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『ドストエーフスキイ広場』発刊の頃――会発足50周年を迎えて

「ドストエーフスキイの会」は今年50周年を迎えます。

それを記念した『ドストエーフスキイ広場』(第28号)に標記のエッセーを寄稿しましたので、以下に転載します。

   *   *

 

 

 

 

(表紙/小山田チカエ)

   来年が「ドストエーフスキイの会」発足から五〇周年にあたるため、急遽、特集を組むことが決まったが、発刊当時は三号雑誌で終わることも危惧された『ドストエーフスキイ広場』(以下、『広場』と略す)も現在は第二八号に至っている。

それゆえ、ここでは『広場』発刊の頃から千葉大学で開催された国際ドストエフスキー・研究集会での主要論文の邦訳も掲載されている『広場』の第一〇号の時期までを簡単に振り返ることで「ドストエーフスキイの会」の歩みの一端を記すことにしたい。

一九八九年にユーゴスラヴィアのリュブリャーナで開かれた「国際ドストエフスキー・シンポジウム」に参加して、多くの著名な研究者たちから強い知的刺激を受けたばかりでなく、当時の東欧情勢にも強い関心を抱いた私は、日本からの情報の発信の必要性も痛感した。それゆえ、事務局の方々との相談を踏まえて、私は翌年の三月に発行された「会報」の一一二号に機関誌の発刊について次のような「提言」を記した(『場』第四号、二八八頁参照)。少し長くなるが、当時の会の状況が分かるので、読みやすいように改行をほどこした形で引用する。

   *   *

 〔「会報」が百号に差しかかる頃から「会報」の紙面の刷新や新しい試みが度々話題になり始めましたが、その十分な成果がなかなか表われないまま、予算的な状況から「ドストエーフスキイ研究」の続刊は難しくなり、またそれに伴って「場」4号の発行も見合わされる中で、「会も一応その役割を果たしたので会を閉じてもよいのではないだろうか」という意見も会員の間から聞こえてくるようになりました。

確かに「ドストエーフスキイの会」も約二十年を経て、新しい情報や新しい視点も一応一通り出ており、四ケ月毎に出す会報に新しい情報が満載されているというような状況は難しくなってきていると思えます。

しかし、「ドストエーフスキイの会」は既にその存在意義を失う程に老いたのでしょうか。いささか僭越な気もしますが、二次会の席で語り合い、また事務局の人々と相談する中である程度共通の意見が固まってきたようなので、以下にその概要を提言という形で述べさせて頂きたいと思います。

結論的に言えば、会は老いたのではなく、活発な青年期から壮年期へとさしかかって来ているのであり、問題の多くはやはり「会報」の性格にあるように思えます。確かに年に四回発行される「会報」は受け取った情報を素早く提供する点で、多くの長所を持っています。しかし、約二十年を経た現在、会は与えられた情報についてじっくりと考え、多少ともまとまった仕事をしていく段階に入ってきたと言えるのではないでしょうか。そして、その意味でも情報の速さが長所の会報の形から、少し遅くとも十分のスペースをとって発表できる年刊の機関誌の形へと脱皮する時期が来ていると思えるのです。

「研究」や「場」の続刊は当面難しいとすれば、両者の発展的解消として「機関誌」を創刊し、両者の試みを継承しながら、同時に、小説などの掲載も可能な「ドストエーフスキイの読者の自由なテーマの発表の場」としての側面も持てればと思います。

また、この会の研究動向は海外でもかなり注目を浴びているようです。外国との連携をいっそう深める意味でも、その年度のドストエーフスキイ関係の文献目録を載せるだけでなく、欧文の目次やレジュメなども載せられれば一層充実したものになると思います。少し調べましたところ、年誌の形態で、報告論文については四百字・二〇枚×五本、エッセー、小論は五枚×十二本程度までなら現行の会の予算でまかなえそうです。それを越える枚数は一定の割合での執筆者負担ということも考えられます。

