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黙示録の解釈と核戦争の危機

*平和式典と核抑止力への依存

長崎市長が今年の平和式典にガザでジェノサイドと批判される苛酷な攻撃を続けているイスラエルの代表を呼ばないことが判明するとG7各国の大使が不参加を表明した。このことは核兵器禁止条約に参加せず今も核抑止論に依存するG7各国の平和観の問題をも鮮明に浮かび上がらせた。

キリスト教シオニズムなど過激な終末論による核戦争の危険性が増している現在、ドストエフスキー作品を踏まえて『日本の悪霊』(一九六九)を描いた高橋和巳や、比較文明的な視野で黙示録の問題に迫った堀田善衞などの日本文学をとおして、ドストエフスキーによって提起された黙示録の問題を根本的に考察することが重要だと思える。

1、ウクライナ侵攻とドストエフスキーの『悪霊』

二〇二一年のドストエフスキーの生誕二百年に際して作家を「天才的な思想家だ」と賛美したプーチン大統領は、その翌年の二月にウクライナ侵攻に踏み切った。核戦争に至る危険性もはらみながら武力による攻撃を行い続けていることは世界を恐怖に陥れている。

この戦争がドストエフスキー研究者にとって深刻なのは、ナチス・ドイツの占領下にあったパリで研究を続けて『悪霊』における『ヨハネの黙示録』(以下、黙示録と略す)の重要性を明らかにしたモチューリスキーが、「(ドストエフスキーは)世界史を、ヨハネの黙示録に照らしあわせ、神と悪魔の最後の闘いのイメージで見、ロシアの宗教的使命を熱狂的に信じていた」と記していたからである[i]

二〇一三年に「信者の感情の保護に関する法律」を採択してロシア正教を優遇し、二〇二〇年には大統領経験者とその家族に対する不逮捕特権を認める法律を成立させて独裁を強めていたプーチン大統領による武力侵攻は厳しく批判されるべきである。

しかし、比較文明論的な視点から見るとき、より複雑な深層が見えて来る。たとえば、プーチン大統領は再選された二〇一二年に西欧の多国籍からなるナポレオン率いる大軍に勝利した「祖国戦争」(一八一二)を大々的に祝っていたが、そのとき軍事同盟であるNATOの問題を十字軍の歴史を踏まえつつ強く意識していたように思える。

一〇九五年に行われた第一回十字軍の派兵に際してローマ教皇が黙示録の解釈によって、遠征に参加する者には「これまでに彼が犯した罪について罰を一時的に赦免」し、「遠征の途上、あるいは戦いに死せる者は、あらゆる罪を赦免」すると宣言していた。こうして、他宗教や異端派への十字軍の派遣をも正当化した十字軍の派兵は、イスラム教徒だけでなくユダヤ人大虐殺とエルサレムの富の略奪を招いたが、同じような殺戮は第二回十字軍でも繰り返された。

さらに、東欧の世界にとってはギリシャ正教を国教とする東ローマ帝国を攻略してコンスタンチノープルを陥落させた第四回十字軍(一二〇二~一二〇四)の影響は大きく、第二次ブルガリア帝国(一一八五~一三九六)などギリシャ正教を受け容れて繁栄していたバルカン半島のスラヴ系諸国は次々とオスマントルコ帝国の支配下に組み込まれることになった。

それゆえ、ロシアの文明論者ダニレフスキーはクリミア戦争を厳しく批判したが、その多くの主張に共感したドストエフスキーは露土戦争(一八七七~七八)が勃発する前年の『作家の日記』六月号でロシアは「正教の統率者として」コンスタンチノープルを求める資格があるとさえ記した[ii]

黙示録の訳者・小河陽氏はその「はしがき」で、「(黙示録は)ヨハネと呼ばれる人物が世界の終末についての自分の幻視を」、「旧約聖書やいわゆるユダヤ教黙示という伝統世界で知られた表象や象徴を縦横無尽に利用して」物語り、「われわれを未来の可能性へと誘うのである」[iii]と記している。

ただ、その一方で黙示録ほど「しばしば問題となった」「書物はないであろう」と指摘した小河陽氏はこう続けている。「東方教会においては三世紀中頃にやっと正典として認められ、宗教改革者たちにはほとんど評価されず、啓蒙主義の時代には使徒ヨハネの書ではないとして見捨てられる一方で、熱狂主義者たちによっては情熱的に読まれ、評価され、引用された書であった。」[iv]

黙示録に見られる「神と悪魔の最後の闘い」という二項対立的な見方を重視するとき、ウクライナ戦争は核兵器の使用も含む第三次世界大戦へと至る危険性もはんでいるといえよう。

2,キリスト教シオニズムと「八紘一宇」の理念

日本で『悪霊』の最初の邦訳が出たのは、第一次世界大戦の勃発した翌年の一九一五年の森田草平による英語からの重訳だが、大戦末期の一九一七年一一月七日にはロシア革命が起きた。

エルサレムの問題はクリミア戦争勃発の一因ともなっていたが、ロシア革命より少し前の一一月二日にはイギリス外相バルフォアはシオニズム運動の代表を務めていたユダヤ系財閥のロスチャイルドに宛てた書簡で、大戦後にパレスチナにユダヤ人の国家を建設することを認めていた。

しかも、キリスト教シオニズムの研究者G.ハルセルは、一七世紀中頃にピューリタン共和国の『護国卿』となったオリヴァー・クロムウェルが、パレスチナに「ユダヤ人が帰還すればキリスト再臨の序曲になると明言して」[i]いたと記している。

「ローマ法王が代表する無謬の教会に対抗して、プロテスタントは普通の人間でも読める言語に初めて翻訳された聖書を『無謬の聖書』として受け入れ」、「ユダヤ教またはヘブライの聖書として知られていた旧約聖書」を「歴史解釈のお手本とも見るようになった」。[ii]

一九一七年の「イギリス軍のエルサレム占領によって」、ユダヤ国家の建設という目標の可能性が高くなると、プロテスタントの内村鑑三は「パレスチナの地が再び神の選民に復帰せん事は聖書の明白に預言する所である」と語り、それが実現された後に「主イエス基督は再び臨み給うのである」[iii]と続けていた。

一九一八年から翌年にかけて内村鑑三とともに再臨運動を行っていた中田重治は、一九三〇年代になると「原理主義的な聖書解釈と日本のナショナリズムとを結び付け、日本にはシオニズム運動を支援する終末的使命があると熱心に唱えた」[iv]

一方、堀田善衞(一九一八~九八)はロシア帝国崩壊後にアメリカなどの連合国とともに日本が行ったシベリア出兵を描いた長編『夜の森』で、一九一九年に起きた韓国の三・一独立運動にも触れつつ、この出兵が満州事変にも直結していることを示唆している。

実際、関東軍参謀の石原莞爾が「八紘一宇」の理念に基づいて満州事変を起こすと中田重治は、「関東軍に同調する立場をあきらかにして」、「日本は黙示録七章二節にある日出国の天使である。世界の平和を乱す事のみをして居る四人の天使(欧州四大民族)から離れて宜しく神よりの平和の使命を全ふする為に突進すべきである」と述べた[v]

しかし、「五族協和」などのスローガンを掲げて一九三二年に建国された満洲国はその入植政策などを進めた日本の傀儡国家と見なされて批判され、日本は国際的に孤立し太平洋戦争に至る一五年戦争の終結までわずか一三年で崩壊した。

満州国の問題に鋭く切り込んだのが高橋和巳(一九三一~七一)の『堕落――あるいは、内なる曠野』(一九六五)であり、石原莞爾の考えに惹かれて南満洲鉄道株式会社(満鉄)の調査部に勤めた人物を主人公としたこの作品では、主人公の悲劇だけでなく、戦後に石原莞爾の部下たちが起こそうとしたクーデター未遂も描かれている。

ドストエフスキーがロシア帝国で激しい宗教弾圧を受けた分離派や黙示録の問題を取り込んだ長編小説を書いたように高橋和巳も長編『邪宗門』(一九六六)では、終末論的な視点から「世なおし」を唱えて、国家神道の価値観と対立して大弾圧を受けた教団で育てられた主人公が「剣を持つ」キリストの理念を抱いてアメリカ軍占領下の日本で武力蜂起を起して滅びるまでを描いた。

二〇二二年七月に安倍元首相が宗教二世の手製の散弾銃で暗殺された事件のあとでは、安倍ファミリーや自民党と文鮮明を「再臨のメシア」とする統一教会(現・世界平和統一家庭連合)との強いつながりが明らかになった[vi]

「今日のキリスト教を中心として起こっているすべての事情は、イエス当時のユダヤ教を中心として起こったあらゆる事情にごく似かよっている」[vii]とする統一教会は、元満州国の高級官僚だった岸信介元首相との関係をとおして、日本に併合されて以降の苦難の歴史を強調して日本人の若者に贖罪意識を植え付けることで熱心な信者を増やしており、宗教学者の島薗進氏は戦後の世界における公共空間の危機を指摘している[viii]。。

社会思想史の中野昌宏氏は日本における「政治と宗教」の癒着の一因が、「戸主」の権限が絶対的であるような「家庭」を地球大に拡大された家庭とすることを理念とする「八紘一宇」と、統一教会の「『真の父母様』絶対主義」の構造的な同型にあると指摘している[ix]

しかも、韓国の統一教会グループ傘下の企業が製造した空気散弾銃を教団との関係が深い日本企業が二五〇〇丁も輸入していたが[x]、教団の『原理講論』では、「(サタン側と天の側に)分立された二つの世界を統一するための(……)第三次世界大戦は必ずなければならない」[xi]と説かれているのである。

3,ガザ危機と黙示録的終末観の克服

二〇二三年の一〇月に「天井のない監獄」と呼ばれるようなガザの状態やヨルダン西域での入植地の拡大などに抗議するハマスによる大規模なテロが発生するとイスラエル政権は報復としてジェノサイドと批判されるような大規模な空爆と地上での攻撃を行った。しかし、国際社会から批判されたネタニヤフ首相は自分たちの方針はアメリカに支持されていると語ったのである。

実際、思想史の研究者・加藤喜之氏は論考「福音派のキリスト教シオニズムと迫り来る世界の終わり」で、二〇二〇年には一千万人を超えたといわれている米国の「イスラエルのためのキリスト教徒連合」代表で福音派教会牧師のジョン・ハギーが、創世記一二章に記されている言葉を根拠に「パレスチナの土地は全てイスラエルのものだ」と主張していることに注意を促している。

ハル・リンゼイの著書『今は亡き大いなる地球』(一九七〇)や二〇一六年までに八千万部を売り上げたティム・ラヘイの『レフト・ビハインド』では、ロシアの率いる軍などとのハルマゲドンでの決戦で地球は滅びても、この派のキリスト教徒のみはキリストに救済されるという終末観を持っていることが記されている。

資金援助をして入植地拡大を支援しているこの派の人々の支持で大統領になったトランプ氏は、二〇一七年に国際社会の強い危惧にもかかわらず、それまでの国際的な方針を一方的に転換してエルサレムをイスラエルの首都と承認した[i]

ホロコーストの被害の歴史からネタニヤフが自国を包囲しているイスラム教の国々に過剰な恐怖を抱いたとしても不思議ではないとするならば、百万近い餓死者を出したレニングラード包囲戦で自分の兄を亡くしていたプーチンが、NATOに包囲されることに過剰な恐怖を抱いても不思議ではなく、ウクライナ危機とガザ危機は黙示録の終末論を媒介として根深いところでつながっているといえよう。

一方、『ドストエフスキーの世界観』で「彼の宗教思想をほんとうに理解するには、黙示録的認識という光のもとでのみ可能である」[ii]と記していた宗教哲学者のベルジャーエフは、晩年の『わが生涯』では「(旧約聖書に見られる)黙示文学の復讐的終末論、善と悪とへの人間の截然たる区分」が黙示録にも見られるが、「残酷な終末論的要素はイエス・キリストから由来しているのではない」と記している[iii]

ドストエフスキーも登場人物の思想や人物関係にも注意しながら、作品の構想をじっくりと練った際には、「神と悪魔の最後の闘い」という二項対立的な単純な見方はしておらず、ムィシキン公爵に語らせた「殺すなかれ」というイエス・キリストの理念を深く掘り下げていると思える。

前著『堀田善衞とドストエフスキー』で示したように短編『国なき人々』(一九四九)で堀田善衞は、広島に原子爆弾が落ちて「人はもとより一木一草も滅び」たという噂が上海で広まった時に、黙示録の一節を暗唱しながら、「これは現代の劫罰の始まりだ」と語ったユダヤ人のことを描いた。

「現代のあらゆるものは、萌芽としてドストエーフスキイにある。たとえば、原子爆弾は現代の大審問官であるかもしれない」とアンケートに書いて、地球をも破滅させる威力のある原爆の発明とその使用が黙示録的な終末観をも強めた可能性を示唆した堀田は、長編『審判』(一九六三)では『白痴』の人物体系を取り込んで、牧師の祝福を受けて原爆の投下にかかわったパイロットの苦悩などを描出している。

二・二六事件以降の日本を中心に描いた長編『若き日の詩人たちの肖像』(一九六八)では、「『カラマーゾフの兄弟』中のスペインの町に再臨したイエス・キリストが何故に宗教裁判、異端審問にかけられねばならなかったかという難問について、限りもなく喋りつづけていた」アリョーシャと呼ばれる詩人が「狂的な国学信奉者」となるまでの激しい変貌が記されている[iv]

ただ、この長編では『白痴』第二部に記されている黙示録の解釈についての考察はない。しかし、その翌年に出版された美術紀行『美しきもの見し人は』ではデューラーの版画「黙示録の四騎士」にも言及しながら黙示録の性格が考察され、『橋上幻像』(一九七〇)の第一部では親友・加藤道夫をモデルにニューギニア戦線での日本軍の実態と日本の美的終末論の危険性の問題を掘り下げている。

さらに、異端とされたカタリ派の滅亡を描いた力作『路上の人』(一九八五)で堀田は、異端審問と火刑の問題を「再臨のキリスト」のテーマに絡めて考察することで黙示録の危険性を明らかにし、『ミシェル 城館の人』(一九九一~一九九四)では、宗教戦争が勃発しペストが猖獗をきわめる中で家族を連れて方々を流浪しながらも、『エセー』を書き和平への努力を続けたモンテーニュの思索と活動を描き出した。

私自身は宗教学者ではないので黙示録は重すぎるテーマではあるが、ドストエフスキーは宗教弾圧されていた分離派の問題や黙示録のテーマに鋭く迫っただけでなく、西欧の文学や比較文明論をも取り込んで作品を描いた。本書では比較文学と比較文明論という手法でドストエフスキーの作品を考察することにより原爆投下後の世界における黙示録的な終末論の危険性に迫りたい。そのことは黙示録に依拠しながら「再臨のメシア」論を説いている統一教会(現・世界平和統一家庭連合)が、なぜ今も自民党や維新などに深く浸透しているのかという謎を解明することにもつながるだろう。

注(1)

[i] モチューリスキー、松下裕・松下恭子訳『評伝ドストエフスキー』筑摩書房、二〇〇〇年、四四一頁。

[ii] 米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』第一四巻、河出書房新社、一九七〇年、三六五~三七二頁。

[iii] 小河陽訳『ヨハネの黙示録』講談社学術文庫、二〇〇八年、四頁。

[iv] 同右、三頁。

注(2)

[i] G.ハルセル、越智道雄訳『核戦争を待望する人びと――聖書根本主義派潜入記』朝日新聞社、一九八九年、二〇四頁。

[ii] 同右、二〇二頁。

[iii] 役重善洋『近代日本の植民地主義とジェンタイル・シオニズム ―内村鑑三・矢内原忠雄・中田重治におけるナショナリズムと世界認識』インパクト出版会、二〇一八年、一六八頁。

[iv] 同右、二九二頁。

[v] 同右、三一〇頁。

[vi] 鈴木エイト『自民党の統一教会汚染 追跡三〇〇〇日』小学館二〇二二年参照。

[vii] 『原理講論―重要度三色分け』世界基督教統一神霊協会伝道教育局、二〇二〇年、五九九頁。

[viii] 島薗進編『政治と宗教:統一教会問題と危機に直面する公共空間』岩波新書、二〇二三年、一七頁。

[ix] 同右、八八頁。

[x] 有田芳生『誰も書かなかった統一教会』、集英社新書、二〇二四年、一九一頁。

[xi] 前掲書、『原理講論―重要度三色分け』、五五二頁。

注(3)

[i] 加藤喜之、

https://newspicks.com/topics/religionandglobalsociety/posts/14、2023年11月7日。

[ii] ベルジャーエフ、斎藤栄治訳『ベルジャーエフ著作集二』白水社、一九六〇、二五二頁。

[iii] ベルジャーエフ、志波一富・重原篤郎訳『ベルジャーエフ著作集八』白水社、一九六一年、三九七~三九八頁。

[iv] 高橋誠一郎『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』群像社、二〇二一年、一六八頁。

(2024年8月17日、改訂)

夭逝した作家・高橋和巳のドストエフスキー観―『悪霊』論を中心に

はじめに 

太平洋戦争末期にウォルインスキーの『偉大なる憤怒の書――「悪霊」の研究』を翻訳した埴谷雄高(一九〇九~九七)は、戦後に日本におけるドストエフスキー作品の評価の変化を概観して、「吾国の社会状勢に見あってのことと思いますが」としながら、昭和初期の日本では「ドストエフスキイの最高作品は『悪霊』だということにまでなった」と記していた(「『偉大なる憤怒の書』の訳本」)。

しかも、大江健三郎との対談では埴谷は「(ナスターシヤ・フィリッポヴナは)物心つかないうちに妾にされた。これがある意味でナスターシヤのニヒリズムの条件であって、ナスターシヤが成長し、優れた素質を発揮するのは、そういうことを自覚してはじめて行なわれるようになる」と語っている(「革命と死と文学」)。そのことに留意するならば、先の埴谷の言葉は昭和初期の日本における『白痴』から『悪霊』への流れをよく把握していると思える。

一方、一九四五年の大阪空襲で焼け出されるという体験をしていた高橋和巳(一九三一~七一)は、日本が混沌としていた一九四九年七月に新制京都大学文学部の第一期生として入学し、同人雑誌を刊行した頃について『あのころのこと』でこう記している。「私達の会は『京大作家集団』という倨傲な名称をなのり、同人雑誌を作るのが第一目的で、三十五人ぐらい集まりました。朝鮮戦争がおこるまでガリ版で、五号まで出した。」

そして、「雑誌を出しながら、同時に研究をしようと、ドストエフスキー、次にバルザック、チェーホフと三年間ぐらい」続けたと記した高橋は、「日本のドストエフスキー関係の文献の中では、埴谷雄高氏のが一番いいと思います」と続けていた(一二・二三八~九、以下、本文中のかっこ内の漢数字は、『高橋和巳全集』〔河出書房新社、一九七七~八〇年〕の巻数と頁数を表す。なお、表記は現代表記に改めた)。

本稿では高橋の作品をとおして一九六九年に『日本の悪霊』を上梓するにいたる彼のドストエフスキー観に迫りたい。

 一、高橋和巳のドストエフスキー観

 大阪のスラム街・釜ヶ崎に隣接した地区で育ち、貧民街の様子とそこでの苦しい生活を『貧者の舞い』などの短編や後述する長編『憂鬱なる党派』で描いた高橋和巳は、「日本の場合は、『貧しい人々』の作者が同時に『悪霊』の作者(……)でもあることはまれだった」(一三・一八七)と書いて日本のドストエフスキー受容の問題を指摘している。

国家から弾圧された分離派に対する関心を強く持っていたドストエフスキーは、シベリア流刑後に自分の体験を踏まえて記した『死の家の記録』では分離派の敬虔な老人を描き、それ以降の大作でも分離派の問題を描いた。このようなテーマを受け継いだ高橋和巳は長編『邪宗門』(一九六六)で女性を開祖とする「ひのもと救霊会」に飢餓状態だったところを救われて育てられた孤児の千葉潔を主人公として黙示録的な終末観を持ち「世なおし」を唱えたために国家神道の価値観と対立して二度にわたり大弾圧を受けた皇国大本をモデルにして新宗教の問題を描いた。

三部からなるこの大作の第一部では弾圧後に独立して戦争に協力した「生長の家」的な分派「皇国救世軍」との対立を公開討論の形で描き出し、第二部では太平洋戦争が始まり活動が禁じられて苦境に立った教団を救うために「皇国救世軍」の指導者の次男との意に沿わぬ結婚に合意した教主の長女・行徳阿礼の苦悩が記されている。さらに、第三部では行徳阿礼の偽書により三代目の教主となった千葉潔が、占領軍に支配された戦後の日本で「剣を持つ」キリストの理念を説いて武装蜂起し、敗れて餓死するまでが記述されている。

『邪宗門』では五族協和や王道楽土の理念によって建国された満州に派遣された「ひのもと開拓団」の悲劇も描かれているが、満鉄の調査部に勤めて満州の建国にもかかわった青木を主人公とした『堕落――あるいは、内

なる曠野』(一九六五)では、「(戦後に)半ば無意識的に忘却されようとしたもののうち、もっとも重大なものの一つ」である、「幻の帝国――満州国の建国とその崩壊」(一四・四一四)の問題がさらに深く考察されている。

『地下生活者の手記』を転回軸として、ドストエフスキーが「《緻密な観察者》からやがて現実とは考察すべき素材にすぎないと知って《巨大な思索者》に成長していった」(一四・一三五)と捉えた埴谷雄高のドストエフスキー観への共感を示した高橋は、「ひたすら知識人の生き方を追求した」ロシア文学作品として「主人公ラスコリニコフの超人思想による無用者の殺害」(一三・一八六)が考察されている『罪と罰』を挙げた。

一方、一六章からなる長編『憂鬱なる党派』(一九六五)では、すでに『悪霊』のテーマが取り入れられており、第八章では党の厳しい査問の後で自殺した古志原の七回忌に集まるようにとの文面を読んだ青戸が「あの五人組組織でも真似るつもりなのか」(五・二九七)と考えたことが記され、七回忌ではネチャーエフ的組織をめぐる激しい議論が交わされている。

しかも、この長編では韓国系の教団・統一教会が黙示録的な視点から「神の罰」と捉えている被爆も重要なテーマをなしており、被爆しながらも「(僕たちの世代は)不意に恩赦を蒙って、平和になったからといって、観念して目をつむっていた首から縄をはずされても、ムイシュキン公爵のような善人には、誰もなれない」(五・二〇三)と暗い諦念を語っていた主人公の西村が、憤怒に駆られて退職し、五年の歳月をかけて原爆で被爆して亡くなった身近な人々の伝記を書きそれを出版しようとしたことも描かれている。

そして、長編の終わり近くでは元特攻隊員の藤堂が、「蛸壷に身をひそめ、頭上を敵の戦車が通過する瞬間、自爆する方法を教えられていた」同世代の若者たちを思い起こした後でこう考えたと記されている(五・四五二~四五三)。

「一たび死刑台に立たされ、不意に許された苛酷な経験のゆえに、もはや正常な生活者の道を歩めず、無限に寛大な〈白痴〉とならざるをえなかったムイシュキン公爵が、この国には何万、何十万といたはずだった。なぜ彼らは皆、黙っているのか? なぜ激怒して、いまだかつてこの世にない思想を、いかなる前人も思い及ばなかった大哲学を築こうとしなかったのか。」

ムイシュキン公爵自身は原作では死刑台に立たされてはいないので、ここでは黒澤映画『白痴』の主人公像を踏まえて考察されているといえるだろう。なぜならば、次節で見る『日本の悪霊』でも登場人物が酔っ払いだが博愛的な精神を持つ医師が描かれている黒澤映画『酔いどれ天使』のことを熱く語るシーンが描かれているからである。

一九六九年に発表された「内的葛藤の原型」の冒頭で「『カラマーゾフの兄弟』は、私にとっては座右の書というよりは、すでに心の中にはいってしまった作品である」と記した高橋はこう続けて自作との深いかかわりを明らかにしていた。
「激情的なドミートリイ、悪魔的な思索家のイヴァン、無限に善意なアリョーシャ、そしててんかん持ちの私生児スメルジャコフ。同じくロシヤの血をうけ、同じく時代の苦悩を背負い、同じくドストエーフスキイの分身として生命をあたえられ、たがいに愛憎しつつそれぞれの運命からはずれ得ぬ劇の構図は、単に革命前夜のロシヤの時代精神の象徴であるばかりか、いつしか私自身の内部の葛藤の原型ともなった。(……)この上は自らも、日本の現代のカラマーゾフ家の人々をつくりだすより他に救われる道はないかのようである。」(一四・四二八) 

二、ドストエフスキー作品と長編『日本の悪霊』

 全九章からなる高橋和巳の長編『日本の悪霊』は雑誌『文藝』に一九六六年一月から一九六八年の一〇月まで断続的に掲載された。この長編では八年前に軽い罪で捕らえられた主人公・村瀬と戦時中に特攻を志願して敗戦後は大学に戻らずに警官になっていた刑事・落合との追う者と追われる者の鋭い対決が『罪と罰』を思い起こさせる手法で描かれている。

また、大地主の屋敷を襲う犯罪に加担するように主人公の村瀬が友人の峯をなんとか説得しようとしたが、それを拒否した峯が自殺をするという『悪霊』のテーマと重なる場面もある。

