡昇平の『野火』などの深い記述の分析を、小林のドストエフスキー論に反映させて読み解いた結果だと思われる*7。

すでに誌数が尽きたので詳しく論じる余裕はないが、本書には第四章〈「終戦」の空白――『絶対平和論』と「マチウ書試論」〉や第六章〈復員者との対話――『野火』と『武蔵野夫人』〉、さらには『遙かなノートル・ダム』などについての付論も収録されている。強い知的刺激を受けたそれらの考察は次の機会に譲りたい。

 

*1 紙数の都合上、ここでは小林秀雄のドストエフスキー観を考察した箇所のみを対象とする。

*2 小林秀雄と満州とのかかわりについては、西田勝「小林秀雄と『満州国』」、『すばる』2月号、集英社、2015年に詳しい。

*3 ただ、小林秀雄はここで「ルナンが『キリスト伝』を書いたのは、ドストエフスキイが、シベリヤから還つて来て間もない頃である。ドストエフスキイが、この非常な影響力を持った有名な著書を読んだかどうかは明らかではないが、読んだとしても、恐らく少しも動かされることはなかったであらう」と書いていた。すぐれた『カラマーゾフの兄弟』論ではあるが、このような認識は戦後の『白痴』論に受け継がれている。

*4 小林秀雄のドストエフスキー論との出会いと決別については、リンク→「あとがきに代えて──小林秀雄と私参照。

*5 この対談については稿を改めて考察したいが、小林秀雄の『白痴』論を何度か読み直す中で強い違和感を抱くようになった一因は、読者を「注意深い読者」と「普通の読者」、「不注意な読者」の三種類に分類していることであった。そのような小林の見方からは、人間を「非凡人」「凡人」「悪人」の三種類に分類していたラスコーリニコフの「非凡人の理論」との類似性が感じられたのである。

*6 小林秀雄の『白痴』論における登場人物の相互関係の単純化の問題については、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』序章、30~31頁参照。

*7 大岡昇平のドストエフスキー観については、劇評「ドストエフスキー劇の現代性――劇団俳優座の《野火》を見る」、『ドストエーフスキイ広場』第16号、2007年。大岡昇平の戦争観については、司馬遼太郎との対談に言及した『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、2002年、第2章、84~85頁参照。

 (『ドストエーフスキイ広場』第24号、2015年、144~150頁)。

井桁貞義著『ドストエフスキイ 言葉の生命』 (群像社、2003年)

リンク→「書評・図書紹介」タイトル一覧

井桁貞義著『ドストエフスキイ 言葉の生命』  (群像社、2003年)

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長い間、刊行が待たれていた井桁氏のドストエフスキー論が、「聖書と語らう」「ロシアと語らう」「ヨーロッパと語らう」「ドストエフスキイと語らう」、そして「アジアでの語らい」の五部で構成され、五〇〇頁を越える大著の形で出版された。

あとがきで著者の井桁貞義氏はプーシキンの詩に託しながら、ドストエフスキーの作品との出会いと別れ、そして新しい再会について触れている。実際、「ドストエフスキーの会会報」の編集など手間と時間がかかる作業に従事し(『場――ドストエフスキーの会の記録』Ⅰ~Ⅳ、参照)、さらに毎回特集を組んだ『ドストエフスキー研究』の編集者の一人として重責を担った氏は、それまでの豊富な知識を活かし、「<文化歴史派>と<詩学派>の方法を交互」に用いて、斬新な切り口でわかりやすくドストエフスキーの「人と思想」に迫った『ドストエフスキイ』(清水書院、一九八九年)を発行し、いよいよ本格的なドストエフスキー論の刊行が待たれていたときに、氏はドストエフスキー研究から離れた。しかし、それはペレストロイカからソ連の崩壊に到る激動の中で、ロシアに対する新しい見方が求められる時代的な要求に対する著者の応答であったともいえ、そのような問題意識は本書に収められた「光の制度――ロシア・ユートピア・ヴィジョン」(一九八九年)に顕著であろう。