 以上、いろいろと書き連ねましたが、勝手な思い込みもあるかも知れません。忌憚のないご意見をお聞かせ願えれば幸いです。〕

   *   *

幸い会員としては古参ではないにもかかわらず、私の提言は総会でも受け入れられて決議からあまり時間なかったが七本の論文と四本のエッセー、資料が集まり、「会報」と同じ「リコープリント」の印刷と製本で発刊にこぎつけることができた(注:資料参照)。『広場』の創刊号には次のような言葉で結ばれている「発刊の辞」が「発刊編集委員会」の名前で掲載された。

 「会発足の精神そのものが、『開かれた場』である以上、この会誌自体も『開かれた場』でなければならないだろう。これは私達にとってのペレストロイカである。試行錯誤を重ねながらも、新しい方向の定着を目指して、共同の努力をしたい。」

 ただ、残念なことに機関誌の編集に入った頃から暗雲を伴い始めていた湾岸情勢はさらに悪化して、一月一七日未明に戦争へと突入してしまった。このような情勢を受けて私は編集後記でこう記した。

〔「隣国を武力で併合したフセイン大統領の非は議論の余地無く明らかです。けれども、他国の武力併合に対する制裁として、武力行使の権利を与えた「国連決議」もまた論理的には矛盾していると言わなければならないでしょう。(……)ペレストロイカに連動して、新しい世紀への希望がふくらみかけていた世界は、暗い世紀末の様相すら示し始めているように思えます。ただ、このような困難な時代にこそ悲観的にならずに、冷静に現実を見つめ、ドストエーフスキイを媒介としながら根本的に問題を考えていくことが必要とされるのだと思います。

今回は大きな企画を立てることはできませんでしたが、冷牟田氏の協力で論文の題名の英訳を、安藤氏や本間氏の協力で資料を載せることができました。また、表紙には会員の小山田氏の絵を、そして装丁には渡辺氏の力をお借りすることができました。次回には「旧著新刊」のコーナーを設けて、会員の本を中心に図書の紹介もしたいと考えていますので、自薦他薦を問わず原稿をお届け頂ければと思っています。

機関誌の題名は「ドストエーフスキイの場」という案が有力でしたが、決定的なものに欠け、なかなか決まりませんでした。新谷先生も出席された最後の編集会議で「場」の代わりに「広場」ではどうかという案が出てようやく名前がつきました。

 初めは少し違和感もありましたが、何回も口に出してみるとだんだんと愛着がわいてくるよい名前だと思えます。ドストエーフスキイの「広場」に多くの人が集い、語り合い、時には互いに激しく論争し合うことによって、時代を模索し、少しでも何か新しいものを生み出せたらと思っています。(後略)」

 こうして、湾岸戦争後にソ連が崩壊し、東欧情勢も混迷の度合いを深める中で発刊された『広場』は発刊された。ただ、木下現代表が学務で忙しくなり、井桁貞義氏も学会などで多忙をきわめることになったために、私が事務局の代理を引き受けることになり池田和彦氏の助力と運営委員や多くの会員の方々の協力を得てなんとか毎年、欠かさずに発行することができた。

この時期の講演会や論文は「ドストエーフスキイの会」のホームページに掲載されている機関誌の目次からもうかがうことができるが、文芸講演会だけを拾っても川崎浹氏、新谷敬三郎氏、江川卓氏、井桁貞義氏などのドストエフスキー研究者だけでなく、評論家の富岡幸一郎氏や哲学者の中村雄二郎氏、夏目漱石の研究者・小森陽一氏の講演が毎年早稲田大学の会議室などで開かれた。

私自身にとって印象深かったのは、一九九六年に会員の横尾和博氏と作家の立松和平氏の講演会を、一九九八年にも作家・辻原登氏の講演会を東海大学松前記念館講堂で多くの聴衆を集めて開催することができたことである。

この時期の会の大きな活動の柱の一つになったのが、北海道大学教授の安藤厚氏を代表とし、木下豊房氏と望月哲夫氏を研究分担者とする共同研究会が立ち上げられて科学研究費による研究会が開かれ、国際ドストエフスキー・シンポジウムとも連動して活発な発表と交流が行われたことである(一九九六年~九八年)。その成果は二〇〇一年に木下豊房・安藤厚編著『論集・ドストエフスキーと現代――研究のプリズム』(多賀出版)として発行された。