さらに、「私のドストエフスキー」において、『死の家の記録』を「リアリスライク(ママ)な観察から、人周の可能性をそのぎりぎりの境界まで押しのばしてみせる巨大な形而上学的世界への飛翔にいたる、その転換点に位置するものといっていいだろう」(一三・四一五)と評価した高橋は、自作のインタビューでもこの長編を「『日本の悪霊』と称しながら」、「むしろ『死の家の記録』の方に近いようなところがある」(一九・二五六)と認めている。

実際、第二章「牢獄と海」で拘置所での裸にされての身体検査の後で村瀬は、強姦常習犯、暴行犯などが収容されている雑居房に入れられ、麦飯を食べていると彼らが脅すように村瀬のまわりを廻り出した。彼らの挑発に怒って暴力をふるった村瀬はその行為をとがめられ、後ろ手に手錠をかけられて懲罰用の独房に入れられた。

第七章「闇の遺産」では留置場の風呂場でのいざこざが克明に描写され、その後では「生爪をはぐ拷問よりも、四六時中の共同生活こそが地獄である」(九・二六六)という『死の家の記録』の記述を思い起こさせるような監獄制度に対する鋭い批判も記されている。

ただ、前節では『カラマーゾフの兄弟』についての考察に現れているように、ドストエフスキーは家族関係、ことに父親の問題を抉りだした。『罪と罰』では子供の養育を放棄したスヴィドリガイロフの問題を示唆し、『白痴』でも孤児のナスターシヤを性的犯罪により愛人としたトーツキーを「白い手」の紳士と描いたドストエフスキーは、『悪霊』でも理想を語る一方で、息子ピョートルの養育を放棄していたステパン氏の生き方と思想を批判的に描いている。

『悪霊』では黙示録的な雰囲気が作品全体を覆っているためにこの父親と息子の関係は、くっきりとは浮かび上がりにくいが、高橋が長編評論『暗殺の哲学』でたびたび言及しているアルベール・カミュは、長編『ペスト』で黙示録的な終末論を説く神父を厳しく批判していた。劇『悪霊』でもカミュは第一幕の冒頭で語り手とカルタをしているステパン氏の姿を示すことにより、教え子・スタヴローギンの母親の屋敷に居候をしながらカルタに大金を賭け、損金は息子が相続した亡くなった妻の領地を密かに切り売りしてその場をしのいできたステパン氏が、過激な思想を持つようになった息子との腹を割った議論からも逃げていことを浮き彫りにしている。

『悪霊』におけるステパン氏と息子・ピョートルとの父と息子とのそのような関係は、『日本の悪霊』では初めは明らかにされないが、徐々にその関係が犯罪にも結び付いていたことが明らかになる。ようやく、第五章の裁判で生年月日や本籍地について問われた村瀬は、本籍地を隠さなければならなかった『破戒』の主人公の悲劇を思い起こしながら、私生児ゆえに雇用されなかったことや、奉公に出された「妹の住み込み先が、港近くの小料理屋」で、そこが実質的には売春もさせる店であることを知って、「いつかはかならず見返ししてやる」と考えたことなどを思い起こす。

『罪と罰』のソーニャが家族のために娼婦になったように、家父長的な価値観が支配的であったロシア帝国や戦前・戦中の日本では、「国家」のために若者が戦場に駆り出されるように、「家」のために女性が犠牲になることは当然とされていたのである。

第七章で主人公の村瀬には「生れた時からして父が存在しなかった」と記した作者は、生れた子供に狷輔などという名を付けた「その姿を見せぬ父が、郡一番の金持であり大地主であり」、「堀をめぐらした邸に住んでいる」と記して、その父への激しい恨みが村瀬を大地主の殺害に踏み切らせていたことを示唆している。

一方、村瀬たちの指導者で僧侶くずれの鬼頭は、「放っておけばいつまでも無明の世界をさまよう者の悪しき因縁を絶ち、往生させてやるのはむしろ菩薩の行(ぎょう)」(九・二一九)と語っていたように、「一殺多生」を唱えて「血盟団事件」を起こした日蓮宗の信者・井上日召を連想させるような人物である。

この長編では刑事・落合の執拗な追及を受けた村瀬は八年前に犯した自分の犯罪を徐々に克明に思い出していくとともに、自分たちを率いた鬼頭の言動の問題点を認識し、暴力団による暴力事件も調べていた落合も警察と暴力団との癒着に気付いて村瀬たちの事件捜査の不可解さに気づくことになる。

ドストエフスキーは『悪霊』でピョートルがロシアの秘密警察にも通じておりそれがばれると国外に逃亡した社会革命党の暗殺団の指導者で二重スパイだったアゼーフのような人物であったことを描き出していた。高橋も開高健、小田実、真継伸彦、柴田翔と創刊した『人間として』(一九七〇年~七二年)での自作の合評会では鬼頭が「アゼーフにあたる人物」(一九・三六六)であることを認めて、この事件にはより大きな闇が秘められていることを示唆しているのである。

おわりに

 三島事件の一年後に若くして病死したこともあり、高橋への関心は弱まったように見えたが、黙示録のハルマゲドンを強調したオウム真理教によるサリン事件などが起き、右派による「改憲」が叫ばれるようになると『憂鬱なる党派』や『邪宗門』などの高橋作品への関心が再び高まってきた

たとえば、「生長の家」の学生組織の元書記長で一九六九年には右派学生の全国組織の委員長になったが解任された鈴木邦男は、「挫折につぐ挫折で、『生きている意味があるのか』と何度も思った」が、「そのたびに、『生きていていいんだよと』となぐさめてくれたのが高橋(注:高橋の文学)だったと思う」と記している。

そして、「生長の家原理主義者」たちが「『日本会議』の中心メンバー」になって改憲運動をしていることを、「冗談じゃない。三島は勿論、高橋だって、この問題には強く反対するだろう」と厳しく批判している(アンソロジー『高橋和巳 世界とたたかった文学』二〇一七年)。

実際、黙示録的な終末観を持つ統一教会と右派的な政治勢力の癒着の問題などが明らかになってきた。「苦悩教」の教祖とも称される高橋和巳の多くの作品は悲劇的な終わり方をしている。しかし、高橋作品では問題の解決はできていないものの、ドストエフスキー的な手法で問題の所在は明らかにしていた。

しかも、高橋は『罪と罰』の人物体系を分析して「ラスコリニコフを見舞う親友ラズーミヒンがあり、事件や状況の全体は絶望的であっても、ソーニャと主人公の関係のありかたが、ある救いの感情をともなう情緒を読者につたえる」(一三・一二六)と記していた。

高橋が大病から癒えていたら彼が望んだ『カラマーゾフの兄弟』的な作品を書き得ていたと思えるが、残された作品にもそのような可能性の端緒は感じられる。今後、高橋和巳の研究が深まることを期待したい。

近著『黙示録の終末観との対峙――ドストエフスキーと日本の文学』(改題

『ドストエーフスキイ広場』第33号、2024年、111~117頁)

激しさを増す都知事選――小池百合子vs蓮舫(れんほう)

はじめに 「ソビエト蓮舫」というダジャレ

都知事選に先に名乗りを上げた蓮舫(れんほう)議員への批判や揶揄するような記事が目立ってきている。

たとえば、「東スポ」の7日付けデジタル版では「蓮舫参院議員について、「もう存在しない世界№2の国→ソビエト蓮舫」と、ソビエト連邦と引っかけてダジャレにした」デーブ氏のダジャレがSNSで大バズりと紹介している。

たしかに、デーブ氏のダジャレには面白いものもあるが、しかし、蓮舫氏の正式な読みが「れんほう」であることを考えるとこれはダジャレにもなっていないと思える。

ここでは沈黙を守ることで優位に立とうとしているように見える小池百合子氏の問題を少し整理して見たい。

1,「カイロ大学を4年で首席卒業」

「2020年に刊行された『女帝 小池百合子』(石井妙子著、文藝春秋)では、カイロで小池氏と同居していた北原百代氏が匿名で、小池氏がカイロ大学の進級試験で落第し、卒業できずに帰国したことを具体的に証言。2023年刊行された文庫版では実名での告発に踏み切」った。

「小池氏が政治家になる前の自著『振り袖、ピラミッドを登る』(講談社、1982年)でも、『外国語をどう学んだか』(講談社現代新書、1992年)への寄稿でも、「(1年目に)落第した」と書いていますから、卒業は1977年以降でなければ辻褄が合いません」

日本外国特派員協会で記者会見した小島敏郎氏(2024年4月17日、記者撮影)

「今年4月、カイロ大学の声明文について、当時小池氏の側近だった小島敏郎弁護士が、小池氏の依頼で原案作成に携わったことを『月刊文藝春秋』5月号で告発」。

2,「日本会議国会議員懇談会の副会長」としての小池都知事

 

3,希望の党と排除の論理

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2024/06/09

黒澤明研究会五〇周年とドストエフスキー生誕二〇〇年

はじめに

私が黒澤明研究会に入会したのは二〇一二年のことであった。映画『白痴』だけでなく黒澤映画全体をとおしていかに黒澤明がドストエフスキー文学、ことに『白痴』の本質に迫っているかを分析した拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社)の発行後に堀伸雄会員から強く研究会への入会を勧められたためであった。

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二〇一二年の二七号黒澤明研究会四〇周年記念特別号のアンケートには「黒澤明研究会と私」という題のエッセイで、その経緯について書くとともに黒研をとおして映画『白痴』などドストエフスキー文学の理念をより広く伝えたいという希望を記した。

黒澤明研究会五〇周年の今年にはドストエフスキー生誕二〇〇年を記念した国際ドストエフスキー・シンポジウムの日本での開催も予定されていた。しかし、突然のロシア軍によるウクライナ侵攻によって、開催が大幅に延期されることになった。

ただ、一九八六年に起きたチェルノブイリ原発事故後に着想し、一九九〇年に公開された黒澤映画『夢』には核戦争後の世界を描いた「鬼哭」のシーンもあるが、私のドストエフスキー文学と黒澤映画の研究は、ロシアだけでなく日本や世界の将来に対する強い危機感とも結びついている。

それゆえ、まず私の最初のドストエフスキー関連の書である一九九六年に発行した『「罪と罰」を読む―「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房)とロシアの危機の考察との関連を振り返る。

その後で入会してからこの十年間に『会誌』に投稿した論考とドストエフスキー研究との関りを振り返る。そして、芥川賞作家・堀田善衞の黒澤明観と核戦争観についての考察を簡単に振り返ったあとで、最後に黒澤明のドストエフスキー観をとおして、ウクライナ危機の問題に迫りたい。(本稿においては映画の題名の《》内の記述は、『』に改めた)

一、ロシア危機と『罪と罰』の認識の深まり

現代文明論という教養の授業のために編んだ『「罪と罰」を読む――「正義」の犯罪と文明の危機』では「弱肉強食の理論」に基づく主人公ラスコーリニコフの「非凡人の思想」の危険性をドストエフスキーが、主人公と他者との激しい議論や、「やせ馬が殺される夢」から自分だけが「真理」を知っていると考えて互いに争うようになる「疫病」により人類のほとんどが滅亡するという悪夢に至る夢の分析をとおして示していたことを明らかにした。

それとともに、「弱肉強食の理論」を正当化し「自尊心」を強調しながら「復讐の情念」を煽ったヒトラーが、『わが闘争』でラスコーリニコフの「非凡人の理論」をさらに歪めた「非凡民族の理論」を主張していることに注意を促して「正義の戦争」の危険性を示した。

それゆえ、「文明論的視点で『罪と罰』を解読」したこの書の帯には【『罪と罰』の若き主人公は、「良心」に従って完全犯罪をたくらみ、「殺人」に踏みきった。同時代を生きたシャーロック・ホームズを手がかりに犯罪の謎と隠された思想的背景を探り、現代に直結する近代西欧文明の問題点に迫る。】と記した。

あまり日本では知られていないが、考慮すべきはソ連の崩壊時にロシアが第一次世界大戦後のドイツにもたとえられるような経済的苦境を経験していたことである。すなわち、ペレストロイカの速度が落ちるとそのことを強く批判して権力を得たエリツィン・ロシア共和国大統領が、保守派による一九九一年八月のクーデター未遂に乗じて、その年の一二月にウクライナ・ベラルーシの首脳との秘密交渉でスラヴ三国のソ連からの離脱という奇手を用いて独立国家共同体の樹立を宣言したことでソ連は一気に崩壊した。

そのことは多民族国家から民族主義を原理とする国家へとロシアが戻ったことを意味しており、ロシアの多くの国民もこの変化を一時的には喜んだように見えたが、翌年の一九九二年一月に首相も兼任して権力を握ったエリツィンが、急激な市場経済への移行を断行したことで、スーパーなどからはロシア製の製品が駆逐されて、外国製品のみが棚に並ぶという風景が見られるようになり、さらにスーパーインフレは市民の貯蓄、資産に打撃を与えて、ソ連時代の生活水準は大幅に落ち込んだ。

その一方で国民の各人に国有企業の株式を与えるというバウチャー方式の民営化を利用して国営企業を手に入れて莫大な富を築いた新興財閥(オリガルヒ)が出現した。そのためにこの頃には「エリツィンは共産党政権ができなかったアメリカ型の資本主義の怖さを短期間で味わわせた」との小話も流行るなど、このどん底の経験はソ連の崩壊後にグローバリゼーションが始まったこともありロシア国民にアメリカ型の自由主義に対する強い不信感をうえつけ、この時期には凶悪犯罪も急速に増えた。

一九九三年の夏に学生を引率してモスクワを訪れることになった際には、治安状況の悪化についても事前の補講などで詳しく説明していたが、それにもかかわらず、学生寮で強盗にあって私自身が殺されかけたのである。その際に私は、外国人の教員を殺しても彼らはラスコーリニコフのように「金持ちの外国人」を「悪人」と見なして、後悔することはないだろうと『罪と罰』の世界を肌身で感じ、殺されずに生き残ることができたら、現代世界の危険性を『罪と罰』の視点から読み解きたいと真剣に考えたのである。

二,『会誌』での映画『白痴』と映画『夢』の考察と学会発表

『罪と罰』のエピローグで「人類滅亡の悪夢」とラスコーリニコフの更生を描いたドストエフスキーは次作『白痴』では、「殺すなかれ」という理念を語る若者を主人公として、価値観の混とんとした当時のロシアを描き出した。

しかし、一八六七年にはモスクワにスラヴ諸民族の指導者たちを招待して「スラヴ会議」が開かれ、思想家のダニレフスキーが『ロシアとヨーロッパ』で「祖国戦争」で大国フランスを破ったロシアを盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して対抗すべきだと主張するとドストエフスキーもその考えに影響された。

一方、日本でもシベリア出兵の際の傀儡国家建設の試みやそれに続く満州国の建設が強く批判されると、ロシア帝国との日露戦争に勝利した日本を盟主とする「大東亜共栄圏」を形成して欧米に対抗すべきだという考えが徐々に拡がった。

こうした流れの中で、一九三四年に発表した『罪と罰』論で「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」とし、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」とその義理の妹を殺した主人公のラスコーリニコフには、「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったと断言し、『白痴』の主人公を否定的に解釈した小林秀雄のドストエフスキー論も流行ったのである。

一方、黒澤明が一九五一年に公開した映画『白痴』はこのような小林の解釈を全面的に否定していた。それゆえ、二七号に初めて投稿した論考「黒澤映画『白痴』とトルストイの『イワンの馬鹿』――映画『白痴』の魅力と現代性」では、戦争という手段で問題を解決しようとすることを厳しく批判したトルストイの『イワンの馬鹿』が、ドストエフスキーの『白痴』の主人公の形象から強い影響を受けていることを指摘した。

二九号に「長編小説『罪と罰』で黒澤映画『夢』を読解する」を、三〇号に投稿した「復員兵と映画『野良犬』、科学者〈知識人〉の傲慢と民衆の英知――映画『生きものの記録』と長編小説『死の家の記録』」に続いて、三一号には「『愛の世界 山猫とみの話』と『虐げられた人々』――小林秀雄の『虐げられた人々』観を踏まえて」を投稿した。

三二号(二〇一四)では本多猪四郎監督との交友にも注意を払いながら、核エネルギーの問題を考察した「映画《ゴジラ》から映画『夢』へ」を投稿した。この映画で原発事故を描いた黒澤明は、『罪と罰』のエピローグで「人類滅亡の悪夢」に対応するかのように核戦争による地球環境の悪化という状況をも描いていた。

三三号には「映画『惑星ソラリス』をめぐって――黒澤明とタルコフスキーのドストエフスキー観」(二〇一五年)を投稿して、両監督の交流にも言及したが、黒澤明研究会会誌に投稿したこれらの論考などを踏まえて映画『野良猫』と『虐げられた人々』との関りや『罪と罰』における夢の構造と映画『夢』の比較などを行った『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)を上梓したのも二〇一四年のことであり、その帯には以下のような文章を記した。

【なぜ映画“夢”は、フクシマの悲劇を予告しえたのか。一九五六年一二月、黒澤明と小林秀雄は対談を行ったが、残念ながらその記事が掲載されなかった。共にドストエフスキーにこだわり続けた両雄の思考遍歴をたどり、その時代背景を探る。】

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この書の「あとがき」ではエリツィンとその後を継いだプーチン政権における独裁の問題には言及しなかったが、ロシア議会から厳しく批判されると憲法を一方的に停止してロシア人民代議員大会と最高会議を強制的に解体して反対勢力を武力で屈服させたエリツィンは、一九九四年に勃発した第一次チェチェン紛争では、独立派の武装勢力を武力で強圧的に掃討しようとして失敗した。そのために第二回目の大統領選挙では共産党の候補に僅差まで追い上げられ、新興財閥からの巨額の選挙資金やアメリカの選挙キャンペーンのプロなどの協力でかろうじて乗り切ったもののエリツィンは政権の末期にはロシア帝国の皇帝のような独裁者に近くなっていた。

そのエリツィンによって大統領の退任前に首相から大統領代行に抜擢され、最初の大統領令によってエリツィンを刑事訴追から免責させたのが、第二次チェチェン紛争では辣腕を振るった元情報将校のプーチン大統領であり、その政治手法はエリツィンの負の側面を色濃く受け継いでいる。

すなわち、プーチンは大統領になった当初は、エリツィンとの癒着で莫大な富を得ていた新興財閥にも税金を課し、不正を取り締まったことで国民からの支持を得たが、二期目となる二〇〇四年には地方の知事を直接選挙から大統領による任命制に改めるなど中央集権化を進めて独裁者的な傾向を強め、二〇二〇年一二月には大統領経験者だけでなくその家族に対しても生涯にわたる不逮捕特権を与える法律に署名して、権力を万全のものとしていたのである。

三九号に投稿した「黒澤明と手塚治虫――手塚治虫の漫画『罪と罰』をめぐって」(二〇一八)では黒澤明だけでなく手塚治虫の法律観や超人思想の危険性の理解が、小林秀雄の『罪と罰』観とは対極的な解釈であることを示した。

二〇一七年発行の三七号にはスペインのグラナダで行われた国際ドストエフスキー・シンポジウム報告をかねた論考「映画『白痴』から映画《赤ひげ》へ」を投稿した。

「黒澤明監督没後二〇周年」を記念した四〇号には、エッセイ「黒澤明監督没後二〇周年と映画『白痴』の円卓会議」を投稿し、『白痴』の発表から一五〇周年に当たる二〇一八年にブルガリアのソフィア大学で開催される国際ドストエフスキー・シンポジウムの円卓会議で映画『白痴』が取り上げられることになったことを報告した。

幸いこの円卓会議は、槙田寿文会員や清水孝純・九州大学名誉教授の参加を得て、成功裡に終わった。二〇一八年発行の四一号には、「映画『白痴』と黒澤映画における「医師」のテーマ」という題名で円卓会議での発表の一部を掲載した。また、諸般の事情で掲載は遅れた清水教授の発表論文が四四号に掲載されたのにともない簡単な紹介文を記した。

三,黒澤明監督の芥川龍之介観と作家・堀田善衞の黒澤監督観

二〇二〇年発行の四三号には黒澤映画を高く評価した芥川賞作家・堀田善衞の映画《用心棒》観などを考察した「堀田善衞の黒澤明観――黒澤映画『白痴』と映画《用心棒》の考察を中心に」を投稿し、続いて四五号には「黒澤明のドストエフスキー理解と映画『姿三四郎』」を投稿して、堀田善衞の映画『姿三四郎』観についても紹介した。

残念ながら、四三号の特集「『羅生門』」には間に合わなかったが、ドストエフスキー生誕二〇〇年を記念した雑誌『ユーラシア研究』№六五に寄稿した論考「黒澤明監督のドストエフスキー観――『罪と罰』と『白痴』のテーマの深まり」では、黒澤映画における医師と裁判のテーマの分析をとおして、映画『羅生門』に至る黒澤監督の芥川龍之介観の深まりを考察した。

すなわち、敗戦直後には滝川事件をテーマに女性の自立を描いた映画『わが青春に悔なし』が公開されたが、トルストイの『復活』の解釈をとして日本における法律の問題を鋭く指摘して滝川事件に対しては、芥川龍之介の学生時代の親友・井川恭も深く関わっており、ここには『蝦蟇の油――自伝のようなもの』に記されているように、今回のウクライナ侵攻と同じような満州事変以降の日本の歴史に対する黒澤明の強い批判が感じられる。

さらに、黒澤明は復員兵が犯罪者となる映画に『野良犬』という題名を付けていたが、芥川は短編『桃太郎』で英雄とされた桃太郎を「侵略者」と規定するとともに、その部下となった犬を凶暴な「野良犬」として描いていた。そして、『羅生門』の構造や登場人物の体系と『罪と罰』との類似も何人もの研究者から指摘されているのである。

同じく昨年に上梓した『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』(群像社)の序章第一節では「若き芥川龍之介と大逆事件の衝撃――『羅生門』の誕生」を論じるとともに、堀田善衞の長編小説『祖国喪失』の終わり近くでは、上海で見つけた日本の新聞、雑誌をめくって滝川事件をモデルとして教授の娘の恋愛と苦悩、そして新たな出発を描いた黒澤映画『わが青春に悔なし』の「広告が真直に眼に沁みた」と書き、「もしほんとうに悔のない世代が既に動いているものなら、(……)全体的滅亡の不幸の底に、未来への歴史の胚子が既に宿っているのかもしれぬ」という主人公の感想を描いていることを指摘した。

そして、入試のために上京して二・二六事件と遭遇した若者が「赤紙」で召集されるまでの重苦しい日々を友人たちとの交友をとおして描いた自伝的長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(一九六八)では、主人公が中学に入学した年に勃発した満州事変の後では「事変という奴は終わりそうもない」と感じていたとも描かれている。そのことに留意するならば、チェコスロヴァキア事件を現地で詳しく調べていた堀田は、満州事変と今回のウクライナ危機の類似性と危険性をも洞察しえただろうと思われる。

暗い炭坑で働かされている「メクラの馬」についての記述もあるこの長編小説ではバーの「マドンナ」が映画『馬』のエキストラとして出演したことが記されている。黒澤明が戦時中に軍馬として売られてしまうことになる子馬への愛情が描かれている同名の映画の助監督をしていたことに注目するならば、この長編小説におけるこの記述は、堀田の黒澤映画を高く評価していることが伝わってくる。(記念号に詳細な総目録が掲載されていたので、ここでは参加した座談会についての記録は省く)。

四、黒澤監督と堀田善衞の核戦争についての考察

今年に入って勃発したのが、今回のロシア軍によるウクライナへの武力侵攻であり、現在もロシア軍の蛮行が続いていることに暗澹たる思いにかられるが、 このような事態に乗じて、日本では敵基地攻撃論や核武装論を声高に唱えるような政治家や論客も出て来ている。

武力侵攻に踏み切ったプーチン大統領の決定や言動は厳しく批判されるべきだが、今回のウクライナ問題の背景にはNATOの東方拡大という問題がある。アウシュビッツなどで悲惨な体験をしたユダヤ人にはそのトラウマからパレスチナにたいする過激な反応も時に見られるが、同じように、西欧のキリスト教とは異なるロシア正教の信者が多く、第二次世界大戦では3000万人以上の死者を出したロシア人にも同じようなトラウマがあると言えるだろう。

すなわち、すでに西欧諸国の「大陸軍」を率いて一八一二年にモスクワを占領したナポレオンとの「祖国戦争」や、一九一八年の連合軍によるシベリア出兵の際の日本軍によるイルクーツクの占領も経験していたロシアは、ナチス・ドイツとの「大祖国戦争」では三千万人近い死者を出し、ことにレニングラード攻防戦では六五万もの人が戦闘と飢餓で亡くなっていた。

そして、一九六二年に起きたキューバ危機は、自国の喉元ともいえるキューバに核ミサイルが運び込まれることに恐怖を抱いたアメリカとソ連との間で核戦争勃発の危機が生まれていたのである。

日本の歴史教科書では「誰が原爆投下したかを言わず、真実を無視している」などと日本の教育を批判したプーチン大統領の言葉はそのような強い危機感の一端を示しているだろう。

実際、核実験や核戦争の恐怖から家族と共に海外に移住しようとした老人と家族たちとの対立を描いた黒澤監督の映画『生きものの記録』は、映画『ゴジラ』から一年遅れて一九五五年に公開されたことで、「原子力平和利用博覧会」が各地で開催されるなどのキャンペーンに押されて興行的には失敗に終わっていた。