「常にもっとも面白い文化の最前線に身を置くことに努めてきた」と認めているように、その後氏は、『ソヴィエト・カルチャー・ウォッチング』(編著、窓社)、『現代ロシアの文芸復興』(群像社)、さらにはインターネットによる授業などにも次々と取り組んだ。ただ、それは研究者としてだけではなく、教育者としてもロシア文学の「最前線」に身を置いてきた著者が、時代の中で引き受けた責務でもあったように思える。

その意味で、ソ連崩壊後のロシアにおけるドストエフスキー研究の新しい方向性とも密接につながっているばかりでなく、インターネットという新しい通信媒体による「聖書と語らう」が第一部に置かれているのは、激動の時代と著者との関わりを象徴的に示していると思える。

そして、著者は二〇〇〇年に千葉大学で行われた国際ドストエフスキー集会が、ドストエフスキーとの再会のきっかけになったと記しているが、こうして本書には比較文学の手法でドストエフスキーの精神的な西欧の関わりを考察した「ドストエフスキーとヴォルテール」や「ドストエフスキイとシラー」などの基礎的で不可欠な作業を踏まえた一九七〇年代後半の論文から、「大地――聖母――ソフィア」や「ポリフォニイ小説の成立――イワーノフ・プンピャンスキイ・バフチン」など国際学会で発表されて大きな反響を呼んだ論文、さらに最新の論文「武田泰敦『富士』とカーニバル」までが収められており、氏の長年のドストエフスキー研究の成果を一望できることとなった。

ことに筆者にとって興味深いのは、「ドストエフスキイとピョートル大帝」を初めとして、「ドストエフスキイとナポレオン」、「ドストエフスキーにおける<分身>モチーフについて」、「ポオ・ドストエフスキイ・アンドレーエフ――ロシア世紀末における<我>とその変容」など、一見、様々なテーマをあつかっているかに見える多くの論文が、権力のあり方や「自己と他者」の関係など、ドストエフスキー文学における中心的な問題にたいする一貫した持続的な問題意識によって統一されていることであった。

さたに、第五部の「アジアでの語らい」では単に日本だけではなくアジアにおけるドストエフスキーの受容をも視野に入れつつ、手塚治虫の『罪と罰』観や『刑事コロンボ』との比較、高村薫の『マークスの山』や、柳美里の『ゴールドラッシュ』にも言及した論文「『罪と罰』と二〇世紀後半の日本」や、「村上春樹とドストエフスキー」などの章も収められている。ここには、学問としての文学の斜陽が語られる中で、若い世代との対話を試みようとする著者の真摯な姿勢が伝わってくる。

こうして、それぞれがドストエフスキー研究史の中で先端を担った個々の論文から成る本書からは、ドストエフスキーにおけるヨーロッパ文学(文化)の深い受容を踏まえて、ロシアにおけるドストエフスキーの受容と理解の深まりに迫り、ドストエフスキーの作品と日本の文学との深い関わりを明らかにしているといえよう。そして『ドストエーフスキー広場』第四号(一九九四年)に発表され、本書にも掲載されている「『レ・ミゼラブル』『罪と罰』『破戒』」は、「言葉の生命」による他者とのつながりを明らかにすることで文学の可能性をも示していると思える。

ただ、井桁氏はまもなく自殺することになる芥川龍之介が『歯車』において、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』に言及した「不気味な一節」にも触れているが、この二年前には治安維持法が施行された日本は「新しい戦争」への道を歩み始めていた。「グローバリゼーション」の強い圧力のもとでロシアだけでなく、日本でも民族主義や国家主義の流れが強くなり、文学の意味が希薄になりつつあると思える現在、文学の言葉で自己と他者の問題を極北まで考察した「ドストエフスキー文学」の意味はきわめて重たい。

その意味でも時代の流れと対峙しながら、比較という方法を重視して真正面から文学の可能性を考えている本書は、今後の文学理論の形成に於いても重要な役割を果たし得ると思える。ドストエフスキーとの「対話」をとおして、ヨーロッパやロシア、さらにアジアとの「対話」を試みた本書が、専門家だけでなく若い世代にも広く読まれて、「新しい対話」のきっかけになることを強く望みたい。