また、一九九九年には懸案だった『場』の四号が発行され、未収だった一九八三年から一九九〇年までの「会報」すべてを収録することができた。

そのような活発な研究活動を反映して、二〇〇〇年には「二一世紀人類の課題とドストエフスキー」と題した国際ドストエフスキー研究集会が木下代表により千葉大学で開催された。その時の発表論文は『広場』だけでなく、«XXI век глазами Достоевского: перспективы человечества» という題名でモスクワでも発行された。

しかも、その際の経験はブルガリア・ドストエフスキー協会会長のディミトロフ教授が私に語ったように、昨年行われたブルガリア・ソフィア大学での国際ドストエフスキー・シンポジウムの開催に際しても活かされることになった。

以上、一九九〇年の『広場』創刊から約一〇年間を簡単に資料などに基づきながら振り返った。その後、今度は私が学務などに追われて次第に会の運営から遠ざかるようになり復帰したのは二〇〇九年のことであったが、その折にはネットの普及などにより編集方法が大幅に変わっていたことに驚かされた。それゆえ、この短い文章が呼び水となって当時の記憶を呼び戻し関心を高めて、会の創設期や二〇〇〇年以降の会の活動などに関する多くのエッセーや報告が次号で集まり、さらなる活発な研究へとつながることができれば幸いである。

  *   *

資料として『ドストエーフスキイ広場』(創刊号、1991年)の「目次」を以下に掲げておきます。

 

発刊の言葉

論文

『分身』の現在……横尾和博

キリーロフの分裂……――冷牟田幸子

『悪霊』について――神話的心理学的側面からの考察……清水正

エッセイ

ドストエフスキーとベケット……高堂要 

薄命の二つの死……小山田チカエ

発刊に際して……田中幸治 

トルストイとドスドフスキー……中曽根伝

論文

跳躍の失敗――『貧しき人びと』論……藤倉孝一純

ユートピアと千年王国――ドストエフスキーとベトラシェフスキー事件……一北岡浮

ドストエーフスキイのプーシキソ観――共生の思想を求めて……高橋誠一郎 

二葉亭四迷におけるドストエフスキー――『其面影』・『平凡』をめぐって……木下豊房

報告

札幌・小樽の「ドスドフスキー展」について……安藤厚

文献目録

ドストエフスキイ関係研究文献一1985~1990一 ……本間暁

規約、活動報告、編集後記

長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の成立と作家・椎名麟三との往復書簡

はじめに

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる二・二六事件に遭遇した主人公が、「赤紙」によって召集されるまでの日々を若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出しています。

今年5月に行われた「ドストエーフスキイの会」の例会では、「日本浪曼派」が強い影響力を持っていたこの時代の特徴を、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の1934年に書かれた小林秀雄の『罪と罰』論との関連で明らかにしようとしました。そのためにこの長編小説の重層的な構造に焦点をあてて下記の流れで発表しました*1。

序に代えて 島崎藤村から堀田善衞へ  /Ⅰ、「祝典的な時空」と「日本浪曼派」 /Ⅱ、『若き日の詩人たちの肖像』の構造と題辞という手法 / Ⅲ、二・二六事件の考察と『白夜』/ Ⅳ、アランの翻訳と小林秀雄訳の『地獄の季節』の問題 /Ⅴ、繰り上げ卒業と遺書としての卒業論文――ムィシキンとランボー /Ⅵ、『方丈記』の考察と「日本浪曼派」の克服 /終わりに・「オンブお化け」という用語と予言者ドストエフスキー

ただ、昭和初期の日本の特殊性に迫るために時間的な制約から『若き日の詩人たちの肖像』で描かれた人間関係などに絞って考察することになり、堀田善衞と「日本のドストエフスキー」とも呼ばれた作家の椎名麟三との間で交わされた往復書簡については、まったく触れることが出来ませんでした。