しかも、昭和初期の「大東亜共栄圏」の理念がアジアで支持されたような理解もあるが、堀田善衞が『インドで考えたこと』(一九五七)でインドの農民の言葉を伝えたように、植民地からの解放を謳った日本の戦争が結局は欧米の代わりに日本がアジアの諸国を植民地にしようとしたとして厳しく批判されており、さらに非人道的な原爆の使用や核武装を「核の傘」という理論で認めたことに対する強い批判がある。

さらに、堀田善衞は一九六二年に起きたキューバ危機についても視野に入れて長編小説『審判』を書いていたが、自国の喉元ともいえるキューバに核ミサイルが運び込まれることに恐怖を抱いたアメリカとソ連との間で核戦争勃発の危機が生まれていたのである。

一九六〇年代後半に入ると日本人の核戦争に対する恐怖は他の諸国と比較しても低いように感じられるようになるが、堀田善衞の長編小説『審判』では原爆パイロットのイーザリーを主人公のモデルとして岸政権の時代に生きた人々の苦悩と思索が『白痴』などを踏まえて描かれており、「核の時代の倫理と文学」と題した拙著の第四章では堀田の長編小説『審判』をドストエフスキーの作品を介して詳しく読み解いた。

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「現代のあらゆるものは、萌芽としてドストエーフスキイにある。たとえば、原子爆弾は現代の大審問官であるかもしれない。」という堀田の言葉を題辞とした『現代思想』特別号への寄稿論考では、『カラマーゾフの兄弟』における「大審問官」のテーマへの強い関心と核兵器の廃絶に向けた強い意志を検証することにより、堀田善衞の長編小説『審判』が映画『夢』のテーマと深く関わっていることを明らかにした。

『審判』や映画『夢』が示唆していたように日本の核武装は、被爆国日本の国是「非核三原則」を否定するだけでなく、核兵器禁止条約の趣旨にも反し、近隣諸国の核軍拡競争をあおる危険性が高いのである。

おわりに

ロシア軍によるウクライナ侵攻が現在も続いているために、日本などではロシア人に対するヘイトも起きている。しかし、黒澤明とも個人的な親交があり、彼の脚本を元にした『暴走機関車』(一九八五)でも知られるロシアの巨匠アンドレイ・コンチャロフスキー監督の一九六二年に起きたソ連政府による市民虐殺事件「ノヴォチェルカッスク事件」を忠実に映画化した『親愛なる同志たちへ』が、第七七回ヴェネチア国際映画祭で審査員特別賞を受賞したことがニュースで伝えられた。厳しい検閲下でもロシアの映画人が健闘していることが感じられる。

インタビューにコンチャロフスキー監督はこう答えているが、今もご存命ならば黒澤監督も同じように答えたものと思われる。

「芸術が政治的な出来事によってボイコットされることは残念です。(……)芸術というのは人と人をつなげて一つにしてくれる。それこそ、色んな国を一つにしてくれるものが芸術だと思っているので」。

ウクライナ危機に際して堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み直す(下)

(6)「逆効果の“白書”」――ソ連型社会主義の問題点の考察

タシケントでの会議を終えた後に、モスクワに一度戻った堀田はこの出兵占領問題に関する公式の意見を聞いておこうと考えて、作家同盟の幹部中でも最古参の詩人アレクセイ・スルコフ氏との会見を申し込んだ。

「革命のときの内戦とスペイン戦争と祖国防衛戦争」の三度の戦争を経験していたスルコフは、出兵がどうしても必要であり「ソヴエトの兵士たちは、反革命の攻撃に対して抵抗をしてはいけないという命令をうけていたので、戦車が焼かれて、そのなかで黙って焼け死んでいったものさえが出た……」、「ここに(胸に)苦痛をもって、兄弟国へ出兵をせざるをえなかったのである。そのことをどうか了解してもらいたい」などと一時間以上にわたる熱弁をふるった。「その人自身の誠心誠意のこもった」弁明がそのまま記されている。

注目したいのは、この出兵によってサルトル、ボーボアール、アラゴン、バートランド・ラッセル卿やグレアム・グリーンやヘンリー・ミラーなどの多くの貴重な友人を失い、「彼らとの友情を回復するためには、一〇年では足りないかもしれない。二〇年はかかるかもしれない。それは本当に耐えがたいことだ」と認めたスルコフが、「三千万近い犠牲を払わなければならなかった」第二次世界大戦に言及して「しかし第三次大戦はもっと耐えがたい」と続けて出兵を正当化していたことである。

しかも、別れ際に『チェコスロヴァキアでの事件について、事実、記録、報道記事、目撃者の評価』という200頁近い“白書” を渡されたが、それは「党でもなければ、権威のある調査機関でもなく、「ソヴェトのジャーナリストたち」によって編集されたものであり、堀田はそのことに無責任さを感じた。

実際、「この〝白書〟を勉強しながら」読み進めて、「チェコスロヴァキアの人々の苦心と、社会主義更新のための苦痛にみちた試行錯誤の方に」、「心をひかれるものがあった」と記した堀田は、「小国がもたざるをえなかった運命が、大国にも影響を及ぼさないということはありえないのである」とし、その典型的な例として「ヴェトナムがアメリカの運命に対してもった関係であろう」と書いている。

そして、「ソルジェニツィンの検閲廃止の要請は、ソヴェトの作家同盟の大会では議題にもならなかったのに、チェコスロヴァキアの作家同盟の大会で(!)要請の全文が読まれ、一致しての支持をえている」ことを指摘した堀田は、ソヴェトの作家との「言わない部分の(太字は原文では傍点)多い、異様な会話」では「他に方法もあったろうに、五〇万も六〇万も軍隊をもって行くいとは、ちょっとぼくにはむかしの宗教裁判、異端糾問を思わせるね」と語る。

その言葉は自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』に記されている『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」のテーマと深く関わっており、それはなぜ堀田が『ゴヤ』や『路上の人』、さらに『ミシェル 城館の人』で異端審問や宗教戦争の問題を描くことになるかをも示唆しているだろう。

こうして友人たちのほとんどから、「出兵肯定派も抗議派もチェコスロヴァキアへ行って本当のところはどうなのかを見て来てくれ」と言われてモスクワを出発した堀田は、まずヘルシンキで長年の友人インド人のチャンドラが事務局長を勤める「世界平和評議会」を訪れる。

ここでのチェコスロヴァキア事件についての激しい議論を聞きながら、「“平和”ということばが、どうやらとうの昔に、実態を失ってしまっている」という感想を抱いた堀田は、「“平和”の概念、価値、基準、場所としての有効性をぶちこわすのに、もっとも貢献したものは、やはりアメリカのヴェトナム戦争であったであろうと思う」と書き、帰国して「佐藤首相の、沖縄の問題、または核三原則をめぐる答弁などを読んだり聞いたりしていて、ここでも彼の言うことばなるものをまったく信用することが出来なくなった」と続けている(237)。

検閲が全くないストックホルムではマイクと録音機をかついであらゆる階層の人々に質問をしてまわる若い女の子の性生活が赤裸々に描かれているものの「無邪気な政治映画」で反戦映画でもある「おかしな黄色」というスウェーデン映画を観た堀田は、この映画と比較してソヴェトの『戦争と平和』には「ある頽廃を見る」とも記している。

自分が宿泊した家のあるじの教師がソ連の指導者が皆60歳以上であると高年齢化していることを痛烈に批判し、奴らに「四六歳のドプチェクが考える社会主義がわかるわけはないよ。奴らは不安になったのさ。ジェネレーション・ギャップだよ」と語ったことを記した堀田は、スウェーデンで政権にある社会民主党の代議士の25人が40歳以下であることや、この国の高額所得者の税金が「目の玉がとび出るほどに高いものである」ことも指摘している。

ロンドンでは1994年にアパルトヘイト政策が廃止されることになる南アフリカからロンドンに亡命して解放運動に従事していた青年との会話を記したあとで堀田は、「霧の濃いドーバー海峡をわたる船の上でウイスキーをがぶがぶあおりながら」、「いったいなぜ今度の事でチェコスロヴァキアのことを勉強し、なぜプラハに行ってまで事の正体をつきとめようと自分は決心したのか?」と自問した堀田は、「二、社会主義と自由とは両立しうるものなのか、どうか?」「三、社会主義国が一種の警察国家のようなものに堕して行くことは不可避なのか?」という形で具体的に問い直してこう続けている。

「この第三の設問は、言うまでもなく、なにもとりわけて社会主義とばかりかかわるものではない。第二の設問の社会主義を資本主義ととりかえてもよく、第三の設問においてもとりかえは可能であろう。それは広い意味において近代社会そのものに全体的にかかわるのであって、近代におけるその源流は、たとえばドストエフスキーの『悪霊』中に出て来る人物、徹底的に理論的なシガーレフ(ママ)のセリフ、「無限の自由より発して、無限の専制主義に到達するのだ」ということば、またこれを直接にうけてのカミュのことば、「人は正義を欲するより発して、ついに警察を組織するに終るものだ」(『正義の人々』)というところに帰する、巨大な問題である。」

(7)チェコスロヴァキアの歴史と「全スラヴ同盟」の思想

パリで文献の収集を依頼していた堀田は、出版社の編集者から『存在の耐えられない軽さ』(1984年)を書くことになるミラン・クンデラの小説『冗談』の序文のゲラを読む機会を得た。そこで作家アラゴンはこの作品が1965年には完成していたのに67年末まで出版されなかったことにふれて、「プラハの春」で失脚したノボトニー前大統領を「専制君主」と呼び、さらに今度の事件で彼らは「ことばによる建築によって、かくも長くあの町にのしかかっていた暴君の銅像(注:スターリンの銅像)を再建してみせるであろう」と厳しい言葉をつらねていた。

こうしてアラゴンの序文を紹介した堀田は、プラハに入って現地を観察する前にヨーロッパに虐げられ続けてきたチェコスロヴァキアの歴史にも読者の注意を促している。

すなわち、「この文化の高い少数民族(チェコ人九〇〇万、スロヴアキア人四〇〇万)を、その地理的宿命のゆえに、ヨーロッパのありとあらゆる戦争にまき込みつづけ、オーストロ・ハンガリー帝国に含めさせて、第一次大戦後の一九一八年に、やっとのことで両民族の独立を認めた」が、「一九三八年のミュンヘン協定」で、「英仏両国はチェコスロヴァキアを裏切ってチェコをヒトラーにまかせ、スロヴァキアをヒトラーの保護領にすることを許した」ことを指摘した堀田は、さらにこう続けているのである。

「このヨーロッパの裏切りの、歴史的に見ての第一の事件は、古く一四一五年、プラハ大学の学長であり、宗教改革の先駆者であったヤン・フスが破門され、コンスタンツ公会議に臨むについて、帰国するための安全通行証を公会議から与えられながらも、公会議は約束を裏切って、帰国どころか、弁明もさせずに焚刑に処してしまった」(225-226)。

11月4日に13時30分パリ発のチェコスロヴァキア航空でプラハに着いた堀田は、迎えに来てくれた人から次のような詳しい情報を得る。

「八月二一日に、ソ連軍の戦車が多数入って来たとき、大きなプラカードに、『モスクワ・サーカス再来。ヴアツラフスキエ広場にて公演中。参観無料、ただし生命の保証はせず、また猛獣に餌をやるべからず』」などと書いた学生たちに続いて、ヒッピーたちが「広場で戦車をとめ、とりかこんで議論をし、ソ連兵のなかには泣出したものまでいました。兵士たちのなかにはどこにいるのかをさえ知らなかったのもいました。」

しかし、その後で迎えに来た人はこう続けた「私たちは、かつてヨーロッパの戦争という戦争の全部にまきこまれましたが、チェコスロヴァキアとしては、一度もロシアと戦争をしたことがないのです。戦ったのは、――戦わされたのは、いつでもオーストロ・ハンガリー帝国の一部として強制されたものです(……)とにかく、われわれはスラブ民族の一員なのです。ご存知のようにチェコ語は、スラブ語の一つですし、スロヴァキア語はマジャール語(ハンガリー語)の影響を強くうけています。ヨーロッパは、危機のときにはいつも裏切ります(……)また長い間にわたってドイツ語がプラハの支配階級のことばでした。/いつでも、歴史の上ででも、私たちはいつでも難難(かんなん)の時がくるごと、に、ロシアの方を眺めたものなのです。長きにわたるオーストロ・ハンガリー帝国の支配をうけていたときも、また第一次、第二次大戦のときのことも申すまでもないでしょう。ロシアはどんなときでも敵ではなかったのです。」

さらに、ナチの占領時代に「カレル大学の学生が蜂起して抵抗運動を起し、多くが虐殺されたり収容所に送られたりしたことを悼んで設定された「国際学生行動日」に学生たちと行った討論で、学生はフス戦争のことについてこう語った。「生きのびる、ということが、われわれチェコスロヴァキアの人民にとっては、歴史的にも至上命令なのです。一四一五年にヤン・フスが焚刑に処せられ、フス派の運動が挫折し、一六世紀に入って三〇年戦争、とくに『白山での戦い』に敗れてオーストロ・ハンガリー帝国に編入されて以後、ずっとそうなのです。一息つく暇もなかったのです。」

実際、フス派を異端として十字軍が派遣されたフス戦争(1419〜344)や、白山の戦い(1620)の後ではカトリックへの改宗か国を去るかの選択が求められ、弾圧は言語にも及んでドイツ語が行政や高等教育の場で強制されていたのである。

このようにトルコの支配下にあったブルガリアなど南スラヴの諸民族だけでなく、チェコスロヴァキアなどの西スラヴの諸民族もヨーロッパにおいては虐げられていたので、1848年の二月革命は少数民族としてオーストリア帝国で虐げられていたスラヴの諸民族に独立への機運をもたらし、六月には『チェコ民族史』の著者であるバラツキーが議長となり汎スラヴ会議がプラハで開かれていた(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』、193頁。)

一方、ロシアが敗北したものの善戦したクリミア戦争(一八五三~五六)は、同じような状況をオスマン帝国に支配されていたバルカン半島のスラヴ諸民族にもたらし、この戦争の後では、ブルガリアなどで独立運動が高まりを見せるようになった。

それゆえ、一八六七年の五月から六月にかけてモスクワではギリシャ正教の「キリルとメトディウスのスラヴ布教一千年を記念して国外からスラヴ諸民族の指導者たちを招待」して「スラヴ会議」が開かれ、そこにはオーストリア帝国内のスラヴ人や南スラヴ人など八一名が参加し、西欧列強に対抗するためにロシア帝国を盟主とするスラヴ連邦などの構想が話しあわれていた(『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、1~2頁)。

このような時期に西欧文明のみを「進歩」としアジアを「停滞」と規定する近代西欧の歴史観の問題点を鋭く批判して、「弱肉強食の思想」を正当化する西欧列強から滅ぼされないためには、「祖国戦争」で大国フランスを破って東欧のスラヴ諸国に独立の気概を教えたロシアを盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して対抗すべきだと主張したダニレフスキーの歴史理論に注目が集まるようになった。そして、南スラヴの同胞をイスラム教国の圧政から解放する十字軍を派遣すべきと考えたドストエフスキーも露土戦争の頃にはかつては同じペトラシェフスキー・サークルの会員だったダニレフスキーの理論から強い影響を受けていた。

そして、「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」とし、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」とその義理の妹を殺した主人公のラスコーリニコフには、「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったと断言したような小林秀雄の解釈が流行った昭和初期には、日本でも「大東亜共栄圏」の思想が強調されたのである。

(8)チェコスロヴァキア事件からウクライナ危機へ――民族主義的な権力者の危険性

2月22日にロシア軍のウクライナ侵攻が始まってからすでに一か月半以上が経ったが、残念ながら今もロシア軍による市民をも含めた烈しい攻撃が続いている。

一方、日本では祖父の岸首相の古い理念を受け継ぎ戦前の価値観を美化したばかりでなく、プーチン大統領との27回の会談を重ねていた安倍元首相をはじめ自民党タカ派や維新の政治家が、この機会に乗じて声高に軍拡や「核武装」を主張し始めている。さらに、今日も安倍氏が「(ロシアのウクライナ侵攻で)ドイツですら防衛費をGDP比2%に引き上げる決断をした。日本も2%に拡大する努力をしていかなければならない」と語ったことが伝えられている。

一方、チェコスロヴァキア事件が起きた際に三島由紀夫はたびたび「二千語宣言」にも言及した「自由と権力の状況」1968年10月)で、「チェコの問題は、自由に関するさまざまな省察を促した。それは、ただ自由の問題のみではなく、小国の持ちうる、政治的なオプションの問題でもある」とし、「極端に言えば、あそこでは文学と戦車との対立が劇的に演じられたのである」と分析し(119頁)、1970年の「三島事件」では憲法改正のための蹶起を自衛隊に求めたのである。

それに対して堀田善衞はチェコスロヴァキア事件が起きると現地に飛んで老詩人スルコフの「ここに(胸に)苦痛をもって、兄弟国へ出兵をせざるをえなかったのである。そのことをどうか了解してもらいたい」という回答をえていた。その言葉は「弱肉強食」の論理を正当化する西欧列強から滅ぼされないためには、「祖国戦争」に勝利したロシア帝国を盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して西欧列強と対抗すべきだと主張したダニレフスキーの「全スラヴ同盟」の思想がソ連になってからも影響を持ち続けていた可能性を示しているだろう。かつては盟主国を自認していたロシアは、社会主義になってからは長兄の役を演じようとしていたのである。

しかし堀田善衞は、「“友は選べるが、兄弟は選べない”」という題を付けた第12章では、プラハで出迎えに来てくれた知人に「友人は選べるものだが、兄弟は選べるものではないことを、ほとんど直感したのが若い彼らでした」という苦い失望を語らせることで、この理念がチェコスロヴァキア事件で崩壊したことを示していた。

たとえば、この侵攻の後では堀田も「モスクワから来ていたある日本人特派員氏と食事をしていたとき、思わずこの特派員氏がロシア語を口にすると、『ここではそんなことばを使わないでくれ』」と鋭く告げられていた(268)。

それゆえ、プラハ滞在を終えてモスクワに帰り、「少なからぬ人々に、実情を訊ねられた」堀田は、自分の観察を率直に次のように語った。

「プラハやブラティスラバの人たちはこう言っています。『背中にヒ首あいくち(占領)を突刺しておいて、傷がなおったら(正常化)、そのヒ首を抜いてやろう』とはね。」と。

さらに、スルコフはサルトル、ボーボアール、アラゴン、バートランド・ラッセル卿」などの名前を挙げて、この出兵によって「多くの友人を失った」と語っていたが、そればかりでなくルーマニアやアルバニア、ユーゴスラヴィアからの批判を招き、対立を深めた中国との間には翌1969年に中ソ国境紛争が勃発することになった。

チェコスロヴァキア事件の後で再び東欧が民主化を勝ち取るのは、ソ連のゴルバチョフ政権が新思考外交を打ち出した1989年のことであった。そして、ゴルバチョフはソ連においてもペレストロイカ(再建)やグラースノスチ(情報公開)などの政策を打ち出して、遅ればせながら、チェコスロヴァキアで試みられていた「人間の顔をした社会主義」への改革を行い始めていた。しかし、その矢先に起きたチェルノブイリ原発事故はその歩みを大幅に遅らせたばかりでなく、放射能の被害にもあったバルト三国の離反を招き、保守派によるクーデターを鎮圧したエリツィン・ロシア大統領が権力を握った1991年にソ連は崩壊した。

そのエリツィンによって大統領の退任前に首相から大統領代行に抜擢されたのが、元情報将校のプーチンであり、彼はエリツィンの政治手法を色濃く受け継いでいると思える。

それゆえ、大統領令によって自分を刑事訴追から免責させたエリツィンからプーチン政権への移行を、今回のウクライナ侵攻につながるような負の側面に焦点を当てて確認しておきたい。

最初に注目したいのは、エリツィンがウクライナ・ベラルーシの三国でソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS) の樹立を宣言したように、歴史的・言語的に関係の深いこれら東スラヴの国々を重視するとともに、ロシアからの独立を主張したチェチェンに対しては強硬策を取って弾圧したことである。

翌年に首相を兼任してエリツィンは強権的な手法を議会でも用いて、縁故資本主義的な政策が批判されると大統領令を公布して超法規的に現行憲法を停止し、ロシア人民代議員大会と最高会議を強制的に解体した。このような手法に批判が集まり大統領選挙で苦戦すると新興財閥からの巨額の選挙資金などでようやく勝利したが、すると、第二次チェチェン紛争では辣腕を振るったプーチン首相を後継者に選び、不逮捕特権を得ていた。こうして、共産党政権の末期には「赤い貴族」が批判されるようになっていたが、エリツィンは政権の末期にはロシア帝国の皇帝のような独裁者に近くなっていた。

プーチンは大統領になった当初は、エリツィンとの癒着で莫大な富を得ていた新興財閥にも税金を課し、不正を取り締まったことで国民からの支持を得たが、2期目となる2004年には地方の知事を直接選挙から大統領による任命制に改めるなど中央集権化を進めて、エリツィンと同じように独裁者的な傾向を強めることになる。さらに、ソ連崩壊後の激しいグローバリゼーションに対抗するような形で世界の各国でナショナリズムの高揚が見られたが、プーチンの政策にもこのような民族主義的な傾向もみられるようになったと思える。

ことに大統領の正規の任期を終えた後で、もう一度首相に戻ってから再び大統領選に出るという非民主的な手法で再選された後ではエリツィンと同じような独裁者的な存在となった。さらに、精神的盟友とも言われるロシア正教会のキリル総主教との個人的な関係も深めていることが3月29日のNHK報道でも伝えられており、「専制・正教・国民性」の道徳に従うことが求められたロシア帝国の時代に逆戻りしているようにさえ思えた。

安倍元首相がクリミア併合の後でプーチン大統領との27回も会談を行っていたのは、権力者プーチンの強圧的な手法やその強大な権力にあこがれを抱いたからなのかもしれない。

しかし、堀田善衞が会見を求めた老詩人スルコフはチェコスロヴァキア事件によって「彼らとの友情を回復するためには、一〇年では足りないかもしれない。二〇年はかかるかもしれない」と語っていたが、単に戦車で言論を弾圧したばかりでなく、砲撃などで一般の市民の殺戮をも行っている今回のウクライナ侵攻がロシアに与える負の影響はより深く長く響くものになると思える。

そのことを考慮するならば、「君と僕は、同じ未来を見ている」とまで呼びかけていた安倍元首相が、国際的な非難がプーチンに集まると手のひらをかえして今度は核武装や軍拡にまで言及していることは危険極まりないといえるだろう。

次回はウクライナやポーランドを併合したロシア帝国と韓国を併合した大日本帝国の教育制度を比較することにより今回のウクライナ危機が日本に投げかけている問題の深さを考察することにしたい。

(9)日露の隣国併合政策と教育制度の類似性

前回見たように、日本ではウクライナ危機を契機に自民党のタカ派や維新の議員が声高に軍拡や「改憲」を訴え、公明党や国民民主党などもそれに流されているように見える。

しかし、ウクライナ危機が1968年の事件の際と決定的に異なるのは、ロシアに武力で攻撃されたことのなかったチェコスロヴァキアが武力による抵抗をしなかったのに対して、ロシア帝国に併合されていたという過去を持っていたウクライナが人的な被害をも顧みずに徹底的な抗戦をしていることである。

おそらく併合された民族の怒りや心的な深い傷について考えたことのなかったプーチン大統領はチェコスロヴァキア型の解決を予想していたのだと思われる。今回のウクライナ危機に際して、戦争に関連して日本人が考察すべきは、過去に併合されたことのある隣国の心的な傷の深さだろう。

『若き日の詩人たちの肖像』で日本に住む韓国人の屈折した心理をも描いた堀田善衞は、上京してからギターも習い始めた主人公の若者が、ロシア帝国によるポーランド併合と日韓併合についての類似性について、「ショパンの音楽は、たとえば朝鮮のアリラン節を洗練したようなものであり、ポーランドの旋律のもつ、あるあわれさとポーランド自身の運命は、東方における朝鮮のそれに酷似していた」(上巻・40頁)という感想を抱いたと描いている(『堀田善衞とドストエフスキー』群像社、57頁)。

ドストエフスキーが受けた教育とウクライナやポーランドとの関りについては、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』でゴーゴリの場合などをとおして考察していたので、少し長くなるがまずそれらの個所を引用する〔文章中の「」はそのまま記し、省略した個所は(……)で示す〕。

「ドストエフスキー兄弟が学校に通い始めた頃、ロシアでは「祖国戦争」後に属国として併合したポーランドの政情ともからんで、大きな「教育改革」が始められていた。

すなわち、デカブリストの乱の後に、自由主義的な思想の排除に努めていたニコライ一世は、一八二九年にポーランド王に即位すると、それまでポーランドには認められていた憲法の破棄などを断行しようとした。そのためにこれに対する激しい反発からポーランドでは翌年の一一月に蜂起が勃発していたが、これを鎮圧したニコライ一世はポーランドにおける憲法の無効を宣言し、ワルシャワやヴィリノ大学を閉鎖したのである。

このような「教育改革」はすでに属国として併合されていたウクライナでも行われていた。ドストエフスキーが学んだチェルマーク寄宿学校の雰囲気を想像する手がかりとするためにも、少し回り道をすることになるが、作家のゴーゴリが一八二一年から二八年にかけて学んだウクライナの高等中学校(ギムナジウム)でおきたいわゆる「自由主義事件」をとおして、ウクライナの「教育改革」の問題を簡単に見ておきたい*7。