『ドストエーフスキイ広場』(第13号、2004年)。

*   *   *

追記:本文中でふれていた『ドストエフスキイ』(清水書院、1989年)の新装版が2014年9月に発行された。比較文学的な手法によるすぐれたドストエフスキーの入門書となっているので、目次を紹介しておく。

42082(82ドストエフスキー)

【目次】 1、デビューまで 2、『貧しき人々』―“テクストの出会い”と“出会いのテクスト” 3、“ユートピア”の探求 4、『地下室の手記』―“アンチ‐ヒーロー”による“反物語” 5、宗教生活 6、『罪と罰』―再構築と破壊 7、カタログ式西欧旅行案内 8、『悪霊』―レールモントフとニーチェを結ぶもの 9、ジャーナリスト‐ドストエフスキイ 10、『カラマーゾフの兄弟』―修道僧と“聖なる愚者”たち

「権力欲」と「服従欲」の考察――フロムの『自由からの逃走』(東京創元社) を読む

1,「権威主義的な価値観」への盲従の危険性と「非凡人の理論」

自らがナチズムの迫害にあった社会心理学者のエーリッヒ・フロム(1900~1980)は、『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社、1985)において、ヒトラーの考えと社会ダーウィニズムとの係わりに注目して、ヒトラーが「自然の法則」の名のもとに「権力欲を合理化しよう」とつとめていたことを指摘していました。さらにフロムは、「種族保存の本能」に「人間社会形成の第一原因」を見るヒトラーの考えは、「弱肉強食の戦い」と経済的な「適者生存」の考え方を導いたと述べています*14。

注目したいのはフロムが、人間の歴史が個人の自由の拡大の歴史であることを確認しながら、それとともに、あまりに個人の自由が大きくなった時、獲得した自由が重みにもなり、人が自らそれを放棄することもあることを指摘しえていることです。

たしかに、近代以降、それまで土地や職業に縛られていた人間は、職業の選択の自由、移動の自由、さらには恋愛の自由など様々な個人の自由を拡大してきました。しかし、自由が大きくなればなるほど、どの道を選ぶかの選択の際の苦悩や不安は深まります。こうして、フロムは自らの道を選ぶことが難しい危機的な状況になればなるほど、人間は自らの自由の重みに耐えられずに、それをより強大な他の人物に譲り、彼に道を選んでもらうことで不安から逃れようとする傾向があることを明らかにしたのです。

この際にフロムはサディズムとマゾヒズムという心理学の概念を用いながら、人間の「服従と支配」のメカニズムに迫り得ています。すなわち、彼によれば、「権力欲」は単独のものではなく、他方で権威者に盲目的に従いたいとする「服従欲」に支えられており、自分では行うことが難しい時、人間は権力を持つ支配者に服従することによって、自分の望みや欲望をかなえようともするのです*15。

フロムは「神経症や権威主義やサディズム・マゾヒズムは人間性が開花されないときに起こるとし、これを倫理的な破綻だとした」(ウィキペディア)としていますが、彼の説明は第一次世界大戦の後で経済的・精神的危機を迎えたドイツにおいて、なぜ独裁的な政治形態が現れたかを解明していると言えるでしょう。

フロムは自分の分析をより分かり説明するために、ドストエフスキーの最後の大作『カラマーゾフの兄弟』から引用していますが*16、私たちにとって興味深いのは、このような問題がすでに『罪と罰』においても扱われていることです。

すなわち、ラスコーリニコフは「凡人」について「本性から言って保守的で、行儀正しい人たちで、服従を旨として生き、また服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務で」ある(三・五)と規定するのです。別な箇所でラスコーリニコフは「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。…中略…自由と権力、いやなによりも権力だ!」と語った後で、「ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(四・四)と続けています。

この「おののく」という特徴的な言葉は、彼がナポレオンのことを想起しながら、路上に大砲を並べて「罪なき者も罪ある者も片端から射ち殺し」「言訳ひとつ言おう」しなかった者の処置こそ正しいと感じた時にも、「服従せよ、おののくやからよ、望むなかれ、それらはおまえらのわざではない」(三・六)と用いられていました。

創作ノートにはラスコーリニコフには「人間どもに対する深い侮蔑感があった」(一四〇)と書かれています。ドストエフスキーは自分の「権力志向」だけではなく、大衆の「服従志向」にも言及させることでラスコーリニコフのいらだちを見事に表現しえているのです。