しかし、全集の解説で評論家の本多秋五は、「青春自伝長篇についてのノート」で、『若き日の詩人たちの肖像』について次のように記しています。「第三部に出て来るドストエフスキーの『白痴』に関するくだりや、第四部に出て来る平田篤胤の国学を論じるくだりなどでは、主人公の心境と作者の執筆時現在における思想とを距てる膜が溶解しているように思える。」

作者と同じ時代を生きた本多の言葉を読むと、たしかに長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、単なる昭和初期の回想ばかりではなく、1960年代の日本から見た昭和初期の日本の鋭い分析でもあることが分かります。

しかも、木下豊房氏は椎名麟三が「ドストエフスキーとの出会いとその影響を自ら『ドストエフスキー体験』と称して多くのエッセイで繰り返し語った」と書いています*2。それらのことに留意するならば、1953年に交わされていた往復書簡の意味は極めて重いと思われます*3。

ここでは4通からなる往復書簡と『若き日の詩人たちの肖像』とのかかわりを簡単に検証することにします。

椎名麟三(1953年5月、写真は「ウィキペディア」より)

 

1、椎名麟三の長編小説『邂逅』と堀田の『広場の孤独』

「現代をどう生きるか」と題されたこの往復書簡の第一信で、堀田善衞は、キリスト教の洗礼を受けた後で「自己清算の必要にせまられ、過去の自分と対決するために書かれた」椎名の長編小説『邂逅』についてこう評価をしていました。

「私は御作『邂逅』について、いちばん意義を感じるのは、それが方法的に各人物それぞれの独白の交叉による対話が実現されている点です」。さらに、堀田は「そしてこれら各人の純粋主観としての時間意識は、実は縦にも横にも歴史的な時間意織に浸透されている筈で、この両者の同時成立が、現代の人間のリアリティを保証しているものです」と続けています。

貧しい電気工夫の古里安志を主人公としたこの長編小説では、主人公の父親は工事現場で鉄骨にやられて片足切断に至る重傷を負い死にかけており、朝鮮戦争の緊迫した時期に、共産党員との疑いをかけられて会社を首になりかけた妹のけい子は絶望から自殺を試みるなど「彼等の生活全体が、こわれかかったバラックの感じだった」と評されるような絶望的な状況にあります。

しかし、隣を歩いていた実子に石段から突き落とされた安志は、「暗い星空」を見て、「ユーモアにあふれた神の微笑を感じ」て「思わず笑い出し」、「全くこの石段は危険だ」と感じるのです*4。

彼が実子に怒りをぶつけなかったのは妹・けい子の再就職の手助けをしてくれている実子も深い絶望を抱えていることを知っていたからであり、こうしてどんなに苦しい状況に追い込まれても「微笑」を浮かべながらそれに立ち向かっていく古里安志という人物像は、日本文学における独自な形象だと思えます。

椎名はこの作品に至るまでの歩みについて、「永い酒への耽溺と自己喪失の後に、ドストエフスキーの忠告を唯一の頼りとして、キリストへ自己を賭けた」と「私の文学」という文章で記しています。それはこの作品がドストエフスキーの創作方法、ことに彼が文学に目覚めた『悪霊』におけるキリーロフの描写とも深く関わっていたことを示しているでしょう*5。

往復書簡の第二信で椎名は、朝鮮戦争が勃発した緊迫した時期を背景に、「報道の自由」の問題をとおして新聞記者の主人公の孤独と決断を描き、芥川賞を受賞した『広場の孤独』(1951)に言及しながらこう記しています。

「僕の貴兄に対する共感と尊敬は、この主体的な問題から、この社会へのアンガジュ(引用者注:政治や社会活動に参加すること)を誠実に追及されているということなのです。『広場の孤独』から、広場へのアンガジュを確立されようとしておられることなのです。」 

2、「拷問」についての「不快な記憶」

さらに椎名は「拷問」についての自分の「不快な記憶」についてもこう記します。「あの拷問は、人間にとって許しがたい魔術をもっていました。この世界に於て何が正義であり、何が真実であるかという自分の事実が、しばられた後手を竹刀で強くこじ上げられることによって、簡単にとび超えさせられてしまうのです。」