ゴーゴリが入学したときのオルライ学長は医学と哲学の博士号をもった知識人で、一八一二年の「祖国戦争」に際しては、軍医として負傷者の手術にもあたったことがあり、時には他の学校と同じように鞭による体罰も行ったが、ペスタロッチの教授法による自由な学風を確立していた。それゆえ、学校では語学の修得のためにも演劇が推奨され、ドイツ語、フランス語やさらには、学校の正課には入っていなかったウクライナ語の劇が上演され、ゴーゴリも俳優としての才能を発揮していた。

だが、学長が学校を去って問題が起きた。一八二五年のデカブリストの乱の後から密告が推奨され(……)寮生の持ち物検査をすると、学生たちの持ち物に当時は上演が禁じられていたグリボエードフの『知恵の悲しみ』や、危険視されていたプーシキンの『コーカサスの虜囚』や『強盗の兄弟』などの書物が見つかった。

(……)卒業の時期が近づいて来るに従って、それまでベロウーソフを弁護していた学生たちが証言を覆し始めた。なぜならば、卒業時に与えられる官等は、その評価によって一二等官から一四等官までの差が出るからであり、学長も保守的なヤスノスキーに代わっていたのである。こうした結果、ベロウーソフ教授と最も親しいと見なされていたゴーゴリは、彼より出来ない学生が一三等官の官等を得たにも係わらず、結局、最下位の一四等官の地位しか与えられなかった。

こうして、学校ではウクライナ語の詩も書いたりしていたゴーゴリは、卒業に際して「秩序」の厳しさを身にしみて味わわされ、ロシア語で作品を書く作家としてデビューすることになるのである。」(50~52頁)

一方、ロシア帝国でもドストエフスキーが寄宿学校に入る前年の一八三三年に「わが皇帝の尊厳に満ちた至高の叡慮によれば、国民の教育は、正教と専制と国民性の統合した精神においてなされるべきである」とする通達を学校関係者や教育行政官に出されていた。

「(ニコライ一世は)革命の成果を守るために国民軍の導入を果たしていた「国民国家」フランスとの国家の存亡を賭けた「祖国戦争」で辛うじて勝利をおさめた経験から、「普遍的な理念」とされロシアの若者にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」という理念によって西欧文明への崇拝者が増え、自国の「国家」としての骨格を崩されることを怖れて、ロシアの「伝統」に根拠を置いた「正教・専制・国民性」の「三位一体」を「ロシアの理念」として国民に徹底しようとしていたといえよう。

しかし問題は、「ヨーロッパの理念」に対抗するために、西欧近代の「弱肉強食の思想」や「自然支配の思想」の批判をできるようなロシア発の「普遍的な理念」を打ち立てるのではなく、ロシアの貴族が既得権益を失うことのないように、ロシアの「伝統」が強調されたことである。

農奴制の問題を手つかずで残したままで、「正教・専制・国民性」を「ロシアの理念」として強調したことは、ロシアの「野蛮性」を批判する西欧諸国の批判に根拠を与えることとなってしまった。それゆえ、厳しく禁じられた「自由・平等・友愛」という理念に憧れる若者が増えることを未然に防ぐために、ロシアは西欧からの厖大な情報に対する検閲を強化し、その措置が西欧からの新たな批判を生むという悪循環を招くこととなったのである。」(52~54頁)

若きドストエフスキーがデビュー作『貧しき人々』でプーシキンの『駅長』とゴーゴリの『外套』を詳しく分析していたことの意味については、拙著で詳しく考察したが、ニコライ一世の頃の国粋主義的な歴史理解の弊害をもドストエフスキーは深く理解していた。検閲で禁じられたベリンスキーのゴーゴリへの手紙をペトラシェフスキーの会でドストエフスキーが朗読したことは、そのことをよく示しているだろう。

すなわち、ゴーゴリは一八四七年の初めに『友人達との往復書簡選』(以下、『書簡選』と略す)を出版し、ここで「官製国民性」を高く掲げて、自己を棄てた「国家への奉仕」こそがロシアの危機を救うと主張した。

「この頃ゴーゴリは、『死せる魂』の第二部で主人公チチコフの回心を描こうとしていたが、この試みはなかなかうまくいかず、それまで書きためていた原稿をすべて燃やしてしまうなど精神的に追いつめられていた。こうした精神的危機の中で出版されたのがこの著作であった。

ゴーゴリはこの『書簡選』でも「汚職」や「裏取引」が「人間の手段をもってしてはどうにもならぬほど多い」ロシアの現実を厳しく指摘して、「ロシアはまさに不幸である」と断言してはいる。

しかし、このような現状認識を示しつつもゴーゴリは、ここでその原因をロシアにおける法律の不備や憲法の欠如に求めるのではなく、人々が「物質的利益に誘惑されエゴイズムに盲いて、よきロシア的伝統を見失っている」ためだとした。そしてゴーゴリは、「自己のための自己を全て殺し、全てをロシアに捧げ、ロシアにあって活動しなさい」として、制度的な腐敗を生み出している政府ではなく、その腐敗に苦しむ国民に対して道徳を説いたのである*44。

しかも、ゴーゴリは神によって支配する者と支配される者が選別されているのだとして、「支配される立場に生まれた彼ら百姓たちが、その下に生を受けた権力に従順たらねばならぬ」ことを強調し、「国家内の全ての階級・全ての個人が己の分と義務を弁え」るように、ロシア人の教育にあたっては、「彼の属する階級の諸々の義務を教えこむこと」が必要だとも記していた。このようなゴーゴリの記述の方法は、個人の自立を阻むものとしてまさにドストエフスキーが『貧しき人々』で否定していたものであった。(……)

注目しておきたいのは、ゴーゴリの『書簡選』が出版された年に、ウクライナ語で詩を書いていたシェフチェンコなど「キリル・メトディ団」が逮捕されるという事件が起きていたことである。」ウクライナ語を積極的に用いることは、「「国民国家」フランスの成立以降、どの国でも「中央」の言語として重要視されてきた「国語」の権威を揺るがすものとして危険視されたのである*45。」(157~158)

1848年にはフランスで2月革命が起きてヨーロッパは騒然としたが、「このような政治情勢下でドストエフスキーは文筆活動を続けるかたわら空想社会主義者フーリエの考えを信じて、「農奴制の廃止」や「言論集会の自由」などロシア社会の変革を求めて、印刷所を設けようとするなどの活動を秘密裏に行っていた。その年の一二月に『祖国雑記』に発表された作品」(168)が、堀田善衞が『若き日の詩人たちの肖像』第一部の題辞としてその冒頭の文章を引用した『白夜』だったのである。

「一八四九年四月二三日未明、ドストエフスキーは寝入りばなを起こされ逮捕された。その容疑はペトラシェフスキー・サークルの「集会に出席」し「出版の自由、農民解放、裁判制度の変更の三問題に関する討論に加わりゴロヴィンスキイの意見に賛成」したこと、および「ベリンスキーのゴーゴリへの手紙を朗読」したことであった。」(196)

「一方、オーストリア帝国からハンガリーへの派兵の要請を受けたニコライ一世は、一八四九年の七月に一〇万を超えるロシア軍を派遣して、八月には革命軍を降伏させた。このために国内で極端に保守的な政治を行っていたニコライ一世は、「ヨーロッパの憲兵」とも呼ばれるように」なったのである(205)。

この不幸な歴史は1956年のソ連軍によるハンガリー動乱の鎮圧で繰り返されることになり、私事になるが、かつてポーランドを旅していた際に私がロシア語で語りかけても返事をされないという経験をして、ロシアに併合された過去を持つポーランドにおけるロシア語に対する拒否感の強いことに驚かされ、創氏改名を強制した日本の韓国併合政策の過酷さを連想したことがある。

ソ連軍の侵攻の後でチェコスロヴァキアに入った堀田善衞も、「モスクワから来ていたある日本人特派員氏と食事をしていたとき、思わずこの特派員氏がロシア語を口にすると、『ここではそんなことばを使わないでくれ』」と鋭く告げらたことを記している(268)。

この侵攻の後ではチェコスロヴァキアにおいてもそれまでの信頼が崩壊し、ロシアは侵略国と見なされるようになっていたのである。

(10)「チェコ軍団」の動向とシベリア出兵の問題

前回はオーストリア帝国からハンガリーへの派兵の要請を受けたニコライ一世が、1849年に10万を超えるロシア軍を派遣していたことを見たが、『若き日の詩人たちの肖像』第一部の題辞で『白夜』冒頭の文章を引用した後で重苦しい昭和初期を活き活きと描き出した堀田善衞は、1970年に発表した小文「『白夜』について」では、「ドストエーフスキイの後期の巨大な作品のみを云々する人々を私は好まない。それはいわばおのれの思想解明能力を誇示するかに、ときに私に見えて来て、そういう『幸福』さが『やり切れなく』なって来るのだ」と記している。

この文章は彼がハンガリー出兵の前に発表された『白夜』という作品が持つ重みを深く認識していたことを示しているばかりでなく、ハンガリー出兵と1918年のシベリア出兵の類似性をよく理解していたと思える。

「なぜならば、エッセイ「砂川からブダペストまで――歴史について」(一九五六)で、「砂川町での基地反対運動についてだけでなくソ連軍によるハンガリー動乱の鎮圧についても言及した堀田は「歴史を重層的なものとして見る」ことの重要性を強調しているからである」(『堀田善衞とドストエフスキー』、45頁)。

実際、フランス2月革命の影響が国外の諸民族にも波及し始めるとニコライ一世は、「不遜極まりなき暴挙」が、「朕の統治するロシアの神を冒涜せん」としつつある今、「われらが正教徒たる先祖の遺訓に基づき、全能の神の助けをもとめて、朕はわが外敵の出現するところ、労をいとわず、進んで迎え撃つ覚悟であり」、「わが国境の不可侵権を擁護する所存である」としてハンガリー進軍の内命を三月一四日(ロシア歴二六日)に出し、さらにはペトラシェフスキー会の内偵も始めていた*3。」(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』、167~168頁)

一方、第一次世界大戦の末期に行われた連合軍と日本軍によるシベリア出兵は「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」ことを名目として、革命政府の打倒のために軍隊が派兵された。

なぜシベリアに「チェコ軍団」がいるのだろうか。細谷千博『シベリア出兵の史的研究』によって簡単にその経緯を確認しておきたい(129~133)。

「多年オーストラリア帝国の圧政の下で早くから民族意識に目覚め、民族的自由を獲得する運動を継続していた」チェコ人とスロヴァキア人にとって、「第一次世界大戦の発生は民族的独立を達成するための得難い機会」と映り、「両民族は続々とロシア側に投降」して、「その数は五万人にも達した。」

ソヴィエトとドイツとの停戦協定が成立すると「チェコ国民評議会(在パリ)とフランス政府との間には」、オーストリアとの戦闘のために「チェコ軍団をフランスの最高指揮官の下に属しめ、これをフランスに転送する」との協定がまとめられ、ソヴィエト軍の指揮官も「シベリア経由でロシアを去る」ことを許可して、5月末にはウラジオストックに1万人が到着した。

しかし、シベリアで反革命軍が活動を始めたことを警戒したソヴィエトが行く先の変更などを求めたために、長く待たされたことや武器の放棄を求められた「チェコ軍団」と赤軍との武力衝突が始まり、チェコ軍はペンザ、オムスク、サマラなどの都市を占領し、それらの都市では5月末から6月初旬に反ボリシェヴィキ政権が樹立されていた。このように見てくるとき「チェコ軍団」は、「革命軍によって囚われた」どころか、「革命軍に到る所で勝利していた」のである。

シベリア出兵をテーマとした堀田善衞の長編小説『夜の森』(1955)でも先陣として派兵され、8月13日にウラジオストークに上陸した小倉の歩兵第14連隊の巣山忠三・二等兵の日記の冒頭でも、「ウラジオでの大隊長の訓示によると、チェック・スロヴァキアの軍がウラジオでことを挙げ、過激派を我が陸戦隊とともに七月初旬に追っ払ってしまった」ことが描かれている(『全集』3巻・149頁)。

さらに、「我々日本軍は、聯合与国とともに国際警察隊をかたちづくっているのであって、われわれの行動作戦は、警察行動というのが建前である」という聯隊長の訓話や主人公が看護にあたった少尉の「今度の出兵は、日清日露などとはまるきり性質のちがう、出兵で」あり、「日本の王道主義を世界にひろめる思想の戦争」であると主人公が看護にあたった少尉に、「今度の出兵は、日清日露などとはまるきり性質のちがう、出兵で」あり、「日本の王道主義を世界にひろめる思想の戦争」(『全集』3巻・359)であるという言葉の記述もある。

これらの言葉は「日本浪曼派」の保田與重郎が「八紘一宇」などの理念が唱えられた「満州国の理念」を、「フランス共和国、ソヴエート連邦以降初めての、別箇に新しい果敢な文明理論とその世界観の表現」と讃えていたことや太平洋戦争に際してはそれまでの「日・満州・支」に東南アジア、インド、オセアニアの一部を加えた範囲が「大東亜共栄圏」とされたことを思い起こさせる。

しかし細谷によれば、日本軍の出兵数は一万二千以下であり、ウラジオストック以外の方面に出動したり」することは決してないと約束したにもかかわらず、重要な軍事拠点のブラゴヴェシチェンを占領してイルクーツクまで進出し、10月末には日本軍の人数は7万2千に上っていたのである。

さらに、この長編小説ではピカライ金山やメリワン金山の戦いも描かれているが(『全集』3巻・176、178)、それらの金山をめぐる攻防は、「過酷な軍政か反動的な傀儡政権の樹立を通じて行われ、戦争遂行のための物資と労働力の一方的な収奪に終始し、〈共栄圏〉の美名にはほど遠かった」太平洋戦争を先取りしていた観すらある(岡部牧夫「大東亜共栄圏」『世界大百科事典』平凡社)。

チェコスロヴァキア事件にふれたイギリスの詩人W・H・オーデンの詩の内容から画家ゴヤの『わが子を喰うサトゥルヌス』の絵を想起したと書いていた堀田は、「毎日新聞」朝刊に掲載されたエッセイ 「『戦争の惨禍』について―乾いた眼の告発―」(1971年 11月11日)では、「私がはじめてこの版画集を見たのは、支那事変中のことであった。『南京虐殺事件』という言葉が、密々に、どこからともなく耳に聞こえはじめていた頃のことであった」(『全集』16巻・378頁)と書いている。

堀田が短編『「ねんげん」のこと』(一九五五)で主人公に証言させているように、「五族協和」などのスローガンを掲げて建国されたこの「新天地」には、阿片を販売するための「阿片管理部」という機関が作られており、朝鮮には「阿片、ヘロイン、コカインなどを精製する大工場」があったのである。

さらに、堀田善衞の『夜の森』で主人公からロシア革命について尋ねられた通訳の花巻に、「戦争と米価騰貴に疲れ、不平不満の民衆一揆みたいに立ち上って、これと職工や兵隊がいっしょになって米騒動が革命になったのですよ」と説明させた堀田は、1919年には「人の数でなら米騒動の上をゆくような大騒動」が韓国でも起きていたと三・一独立運動についても伝えさせている。帰国直前に得た6月30日の日本の新聞記事で中国の五四運動について知ったことも記されている(『全集』3巻・281~282頁)。

それらのことに留意するならばこの長編小説で記されているシベリア出兵時に占領した地域が驚くほど後の「満州国」の版図と重なっていることが分かる。『夜の森』はシベリア出兵から満州事変を経て太平洋戦争に至るその後の日本の歴史の骨格を見事に示唆していたのである。

(2022年4月6日)

ウクライナ危機に際して堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み直す(上)

(1)アジア・アフリカ作家会議と『インドで考えたこと』

1968年9月にタシケントで開催されるアジア・アフリカ作家会議に参加する準備をしていた堀田善衞にとって、8月21日にワルシャワ条約5カ国軍によってチェコスロバキア全土が武力で占領下におかれたことは、青天の霹靂のような出来事であったと思われる。

後に堀田は1956年のハンガリー事件を連想して、「単純な怒りとともに、呆れてしまい、また同時に、彼らのやりそうなことをやったものだ、という感をもったものであった」と記している(「小国の運命・大国の運命」『堀田善衞全集』、1974年、以下、かっこ内には全集の頁数のみを記す)。

ただ、堀田は九月二〇日から二五日までタシケントで開催されるアジア・アフリカ作家会議の一〇周年記念集会に出席して、「長年の友人である」ソ連の作家たちが「どんな顔をして何を言うか、このことだけをでもたしかめてみようと思い立った」と書いている。

一九五六年一二月にニューデリーで開催された第一回アジア作家会議に、「作家としては唯一の日本人として参加」しただけでなく、事務局員として大会の準備も行っていた堀田はその後も深くこの運動に関わり、「この運動をめぐる日本人随一の功労者であると同時に、国際的にも創始者の一人と目されていた」のである(水溜真由美『堀田善衞 乱世を生きる』ナカニシ書店、2019年)。

それゆえ、「小国の運命・大国の運命」の冒頭近くで堀田は「この運動は、アジアとアフリカにとってはどうしても必要であり、日本文学もまた、このような現実を知る必要がある、と少々バカ正直というものではないか、と自分でも思いながら、従事するだけはしてきたものであった」と書いている(191)。

日本とロシアの近代化を夏目漱石とドストエフスキーの考察を比較している個所もある『インドで考えたこと』については拙著でもふれたが、堀田は農村の老人から次のように厳しく批判されていた。

「日露戦争以来、日本はわれわれの独立への夢のなかに位置をもっていた。しかし、日本は奇妙な国だ。日露戟争に勝って、われわれを鼓舞したかと思うと、われわれアジアの敵である英国帝国主義と同盟を結び、アジアを裏切った。(……)戦後には、アジアで英国支配の肩替りをしようとするアメリカと軍事同盟を結んだ。つくづく不思議な国だ」。

さらにそこでは、戦時中に読んだ川端康成氏の『末期の眼』という文章に述べられている思想は、若い私に「一切の努力は空しい、闘争も抵抗も空しい、この世にある醜悪さも美しさも、なにもかもが同じだ、同じことだ、という、毒のようなものを注ぎ込んだ」と記した堀田は、こう続けていたのである。

「数年前、ある座談会で私はあの思想は、「人類の敵だ」というようなことを云い、同席した亀井勝一郎、三島由紀夫の両氏も、しぶしぶながら、であったらしいが、私のこの暴言を是として認めた…。」(11巻・113頁)

寡聞にして、晩年の三島由紀夫についての堀田善衞の文章を知らないが、三島は『英霊の聲』では2・26事件の「スピリットのみを純粋培養して作品化しようと思った」(「『道義的革命』の論理」)と記し、戦時中の「日本浪曼派」的な「美意識」から戦前や戦時中の価値観を讃美するようになっていた。

以下、この論考では以前に見た三島のチェコ事件観にも注意を払いながら堀田がこの事件をどのように見たのかに迫りたい。

(2)1968年の国内外の情勢と『小国の運命・大国の運命』の構成

チェコスロヴァキアへの侵攻が起きた1968年は世界的に見ても動乱の年であった。すなわち、1961年以降はベトナムのゲリラの根拠地に対する枯れ葉剤の大量散布や 、北ベトナムへの大々的な爆撃は1965年から続いていたばかりでなく、3月には南ベトナムのソンミで米軍による大虐殺事件が起きた。そして、アメリカ本土でも、4月4日には黒人運動指導者のキング牧師が、6月5日には有力な大統領候補のロバート・ケネディが暗殺されるという事件が起きた。

フランスでも5月にパリで学生デモと警官隊衝突が起こり、19日には全仏でゼネストが実行されるなど5月革命と呼ばれる事態が発生した。その一方で、8月24日には仏領の南太平洋で水爆実験が行われていた。

日本でも1月16日には原子力空母エンタープライズの佐世保寄港反対を社・公・共3党が政府に申入れたにもかかわらず入港が強行されたという事件や10月には新宿駅を新左翼の学生らが占拠する暴動が発生していた。

このような中で9月19日に日本を出発してモスクワに降り立った堀田は記念集会に参加した後で、ヘルシンキ、ストックホルム、ロンドン、パリ、プラハ、ウィーン、ベルリン、ブラティスラバなどヨーロッパ各地を訪問して、チェコスロヴァキアには前後二回、約一カ月滞在して、さまざまな人々と話し合い、約三カ月後の12月24日に日本に帰国した。

その間に見聞きしたことや考えたことを詳しく記したことが、翌年の1月から6月まで『朝日ジャーナル』に掲載された後に、同年9月に筑摩書房から刊行されたのが『小国の運命・大国の運命』である。

まず、本書の構成を示すことで全体像を示しておきたい(かっこ内の数字は全集の頁数)。

はじめに(188),/1,一人の作家の結びつき(190)/2,“人喰い鬼”の詩(196)/3,ソヴェトの中のロシア(204)/4,奴らとわれわれ(212)/5,逆効果の“白書” (218)/6,言わない部分の多い会話(226)/7,見失われた共通価値(233)/8,第三世界から生まれつつあるもの(240)/9,チェコの歴史と作家の心(246)/10,パリでの時間表(253)/11,プラハに入る(262)/12,“友は選べるが、兄弟は選べない”(267)/13,暗黒時代の政治裁判(274)/14,黒いユーモア(282)/15,国際学生行動日の会話(291)/16,スロヴアキアの民心(282)/17,人民の前衛化と前衛党(306)/あとがき(314)

最初の章「一人の作家の結びつき」ではアジア・アフリカ作家会議との関りについて記されている。ロシアやチェコスロヴァキアなどで見聞きしたことやその考察は、その次の章から始まる。

(3)二つの侵攻との比較――ソ連の満州国侵攻と日本軍のシベリア侵攻

前回は『小国の運命・大国の運命』の目次を記すことで全体像を示したが、本書は大きく分けると三つの部分から構成されている。

すなわち、第2章「“人喰い鬼”の詩」から第5章「逆効果の“白書”」までがロシアやソヴィエトの作家たちのチェコスロヴァキア事件についての考えや対応が、第6章「言わない部分の多い会話」の途中から第10章「パリでの時間表」まではヘルシンキやパリなどでのこの事件にたいする反応が記され、第11章の「プラハに入る」から第16章「スロヴァキアの民心」でチェコとスロヴァキアの民衆や知識人の対応が観察されている。

注目したいのは、第9章「チェコの歴史と作家の心」でチェコスロヴァキアに入国する前に調べたこの国の歴史が記述されているように、今起きている出来事だけでなく、遠くフス戦争との関りをも明らかにしていることである。この問題を深く分析することは、後に詳しく考察するようにダニレフスキーの「全スラヴ同盟」の思想が帝政ロシアの崩壊後も続いていたことを示すことにつながるだろう(拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、157~163頁参照)。

さらに堀田は、ドストエフスキーの『悪霊』中に出て来るシガリョフの「無限の自由より発して、無限の専制主義に到達するのだ」というセリフに言及することにより、社会主義の問題だけでなく、「近代社会そのもの」の問題にも迫っている。

スターリンの時代の政治を考察した章で、「プラハの、旧王宮(大統領官邸)のある丘からほど遠からぬ、同じくブルタワ河に臨むレトナーの丘の上に」、「背丈二〇メートルを越す、巨大とも怪異とも、なんとも言いきれぬスターリン像が、赤軍兵士たちとチェコスロヴァキア国民とを統率した格好でたっていた」ことを指摘した堀田は、「大東亜共栄圏」を主張して「鬼畜米英」との戦争を宣言した日本とも比較してこう記している。

「かつて皇軍と称していた日本軍隊も、南京にも溝陽にもシンガポールにも巨大な神社を建立したものであったが、いったい彼らが、〝解放″したすべての国に、そういう巨像を作ることを許したスターリン、あるいはスターリニスムの心理、あるいは神経というものも現代の謎の一つであろう」。

ダニレフスキーなどが唱えた「全スラヴ同盟」と太平洋戦争時の「大東亜共栄圏」の思想との詳しい比較は本稿の最後に行うことにしたいが、ここではまずチェコスロヴァキアへの問題を考える前に、ロシア軍の満州国侵攻と日本軍のシベリア侵攻の問題を簡単に比較しておきたい。

2015年8月8日の産経新聞・デジタル版では「ソ連軍157万人が満州侵攻 戦車に潰された王道楽土の夢」という題で日ソ中立条約を破って終戦間際に参戦してきたロシア軍の満州国侵攻の問題を大きく取り上げている。「満州国」の実態が「王道楽土」や「五族協和」のスローガンとは大きくかけ離れていたことは、このブログでも何回も取り上げて来たが、すでに三島由紀夫は自決前に行った「学生とのティーチ・イン」でロシア軍を批判しつつ、次のように日本軍の下士官の行動を賛美していた。

「私が一番好きな話は、多少ファナティックな話になるけれども、満州でロシア軍が入ってきたときに――私はそれを実際にいた人から聞いたのでありますが――在留邦人が一カ所に集められて、いよいよこれから武装解除というような形になってしまって、大部分の軍人はおとなしく武器を引き渡そうとした。その時一人の中尉がやにわに日本刀を抜いて、何万、何十万というロシア軍の中へ一人でワーツといって斬り込んで行って、たちまち殴(なぐ)り殺されたという話であります。/私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが言論だと思うのです。」