こうして、ラスコーリニコフの「非凡人」の理念は、劣悪な状況におかれながらも、社会を改革しようとはせず、ただ耐えているだけの民衆に対するいらだちや不信とも密接に結びついていたのです。(中略)

しかも、ドストエフスキーは予審判事のポルフィーリイに「もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ」とラスコーリニコフを批判させていました。

実際、世界を「生存闘争」の場ととらえるならば、かつての「イデオロギー」的な連帯から、「同種の文明国家」の連帯へと変わったと言っても、自らが「鬼」として滅ぼされないために、「圧倒的な力」を持つ文明に対抗して、他の文明も国力を挙げて軍備の拡大や「抑止力」としての核兵器の開発へと進まざるを得なくなるでしょう。

現在も「国益」や「抑止力」の名目で未臨界実験をも含む核実験や核兵器の保持が続けられていますが、多くの学者が指摘しているように、核兵器の使用は「核の冬」など地球環境の悪化による諸文明だけでなく、地球文明そのものの破滅をも意味するでしょう。

そのことをドストエフスキーは、ラスコーリニコフがシベリアの流刑地で見る「人類滅亡の悪夢」をとおして明らかにしていました。夢の中で彼は「知力と意志を授けられた」「旋毛虫」におかされ自分だけが真理を知っていると思いこんだ人々が互いに自分の真理を主張して「憎悪にかられて」、互いに殺し合いを始め、ついには地球上に数名の者しか残らなかったという光景を見るのです。

2,スピノザの「感情論」と『罪と罰』における感情の考察

興味深いのは、ドストエフスキーがこの「人類滅亡の悪夢」を描いた後でソーニャと再会したラスコーリニコフの「復活」を描いていたことです。

つまり、「だれが生きるべきで、だれが生きるべきじゃないか」などと裁くことが人間にできるのかとラスコーリニコフを鋭く問い質していたソーニャの考えには、論理化はされていないにせよ、存在や生命の尊厳に対する直感的な理解があると言えるでしょう。(中略)

貧しさのために大学を退学しなければならなくなり、「自尊心」を傷つけられた中で自分の専門的な知識で組み上げたラスコーリニコフの「論理」の矛盾を、ラズミーヒンが指摘しつつも彼に直接的な影響力を持てなかったのに対し、ソーニャの言葉は彼の感情に訴えかける力をもっていたのです。

この意味で注目したいのは、エーリッヒ・フロムが無意識的力に注目した思想家として、マルクスとフロイトの名を挙げながら、「西欧の思考的伝統の中で」、彼らに先立って「無意識についての明白な概念を持っていた最初の思想家は、スピノザであった」と書いていることです*7。

実際、スピノザは感情の分析をとおして「人間は、常に必然的に受動感情に屈従」するとし、「感情の力は、感情以外の人間の活動、あるいは、能力を凌駕することができる。それほどに感情は頑強に人間に粘着している」という事実を指摘しえています*8。

このような認識は自分が感情や他人の意見に左右されずに、主体的かつ理性的に行動していると考えていた人々にとっては苦痛でしょう。しかし、スピノザが指摘しているように、多くの場合「人々が自由であると確信している根拠は、彼らは自分たちの行為を意識しているがその行為を決定する原因については無知である」という理由に基づいているのです*9。

『未成年』の登場人物は、ある感情のとりこになった人間を正常に戻すには「その感情そのものを変えねばならないが、それには同程度に強烈な別な感情を代りに注入する以外に手はない」(六四)と語っています*10。この言葉は「感情は、それと反対の、しかもその感情よりももっと強力な感情によらなければ抑えることも除去することもできない」というスピノザの定理を強く思い起こさせます*11。

実際、ドストエフスキーが出版していた雑誌『時代』にはストラーホフの訳による「神に関するスピノザの学説」という論文が掲載されており、ドストエフスキーがスピノザの考えをある程度知っていたことは充分に考えられるのです*12。

つまり、評論家のシェストフは、ドストエフスキーが『地下室の手記』(一八六四)で「かつて、自分が拝跪していたものを…中略…泥の中に踏みつけてしまった」と記し、この作家をスピノザなどの哲学とは対立し、ニーチェとともに「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定していましたが、ドストエフスキーにはスピノザ的な哲学にたいする深い理解があったと思えるのです。

私たちはスピノザの感情論を高く評価したフロムの考察をとおして『罪と罰』を読み解くことで、現代日本の問題点にも迫り得るでしょう。

*     *   *

エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳『自由からの逃走』(東京創元社、1985)

序文

第一章  自由――心理学的問題か?