一方、この手紙を受け取った堀田は、「お手紙を拝見して、私は少し身上話をする必要を感じました。それはあなたの仰言る『不快な記憶に』関することです」と返信で書いています。

『若き日の詩人たちの肖像』でも検挙されて激しい拷問にあった後に転向し、その後で警視庁に職をえていた従兄の話は重要なエピソードをなしていますが、この手紙では従兄の検挙と拷問、そして転向という出来事から受けた激しい衝撃がこう記されているのです。

「私は子供心に深く尊敬していただけに、この経緯にはどうしても納得出来ぬ、今様にいうならば不条理なものを感じ、子供は子供なりに苦しみました。心の硬い大人ならばこういう人を軽蔑することも出来ましょうが、子供の私にはそれは出来ませんでした。いまも私はその人、あるいはそういう人を軽蔑する気持はいささかもありません。」

さらに、自分とキリスト教や音楽、詩との関りについても堀田は具体的に次のように描いていたのです。

「右に述べました事件のあった後、私はキリスト教に凝り(といったらクリスチャンのあなたから叱られるかもしれませんが)、米人宣教師の家でー年ほど暮らしました。が、洗礼はうけませんでした。それから音楽に凝り、耳を悪くして音楽の方は諦め、詩を書き出しました。それが十八歳、あなたが全協で活躍しておいでだった年頃です。(……)十八歳(昭和十一年)で上京して、矢張り政治、あるいは社会的正義、そういうものを遮断した詩を書きつづけました」。

この記述は長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を理解する上でも重要ですが、注目したいのは堀田がここで、「私は私事はなるべくいわないという方針を持っているのですが、この場合仕方がありませんし、出来るだけ簡単にいいます」と記していたことです。

このように見て来るとき、作家の椎名麟三との間で交わされた往復書簡で自分の青春を振り返ったことが、自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を書く大きなきっかけにもなっていた可能性があると思われます。

 一方、この手紙を受け取った椎名麟三は第四信で、「第二の熱情のこもったお手紙を拝見して、現代に生きる困難さを考えずには居られませんでした」と書くとともに、第三信の末尾に記された次のような堀田の言葉に「深い意味を感じました」と記しています。

「私は物の考え方の全的なトータル転換の必要を痛感しているのです。複数のなかの個とか、一とかいう風に自己を分析的に認識するのではなく、複数のなかにありながら同時に複数の要素によって成立ち、しかもなおーとして統一され綜合されている自己、強いて言葉にしてみるなら、そういうようなことになる、そういう自己を見出し築き上げる必要を痛感するのです。」

 そして、「転向者である僕の名誉(!)にかけていいます。あのファッシズムに参加した転向者諸君は、『心で存在を止めた』方々ではなかったのです。彼等は単純にファッシストであったたにすぎないのです」と書いた椎名は、「だから貴兄の転向者に対する絶望は、ファッシズムに対する善意ある抵抗ではなかったのでしょうか」と解釈しているのです。

結語

最期の手紙の末尾近くで椎名は、「元気を出して下さい。貴兄はちゃんと立派な作品を書いておられるではありませんか。そのことによって、ちゃんと『広場』へ参加しておられるではありませんか」と六歳年下の堀田に熱いエールを送っていました。

それは作家としてだけではなくアジア・アフリカ作家会議や「ベトナムに平和を! 市民連合」などの運動にも関わるようになる堀田のその後の活動をも示唆しているでしょう*6。

 こうして、「日本のドストエフスキー」とも呼ばれた作家の椎名麟三との間で交わされた往復書簡は、堀田に「『白痴』のムィシキンとランボー」についての卒業論文を書いていた頃のことも思い出させて、『白夜』の冒頭の文章が題辞として用いているばかりでなく、『罪と罰』や『白痴』、さらに『悪霊』にも言及されている『若き日の詩人たちの肖像』を生み出すきっかけになったと思えます。

 

*1 「堀田善衛のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に」」(→ホームページ ドストエーフスキイの会、第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