日ソ中立条約を破って終戦間際に参戦してきたロシア軍の蛮行についてはよく知られているので、降伏に甘んじずに切り込んだ中尉の話は勇ましく聞こえるが、実際には関東軍の将校たちだけでなく、司馬遼太郎が記しているように現地の日本人を守るべき戦車隊も、いち早く日本に引き揚げていたのである。

一方、日本ではあまり知られていないものの、堀田善衞が1955年に発行された長編小説『夜の森』で描いたように、ソ連が建国された1918年に日本はアメリカなどの連合国とともにシベリア出兵に踏み切っていた際には、日本軍もロシア人の村を焼き払い住民を殺戮するなどの蛮行をすでに行っていた。

しかも、その際に「出兵数は間違いなく、一万ないし一万二千以下である」ことや、「ウラジオストック以外の方面に出動したり、増援部隊を派遣したりすることは決してない」と日本が確約していたにもかかわらず、10月末にはすでに7万2千に上る日本軍将兵が戦闘任務に従事していた(細谷千博『シベリア出兵の史的研究』岩波現代文庫、209~210頁)。しかも日本軍は協定に違反してイルクーツクの一部も占領下に置き、アメリカなどの連合軍が1920年に引き上げたあとも1922年まで残って傀儡国家の樹立を策していたのである。

イワン雷帝後の動乱の時代にポーランドによるモスクワ占領やナポレオンのロシア侵攻を経験していたロシア帝国では、同じキリスト教でも宗派が異なるゆえにフス派が被ったような西欧からの「十字軍」の派遣を潜在的に恐れていたがが、建国当初の連合国によるシベリア出兵もそのようなトラウマにつながった可能性は否定できないだろう。

(4)「“人喰い鬼”の詩」と『プラウダ』の衝撃

9月19日に日本を出発して直行便の飛行機でモスクワに降り立った堀田は、出迎えに来ていた友人の作家が「ほんのさっき入手した」ばかりのイギリスの詩人W・H・オーデンの「一九六八年八月」という題の英語の詩を見せられた。

自分の訳では「原文にある、韻を踏んでの深く荘重な感じがまったく出ないのが遺憾である」としながらも堀田は、この詩を次のように訳している。

「人喰い鬼はまことに人喰い鬼らしく/人にとって不可能なことをやってのけるものだ/しかし獲物として一つだけ奴の手の届かぬものがある/ 人喰い鬼は言葉をものにすることは出来ないのだ(後略)」。

それゆえ、この詩を渡した後では黙り込んでしまった「友人の絶望」の深さを感じ、この友人が去った後で「ノートに写しとったW・H・オーデンの詩をくりかえして読み、また別に『プラウダ(注:真実という意味のロシア語)』宣言の英訳パンフレット」を読みつづけた堀田は、「それは頭が二つに分裂するような経験というもの」であると思い、さらに「ベトナム戦争をいまだにつづけているアメリカへ行く多くの私たちの同僚たちもまた、そういう分裂的な経験をしたものであったかどうか」と考えたと記している。

注目したいのは、堀田がこの詩から画家ゴヤの『わが子を喰うサトウルヌス』の絵を想起したと書いていることである。「戦中戦後を通じて、次第に私を内面からゴヤに、あるいはスペインに導いて行ったものは、ドストエフスキーの小説であった」と書き、ロシアの「祖国戦争」をも視野に入れながらスペインの独立戦争や異端審問の問題を描いた長編評伝『ゴヤ』でこの絵についての詳しい考察を行っている堀田のこの連想が示唆することの意味は重い。

オーデンの詩からの連想はとはいえ、アメリカやソ連などの「大国」との関係でベトナムやチェコスロバキアなどの「小国」の問題を考えようとしていた堀田は、近代社会や大国の深い闇をも直視しようとしていたのだと思える。

言論の自由、多党性の問題にふれた『プラウダ』宣言の英訳パンフレットには次のような教条的な文章が記されていたのである。

「わが(ソ連)党の指導者は、この文献(二千語宣言)が反革命活動のより二層の強化のための土台としての危険性をもつものであることについて、A・ドプチェクの注意をもとめた」が、「大まかな言葉による非難のほかには、いかなる明確な処置もとられなかった。」

これだけの説明では分かりにくいが、4月のチェコスロバキア・党中央委員会総会で採択された『行動綱領』では、次のような新しい方針が盛り込まれていた。

  • 党への権限の一元的集中の是正

2,粛清犠牲者の名誉回復

  • 連邦制導入を軸とした「スロヴァキア問題」の解決
  • 企業責任の拡大や市場機能の導入などの経済改革
  • 言論や芸術活動の自由化

このような方針に対する市民の側からの支持や期待を表明するために著されたのが『二千語宣言』だった。それゆえ堀田はこの文章を読むと「ソ連の党」が「何を『不安と危惧』として出兵、占領までしたかが、実に明らかに透けて見えて来るのである」と記している。

ここで堀田は出迎えに来ていた友人の名を挙げていないが、その理由についてはアジア・アフリカ作家会議との関りについてふれた「一人の作家の結びつき」でこう記されているのである。

「中ソ抗争のはなはだしかったときに、思い余って私は自分が仲介をして中国の作家たちとソ連の作家たちの話合いの場をつくり、どうにか一致点を見出し得るようにはからった」が、「そのこと自体が双方の作家たちのうちのどちらか、あるいはだれかに、政治的に不利なマイナスを形成したのではなかったか、と今は考えている」。

それゆえ、そういう作家たちの「名をあげるどころか、頭文字をあげることも私にははばかられる」とした堀田はこの文章では公式的な立場を代表している人物以外の作家の名前は一切記していない。

この記述からは当時の中ソの厳しい検閲や報道統制に接した堀田の深い苦悩が感じられるが、それはタシケントで行われた大会にも続いており、「この会議の草分け、あるいは創始者の一人」だった彼が、しばらく考えてから「東京を出る際に、わが家の女房が、〝それでもあなたは行くのか?″と言った」と語ると、「白い顔、黒い顔、浅黒い顔、黄色い(?)顔の爆笑が起ったが、爆笑はすぐに消えて」、アフリカ中央部から来ていた一人も、「おれのところでは、女房が学校の先生をしているのだが、おれがカバンの用意をしていると、やっぱりうちの女房も、それでもあんたは行くのか、と言った。」と言われたと語ったことを記している。

その場には「私が話合うことを求めて来ていた、アルジェリアの文学者たちの姿は見えなかった。アルジェリア作家同盟は一致して、五カ国軍によるチェコスロヴアキア占領に反対声明を出し、参加を拒否して来たものであった。それは私の胸にもこたえた。」

実際、第三世界の状況と比較しつつソヴェトの「民族政策はたいへんに成功した部類」としながらも、「コーカサスのチェチェン人七〇万人とクリミアのタタール人三万人がナチスとの協力を理由に家郷を追われるといったこと」()を堀田は指摘しているが、ソ連の崩壊後にこの問題は顕在化することになるのである。

タシケントでのシンポジウムでは「文学におけるナショナリズムとインタナショナリズム」というテーマで多くの人々が演壇にのぼったが多くは紋切型で空虚なものであり、二日目に会場の入ったものかどうかと迷っていた時には、「会場のなかには何もないよ」という「名言」をある作家から告げられたことを記している。

さらに第4章の「奴らとわれわれ」や「逆効果の“白書”」や「言わない部分の多い会話」などの章でも、“プレス・グループ”が作成した「白書」を考察してソヴェト型社会主義の硬直化した官僚主義の問題点が鋭く指摘されている。

ただ、これらの記述だけならば堀田が参加を決断してはるばるタシケントまで行ったことは無駄であり、無意味だったようにも思える。しかし、その後で夜の宴会と作家同盟の幹部中でも最古参に近いスルコフ氏との公式の面会での会話をとおして、堀田はロシアの作家の本音や第二次世界大戦を経験した老詩人の危惧に迫っている。

それはペレストロイカや言論の自由や報道の自由の回復を目指したゴルバチョフ政権の試みの必然性を示唆しているだろう。それとともに、チェルノブイリ原発事故が大きな引き金となってソヴェトが崩壊したあとに権力を握ったエリツィン政権を受け継いだプーチン政権によってなぜウクライナ侵攻が行われたのかの謎を解明することにもつながると思える。

(5)ロシアの“魂”とペレストロイカの挫折

「会場のなかには何もないよ」という「名言」を記した堀田善衞は、その後で「検閲その他に見られるような自身の欠如は、いったいどうしたものなのであろうか。大国主義とは自己自身に対しての自信を欠いている大国を意味する」と記している。

ただ、そのような重苦しい雰囲気に覆われた大会においても、「夜の宴会というものを軽く見ることは出来ない、ということを強調したいと思う。宴会や晩餐において、ロシア人たちはおどろくほど率直になるのであって、ドストエフスキーが描いたロシアの〝魂″は、まだまだ人々の深部に生きていて、そこではたとえ外国人が同席していようとも、その外国人とよく知合っているとするならば、ソルジェニツィン書簡(注:検閲の中止を求めた)でもチェコスロヴアキアでもなんでもが真に裸になって飛出してくる。

チェコスロヴアキア占領には、自分は反対だ、だが反対だと公表する勇気が自分にはない、だからおれは偽善者だ! という、真に痛切な叫びを私は何度聞いたことであろうか! 」

実際、私がロシアに留学したのは1975年のことであったが、このような「痛切な叫び」はすでに上映されていた映画やドストエフスキー劇をとおして聞くことができ、ロシアにおいても言論や報道の自由が徐々にではあれ拡がっているのを確認することができた。

それゆえ、ゴルバチョフが書記長として就任した1985年に学生の引率として再びモスクワを訪れた際には多くのドストエフスキー劇を観劇することができた。これらの劇についての簡単な劇評を書き、『罪と罰』を分析して「どんな『良心』も『知性』を欠いては、あるいはどんな『知性』も『良心』を欠いては、世界を理解し、改造することはできない」というカリャーキンの言葉を紹介した。

翌年にゴルバチョフはペレストロイカ(再建)をスローガンとして進め、さらにグラースノスチ(情報公開)をも大胆に試みたことで1987年12月には中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)が成立し、西欧社会との共存も進むかに見えた。

しかし、チェルノブイリ原発事故の影響は予想以上に深く、ゴルバチョフ政権に対するクーデターが発覚し、それを鎮圧したエリツィン・ロシア大統領が1991年にロシア・ウクライナ・ベラルーシ三国のソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS) の樹立を宣言したことで、ソヴェトは一気に崩壊した。

エリツィンが急激な市場経済を導入したために、一時はモスクワのスーパーの棚にはロシア産の商品がないような状態も生じて、「エリツィンは共産党政権ができなかったアメリカ型の資本主義の怖さを短期間で味わわせた」との小話も流行った。その一方で、第一次チェチェン紛争での強硬策の失敗や腐敗も見られたために、第二回目の大統領選挙では共産党に僅差まで追い上げられ、新興財閥からの巨額の選挙資金などでかろうじて乗り切ったものの、その後は新興財閥との癒着や民族主義的傾向も強まり、政権末期にはそれまでのNATOとの融和的な路線も修正されていた。

しかも、政治の腐敗や汚職などで裁判にかけられることを恐れたエリツィンは、刑事訴追から免責するという条件で、第二次チェチェン紛争を強引に収束させた元情報将校のプーチンを自分の後継者に指名していたのである。

こうして、堀田善衞は1968年の夜の宴会では、「おれは偽善者だ!」という痛切な叫びばかりでなく、「チェコスロヴァキアにおいてソ連兵一〇万の死者を出して得た権益を、なんでムザムザと西欧にわたしてたまるものか」という、「率直な主張とが、同じテーブルにおいて、実に率直に飛びかうのである」と書いていたが(208)、エリツィン政権の末期にはそのような好戦的な傾向がむしろ強まっていたといえよう。

(2022年3月28日)

司馬遼太郎のドストエフスキー観 ――満州の幻影とぺテルブルクの幻影

はじめに

ロシアと日本の近代化の類似性に注目して司馬遼太郎の2・26事件観にふれていた「司馬遼太郎のドストエフスキー観」(『ドストエーフスキイ広場』第12号、2003年)を、旧かなづかいと旧字を現代の表記に改めるなど文体を一部修正し 、 註を本文中の()内に記す形で再掲する。なお、本稿では敬称は略した。

一、昭和初期の「別国」とニコライ一世の「暗果の三〇年」

「自国に憲法があることを気に入っていて、誇りにも思っていた」若き司馬遼太郎は、「外務省にノンキャリアで勤めて、どこか遠い僻地の領事館の書記にでもなって、十年ほどして、小説を書きたい」という自分の人生計画を持っていた*1。しかし太平洋戦争の最中、文化系の学生で満二十歳を過ぎている者はぜんぶ兵隊にとるということ」になった時、自国の憲法には「徴兵の義務がある」ことが記されていることも知って、司馬は「観念」したのであった(「あとがき」『この国のかたち』Ⅴ)*2。

しかも学徒出陣で彼が配属されたのは、満州の戦車隊であった。司馬は後に戦車について「悲しいほど重要なことは、あれは単なる機械ではなく、日本国家という思想の反映、もしくは思想のカタマリであった」と記して、「無敵皇軍とか神州不滅とかいう」用語によって、「自国」を「他と比較すること」を断った当時の日本を厳しく批判した。つまり日本軍の戦車は「敵よりもはるかに鋼材が薄く、砲が敵にかすり傷も与えることができないほどに小さすぎた」ので、「敵戦車が出現した瞬間が私の死の瞬間になる」ことを意味していた。そして、敵の強力な戦車とは、ロシア(ソ連)の戦車に他ならなかったのである。

司馬は戦車の閉ざされた空間の中で「国家とか日本とかいうものは何かということ」を考え込んでいるうちに、「むこうの外界にあらわれたのは敵の戦車ではなく、…中略…成立後半世紀で腐熱しはじめた明治国家が、音をたてて崩れてゆく」という幻影を見、もし生きて帰れたら「明治国家成立の前後や、その成立後の余熱の限界ともいうべき明治三十年代というものを、国家神話をとりのけた露わな実体として見たいという関心をおこした」と記している。 明治国家の「露わな実体」に迫ろうとした司馬は、同時に自分に死を宣告する筈だったロシアの「露わな実体」をも明らかにしたいと思った筈であり、このことが司馬に日露戦争を主題とした『坂の上の雲』を書かせたといっても過言ではないだろう。

ところで、司馬遼太郎が深く尊敬していた福沢諭吉は、一八七九年に書いた『民情一新』で、日本に先駆けてロシアの「文明開化」を行ったピョートル大帝の改革を高く評価した。その一方で彼は、西欧の「良書」や「雑誌新聞紙」を見るのを禁じただけでなく、国内の学校においては「有名なる論説及び学校読本を読むを禁じ」、さらには「学校の生徒は兵学校の生徒」と見なしたニコライ一世治下の政治を「未曽有(みぞう)の専制」と断じ、このような結果、「人民も政府も共に狼狽して方向に迷う者」の如くになったと批判したのである。

実際、ロシアは「富国強兵」策によって強国となり、貴族の富は増大したものの、それに反比例する形で民衆、ことに農民の「奴隷化」が進んだのである。しかも、ロシアの文部大臣となったウヴア一口フは、西欧化の流れの中で若者にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」という理念に対抗するために、「ロシアにだけ属する原理を見いだすことが必要」と考えて、「わが皇帝の尊厳に満ちた至高の叡慮によれば、国民の教育は、正教と専制と国民性の統合した精神においてなされるべきである」とし、国民にたいしてこの理念の遵守を求めた通達を一八三三年に出した。しかし、国内の劣悪な政治状況を放置したまま「為政者」にではなく「国民」に「道徳」を課し、これを批判する者を厳しく罰したこの理念は、ロシアにおける「欧化と国粋」の対立の激化を招いたのである*3。

ドストエフスキーが生涯敬愛し続けたプーシキンは、このようなロシアの二重性を叙事詩『青銅の騎士』(一八三三)において見事に描き出していた。すなわち、この作品の主人公である若い官吏エヴゲーニイは、ペテルブルグを襲った大洪水で最愛の婚約者を失った悲しみから茫然として街をさまよい、ついにはピョートル大帝の「青銅の騎士」像に追いかけられるという強迫観念に駆られて狂死したのである。

ドストエフスキーもフランス二月革命が起きた一八四八年に書いた小説『弱い心』で、最愛の娘との婚約にまでこぎつけた主人公の若い官吏が、有頂天になって仕事に手が着かず、「職務不履行のために兵隊にやられる」のではないかと恐れて「発狂」するという悲劇を描いた。こうして、農奴制の改革などを求めて、ペトラシェーフスキイの会に参加していたドストエフスキーは、佳作『白夜』の発表から間もなく捕らえられて刑が決まるまでの約八か月、サンクト・ぺテルブルクの中心部に位置したペトロパヴロフク要塞の独房に監禁されたのである。

司馬は「私はいまでもときに、暗い戦車の中でうずくまっている自分の姿を夢にみる」と書いていた(「石鳥居の垢」『歴史と視点』)。ドストエフスキーもまた、いつ看守が死刑を告げにくるかも知れぬ暗い独房の中で、「うずくまっている自分の姿を夢に」見てうなされたことであろう。そして、そのような閉ざされた空間の中で、「ロシアとかいうものは何かということ」を考え込んでいるうちに、彼が見たのはピヨートル大帝によって造られた壮麗な都市サンクト・ぺテルブルクが「音をたてて崩れ」、もとの沼地に戻るという光景だったのではないだろうか。

年譜の作成者は司馬遼太郎が学生時代には『史記』だけでなく、ロシア文学を耽読していたことも記している。司馬遼太郎がドストエフスキーに言及している箇所はそれはど多くはないが、以下に詳しく見るように、言及されている箇所は司馬の「作風」や文明観の変化にも係わる重要な役割を担っているのである。本稿ではドストエフスキーが青春を過ごしたニコライ一世の「暗黒の三〇年」と、司馬が「別国」と呼んだ昭和初期の類似性に注目しながら、司馬のロシア観の変化を追うことによって、ドストエフスキーヘの言及の意味に迫りたい。

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二、日露戦争の考察と近代化の問題点の認識

日露戦争を中心に措いた『坂の上の雲』の初期においては、司馬は「憲法」を持たなかったことから未曽有の大混乱となりついには革命に至ったロシアと、アジアで最初に「憲法」を持つようになった民主的な国家日本を比較しながら、祖国の防衛戦争として日露戦争を位置づけて、その意義を強調していた。

たとえば、司馬は福沢と共に「当時の西ヨーロッパ人からみれば半開国にひとしかった」ロシアの「文明開化」を行ったピョートル大帝の改革を高く評価し、彼が使節団を西欧に派遣したり「ひげをはやしている者には課税」するなど岩倉使節団や断髪令など日本の明治維新に先行して「つぎつぎに改革と西欧化を断行した」ことを指摘している(Ⅱ・「列強」)。その一方で司馬は、民衆には将校になる可能性がほとんどなかったニコライ一世治下のロシアと比較しながら、「日本ではいかなる階層でも、一定の学校試験にさえ合格できれば平等に将校になれる通がひらかれている」明治の新しい教育制度のよさに注意を向けている(Ⅰ・「七変人」)。

この時、司馬は主人公の一人である秋山好古が福沢諭吉を尊敬していたことを強調することによって、自由民権運動や教育における福沢の意義に注意を促していたが、ロシアを「野蛮」とする見方は、福沢諭吉が『民情一新』において示したロシア観とも重なるものだったのである。だが、このような日露観は日露戦争という悲劇的な形で現れた日本とロシアという二つの強国の接触を、雄大な構想のもとに具体的な事実を丁寧に調べ直しながら描いていた『坂の上の雲』を書く中で次第に変化していく。たとえば、第四巻のあとがきには「当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題だが、こういう主題ではやはり小説になりにくい」と記され、その理由としてこのような小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていることが挙げられている(Ⅷ・「あとがき四」)。事実に対する「冷厳な感覚」によって日露戦争の実態を綿密に調べながら書くことによって、彼は日本の近代化の問題点についての理解も深めていくのである。

たとえば、第五巻でロシア側が都市を要塞化して守っていた旅順攻防の悲惨な戦いを描く中でクリミア戦争に言及した司馬は、二十七歳の時にクリミア戦争に「下級将校として従軍」していたトルストイがロシア要塞の攻防を描いた小説『セヴァストーポリ』を「籠城の陣地」で描いていたことに言及している。そして、トルストイがそこで「愛国と英雄的行動についての感動をあふれさせつつも、戦争というこの殺戦だけに価値を置く人類の巨大な衝動について痛酷なまでののろいの声をあげている」ことに注目している(Ⅴ「水師営」)。

こうして、日露戦争における旅順の攻防とクリミア戦争のセヴァストーポリの攻防との類似性に気づいた司馬は、日露戦争以降に顕著になった「時世時節の価値観が事実に対する万能の判定者になり、都合のわるい事実を消す」という傾向を指摘し、日露戦争の戦史が事実を伝えていない事が多いことに触れて、「日本人は、事実を事実として残すという冷厳な感覚にかけているのだろうか」という深いため息にも似た言葉をも記すようになるのである(「『坂の上の雲』を書き終えて」『歴史の中の日本』)。

この時司馬は、「祖国戦争」によってヨーロッパの大国・フランスに対する勝利を奇跡的に収めた後では、ヨーロッパ文明に対するそれまでの劣等感の反発から「自国」を神国化する「国粋」的な思想が広がったロシアと、強国ロシアを破って日露戦争に勝利した後の「明治国家」との間にある類似性に気づいたと言えよう。

この意味で興味深いのは、木下豊房が「空想家の系譜――ネフスキー大通りから地下室へ」において、「空想家に特有のロマン主義的現実離脱の願望が、時代閉塞状況での『弱き心』から生まれることをいみじくも指摘したのは、石川啄木であるが、ニコライ一世の専制体制下と明治絶対天皇制下に類似する精神的閉塞の状況において、ドストエフスキーと啄木のエッセイに次のような似通った記述が見られるのは興味深い」と指摘していることである。*6すなわち、ドストエフスキーは一八四七年のフェリエトン「ぺテルブルグ年代記」において、「二人の親しいぺテルブルグ人がどこかで出会って、挨拶を交わしたあと、『声を合わせたように、何か新しいことはないか? とたずねると、どんな声の調子で会話が始まったにせよ、しみいるような憂鬱な気分が感じられる』」と書いていた。石川啄木も一九一〇年に起きた大逆事件の頃にエッセイ「硝子窓」で、その頃、若い人々の間で、「何か面白いことは無いかねえ」がはやり言葉になり、「“無いねえ”、“無いねえ″、そういって口を噤むと、何がなしに焦々した不愉快な気持ちが滓(かす)のように残る」と書いていたのである。

比較文明学の視点からロシアと日本の近代化を比較した山本新は、「一〇〇年以上の距離をおいて二つの文明のあいだに並行現象がおこっている」と分析していた*7。司馬遼太郎も『坂の上の雲』を書き終えた後では、「自分たちは西のほうに行けばロシア人だといってばかにされるけれど、東に行けば自分たちは西洋人でもある」とドストエフスキーが言っていたはずだと先のエッセイで書いている。この時、司馬遷太郎は強い近代化(欧化) への圧力の中でロシアの知識人もまた、「拝外と排外」という心理の揺れを持っていたことを認識したのであり、名誉白人であることを望む日本人の心理にもロシア人の場合と同じような「欧化と国粋」のねじれがあることに気付いたと思える*8。

三、「父親殺し」のテーマと昭和初期の「別国」視

このことに注目する時、司馬遼太郎の「作風の変化」が、実は、日露文明の比較の深まりや「近代化」の問題点の認識と対応していることに気づく。たとえば、日露の衝突を防いだ商人高田屋嘉兵衛を主人公としつつ、江戸時代の文化的な成熟度の高さを丹念に描いた『菜の花の沖』において司馬は、「『国家』という巨大な組織は、近代が近づくにつれていよいよばけもののように非人間的なものになってゆく。とくに、国家間が緊張したとき、相手国への猜疑と過剰な自国防衛意識」が起きるだけでなく、「さらには双方の国が国民を煽る敵愾心の宣伝といった奇怪な国家心理」も働くと鋭く指摘するのである。つまり、司馬遼太郎は「欧化と国粋」のサイクルの問題を踏まえた上で、それを乗り越え多様性を許容するような新たな文明のあり方を考察していたと言えよう。

沼野充義は司馬遼太郎のロシア観について、「それは自由で因習に捕らわれない発想に満ちていながら、深い学識に裏打ちされて」いるとし、『ロシアについて - 北方の原形』を「ロシアの専門家には決して書けないような種類の非常に優れたロシア論であることは、確かである」と結んでいるが、それは決して誉めすぎではないのである*9。

注目したいのは、『菜の花の沖』の中の嘉兵衛がロシア人に捕らえられるきっかけとなったゴロヴニーンの日本での抑留のエピソードをめぐる考察の中で、司馬がドストエフスキーに言及していることである。この抑留という状態について司馬は、「被抑留者の精神はそれを味わったものでしかわからない。『生命』というものを相手ににぎられてしまっているのである」と説明し、このような中で、一人の青年士官が「監禁と死の恐怖」から精神に異常をきたしたことを伝えて、「幽囚が、人間としていかに耐えがたいものであるかが、この一事でもわかる」と解説している。それは「戦車」の中に閉じこめられて死を待っていた司馬自身や「独房」の中にいたドストエフスキーにも通じることだろう。