第二章 個人の解放と自由の多義性

第三章 宗教改革時代の自由

1、中世的背景とルネッサンス

2、宗教改革の時代

第四章 近代人における自由の二面性

第五章 逃避のメカニズム

1、権威主義

2、破壊性

3、機械的画一性

第六章 ナチズムの心理

第七章 自由とデモクラシー

1、個性の幻影

2、自由と自発性

付録 性格と社会過程

(拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、初版1996年、新版2000年)、第8章「他者の発見――新しい知の模索」および、第9章「鬼」としての他者」より。註の記述は省いたが、*7については、フロム著、阪本健二・志貴孝男訳『疑惑と行動』、東京創元社、1985、167頁。*8については、スピノザ『エティカ』(『世界の名著』第二五巻)工藤喜作・斎藤博訳、中央公論社、1969、273頁を参照)。

(2016年7月28日。「『罪と罰』とフロムの『自由からの逃走』』」を大幅に改訂)

 

都築政昭著『黒澤明の遺言「夢」』(近代文芸社、2005年)

 

はじめに

1986年のチェルノブイリ原発事故の際に長期留学生を引率してモスクワに滞在しており、原発事故の危険性を身にしみて感じていた私は、この原発事故を扱った劇《石棺》を見た後では黒澤明監督の言葉にも触れつつ簡単な劇評を書いた。

しかし、専門外の人間が発言してもあまり影響力は持たないだろうと考えて、映画《生きものの記録》や映画《夢》など原発や原爆を扱った黒澤作品には言及してこなかった。それゆえ、3月11日に起きた福島第一原子力発電所の爆発事故のあとでは、黒澤監督の先見の明や採算を度外視してでもこの映画を実現した勇気を改めて強く感じた。

それとともに原発の危険性について粘り強く語ってこなかった自分の不明を強く恥じたが、大学の図書館で、[見なければならない「夢」もある]というプロローグから始まる『黒澤明の遺言「夢」』を見付けたのは、拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』を発行した後のことであった。

著者の都築政昭・黒澤明研究会会長は、この著作で全七話から成るこの映画の詳しい分析だけでなく、関係者の方々へのインタビューや多くの映画の画像やロケの写真を通して、様々な困難を克服してついに公開にまでこぎつけるまでの経過も詳しく描いていた。

福島第一原子力発電所事故の後では、第六話「赤富士」がこの事故を予言していたと話題になったが、都築氏は2005年に出版されたこの著書でこの映画の全体像をとおして黒澤監督がこの映画に托した思いを明らかにしている。この著作から強い知的刺激を受けたことが、私の新しい著作の構想が生まれるきっかけともなった。都築政昭氏の労作『黒澤明の遺言「夢」』の内容を以下に簡単に紹介しておく。

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『黒澤明の遺言「夢」』の冒頭には、ドストエフスキー博物館のあるスターラヤ・ルッサで撮った作家の写真が掲げられている。

そのことに象徴的に表されているように、[第一章 夢は天才である]では映画《乱》の公開の翌年に浮かんだ映画《夢》のアイデアが、生涯にわたって敬愛していたドストエフスキーの作品『罪と罰』にヒントを得たものであることが記され、さらに、最初は完成時の八つの話以外に「飛ぶ」「阿修羅」やラストに予定された「素晴らしい夢」の三つの夢も出来ていたことも紹介されている。

[第二章 ハリウッド資本で動き出す]や[第三章 三年ぶりで《夢》始動]では、日本の会社にそのアイデアと意義を訴えても通じなかった企画が、脚本を読んで感動したスティーヴン・スピルバーグ監督の働きかけによってワーナー・ブラザーズ社が配給する形でようやく実現することになったことが記されたことや、さらに翻訳や資金の問題をようやく克服して撮影に至るまでの経過が記されている。