*2 木下豊房「椎名麟三とドストエフスキー」『ドストエーフスキイ広場』(第12号、2003年)」(→ホームページ 「椎名麟三とドストエフスキー」(木下豊房ネット論集『ドストエフスキーの世界』)

*3 「現代をどう生きるか――椎名麟三氏との往復書簡」『堀田善衞全集』第14巻、筑摩書房、1975年、72~86頁。

*4 椎名麟三「邂逅」『椎名麟三全集』第4巻、冬樹社、1970年、240頁。

*5 「椎名麟三の『悪霊』理解の深さとその意義――西野常夫氏の論文を読んで」(→ホームページ「『悪霊』におけるキリーロフの形象をめぐって))

*6吉岡忍「堀田善衞が旅したアジア」参照。池澤夏樹他著『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社、2019年)所収。(→ホームページ「『若き日の詩人たちの肖像』の重要性――『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社)を読んで

堀田善衞を読む: 世界を知り抜くための羅針盤 (集英社新書)(書影はアマゾンより)

 

 

映画《白痴》と黒澤映画における「医師」のテーマ――国際ドストエフスキー・シンポジウムでの発表を踏まえて

はじめに 

『白痴』の発表から一五〇周年に当たる二〇一八年にブルガリアのソフィア大学で開催された国際ドストエフスキー・シンポジウムの円卓会議では映画《白痴》が取り上げられました。

ブルガリア、ソフィア大学 (ソフィア大学、出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

それゆえ、私はこのシンポジウムでは黒澤映画《白痴》における治癒者としての亀田(ムィシキン)の形象に注目することで、黒澤映画における医者の形象の深まりとその意義を明らかにしようとしました。

実は、黒澤明監督が映画化した長編小説『白痴』でも、シュネイデル教授をはじめ、有名な外科医ピロゴフ、そしてクリミア戦争の際に医師として活躍した「爺さん将軍」などがしばしば言及されています。ガヴリーラ(香山陸郎)から「いったいあなたは医者だとでもいうのですか?」と問い質されたムィシキン(亀田欽司)も、ロゴージン(赤間伝吉)に対してはナスターシヤ(那須妙子)について「あの人は体も心もひどく病んでいる。とりわけ頭がね。そしてぼくに言わせれば、十分な介護を必要としている」と説明していたのです。

残念ながら、今回の開催が急遽決まったこともあり千葉大学で行われた「国際ドストエフスキー集会」の時ほどは、黒澤映画の研究者が参加しておらず、映画《白痴》以外の作品についてはあまり知られていなかったようでした。

しかし、円卓会議では黒澤明研究会の運営委員・槙田寿文氏の世界各国の黒澤映画のポスターを集めた展覧会と映画『白痴』の失われた十四分)についての発表がブルガリア語への通訳付きで行われた。また、シンポジウムで「ドストエフスキーにおける癒しの人間学序節――ムィシュキン公爵のイデー・フィクスを軸に」(『ドストエーフスキイ広場』第28号参照)を発表された清水孝純氏の映画《白痴》論の発表も行われ、国際的な場で黒澤映画の意義を広めることができたのは有意義だったと感じています。

発表時間が短くて言及できなかった個所を補いながらシンポジウムと「円卓会議」で行った二つの発表をまとめた論考が、『会誌』41号に掲載されました。以下に、「はじめに」と「国際ドストエフスキー・シンポジウム」についてふれた第一節を省いた形で『会誌』に掲載された論考に一部加筆して転載します。

1,映画《白痴》の意義――『罪と罰』と『白痴』の受容をとおして

ドストエフスキーは長編小説『白痴』の構想について一八六八年一月一日の手紙で「この長編の主要な意図は本当に美しい人間を描くことです」と記していました。

若い頃からドストエフスキーの作品に親しんでいた黒澤明監督はそのような作者の意図を踏まえて第二次世界大戦の終了から数年後の一九五一年に映画《白痴》を公開して、場所と時代、登場人物を変更しながらも、二つの家族の関係と女主人公の苦悩などを主人公の視線をとおして『白痴』の世界を正確に描き出していました。