この後、司馬はこの青年士官の変節についてゴロヴニーンがくわしく書いた文章にふれて、そこには「すこしの攻撃的なにおいもないばかりか」、若者の弱さに対する「理解といたわりがあった」ことに注目し、「背信に対し、相手を人間として理解すべく努めようとする知的寛容さは、…中略…近代が生んだ精神といっていい」とし、「この時代、ロシアの知識階級にはすでに『近代』があったということをあざやかに思うべきである」と記している。そして、司馬はこの十年後に、「人間の心理の中の質と相剋をつきつめた」ドストエフスキーが生まれていることに注意を喚起している(Ⅴ・「カムチャツカ」)。こうして新しい視野を得た後で司馬は、心理的なタブーを克服して醜い現実をも直視できるようになったドストエフスキーの作品を高く評価するのである。

この意味で注目したいのは、一九三九年のノモンハン事件を主題にした長編小説をも描こうとして膨大な資料類を集めていた司馬が、「戦闘というより一方的虐殺」となった、「ばかばかしい戦闘を現場でやらせられた」、「有能な指揮官」が発狂したことを怒りをこめて書き記していることである(「戦車・この憂鬱な乗り物」『歴史と視点』)。

実は、このような発狂の可能性は戦車中隊の指揮官であった司馬自身にもあった。すなわち、司馬は終戦間際にアメリカ軍との本土決戦のために満州から引き揚げて北関東に配置されたが、そこで敵の邀撃(ようげき)作戦などを説明するために大本営から来た将校は、「東京方面から大八車などに家財道具を積んで逃げてくる物凄い人数の人々をどのように交通整理するのか」との問いに対して、「昂然と、『轢っ殺してゆけ』と、いった」のである。司馬は「国家」のために死を覚悟したが、ここでは民衆を守るはずの「国家」が「同じ国民」を殺すことを命じたのである。

この言葉を聞いた瞬間、若き司馬遼太郎の脳裡をどのような思いが走ったのだろうか。そして、彼はどのようにしてその思いを耐えたのだろうか。松本健一は「司馬さんが、天皇制イデオロギーにほかならない皇国史観ばかりでなく、五・一五事件や二・二六事件に対する違和感、いや憤りのような感情をいだいていた」と書いている*10。

追記(2022/04/30)、(一方、華族のための学習院の初等科6年生の時に2・26事件と遭遇していた三島由紀夫は『英霊の聲』ではこの事件の「スピリットのみを純粋培養して作品化しようと思った」と記し、青年将校たちの精神を美化していた。

2・26事件の賛美と「改憲」の危険性

ただ、それは思想や見方の違いだけに帰着するのではなく、年代の差によるところが大きいだろう。司馬と三島の年齢差はわずか二歳であったが、三島が徴兵を免れたのに対して、司馬は満州の戦車隊に徴兵されていたのである。堀田の親友・中村真一郎はそのことについてこう記している。

「私だけの経験で云えば、昭和になってからの十数年は、まことに慌ただしいもので、昭和元年の二十歳と昭和十年の二十歳とでは、殆んど会話が不能であり、いや、昭和十三年に二十歳であった私には、昭和十年に二十歳であった野間宏とも、非常に大きな感覚的な相違が感じられることがある。」(『全集』、解説「同時代者堀田善衞」)

堀田が『若き日の詩人たちの肖像』で詳しく記しているように彼の世代にはすでに体制に批判的な行動を起こすことはできなかったが、まだ批判的に見ることはできた。しかし、それから7年後の三島の時代には「昭和初期の政治的軍人」を批判的に見るような自由も残されていなかったように思える。

「革命思想」の正当性をめぐって内ゲバをくり返していた学生運動を鋭く批判した次の文章はこの時司馬が受けた「絶望」に近い衝撃の大きさを正確に物語っていると思われる。「昭和初期の政治的軍人とそっくりの、つまり没常識・非論理的のなかでこそ大閃光を発するという貧相で陰惨なしかし、であればこそ民族的な深層心理に訴えやすいという日本的ファナティズムが学生運動の分裂のあげくに出てきているようである。幻想と没常識のタイプも酷似しているし、他民族への(学生運動の場合は他の分派への)残忍さまでそっくりである。…中略…それはかつての日本軍が中国人に対して加えたそれとひどく似ているようにおもえて、暗然とした。日本人は地球から消えてしまえと思いたくなったほどだが」(「戦車・この憂鬱な乗り物」『歴史と視点』)。

この文章は、説得力が豊かで穏やかな司馬の普段の文体とは全く異なる。ここで、司馬は論理的な考察を拒絶して、感情的に自分より「次の世代」の学生たちを論じつつ、「日本人」を全否定している。そしてこの時、司馬遼太郎は自分の信じるイデオロギーを唯一の「普遍的な正義」とした学生たちの考えと、「自国」を「神国」と称して太平洋戦争を導くにいたる自分より「前の世代」の国粋主義的な政治的軍人たちとのあいだに明らかな類似性を見ていたのである。

最初、この文章と出会ったとき私は司馬を捉えていた絶望の深さに愕然としたが、何度か読み返す中で、母親や農民たちに対する実の父親の暴虐ぶりに暗澹たる思いをしたであろうドストエフスキーの絶望が重なり合った。卓越した心理描写で読者を驚かせたドストエフスキーが、父親の欠点をも直視しつつ、「父親殺し」のテーマを真正面から描いたのは、ようやく最後の作品『カラマーゾフの兄弟』においてであった。ドストエフスキーにおける「父親殺し」のテーマと比較する時、この文章こそが「司馬史観」の争点の一つとなっている「昭和初期の(別国)」論を解く鍵だとも言えるだろう。

ジラールは父と息子の対立のテーマを分析しながら、「ある意味で父親と息子は同一である」ので、非道な「父親は『他者』として憎まれるが、もっと深いところでは『自己』としての羞恥心の対象」であり、「圧制者=父親に向けられた奴隷=息子の犯罪」といえる「父親殺し」は、「殺人であると同時に自殺」でもあると結論している*11。「父親」の欠点は、父という存在がきわめて大切で身近であり、それらが直接「自分」にもつながっているだけに、それらの欠点が直前に示された場合には、それを論理的に考察するのは精神的につらいので、できれば自分の前から消えて欲しいと願うのであろう。

同じことが、「自分」と「祖国」の関係についてもほぼ当てはまる(ついでながら、ロシア語では「親」と「祖国」の語源は同じである)。つまり、ニコライ治世下のロシアで育ったドストエフスキーは少年の時に「正教、専制、国民性」をロシアの理念として教育されたが、五・一五事件の二年前の一九三〇年に尋常小学校に入学した司馬も「とにかく、あらゆる式の日に非常に重々しい儀式を伴いながら、教育勅語が読まれた」と語っているように、文部省が『国体の本義』を発行して国粋的な教育をいっそう強化していた時代に青少年時代を過ごしたのである。おそらく、子供から青年期の時代に、論理だけでなく感性的なレベルで教育を受けた者にとって、「国家」と「自分」を距離を置いて客観的に考えるのは難しかったのである。

このように見てくる時、ドストエフスキーが「父親殺し」を直接のテーマとして描くには、多くの歳月を必要としたが、昭和前期を司馬が『十数年の“別国″』と見なしたのも、「日本人」全体を否定したくなるような衝動や深い絶望を抑えるための、一種の『仮構』だったと言っても過言ではないように思える。

四、「教育勅語」と「ウヴァ一ロフの通達」

福沢諭吉は日本の「文明開化」のモデルの一つがピョートル大帝のロシアであることを十分に知っていたが、『坂の上の雲』を書き終えた後での司馬遼太郎の認識の深さは、日露戦争に勝って「神州不滅」を唱えるようになる日本の近代化が、ニコライ一世の独裁制をモデルにしていたことを明らかにしていることである。

たとえば、司馬遼太郎は山県有朋にとって、「国家的象徴に重厚な装飾を加える」ことが「終生のテーマだった」とし、その理由を「ニコライ二世の戴冠式に、使節として出席し」て、「ギリシア正教で装飾された」、「戴冠式の荘厳さ」を見た彼が、強いショックを受けたからであると説明している(「竜馬像の変遷」『歴史の中の日本』)。

しかも司馬は、「教育勅語」はその意味が分かりにくかったが、それは文章が「日本語というよりも漢文」だったためとして、この「勅語」が形式的にはかつての「文明国」中国をモデルとすることで権威付けされていたことを明らかにしていた(「教育勅語と明治憲法」『語る日本』)。実際、西村茂樹は「修身書勅撰に関する記録」において、清朝の皇帝が「聖諭広訓を作りて全国に施行せし例に倣い」(太字引用者)、我が国でも「勅撰を以て」、「修身の課業書を作らしめ」るべきだと記していたのである。

さらに、「教育勅語」の執筆者の一人である元田永孚は「国教大教」において、「天皇は全国治教の権を統べられること」を強調していたが、西村茂樹も「修身書勅撰に関する記録」の冒頭で「西洋の諸国が昔より耶蘇教を以て国民の道徳を維持し来れるは、世人の皆知る所なり」とし、ことにロシアでは形式的には皇帝と総主教に分かれてはいるが、実質的には、「其国の皇帝と宗教の大教主とを一人」で兼ねており、それゆえ「国民の其の皇帝に信服すること甚深く世界無双の大国も今日なお君主独裁を以て其政治を行えるは、皇帝が政治と宗教との大権を一身に聚めたるより出たるもの亦多し」と述べた*12。こうして彼は、我が国でも「皇室を以て道徳の源となし、普通教育中に於て、其徳育に関することは 皇室自ら是を管理」すべきであると説いたのである。この箇所は日本における「修身教育」の実質的なモデルが、ロシアの国教である正教への信仰と、皇帝への忠誠心を持つことを徹底させたロシアの教育制度であったことを物語っているだろう。

しかも、司馬遼太郎が中学に入学した翌年の一九三七年には文部省から『国体の本義』が発行されたが、「国体の本義解説叢書」の一冊として出版された『我が風土・国民性と文学』と題する小冊子では、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無い」と強調されていた*13。それは「正教・専制・国民性」 の「三位一体」こそが、「ロシアの理念」であるとした文部大臣「ウヴァ一口フの通達」を連想させるのである。

この意味で注目したいのは、司馬が『若き日の詩人たちの肖像』の著者である堀田善衞や宮崎駿との鼎談を一九九二年に行っていることである。堀田善衞はこの長編小説において、上京した日に二・二六事件に遭遇した主人公の若者が、ラジオから聞こえてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から受けた衝撃と比較しながら、厳しい言論弾圧と迫り来る戦争の重圧の中で描かれた『白夜』(一八四八年)の冒頭の美しい文章に何度も言及していた。しかもこの作品で堀田は、ドストエフスキーの作品の鋭い分析を行うとともに、厳しい検閲制度や監視のもとに時勢が「右傾化」する中でドストエフスキーの読み方を変えていった愛読者の姿や、烈しい拷問によって苦しんだいわゆる「左翼」の若者たちや、イデオロギー的には異なりながらも彼らに共感を示して「言論の自由」のために文筆活動を行っていた主人公の若者の姿をとおして、昭和初期の暗い時代を活き活きと描いていたのである*14。

このような堀田の作品理解を踏まえて司馬は、芥川龍之介が自殺した後で中野重治など同人雑誌『驢馬』に係わっていた同人たちが「ほぼ、全員、左翼になった」と指摘している*15。そして、司馬は「後世の人たち」は「その理由がよくわからないでしょう」が、「私は年代がさがるので一度もなったことはないけれども」と断りつつも、「昭和初年、多くの知識青年が左翼になった」「そういう時代があったということは、これはみんな記憶しなければいけない」と続けていたのである*16。こうして昭和初期の検閲の厳しく暗い「別国」の時代に青春を過ごした司馬の言葉は、「ロシアの教育勅語」ともいわれる「ロシアの理念」が打ち出されて、自由思想すらも厳しく規制されていたニコライ一世の「暗黒の三〇年」の時期に、なぜドストエフスキーがペトラシェーフスキイ事件に関与するようになったのかをも説明し得ているであろう。

つまり、言論や集会の自由が奪われて厳しい監視下におかれ、自国の欠点に対する批判も禁じられていた日露両国においては、「出口」が見いだせないなかで、ドストエフスキーや堀田善衞のように感受性豊かな青年たちが、極端な「国粋思想」に対する反発から新しい「原理」を示した「左翼」に共感を示すようになったのである。

たとえば、立花隆は「私の東大論」において、「日本中を右傾化させた」事件として、一九三二年(昭和七年)の五・一五重件と神兵隊事件を挙げるとともに、「ほとんどこの事件と重なるようにして」、滝川幸辰教授に辞職を求めた文部大臣に対して、京都帝国大学法学部の教授全員だけでなく助教授から副手にいたる三九名も辞表を提出し抗議した、いわゆる滝川事件が起きていたことを指摘している。そして立花はこの時の辞任要求の真の理由は滝川教授が治安維持法に対して「最も果敢に闘った法学者だった」ためではないかという説を展開している*17。すなわち、治安維持法は一九二五年(大正一四年)に制定されたが、同じ年に全国の高校や大学で軍事教練が行われるようになると、これに対する反発から全国の高校や大学で反対同盟が生まれて「社研」へと発展したが、文部省は命令により高校の社研を解散させるとともに、「学問の自由」で守られていた大学の「社研」に対しては、治安維持法を最初に運用して一斉検挙を行ったのである。しかもこの京都学連事件では、後に著名な文化人類学者となる石田英一郎は、治安維持法への違反が咎められただけでなく、中学時代の日記に天長節で「教育勅語」を読み上げ最敬礼させることへの批判が書かれていたとして不敬罪にも問われていたのである*18。

こうして、司馬が青春を過ごした昭和初期は、外国の書物の輸入が禁止されたばかりでなく、国内での検閲も強まり学校でも軍事教練が行われるなど、福沢諭吉が「野蛮」と見なして厳しく批判したニコライ一世の「暗黒の三〇年」ときわめて似た政治状況に陥っていたのである。

晩年の『風塵抄』で司馬は、「健全財政の守り手たちはつぎつぎに右翼テロによって狙撃された。昭和五年には浜口雄幸首相、同七年には犬養毅首相、同十一年には大蔵大臣高橋是清が殺された」と記し、「あとは、軍閥という虚喝集団が支配する世になり、日本は亡国への坂をころがる」と厳しく批判した(『風塵抄』Ⅱ)。

五,「大地主義」と「『公』としての地球」→「人類滅亡の悪夢」とその克服

堀場正夫は真珠湾攻撃の翌年に出版された『英雄と祭典』において、『罪と罰』を「『ヨーロッパ近代の理知の歴史』とその『受難者』ラスコーリニコフの物語」ととらえ、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なした。むろん、このような読みは現在のレベルでの研究を踏まえた上での読みから見れば、明らかな「誤読」であると言える。

(移動)ドストエフスキーはこの長編小説において、「近代的な知」に囚(とら)われて自分をナポレオンと同じ様な「非凡人」と考え、自分が「悪人」とみなした「他者の殺人」をも正当化したラスコーリニコフの悲劇を描き出すとともに、そのエピローグではシベリアの流刑地で「人類滅亡」の悪夢を見させることにより、自己中心的な「非凡人の思想」が、自国中心的な「国民国家」史観に基づいていることを示唆して、「自国の正義」や「報復の権利」を主張して、限りなく大規模化する近代戦争の危険性を明らかにした。そして、エピローグでは主人公をぺテルブルクから遠く離れたシベリアの大地で暮らさせることにより、森や泉の尊さや民衆の「英知」にも気づいた彼の「復活」を描き出して、「自然支配」の思想との決別をも描いていたのである*20。

しかし、堀場正夫の「誤読」には、時代的な背景もあった。ニーチェによるドストエフスキー理解を踏まえたシェストフは、ドストエフスキーをも「超人思想」の提唱者であり、「悲劇の哲学」 の創始者の一人とした。このようなシェストフの解釈が日本でも受け入れられる中で、優れた批評家であった小林秀雄ですらも、『罪と罰』のエピローグではラスコーリニコフは影のような存在になっていると指摘して、書かれている彼の更生を否定していた*21。それは「近代人が近代に勝つのは近代によってである」とした彼の近代観から導かれたものでもあった*22。

一方、司馬遼太郎は真珠湾攻撃の後で「近代の超克」を謳って河上徹太郎や小林秀雄など日本の一流の知識人が行い、この「当時の読者に大きな衝撃を与えた」座談会について、当時は「読みはしたものの難しかった」ので、「よくわからなかった」と認めた。そして、彼は現在読み返してみると「基本的におかしなことは」、「ここでいう超克すべき近代というのは、要するにヨーロッパの近代」であり、当時の一流の知識人たちが江戸時代に培われた日本の文化的伝統をまったく無視していると指摘している。こうして司馬は、「ヨーロッパの近代に対して、太平洋戦争の開幕のときの不意打ち成功によって、日本のインテリは溜飲を下げた」が、「それは嘘の下がり方なんですよ」と厳しく批判したのである(「買い続けた西欧近代」『「昭和」という国家』)。

この時司馬は「西欧派とスラヴ派」の激しい対立にゆれた近代ロシアにおいて、「大地主義」の視点から「西欧派と国粋派」の和解だけでなく、「知識人と民衆」との和解の可能性をも探求した『罪と罰』の意義を理解していたと言えるだろう。つまり、彼が『菜の花の沖』の主人公で、ナポレオンと同じ年に生まれた高田屋嘉兵衛に「好んでいくさを催し、人を害する国は、国政悪しき故」と語らせている背景には、ナポレオン以降の「自国中心」の歴史観を、「自己中心の迷妄」と断じたトインビーと同じような歴史認識があったのである*23。

加筆(2022/04/30)【東京大空襲を体験した後で国際文化振興会の上海資料調査室に赴任した堀田善衞は、広島と長崎に原子爆弾が投下された後には「日本民族も放射能によって次第に絶えて行くのだ」という流言を聞いて、『ヨハネの黙示録』の次のような文章の恐ろしさを実感していた。

「第一の御使(みつかひ)ラッパを吹きしに、血の混りたる雹(へう)と火とありて地にふりくだり、地の三分の一焼け失せ、樹(き)の三分の一、焼け失せ、もろもろの青草(あをくさ)焼け失せたり」という記述のある進めて行って、「ほんとうに身に震えを感じた」と書いている。

この時、堀田は『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフが流刑地のシベリアで見た、「知力と意志を授けられた」「旋毛虫」におかされ自分だけが真理を知っていると思いこんだ人々が、互いに自分の真理を主張して殺し合いを始め、ついには地球上に数名の者しか残らなかったという夢が、単なる悪夢ではなく、現実にも起こりうることを実感したはずである。

実際、「高利貸しの老婆」を悪人と規定して殺害していたラスコーリニコフに対して司法取締官のポルフィーリイは、「あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ。もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれない」とラスコーリニコフに語っていたが、ヒトラーの「非凡民族」という理論は実際にユダヤ人虐殺という醜悪な結果を招いていた。

さらに化学兵器はその非人道性ゆえに禁止されたが、広島と長崎に投下された原子爆弾の悲惨さが隠蔽されたために、原水爆は禁止されなかったためにその実験でも多大の被害を生み出し、それはチェルノブイリ原発事故と福島第一原子力発電所の事故にもつながった。】

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一方司馬は、「地面を投機の対象にして物狂い」をした現象に対しては、「日本国の国土は、国民が拠って立ってきた地面なのである」とし、「大地」に対する哲学的な見方の変革を求め、「でなければ、日本国に明日はない」と書いた(『風塵抄』Ⅱ)。さらに、「樹木と人」という講演で司馬は、「ソ連のチェルノブイリの原子炉」の事故で「死の灰が各地で降って大騒ぎ」になったことにふれて、「この事件は大気というものは地球を漂流していて、人類は一つである、一つの大気を共有している。さらにいえばその生命は他の生物と同様、もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語り、言葉を続けて一九八〇年代になって、「ようやく、われわれは地球の緑をすべて守らなければいけない、切ったら必ず植えなければいけない、そして生態系を変えるような切り方はしてはいけない」ことに気づいたのだと強調した(「樹木と人」『十六の話』)。

しかも、ロシア帝国の貴族たちと日本の高級官僚との類似を意識しながら司馬は、日露戦争のあとで「教育機関と試験制度による人間が、あらゆる分野を占めた」が、「官僚であれ軍人であれ」、「それぞれのヒエラルキーの上層を占めるべく約束されていた」彼らは、「かつて培われたものから切り離されたひとびとで」あり、「わが身ひとつの出世ということが軸になっていた」とした(「あとがき」『ロシアについて』)。それはロシアの大地から遊離したロシアの知識人に対するドストエフスキーの鋭い批判とも重なり合うのである。そして司馬は、これらの官僚や軍人たちは「自分たちが愛国者だと思っていた。さらには、愛国というものは、国家を他国に対し、狡猾に立ちまわらせるものだと信じていた」とし、「それを支持したり、煽動したりする言論人の場合も、そうだった」と厳しく批判したのである。

さらに、ノモンハン事件の研究者クックは、戦前の日本では、国家があれほどの無茶をやっているのに、国民は「羊飼いの後に黙々と従う」羊だったではありませんかと司馬に問い質したが、この指摘の正しさを認めた司馬も、大蔵省のかけ声のもとに国民がこぞって金儲けに走った問題にふれて、「日本は、いま世界でいちばん住みにくい国になっています。そのことを、ほとんどの人が感じ始めている。『ノモンハン』が続いているのでしょうな」と続けた(「ノモンハンの尻尾」『東と西』)。

加筆(2022/04/30)【「司馬史観」論争では司馬が右派の思想家とされてしまったために、残念ながら司馬の言説は説得力を大きく失った。しかし、すでに『竜馬がゆく』(文春文庫)で幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘した司馬遼太郎は、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と記していた。

そして司馬は、晩年の『この国のかたち』(第五巻)でも、「キリスト教に似た天地創造の世界を展開した」平田篤胤によって、「別国が湧出したのである」と続けていた。

「昭和別国」という特徴的な用語を使っていた司馬氏がここでも「別国」と記していることは、堀田善衞が『若き日の詩人たちの肖像』に記した堀田善衞の平田篤胤批判に通じると思われるのである。】

こうして司馬は、「国際化」に対応するために個性の尊重を謳いながら、多発するようになった青少年犯罪を「行きすぎた欧化」のせいであるとして、「権威」や「国家」への「服従」を求める「国粋」的な傾向を強めている教育のもとで、日本の国民は再び「従順な羊」になり始めているのではないかという深刻な不安を示したのである。

実際、自国の「国益」を優先しつつ、グローバリゼーションを押し進めるアメリカ政府に対する反撥から、世界では各国においてナショナリズムが野火のような広がりを見せつつある。このように見てくる時、日露の「文明開化」の比較をとおして、「欧化と国粋」のサイクルの危険性を認識し、「自国の正義」を主張して「野蛮」と規定した「他国」の征伐を正当化するような歴史観を鋭く批判した司馬遼太郎の文明観とその意義は、改めて見直されるべきであろう。

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*1 司馬遼太郎・井上ひさし「普遍性なき『絶対主義』」『国家・宗教・日本人』

*2 本稿においては、司馬遼太郎の作品は、章と作品名、および巻数をローマ数字で本文中に示す

*3 高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇二年、四八~五三頁参照

*4 山野博史編「司馬遼太郎の七二年」『司馬遼太郎の跫音』中公文庫、一九九八年、六九二頁

*5 中島誠(文)、清重仲之(イラスト)『司馬遷太郎と「坂の上の雲」』現代書館、二〇〇二年参照

*6 木下豊房『ドストエフスキー その対話的世界』成文社、二〇〇二年、八九~九〇頁)

*7 山本新著、神川正彦・吉澤五郎編『周辺文明論――欧化と土着』刀水書房、

*8 高橋誠一郎『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、二〇〇二年、第二章参照

*9 沼野充義「司馬遷太郎とロシア」『大航海』No.13、一九九六年、六九頁

*10 松本健一『司馬遼太郎 歴史は文学の華なり、と』小沢書店、一九九六年、三八頁

*11 ルネ・ジンラール、鈴木晶訳『ドストエフスキー二重性から単一性へ』法政大学出版局、一九八三年、前掲訳書、一二二~三頁

*12 西村茂樹「修身書勅撰に関する記録」『教育に関する勅語換発五〇年記念資料展覧図録』(教学局編纂)、昭和一六年、一〇〇頁。

*13 教学局編纂『我が風土・国民性と文学』(国体の本義解説叢書)、昭和一三年、六一頁

*14 堀田善衞『若き日の詩人たちの肖像』新潮社、一九六八年(集英社文庫、一九七七年)参照

*15 司馬遼太郎・堀田善衞・宮崎駿『時代の風音』朝日文芸文庫、一九九七年、四二~四四頁

*16 この時代のドストエフスキーをめぐる日本の状況については、池田和彦「詩人たちのドストエフスキイ」『ドストエーフスキイ広場』第一一号、および菅原純子「『広

場』合評会報告」「読書会通信」七五~七七号参照

*17 立花隆「私の東大論」『文藝春秋』二〇〇二年九月号~一一月号

*18 同右、『文藝春秋』二〇〇二年一一月号、三七二~三七九員

*19 松本健一『ドストエフスキーと日本人』朝日新聞社、昭和五〇年、一五頁

*20 高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇〇年、第九章「鬼」としての他者、および第一〇章「他者としての自然」参照