[第四章 自然の”精”との交感 ――懐かしい夢]から始まる、[第五章 鎮魂――悲痛な夢]、[第六章 心の一番奥の怖れ ――恐ろしい悪夢]、[第七章 自然との共生 ――ユートピアの夢]などの章では、原発事故の問題を扱った第六話「赤富士」のシーンだけでなく、八つの話全部を黒澤監督の個人史にも迫りながら、広い視野でこの映画の面白さと深さを論じている。

そしてエピローグでは、「地球がダメなら、人類は生存できない」との強い使命感から、環境問題や原発事故の問題を正面から捉えたこの作品が、黒澤明の「遺言」ともいえるような重みを有していることを確認している。

 

黒澤監督の対談や「ノート」などを詳しく研究した都築氏は、映画《夢》のヒントとなったのが、ドストエフスキーの長編小説『罪と罰』(一八六六年)に記された「やせ馬が殺される夢」であり、その文章から強い感銘を受けた黒澤が「ノート」に次のような一節をそのまま書き写していたことを明らかにしている。

映画《夢》と『罪と罰』との深い関連を理解するためにも重要だと思えるので、少し長くなるが書き写された全文を引用しておきたい。

 

「夢というものは病的な状態にある時には、並はずれて浮き上がるような印象とくっきりとした鮮やかさと並々ならぬ現実との類似を特色とする。そういうことがたびたびあるものである。時とすると奇怪な場面が描き出されるが、この場合夢の状況や過程全体が場面内容を充実させる意味で芸術的にぴったり合った、きわめて微細な、しかも奇想天外なデテールを持っている。それはたとい夢を見る当人が、プーシキンやツルゲーネフほどの芸術家でも、うつつには考え出さないほどである。こうした夢、こうした病的な夢はいつも長く記憶に残って攪乱され、興奮した人間の組織に強烈な印象を与えるものである」。         (『ドストエフスキイ全集』小沼文彦訳・筑摩書房)

そして都築氏は、黒澤監督が引用した『罪と罰』の文章の横に、「夢というものの特質を把握しなければならない。現実を描くのではなく、夢を描くのだ。夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」というメモを記していることにも注意を促している。

黒澤監督のこのメモからは、夢の問題についての深い関心がうかがえるだけでなく、エピローグでは「人類滅亡の悪夢」も描かれている『罪と罰』のテーマや構造に対する黒澤監督の認識の深さも感じられる*1。

 

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福島第一原子力発電所での大事故の後では、この事故の大きさに衝撃を受けたドイツやイタリアなどでは脱原発という大きな決断がなされた。しかし、地震国であるだけでなく、近い将来に大地震が起こることが予測されている日本の原子力政策はあまり変わらず、未曾有の大危機に直面して原発再稼働の見直しを進めていた菅直人元総理は、政財界からの激しい非難を浴びて退陣に追いやられ、国民レベルでの議論や国会での討議もないままに原発の輸出さえもが決められた。

このような事態に対して、まだ未見ではあるが、ドキュメンタリー映画『100,000年後の安全』を撮ったデンマーク出身のマドセン監督は、「日本には、事実を国民に教えない文化があるのか」と問いかけ、「福島事故で浮き彫りになったのは、日本人の”心のメルトダウン”だ」と感じていると語ったことが報道されている*2。

映画《白痴》を撮った黒澤監督は、ロシアのみならず世界できわめて高い評価を受けているが、日本では「第五福竜丸」事件の影響を扱った映画《生きものの記録》や映画《夢》などは、いまだに低い評価が続いていると思える。

黒澤映画《夢》の現代的な意義を考察することで、現在の問題を直視するためにも多くの方にぜひ読んで頂きたい書物である。

*1 映画《夢》と『罪と罰』に描かれた夢の詳しい比較は、近く「主な研究(活動)」のページで比較文学会での例会発表や黒澤明研究会の『会誌』に発表した論文の概要を掲載する予定である。

*2 「処理先送り 倫理の問題」[こちら特報部]『東京新聞』2011年12月23日。