観客の入りを重視した会社側から大幅な削除を命じられて、作品は二時間四六分に短縮されたために映画《白痴》は、興行的には失敗して多くの日本の評論家からも「失敗作」と見なされました。

しかし、インタビューで黒澤明は次のように語っていました。「この作品は外国ではとても評判がよくて、特にソビエトではとても気に入られているのです。毎年何回か上映するのですが、それでもまだ見たい人があまりにも多くて、まだ見られないという人か随分いるのです」(『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、三四三頁)。

では、日本と東欧圏におけるこのような映画《白痴》の評価の違いはどこにあるのでしょうか。私は黒澤映画《白痴》が文芸評論家・小林秀雄の『罪と罰』や『白痴』の解釈を根底から覆すような解釈を示したのに対し、ドストエフスキー論の権威とされていた小林がこの映画を完全に無視したことが一因だと考えています。

それゆえ、ここでは近著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)にも言及しながら、日本における『罪と罰』の受容までの流れをまず確認します。その後で、小林秀雄と黒澤明とのドストエフスキー解釈をめぐる「静かなる決闘」をとおして黒澤における『白痴』のテーマの深化を考察します。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社

日本では徳川時代に厳しく弾圧されていたキリスト教が解禁になったのは、ようやく一八七三年のことでした。しかし、日本が開国に踏み切ってからはキリスト教にたいする青年層の知識と理解は増え続けていました。

日本で憲法が発布された一八八九年に、長編小説『罪と罰』を英訳で読んで、殺人の罪を犯した主人公が、「だんだん良心を責められて自首するに到る」筋から強い感銘を受けた内田魯庵は、二葉亭四迷の力も借りて長編小説を訳出したのです。

残念ながら、売れ行きが思わしくなかったこともあり魯庵はこの長編小説の前半部分を訳したのみで終わりましたが、この翻訳から強い衝撃を受けたのが、「『罪と罰』の殺人罪」を著わした北村透谷でした。ここで彼は、「『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるようの事なかるべし」と書いて、勧善懲悪的な『罪と罰』論を厳しく批判するとともに、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」の危険性を鋭く指摘していました。

一方、『文学界』の同人でもあった親友の島崎藤村は、『罪と罰』の筋や人物体系を詳しく研究して日露戦争後に長編小説『破戒』を自費出版しました。注目したいのは藤村が、「教育勅語」の「忠孝」の理念を説く校長や教員、議員たちの言動をとおして、現在の一部与党系議員や評論家によるヘイトスピーチに近いような用語による差別が広まっていたことを具体的に描いていたことです。

さらに日本の『罪と罰』論ではあまり重視されていない「良心」の問題も、「世に従う」父親の価値観と師・猪子との価値観との間で苦しむ丑松の心の葛藤をとおしてきちんと描かれていることです。

このような透谷や藤村の「良心」理解の深さには、かれらが一時は洗礼を受けていたこともかかわっていると思われます。なぜならば、キリスト教会でも「免罪符」を乱発するなどの腐敗が目立つようになってきた際にも、神の代理人としての地位が与えられていた教皇を正面から批判することは許されませんでしたが、権力者が不正を行っている場合にはそれを正すことのできる〈内的法廷〉としての重要な役割が「知」の働きを持つ「良心」に与えられたのです。帝政ロシアにおいても皇帝が絶対的な権力を持っていましたので、それに対抗できるような「良心」の働きが重要視されたのですが、その一方で革命が近づくと「良心」の過激な解釈もなされるようになったのです。

自らをナポレオンのような「非凡人」であると考えて、「悪人」と規定した「高利貸しの老婆」の殺害を正当化した主人公を描いた長編小説『罪と罰』でも、「良心に照らして流血を認める」ということが可能かという問題がラスコーリニコフと司法取調官ポルフィーリイとの間で論じられています。そして、それは主人公の心理や夢の描写をとおして詳しく検証されており、エピローグに記されているラスコーリニコフの「人類滅亡の悪夢」には、こうした精緻で注意深い考察の結論が象徴的に示されているのです。