*21 小林秀雄『ドストエフスキイ』講談社、昭和四一年、二七五頁

*22 河上徹太郎、竹内好他『近代の超克』富山房百科文庫、昭和五四年、二四七頁。なお、小林秀雄の戦争観については、森本淳生『小林秀雄の論理――美と戦争』人文書院、二〇〇二年参照

*23 トインビー、長谷川松治訳『歴史の研究』第二巻、社会思想社、昭和四二年、七五~六頁

『ドストエーフスキイ広場』第一一号

 

 

 

 

「文明の衝突」とドストエフスキー ――ポベドノースツェフとの関わりを中心に

一、ポベドノースツェフと「臣民の道徳」

二一世紀の初頭に起きた同時多発テロは世界を震撼させたが、国連の正式な承認を経ずに「テロ」に対する「新しい戦争」として始められたアフガンおよびイラク戦争の余波は、その終結が宣言された現在でも色濃く残っている。さらに、「グローバリゼーション」の強い圧力への反発からナショナリズムが世界中で広がりを見せている。

それはイスラム圏や中国などアメリカとは異なる文明を持つ国々や地域ばかりでなく、「テロ」に対する戦争や経済政策では「同盟国」アメリカとの密接な連帯を強調している日本でも、戦後の歴史認識や道徳的価値観の見直しが急速に進み、「憲法」の改正も視野に入ってきている。

このような最近の政治状況を考えるならば、近代西欧文明の政治・経済・道徳などに対する根本的な批判がなされている『カラマーゾフの兄弟』を頂点とするドストエフスキーの後期の作品が、若い世代にも読まれるなど再評価されているのは、ある意味で当然の流れだといえるだろう。

それゆえ、亀山郁夫氏の大作『ドストエフスキー ――父殺しの文学』(NHKブックス、2004、以下『父殺しの文学』と略し、括弧内に巻数を上下で、頁数をアラビア数字で本文中に示す)を読み始めたときには、二〇〇一年の同時多発テロという衝撃的な事件とアレクサンドル二世の暗殺を、「テロ」という視点から結びつけて論じるという着想のよさに感心し、時宜を得た出版であるだけにおそらく大きな反響を呼ぶだろうと感じた。

しかも、ドストエフスキーがメシチェルスキー公爵から破格の待遇で編集長を依頼された週刊誌『市民』について亀山氏は、「この雑誌は、ニコライ大公とその取り巻きたちが政治的拠点とする極右の機関紙」であり、「悪名高い保守派のポベドノースツェフ」も加わっていると説明していた(下・114)。

それゆえ、スターリンの研究者としても著名な亀山氏が『カラマーゾフの兄弟』など後期作品の問題に、「ロシアの検閲制度」の視点からどのように斬り込むかを期待しながら読み進んだが、ポベドノースツェフ(1827-1907)がドストエフスキーの作品に及ぼした影響についてはほとんどふれられていなかった。

しかも、亀山氏は「政治権力に対する二枚舌」と「ロシア語でいう『イソップ語』」とを同一視して述べている(上・141)。しかし、私見によれば、「政治権力への媚び」としての「二枚舌」が現れるのは、ポベドノースツェフと知り合った『悪霊』の頃からであり、政治権力に対する鋭い批判を隠した「イソップの言葉」とは区別されるべきであろう。

つまり、ドストエフスキーが辿り着いた最後の作品である『カラマーゾフの兄弟』の地点と皇帝の暗殺という事件から、「父殺し」を主題として作家の過去の作品をも分析するという亀山氏の方法は、「男女の関係」や「家族の問題」をとおして作者の意識や感情を深く掘り下げるためには適している。しかしその反面で、『貧しき人々』のジェーヴシキンを「ブイコフの模倣者」であり、「悪と欲望の側へとワルワーラを使嗾する存在」であると規定しているように、官僚制度の腐敗の問題などを「イソップの言葉」で批判した初期作品の意義を弱め、帝政ロシアが有した社会制度の問題を見えにくくしてしまう危険性があると思えるのである。

一方、チェコの哲人大統領と呼ばれたマサリク(1850-1937)は、『ロシヤとヨーロッパ――ロシアにおける精神潮流の研究』(全三巻、成文社、2002-2005、以下、巻数をローマ数字で頁数をアラビア数字で示す)において、ポベドノースツェフが、モスクワで民法と民事訴訟の教授になり皇太子の法学教師も務め、ドストエフスキーが亡くなる前年の一八八〇年から一九〇五年までは、ロシアの教育と宗教を統轄する宗務院の総裁を務めたことでロシアの宗教・教育・政治に大きな影響力を持ったことを具体的に示している。

実際、ニコライ一世の「暗黒の三〇年」と呼ばれた時代の政治手法を高く評価したポベドノースツェフは、アレクサンドル二世の暗殺後に即位した教え子でもある新皇帝と直談判して、父のアレクサンドル二世がその晩年に進めていた憲法制定などの穏健な改革案を廃棄させて、「専制護持」の詔書を出させていた。

そしてこのようなポベドノースツェフの宗教・教育政策は、日露戦争の敗色が濃くなる中で、厳しい格差にあえいでいたロシアの農民や労働者だけでなく、ロシア帝国の「臣民」として戦場にも駆り出されていたポーランドやフィンランドなどロシアに併合されていた属国の民衆や、ユダヤ人やコーカサスのイスラム教徒など少数民族の激しい怒りを呼び、一九〇五年の第一次ロシア革命へとつながったのである。

それゆえマサリクは、ロシア語ではポベドノースツェフという苗字が「勝利をもたらす者」という意味になるとしながらも、苗字から「ポ」の音を省くと「災いをもたらす者(ベドノースツェフ)」となり、さらに「ポベ」を省くと「密告者(ドノースツェフ)」という意味になることにも注意を向けて、「迷信的な宮廷において、幸福で推奨に値する名前」を持っていたポベドノースツェフが、皮肉にもロシア帝国を破滅へと導くことになったと記している(Ⅱ・187)。

このことは学生時代にブルガリアに二年間留学する機会を得ていた私には、よく理解できることであった。すなわち、一九六五年からは返還前の沖縄の基地が使用されて、アメリカ軍による北ベトナムに対する激しい爆撃が行われていたが、三年後の一九六八年には今度は社会主義を守るという名目でチェコへのソ連・東欧軍の侵攻が行われていた。

それゆえ、クリミア戦争や露土戦争でトルコ帝国と戦ったロシアは、ブルガリアではトルコからの解放者として見られていたが、東欧から来た留学生たちのソ連に対する視線はきわめて厳しかった。しかも、ロシア帝国でも属国とした東欧諸国や少数民族に対してロシア正教のみを正当とする宗教政策や、ロシア語を強要する言語政策が実行されていた。こうして東欧の視点から見ると、「スラヴ主義」の時期のドストエフスキーの作品は、このような大国ロシアの宗教・言語政策に無条件に迎合しているとの激しい反発を受けていることも知り、多面的な見方の必要性をも確認することとなったのである。

つまり、ドストエフスキーの後期作品を考察する際には、ポベドノースツェフの宗教・政治観や「ロシアの検閲制度」にも注意を払いつつ、これらの作品を分析する必要があるだろう。それゆえ、本稿では「西欧派」の時期に書かれた初期の作品を分析した拙著の到達点を確認しつつ、今後の日本におけるドストエフスキー研究にも大きな影響を及ぼしている亀山郁夫氏の『父殺しの文学』を批判的に考察することで、「スラヴ主義」の時期に書かれたドストエフスキーの小説の問題点に迫りたいと思う。

二、後期作品への扉としての『白夜』

近著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007)において私は、「祖国戦争」の頃に青春を過ごした父ミハイル(1789-1839)だけでなく、プーシキンやゴーゴリ、グリボエードフなど父親と同時代の知識人の作品に対するドストエフスキーの深い関心にも注意を払いながら、『貧しき人々』から『白夜』にいたる作品を考察した。

そのことで、「憲法」や言論の自由がなく「正教・専制・国民性」という三原則を遵守することが「臣民」に求められた「暗黒の三〇年」と呼ばれる時代に若きドストエフスキーが、厳しい検閲に抗しながら「西欧派」の視点から、生命を賭けて「イソップの言葉」によって、教育制度や格差社会の問題点に鋭く迫っていたことを明らかにしようとした。

実際、ドストエフスキーの生涯が黒船の来港に揺れ、「天誅」という名の「テロ」が横行した幕末から、士族や農民のさまざまな反乱の後にようやく「憲法」の制定に至った明治初期の日本の歴史と重なっていることを想起するならば、「文学」という手段でロシアの政治体制の問題点に鋭く迫り得ていた若きドストエフスキーの試みは果敢なものだったといえるだろう。

ただ、後期の哲学的で重たい長編小説ではなく、比較的短い作品が多い初期作品を論じた本書を出すのに、これほどの時間がかかったことに疑問を持たれる方もおられると思う。実は、ペトラシェフスキー・サークルの最左翼に位置したドゥーロフ・グループに属して活動していた頃にドストエフスキーが、なぜ『白夜』というようなロマンチックな作品を書いているのかが、私自身にとっては解けない謎として残っていたのである。

つまり、フランスで二月革命が起きた年に『白夜』は発表されているが、この時期にドストエフスキーは「四年間の外国生活の間に、彼は秘密結社の規約を十分検討し、積極的な闘争方法として、「イエズス会方式、文書宣伝方式、暴動」の三つの行動方式を提起していたスペシネフの影響下に入っていた。そしてベリチコフは、暴力的な革命を目指して秘密結社の規約を十分検討していたスペシネフの影響下にあったこのグループでは「農奴、分離教徒、兵隊など不満を抱くすべての者の間に思想宣伝」をするために活版印刷所が設立され、七人組が結成されたが、「ドストエフスキーはこの七人組の一人だった」とする研究者ドリーニンの考察を紹介しているのである(ベリチコフ著、中村健之介訳『ドストエフスキー裁判』北海道大学図書刊行会、1993、476-77、483)。

それゆえ、ロシアやソ連の「検閲制度」の問題にも詳しいはずの亀山氏が、『白夜』について「白いヴェールを払いとってしまえば」、「あられもない道化芝居に行き着くことは疑う余地もない」(上・113)と断定していることには強い疑問を持った。

その一方で亀山氏は、ドストエフスキーが単行本化された『悪霊』を「ネチャーエフ事件のような途方もない現象も、今日ほど奇怪な世の中になれば起こりうる、その可能性は十分にあるということを書いてみたいと思いました」という手紙とともに、皇太子とポベドノースツェフに献呈していることを紹介し、「政府中枢への接近は、みずからの思想的な転向と身の潔白を公に明かすためにも疎かにできない儀礼だった」と書いている(下・115)。

実際、『悪霊』の描写や心理描写がきわめて鋭いのは、ペトラシェフスキー事件の頃に自分は正しいことをしていると確信していたドストエフスキーが、いつの間にかロシアの体制転覆をももくろむ過激な秘密組織の一員に組み込まれていたことを知ったことで、このネチャーエフ事件という陰惨な事件を外からではなく、そのような事件を引き起こしていたかも知れないグループのかつての一員という視点から描いていたためでもあると思える。このような状況を踏まえて、私は近著で『白夜』で扱われているプーシキンの作品や、最も親しい友人であったプレシチェーエフへの献辞に注目することで、この作品が「イソップの言葉」で書かれた一種のプロパガンダ小説であり、「謎の下宿人」が実は「行動的な改革者」である可能性を示した。

このような私の仮説については、議論のあるところだろう。しかし、プレシチェーエフへの献辞が一八六五年版の『白夜』では省かれていることをも想起するならば、少なくとも『白夜』という作品と『悪霊』との強いつながりは無視できないだろう。このように見てくるとき、『白夜』を「ドストエフスキーの全作品を解く鍵」とまでは言うことはできなくとも、初期作品と後期作品とをつなぐ重要な作品と位置づけることは可能であると思える。

さらに、シベリア流刑後のいわゆる「大地主義(土壌主義)」の時期に書かかれた『死の家の記録』や『虐げられた人々』などの作品で、ドストエフスキーはかつての政治犯であるという自分のおかれた厳しい状況にもかかわらず、「イソップの言葉」で監獄制度や裁判制度の精一杯の批判を行っていた。実際、そのような記述はクリミア戦争敗戦後の「大改革」の時代という状況もあって効果を挙げてもいたのである(高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002)。

こうして、この時期のドストエフスキーの思想は、「殺すなかれ」という視点から近代文明を批判しているという点では、保守的というよりも、『聖書』に記されたキリストの言葉に近いといえるのである(芦川進一『隕ちた「苦艾」の星:福沢諭吉とドストエフスキイ』河合出版、一九九七年参照)。

しかし、ドストエフスキー兄弟の総合雑誌『時代』が順調に売り上げを伸ばしていた時期に起きた一八六三年のポーランドの反乱は、ロシアにおける検閲制度の強化を呼んだ。こうして、民主主義的な傾向も強かった『時代』は廃刊に追い込まれ、新たに立ち上げた『世紀』は初めから、政府批判を封じられた形で創刊を許可されていたのである。

この意味で注目したいのは、ドストエフスキーが『罪と罰』において、ラスコーリニコフに自分が法律の専門誌に投稿して採用された「犯罪者の心理」をめぐる論文が、検閲のために雑誌が廃刊となったために、もう日の目を見ることはないと思いこませていたことである。これは一見、ささいなエピソードではあるが、当時のロシアの情勢を考慮するならば、ドストエフスキーはここで言論の自由がない国家では、暴力的な「テロ」が発生する危険性があることを示唆していたと思える。

そして、このような言論の自由を抹殺する「検閲」に対する批判的な視点は、文筆を生業とするドストエフスキーが生涯にわたって持ち続けた視点でもある。

三、「正義の戦争」の批判から賛美へ――クリミア戦争の考察と露土戦争

ドストエフスキーはクリミア戦争の敗戦後に描いた『罪と罰』(1866)において、自分をナポレオンのような「英雄」と見なすことによって、「正義」の名目で高利貸しの老婆の「殺人」を実行した青年を描くとともに、このような主人公の理論が「自己」(自国、自民族、自宗教)の「正義」に基づいて、「他者」への攻撃を「正義の戦争」として正当化する近代西欧の歴史観に基づくものであることも示唆していた。しかも、本編でスヴィドリガイロフ的な「弱肉強食の思想」や「自分の利益の追求」を正当化したルージン的な経済理論を厳しく批判したドストエフスキーは、さらにエピローグにおいては、『カラマーゾフの兄弟』において展開されるゾシマ長老の自然観にも通じるような近代西欧の「自然支配の思想」を批判しうるような視点も提示していた(高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、2000)。

それゆえこの長編小説は、「自国の正義」を強調することで非人道的な原子爆弾や枯れ葉剤の投下をも正当化したアメリカ政府の政策に強い怒りを感じ、近代西欧文明の価値観に深い疑問を持つようになっていた私にとって、「戦争」という「野蛮な手段」を是認してきた歴史観を克服できるような方法と深みをドストエフスキーが持っていると感じて、ドストエフスキーの小説を熱中して読み始めることになる契機となったのである。

しかし、「大地主義」の頃の作品で「自己の正義」を武力で実行することの非を、きわめてキリストに近い視点から根源的に批判していたドストエフスキーの戦争観は、「スラヴ主義者」を自認するようになった露土戦争(1877-78)年の頃からがらりと変わり、戦争の必要性を唱え始める。そして、それは突然の変化ではなく、その遠因にはクリミア戦争(1853-56)とその考察があると思える。それゆえ、ここではドストエフスキーの作品分析からは少し遠ざかるが、クリミア戦争と露土戦争との関わりを簡単に見ておきたい。

クリミア戦争の発端については歴史家の倉持俊一が簡潔にまとめている。「戦争の直接の発端となったのは、フランス皇帝ナポレオン三世が、国内のカトリック勢力の歓心を買うために、聖地エルサレムにおけるカトリック教徒の特権をトルコに認めさせたことであった。トルコ領内におけるギリシア正教徒の保護者を自任していたロシア皇帝ニコライ一世は、そのために失われたギリシア正教徒の権利の回復を要求したが、トルコのスルタンはこれを拒否した」(「クリミア戦争」『世界大百科事典』平凡社)。

これに対してニコライ一世が、トルコ支配下のギリシア正教の同胞を助けることを唱えてバルカン半島に出兵したことで戦争が勃発することとなった。しかし、ロシアが五三年一一月の海戦でトルコ艦隊に大勝利をおさめると、トルコが敗北するのを恐れたイギリスとフランスは翌年三月参戦し力関係が逆転したのである。

ロシアが同じギリシア正教を国教とするバルカンの諸国を救おうとした時に、同じキリスト教国のイギリスやフランスがトルコの側にまわってロシアと戦ったことは、ロシアの知識人だけでなく、ロシアの大衆にも激しい怒りを呼び起こした。たとえば、スラヴ派のホミャコーフは一八五四年に書いた詩において「兄弟たちのために、不屈の戦いを戦え、/神の旗を頑丈な掌で支えよ。/剣で打ち破れーーそれは神の剣なり!」と書いている(高野雅之『ロシア思想史――メシアニズムの系譜』早稲田大学出版部、1989、182)。この時期にシベリアに流刑されていたドストエフスキーもまた、阿片戦争を行ったイギリスの行為を「われわれは虚飾なく野蛮と呼ぶ」と宣言するともに、さらに英仏などがクリミア戦争でロシアに宣戦を布告したことを、「暗愚な、罪深い、不名誉な仕業である!」とし、「神はわれらと共にあり!  進め! われらの偉業は神聖なり」と続けたのである。

これらの詩には、ヨーロッパ中心的な歴史観に対する反発が強く出ているといえるだろう。なぜならば、「十字軍はじつに近代ヨーロッパの英雄的事件」であると強調したフランスの歴史家ギゾーの記述が正しいとしたら、トルコの圧制に苦しむ同じキリスト教のスラヴ諸民族を救おうとするロシアの戦いもまた、そのような十字軍的な「正義の戦い」だったはずだからである。

しかし、クリミア戦争の最中に執筆され一八五六年に出版された『イギリス文明史』で、イギリスのような「文明国」では戦争という「野蛮な行為」は、「次第に使用されなくなっている」とした歴史家バックルは、しかし、「知性の発達とは無縁の民族においては、このような安定を実現することはできない」とした(Istoriya tsivilizatsii v Anglii, Spb.,1896,vol.1.,pp.75-78、ここでは一八九六年版によった)。そして、「歴史におけるこのような格好の例」としてクリミア戦争を取り上げ、この大戦争は「ヨーロッパで最も遅れた二つの国家」であるトルコとロシアの「衝突によってもたらされた」と結論していたのである。

ドストエフスキーなどロシアの知識人を激しくいらだたせたのは、こうした「客観性」のよそおいをこらした「西欧文明中心」史観であったといえるだろう。つまり、バックル的な文明観によって、西欧の肯定的な面のみが強調される時、「文明」の名前において「野蛮」を征伐する「正義の戦い」へと「自国民」を駆り立てることが可能になるのである。 それゆえ、ドストエフスキーは『地下室の手記』(1864)において主人公に、バックルによれば人間は「文明によって穏和になり、したがって残虐さを減じて戦争もしなくなる」などと説かれているが、実際にはナポレオン(一世、および三世)たちの戦争や南北戦争では「血は川をなして流れている」ではないかと鋭く問い質させて、彼の歴史観を鋭く批判させている(『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』(リチャード・ピース著、池田和彦訳、高橋誠一郎編、のべる出版企画、2006)。

西欧文明のみを「進歩」とし、アジアを「停滞」と規定したヨーロッパの文明観に対して別な歴史観を対置したのが、ペトラシェフスキーの会でフーリエの思想についての講義をしていたダニレフスキーであった。すなわち、ダニレフスキーは『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概観』(1869)において、歴史を「国民国家」ではなく、より大きな「文化・歴史類型」によって分類した。

さらに、この書でクリミア戦争はロシアへの「報復の戦争」を望んだナポレオン三世によって引き起こされたものであると主張したダニレフスキーは、二月革命以後のハンガリー出兵の際にはオーストリアやプロシアなど西欧の諸国も関わっていたにもかかわらず、ロシアのみがその反動性を強く非難されたのは、ギリシア正教を受容したロシアを西欧列強が自分たちの同胞と見なしていないために、不公平な「二重基準」が用いられたためだとした(Danilevsky,Rossiya i Evropa,peterburg,1995)。

そして、カトリックなどとは異なるロシア正教を国教とするロシアが、弱肉強食を是とする西欧列強によって滅ぼされないためには、ロシアを盟主とする「全スラヴ同盟」を結成すべきだと強調したのである。

一方、ドストエフスキーも一八六八年には友人のストラーホフに宛てた手紙で、ダニレフスキーが「フーリエ主義者からロシア主義者」になったことを「まことに天晴れなことです」と書いていた。そして、クリミア戦争後にヘルツェゴヴィナ、ボスニア、ブルガリアなどで正教徒の反乱や戦争が相次いでおきると、ドストエフスキーは『作家の日記』において、「戦争という手段」を用いてでもバルカンのスラヴ諸民族を救うことが必要だと主張するようになるのである。

四、残された謎――『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンの悪魔の形象

近著において私がもっとも重視したテーマの一つは、日本ではあまり知られていない外交官で作家のグリボエードフの『知恵の悲しみ』とドストエフスキーの諸作品との関わりであった。

たとえば、ペトラシェフスキー事件に連座して捕らえられたことで覚悟を決めたドストエフスキーはそれまでの「イソップの言葉」でではなく、「現在のような酷しい検閲のもとでは」、「諷刺文学や悲劇はもはや存在しえません」と率直に語り、「グリボエードフやフォンヴィージンのような作家、いやプーシキンでさえ存在できません」と自分が深く敬愛していた作家たちの名前とともにグリボエードフの名前も挙げているのである。

実際、グリボエードフ(1795-1829)が書いた戯曲『知恵の悲しみ』は、プーシキンはじめ多くの貴族の若者に愛読されており、デカブリストの乱が起きた際には彼も逮捕されるが、証拠不十分のために釈放された。有能な外交官でもあったグリボエードフが脚光を浴びたのは、第二次イラン・ロシア戦争(1826-28)後に行われた和平交渉で、ロシアに極めて有利なトルコマンチャイ条約を結び、東アルメニア、カフカスをイランがロシアに割譲させることに成功したためであった。こうして彼には勲章が贈られるとともに、五等官に任じられるが、トルコとの開戦が報じられ、全権公使として派遣されたグリボエードフはテヘランで暴徒に襲われ死亡した。

それゆえ私は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンの悪魔が、グリボエードフをイメージして形成されているというロシアの研究者の指摘にも言及しながら、ドストエフスキーの全作品を理解する上では、プーシキンとともにロシアの民主化を望んだグリボエードフの『知恵の悲しみ』が重要な働きを担っていることを指摘した。しかし、その際にはなにゆえイワンの悪魔が、ドストエフスキー自身がメフィストフェレスと呼んだ秘密組織の組織者スペシネフではなく、かつて尊敬していたグリボエードフなのかについては深い分析を行っていなかった。ここではドストエフスキーとポベドノースツェフとの関係に注目することで、この問題をより深く掘り下げたい。

ユダヤ人の大富豪であるロスチャイルドのような金持ちになることを夢見ていた主人公のアルカージイを描いた長編小説『未成年』(1875)では、自分の父ヴェルシーロフが主役のチャーツキイを演じたグリボエードフの劇『知恵の悲しみ』を子供のときに見た時のアルカージイの感激を次のように語っている。「彼の足の指にも値しない愚かな連中が彼を嘲笑っている」が、「しかし彼のほうが――偉大な、偉大な人間なのだということが、わかりました」(工藤清一郎訳)。

このエピソードは、皇帝が絶対的な権力を持つロシアの現状を主役のチャーツキイに厳しく批判させていたグリボエードフの『知恵の悲しみ』を、ドストエフスキーが子供の頃からいかに愛読していたかを物語っているだろう。しかし、主人公のアルカージイに、チャーツキイと自分の父に対する尊敬の念を表明させてしていたドストエフスキーは、その後で父親のヴェルシーロフに西欧への幻滅をも語らせることで、ロシアを見捨てて外国へと逃げ出した知識人チャーツキイへの批判の色彩をも込めていたのである(高橋「ドストエフスキーとグリボエードフ(二)」、同人誌『人間の場から』第二三号、一九九一年)。

このことは『悪霊』や『未成年』における主人公の父親たちの形象が、グリボエードフの戯曲『知恵の悲しみ』の考察とも深く関わっている理由を示しているだろう。そして、『カラマーゾフの兄弟』では悪魔の形象の一つとしてグリボエードフが出てくることになるのである。すなわち、研究者のボーゲンはグリボエードフの経歴にも言及しながら、『カラマーゾフの兄弟』の中で悪魔がイワンに言う次の箇所に注目している。

「実はさっき、ここへ来る支度をしながら、僕は冗談のつもりで、コーカサスに勤務していた退役四等官の姿になって、燕尾服に獅子と太陽勲章でも下げてこようかと思ったんだけど、どうにもこわくなってやめたんだよ。だって、少なくとも北極星章かシリウス星章くらいつけずに、よくも獅子と太陽勲章なんぞ燕尾服につけられたもんだという、それだけの理由で、君に殴られかねないからね」(原卓也訳)。

ボーゲンによれば、ここで悪魔が北極星に言及しているのは、デカブリストたちが出していた文芸雑誌「北極星」のことと絡めているだけでなく、グルジアなどコーカサスと密接に結びついていたグリボエードフが初めてのペルシアへの旅でこの「獅子と太陽勲章」を受章していたためでもある(А・ボーゲン、「ドストエーフスキイとグリボエードフ、註への追加」、『ドストエフスキー、資料と研究、八』、ナウカ出版社)。

さらにボーゲンは、グリボエードフは五等官の位で亡くなっているが、退官する際には一つ官等を上げられるのが常であったから、無事に退役していたらグリボエードフも少なくとも四等官にはなっていた筈であると指摘して、ここで悪魔は生き延びたグリボエードフの姿をして現れようとしたのではないかと想定しているのである。

彼の仮説は、おそらく本質を言い当てているだろう。なぜならば、悪魔がイワンに「のべつ君は僕がばかだと言うね。しかし、正直のところ、君と知性を競おうなどという野心も、僕は持ち合わせていないんだ」と語っているように、賢さはイワンの自尊心に深く係わっていた。ボーゲンの説明を受け入れれば、悪魔はここで「ロシアでもっとも賢い人間の一人」グリボエードフの姿を借りて現れようとしたと語る事で、賢い人間を自認するイワンの自尊心を痛烈に皮肉っていたことになる。

そしてそれは、悪魔がなぜこの少し前で、『知恵の悲しみ』の登場人物の一人で秘密組織にも関わっていたレペチーロフの言葉を引用して、「昔この地上に、一人の思想家、哲学者がいて、『法律も、良心も、信仰も、ことごとく否定し』、何よりも、来世を否定したんだそうだ」と述べたかも明らかになるだろう。

しかし、グリボエードフは『知恵の悲しみ』の主人公であるチャーツキイをとおして、秘密結社によって社会を変えようとするレペチーロフの軽率さを批判していたのである。つまり、グリボエードフはペトラシェフスキー会のスペシネフや『悪霊』の主人公のモデルとなるネチャーエフのような人物の批判者だった。

それゆえ、たしかに知名度の点で大きな違いがあるので、読者に与えるインパクトの大きさを考えるならばある程度は理解できるにせよ、『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンの悪魔がスペシネフではなく、深い尊敬の対象であったグリボエードフになぞらえられていることには、釈然としない思いが残っていたのである。

前著ではこの問題を詳しく分析する余裕はなかったが、この「謎」を解明するために重要なのは、ポベドノースツェフが「憲法を待望している」大臣たちを「犯罪者」と呼んでいたことに留意する必要があるだろう。すなわち、『カラマーゾフの兄弟』においてグリボエードフを暗示するような言葉を「悪魔」に語らせたときにドストエフスキーは、熱心な読者でもあったポベドノースツェフに「媚び」るために、かつてロシアに「憲法」を制定しようとしていたグリボエードフを悪魔に揶揄させるという「二枚舌」的な表現をしたと思える。

五、ドストエフスキーのユダヤ人観とポベドノースツェフの宗教観

イワンの悪魔の形象と同じような「見えざる検閲」と「二枚舌」的な表現の問題が、『カラマーゾフの兄弟』において、「ねえ、アリョーシャ、ユダヤ人は復活祭に子供を盗んで来て殺すんですってね、本当?」とリーザがアリョーシャに尋ねるシーンにも当てはまると思える。

すなわち、リーザは「わたし何かの本で、どこかのなんとかという裁判のことを読んだのよ。ひとりのユダヤ人が四つになる男の子をつかまえて、まず両手の指を残らず切り落として、それから釘で磔(はりつけ)にしたんですって…中略…子供が苦しみぬいて、うなりつづけている間じゅう、そのユダヤ人はそばに立って、見とれていたんですって」と語っているのである。

清水孝純氏はこれが一八七四年にグルジア娘が失踪して、死体となって発見された際に九人のユダヤ人が告発されたことから、「右翼の新聞雑誌が、血の神話(キリスト教徒の血をとる)のプロパガンダをひろめ」たこととかかわっているだろうという論考を紹介している。そして、これに対してアリョーシャが「知りませんね」と答えていることや、『カラマーゾフの兄弟』が「虚構」の上に成立する文学作品なので、このシーンを理由にドストエフスキーがユダヤ人に対する激しい差別意識を持っていたとすることはできないだろうと結論している(清水孝純『新たなる出発――「カラマーゾフの兄弟」を読むⅢ』九州大学出版会、2001、240)。

ただ、中村健之助氏はドストエフスキーが個人的には「ユダヤ人だからといって敵視する人ではない」としながらも、その一方で容易にロシアの「社会通念」やその時代のイデオロギーに「付和雷同する」傾向ももっていたので、ユダヤ人に対する誤解を広めるような文章を書くことはあると指摘している(中村健之助「ドストエフスキーとユダヤ人問題・覚え書き」『論集・ドストエフスキーと現代』、多賀出版、2001、472、487、以下「覚え書き」と略して、引用頁数のみを括弧内に示す)。

さらに、ユダヤ人・ジャーナリストから、厳しい反論の手紙を受け取った際にも、客観的な事実は無視して、「自分はロシアに住むユダヤ人が居住区その他の点で虐げられているとは思わない」し、「むかしからユダヤ人は金貸し業でナロードを思う存分だましてきた」などの「独善的」な反論をとうとうと書いていることに言及している(484)。このような点を確認した上で中村氏は、それは「ロシアのすることはすべて正しい」という激しい思いこみからくるもので、「開かれた議論ではなく、批判を受け入れない閉ざされた『信念』なのである」として、「非難される側としては非常に迷惑」なことだと書いている(487-88)。

しかし、中村氏も指摘しているように、「大地主義」の時代に書かれた『死の家の記録』ではユダヤ人が人間味を持って描かれていたことや、雑誌『時代』で「スラヴ主義の週刊誌『日(ヂェーニ)』の反ユダヤ主義に反発し、ユダヤ人にさまざまな抑圧的制約を加えることに反対する論陣を張って」いたことなどを考慮するならば、これらの記述をドストエフスキーの「信条」だけに帰することは難しいと思える(509)。

この意味で重要と思えるのが、宗務院の総裁となるポベドノースツェフの宗教的見解である。すなわち、「ロシア教会は絶対的真実を持っており、ロシア教会が絶対的真実である。それ故に、ロシア民族がこの真実を持ち、ロシア民族がこの真実であるのである」(Ⅱ・189)と見なしていたポベドノースツェフは、「国家はすべての宗派の中でただ一つの宗派を正しいものと認め、ただ一つの教会を支持し、それだけを優遇する。そして、他のすべての教会と宗派を劣等のものと見なす」としていた(Ⅱ・192)。

それゆえに、ロシア正教の異端である「旧教徒」(分離派)やロシア帝国内での少数者の宗教であったカトリックやユダヤ教に対する弾圧が強化されただけでなく、このような政策を批判した知識人は厳しく罰せられたのである。

たとえば、排他的な愛国主義を厳しく批判した哲学者のソロヴィヨフは公職から追放されていることを指摘した赤尾光春氏は、ポベドノースツェフと新皇帝との私信では、ソロヴィヨフが「狂人」と呼ばれていたことにも言及している(「帝政末期におけるロシア人作家のユダヤ人擁護活動」『ロシア語ロシア文学研究三九』、2007)。つまり、ニコライ一世の頃に雑誌でカトリック的な見解を堂々と発表したチャアダーエフは、公式に「狂人」と宣告されたが、ユダヤ人を養護したソロヴィヨフも同じように見られていたのである。

そしてそれは迫害されたプロテスタント系のドゥホボール教徒のために『復活』を書いて彼らの移住を助けるなどの活動をして、一九〇一年に正教会から破門されることになるトルストイの場合にも当てはまる。これらの事例は、『死の家の記録』では、真理を求めるためには罰されることも恐れない勇気を持つ者として好意的に描かれていた旧教徒が、『カラマーゾフの兄弟』ではロシアがフランスに占領された方がよかったと語る去勢派の若者スメルジャコフに焦点が当てられていることとも関わっているだろう。

つまり、これらの記述はロシア正教以外の宗教や異端とされた旧教徒に対して、自分が共感を持っていると権力者に思われることを、ドストエフスキーがいかに恐れたかを物語っているように思えるのである。これらのシーンを描きながら、ドストエフスキーが自分の作品の「愛読者」であるポベドノースツェフの反応を気にしていたことはたしかであろう。(ここではポベドノースツェフ宛のドストエフスキーの手紙などを紹介することで、具体的に論証する誌面的な余裕がないので、いずれ稿を改めて考察したい)。

マサリクはモノローグの形で書かれた『作家の日記』の最後の号(1881年1月)においてドストエフスキーが、皇帝はロシアという「民族的有機体において、自分の子供たちの父親であるという、公けに重んじられる古い家父長理論」を展開していると指摘している(Ⅲ・140)。事実、ドストエフスキーが亡くなる直前に皇太子アレクサンドルとの面会の機会をも与えていたポベドノースツェフは、ドストエフスキーの死後に発行されたこの号を、「この号の各頁がすばらしい」と絶賛して皇太子アレクサンドルに送っている。

さらに、歴史家の和田春樹氏によれば、ポベドノースツェフが「私には彼は大の友人」であるが、「彼の死はロシアにとって大きな損失です」との手紙を皇太子に書いて、遺族に対する援助へのとりなしを頼み、その結果、ドストエフスキー夫人には、将軍の年金額に等しい二〇〇〇ルーブルの年金を支給することが決定した(『テロルと改革――アレクサンドル二世暗殺前後』山川出版社、2005、195-6)。

こうして、比喩的に言うならば、一介の作家に過ぎなかったドストエフスキーは、ポベドノースツェフによって、国家のために英雄的な死を遂げた「軍神」的な位置を与えられたとのである。そして、アレクサンドル二世が暗殺された後では、ポベドノースツェフは新帝となったアレクサンドル三世に「専制を不動のものとして維持する」旨の詔書を出すように何度も働きかけて成功することになる。

六、皇帝暗殺の「謎」とアジアへの進出政策

「みずからの敵を恐怖に陥れるための政治の道具としてのテロリズム、その歴史はそう古いものではなく、たかだか百四十年の歴史をもつに過ぎません」と断じた亀山氏は「その悲劇的ともいうべき最初の銃声は、ロシアで鳴り響き、世界にその恐ろしい威力を知らしめたのでした」と続けている(下・166)。

しかし、よく知られているように、皇帝の暗殺はこれがはじめての事件ではなく、司馬遷が『史記』の「刺客列伝」で描いたように秦の始皇帝の暗殺を試みた荊軻(けいか)をはじめとして、絶対的な権力を握り批判を許さなかった皇帝暗殺の試みは、古代中国の時代からえんえんと続いていたのである。

一方、ドストエフスキーの死の謎をも視野に入れつつ、皇帝暗殺の謎に迫ったラジンスキーは、アレクサンドル二世が「憲法」を制定しようとしていたことから、「極端な保守勢力」にとっては、「あらゆる力を皇帝暗殺に集中するという『人民の意志』の考え方は、彼らにとって非常に都合のよいものだった」とした。そして、かつての第三部副長官で皇太子の親友のチェレーヴィン侍従将官が後に、「彼(アレクサンドル二世)が排除されたのはよいことと言いたい。もしそうしなければ、彼が己の自由主義でロシアをどんなにひどい状態に陥れていたか、わかったものではないからである」と語ったと記している(望月哲男、久野康彦訳『アレクサンドル二世暗殺』下巻、NHK出版、2007、336-8)。

こうして、「臣民の義務と良心に従って」、「ヨーロッパに存在している憲法は、あらゆる虚偽の道具であり、あらゆる陰謀の道具となっている」と語った激烈なポベドノースツェフの演説によって、「偉大な改革、すなわち、憲法にいたる道は終止符を打たれ」、「皇帝の広い背中の背後からロシアを支配し始めた」ポベドノースツェフによってもたらされたのは、「厳しい検閲から、国家による反ユダヤ主義にいたるまで、ありとあらゆる手を駆使した国粋主義的な陣営の大勝利」だったのである(『アレクサンドル二世暗殺』381-2)。

そしてマサリクも、「愛想の良い社交と魅力的な作法が賞讃」されていたポベドノースツェフが、「黒百人組」の指導者たちの同盟者だったばかりでなく、反革命的秘密結社である「神聖親兵」を組織して、「あらゆる手段を用いて――殺人によってでも――王冠の敵を根絶しようとした」と批判している(Ⅰ・341)。

このように見てくる時、『父殺しの文学』では皇帝暗殺という大事件にいたるまでのさまざまの事件については詳しく紹介されていながら、優遇された貴族階級の下で貧困にあえぐ民衆や、ロシア帝国を根底から揺るがした戦争によるポーランドやフィンランドなどの属国化と反乱などの記述はほとんどなく、皇帝暗殺の謎にも迫っていないことに気づく。

亀山郁夫氏の近著『大審問官スターリン』を論じた歴史家の塩川伸明氏は、そこには「個々の歴史的事実に関する明らかに間違った記述も少なくない」ことを指摘しながら、「歴史」と「神話」を組み合わすという亀山氏の語り口を「読者を惑わし兼ねない」という危惧の念を記している(『ロシア語ロシア文学研究・三九』)。

実は、亀山氏の『父殺しの文学』を読んだときの私の感想もほとんどそれに重なるもので、ドストエフスキーについての「新たな神話」が大胆な切り口で語られている本書は、ことに若い読者を「自国中心的な」古い歴史認識へと導いてしまう危険性を強く感じたのである。

たとえば、『死の家の記録』ではロシア政府に対抗して戦ったイスラム教徒が温かさをもって描かれていたが、『カラマーゾフの兄弟』では「妊婦の腹から胎児をえぐり出す」トルコ人や赤ん坊をあやした後でピストルで撃ち殺してしまうなどのブルガリアにおけるトルコ人の残虐がイワンによって語られている。これらのエピソードはドストエフスキーがこれらの病的な事柄からも目を背けずに描いているということだけではなく、イスラム教徒の残虐性を強調することで、ロシアが「正義の戦争」として行った露土戦争の正当性を、一般読者に主張しているという面も強くあると思える。

しかし、イスラム教徒に対する十字軍の実態については、日本ではあまり知られていないが、一九九四年にイギリスの国営放送であるBBCが「リチャード獅子心王はならず者であった」と題したドキュメンタリーで放映したように、「正義の戦争」とされてきたこの戦争が、実際には利権を確保するための嘘と欺瞞に満ちたものであり、それがジハード(聖戦)と呼ばれるイスラム教徒の激しい抵抗を生み出していたのである。

一方、『罪と罰』における「ナポレオン主義による金貸し老婆殺人をテロルとみるなら、その殺人のもつ意味は一気に歴史的な広がりを帯びるはず」と書いた亀山氏は(上・229)、「アレクサンドル二世はロシアのテロリストたちによって、今日でいう自爆テロに近いかたち」で暗殺されたと現代に引き寄せて記している(下・166)。

このような亀山氏の記述は、「スラヴ主義」の時期のドストエフスキーの歴史認識に重なるだけでなく、イラクを「ならず者国家」と規定して国連の正式決議を経ずに戦争に踏み切ったブッシュ政権のやり方や、さらには原爆などの近代兵器による悲惨さの認識の上に軍事力による紛争の解決を禁じた「憲法」の規定に反して、戦場に自衛隊を派遣していた日本政府の政策をも正当化することになると思えるのである。

一方、皇帝の暗殺を契機として始まったポグロムの第一の波(1881-1864)では、出稼ぎ農民や日雇い労働者などの貧しいロシア人がユダヤ人を襲撃したが、「政府当局はこれを静観していたばかりでなく、〈ユダヤ人=搾取者〉説に乗って事件を反ユダヤ人政策強化のために十二分に利用した」(原暉之、「ポグロム」『ロシアを知る事典』平凡社)。

先に見た赤尾氏は、もしドストエフスキーがこのことを知ったらどのように対応しただろうかという疑問を呈しているが、『カラマーゾフの兄弟』の続編をも大胆に想像した亀山氏は、ドストエフスキーと皇帝アレクサンドル二世の死が「神話的世界」の終わりであるかのごとくに、彼らの死後の直後に起きた重大な国策の変更やこの事件についてはまったく言及していない。

これに対して、ドストエフスキーが『作家の日記』の最終号で「我が国の将来の運命において、アジアこそ我々の主要な出口かもしれない」(Ⅲ・136)と記していたことに注意を促したマサリクは、皇太子ニコライが一八九〇年から翌年にかけて東アジアを旅行した時の公式の旅行記録者に、「アジアのすべての民族は、白きツァーリの支配を喜んで受け入れるだろう」とする汎アジア主義的な綱領を宣言させていたことに注意を促している(Ⅰ・133)。

しかも、「体制護持」の思想を詳しく分析した池庄司敬信氏によれば、ロシアの領土を拡張してさまざまな地域の「ロシア化」を進めるべきだと主張したスラヴ主義者のポゴージン(1800-1875)は、ロシアの皇帝を「ビルマ人、シナ人、日本人の王位」につけることで、これらの地域の民衆も幸せになると記していた(『ロシア体制変革と護持の思想史』中央大学出版部、526)。

実際、アジアへの進出を試みたアレクサンドル三世のもとで、一八九一年に始まったシベリア横断鉄道の建設は、一八九七年には一部区間をのぞきほとんどが完成することになる。そして、このようなロシア帝国の南下政策はマサリクが書いているように、「用心深い島国のエネルギー」を解き放ち、一九〇四年にはついに日露戦争が始まることになるのである。

この戦争が始まるとトルストイは平和を希求する宗教を信じるキリスト教徒と仏教徒のロシア人と日本人が戦場で戦うことの非を鋭く批判する論文を発表した。『アンナ・カレーニナ』において主人公に反戦的な言葉を語らせたトルストイを『作家の日記』で厳しく批判し、さらにコンスタンチノープルの領有も主張していたドストエフスキーが、もしこの年まで生存していたら、どのように反応しただろうか。

この意味で興味深いのは、「満州で敗北したのはロシアの兵士ではなく、ロシアの軍事行政、ロシアの参謀本部、ペテルブルグの宮廷とその外交、ロシアの官僚、一言で言えばポベドノースツェフの全体制だった」としたマサリクが、「ロシアは東アジアの地で、自らの内的な、最も内的な敵によって――日本人によってではなく――打ち負かされたのである」と結んでいたことである(Ⅰ・133-4)。

実は、このようなマサリクの結論は、日露の近代化の比較を通して日露戦争を詳細に分析した司馬遼太郎が、『坂の上の雲』の第六巻で「ロシア帝国は日本に負けたというよりみずからの悪体制にみずからが負けた」と記した考察とも重なる。そして司馬は、日本が日露戦争の勝利後にこのことをきちんと分析せずに、「憲法」の重要性をないがしろにして、軍人や政治家の横暴を防ぐような方策を取らなかったために、昭和初期の軍事国家へと突っ走ることになったことを明らかにしているのである(高橋『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』東海大学教育研究所、2005)。

このように見てくるとき、ファウストがメフィストフェレスとの契約によって永遠の若さを得たように、ドストエフスキーも権力者ポベドノースツェフに対する「二枚舌」を用いることにより、検閲の重みからある程度自由を得て、自分の才能を思う存分に活かして壮大なドラマを展開したといえるだろう。ことに「虚構」の上に成立するきわめてすぐれた文学作品である『カラマーゾフの兄弟』では「父親殺し」や「自殺」などの現代的な問題を鋭く描き出す一方で、ゾシマ長老の深い他者観や自然観を描くことで、読者に深い感動を与えた。

しかし、『カラマーゾフの兄弟』におけるグリボエードフを悪魔に揶揄させる表現やトルコ人の残虐さ記述などからは、熱心な読者でもあったポベドノースツェフに「媚び」るための「二枚舌」的な表現が感じられる。『作家の日記』の記述が作家の死後にポベドノースツェフたち保守的な政治家によって利用された可能性も否定できないだろう。

つまり、ドストエフスキーはスペシネフを自分のメフィストフェレスと見なしていたが、ドストエフスキー自身は認識することはできなかったが、彼の死後にも影響力を持ったポベドノースツェフもまたドストエフスキーのメフィストフェレスともいえる存在だったと思える。

「スラヴ主義」の時期に書かれた作品の「二枚舌」的な表現に注意を払わないで読むとき、私たちもまた「正教・専制・国民性」を「ロシアの伝統」として強調し、「憲法」の要求を「犯罪」と断じたポベドノースツェフ的な歴史・道徳観に引き込まれる危険性があると言わねばならないだろう。(『ドストエーフスキイ広場』17号、2008年

〔本稿は2008年1月26日に代々木区民会館で行われた第184回例会での発表による。なお、再掲に際しては基本的な骨格はそのままにし、文末の「のである」の一部削除など文体上の修正を行った。〕

講座  『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容

「憲法」のない帝政ロシアで1866年に書かれたドストエフスキーの『罪と罰』は、発表されてから今年で150年を迎えます。日本人が初めてこの作品を目にしたのは、司馬遼太郎氏が俳人・正岡子規(1867-1902)を主人公の一人として描いた長編小説『坂の上の雲』の時代でした。

注目したいのは、自分が編集主任をしていた新聞『小日本』に日清戦争の直前に自殺した文芸評論家・北村透谷(1868-1894)の追悼記事を掲載した正岡子規が、透谷を主人公の一人とした長編小説『春』(1908)を書くことになる島崎藤村(1872-1943)とも会っていたことです。

しかも、子規は『レ・ミゼラブル』(1862)の部分訳も行っていたのですが、透谷も「罪と罰(内田不知庵訳)」(1892)という書評で、ドストエフスキーが「彼の思想は十九世紀のあらゆる芸術の基本的な思想」と高く評価していたユゴーの『レ・ミゼラブル』にも言及していたのです。

子規が畏友と呼んだ夏目漱石(1867-1916)は、『罪と罰』からの影響が強く見られる島崎藤村の長編小説『破戒』(1906)を「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞しています。

本講座では彼等の生きた明治の状況を注視することにより、『罪と罰』が日本の近代文学に与えた深い影響と現代的な意義についてお話できればと考えています。

(講師からのメッセージ)

*   *   *

講  師  : 高橋誠一郎氏 (元東海大学教授、比較文学者)

日  時  : 平成28年3月4日(金) 午後2時~4時

場  所  : 世田谷文学館 2階 講義室

参 加 費  : 700円

申込締切日 : 平成28年2月16日(火)必着

(応募者多数の場合は抽選)

世田谷文学館友の会・おしらせ123号(H28年1月21日発行)より転載>

(2016年1月24日、初出)

 

3-3,「ドストエーフスキイの会」例会一覧(第218回~第239回)

このサイトを開設してからも転載してきた「ドストエーフスキイの会」例会の回数も増えました。

第218回以降の「ドストエーフスキイの会」例会一覧を掲載します。

 

ドストエーフスキイの会、第246回例会(合評会)のご案内

ドストエーフスキイの会総会と245回例会(報告者:泊野竜一氏)のご案内

ドストエーフスキイの会、第244回例会(報告者紹介:野澤高峯氏)のご案内

ドストエーフスキイの会、第243回例会(報告者:赤淵里沙子氏)のご案内

ドストエーフスキイの会、第242回例会(報告者:齋須直人氏)のご案内

ドストエーフスキイの会、第241回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

ドストエーフスキイの会、第240回例会(合評会)のご案内

ドストエーフスキイの会総会と第239回例会(報告者:清水孝純氏)のご案内5月2日
ドストエーフスキイの会、第238回例会(報告者:木下豊房氏)のご案内2017年3月12日
ドストエーフスキイの会、第237回例会(報告者:大木貞幸氏)のご案内12月31日
ドストエーフスキイの会、第236回例会(報告者:熊谷のぶよし氏)のご案内10月26日
ドストエーフスキイの会、第235回例会(報告者:金沢友緒氏)のご案内8月28日
ドストエーフスキイの会、第234回例会(合評会)のご案内7月2日
第47回総会と233回例会(報告者:杉里直人氏)のご案内2016年5月5日
ドストエーフスキイの会、第232回例会(報告者:芦川進一氏)のご案内
ドストエーフスキイの会、第231回例会(報告者:田中沙季氏)のご案内
ドストエーフスキイの会、第230回例会(報告者:長瀬隆氏)のご案内
ドストエーフスキイの会、第229回例会(報告者:冷牟田幸子氏)のご案内
ドストエーフスキイの会、第228回例会(合評会)のご案内
ドストエーフスキイの会総会と227回例会(報告者:樋口稲子氏)のご案内
ドストエーフスキイの会、第226回例会(報告者:槙田寿文氏)のご案内
ドストエーフスキイの会、第225回例会(報告者:泊野竜一氏)のご案内
ドストエーフスキイの会、第224回例会(報告者:木下豊房氏)のご案内
ドストエーフスキイの会、第223回例会(報告者:北岡淳也氏)のご案内
ドストエーフスキイの会、第222回例会(合評会)のご案内
ドストエーフスキイの会総会と第221回例会(報告者:福井勝也氏)のご案内
ドストエーフスキイの会、第220回例会(報告者:堀伸雄氏)のご案内
ドストエーフスキイの会、第219回例会(報告者:金洋鮮氏)のご案内
ドストエーフスキイの会、第218回例会(報告者:中本信幸氏)のご案内
なお、「ドストエーフスキイの会」のホームページには、第1回からの発表者と題名が、第167回からは報告者の「報告要旨」と「傍聴記」、そして「事務局便り」が掲載されています。
リンク→HP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。