明治初期の独裁的な藩閥政府との長い戦いを経て「憲法」を獲得した時代を体験していた内田魯庵や北村透谷、そして島崎藤村たちも、権力者からの自立や言論の自由などを保証し、個人の行動をも決定する「良心」の重要性を深く認識していたといえるでしょう。

なお、『破戒』は一九三〇年にロシア語訳が出版されましたが、黒澤映画《天国と地獄》が公開される前年の一九六二年には、市川崑監督の映画《破戒》が、市川雷蔵が主役の瀬川丑松を、彼の師・猪子蓮太郎を三國連太郎、学友の土屋銀之助を長門裕之、風間志保を藤村志保が演じるという豪華なキャストで公開されました。

破戒

(映画《破戒》、1962年、角川映画。脚本:和田夏十。図版は紀伊國屋書店のサイトより)

黒澤映画との関連で注意を払いたいのは、『罪と罰』のあとで『虐げられた人々』の訳を行い、後にはトルストイの『復活』も邦訳した内田魯庵が、できれば『白痴』も訳したいとの願いも記していたことです。

戦時中の一九四三年に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》ですでに『虐げられた人々』のネリー像を踏まえて脚本(ペンネームは「黒川慎」)を書いていた黒澤明が、一九六五年の映画《赤ひげ》でネリー像を掘り下げていることを考えるならば、一九五一年に映画《白痴》を公開した黒澤明のドストエフスキー理解は島崎藤村などの流れに連なっているといえるでしょう。

一方、文芸評論家の小林秀雄は「天皇機関説」事件で日本の「立憲主義」が崩壊する前年の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」と解釈していました。

 さらに、主人公ラスコーリニコフの「良心の呵責」を否定した小林秀雄は、「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という大胆な解釈を示したのです。

こうして、ムィシキンを「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったラスコーリニコフと結びつけた小林は、ナスターシヤをも「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定し、『白痴』の結末の異常性を強調して「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していました。

「殺すなかれ」と語るムィシキンを否定的に解釈したこのような小林秀雄の『白痴』論は、戦争を拡大していた軍部の方針に「忖度」したものだったといえるでしょう。しかし、戦後も自分のドストエフスキー観を大きく変更することはなかった小林秀雄は、その後「評論の神様」として称賛されるようになるのです。

そして、このような小林の解釈を受け入れた亀山郁夫氏も二〇〇四年に出版した『ドストエフスキー ――父殺しの文学』(NHK出版)で、貴族トーツキーによる性的な犯罪の被害者だったナスターシヤがマゾヒストだった可能性があるとし、ムィシキンをロゴージンにナスターシヤの殺害を「使嗾(しそう)」した「悪魔」であると解釈しました。

黒澤もインタビューでは小林にも言及しながら、ナスターシヤ殺害後のこの暗い場面にも言及しています。しかし、映画《白痴》のラストシーンで黒澤は、綾子(アグラーヤ)に「白痴だったのは私たちだわ」と語らせていたのです。

『白痴』では一晩をムィシキンと語りあかしたロゴージンが、裁判ではきわめて率直に罪を認めて刑に服したと記されていることに留意するならば、ドストエフスキーはラスコーリニコフと同様にロゴージンにも「復活」の可能性を見ていたといえるでしょう。つまり、黒澤明は小林秀雄的な『白痴』観を映画《白痴》で映像をとおして痛烈に批判していたのです。

2、映画《白痴》と黒澤映画における「医師」のテーマ

映画《白痴》の前にも黒澤明は小林秀雄のドストエフスキー観を暗に批判するような映画を戦後に相次いで発表していました。

たとえば、終戦直後の一九四六年に黒澤は一九三五年の「天皇機関説事件」の前触れとなった滝川事件を背景にした《わが青春に悔なし》を公開して女性の自立を映像化していました。この滝川事件は、農奴の娘だったカチューシャと関係を持ちながら捨てても、「良心の痛み」も感じなかった貴族ネフリュードフの精神的な甦生を描いた長編小説トルストイの『復活』をとおして、法律の重要性を指摘していた滝沢教授の言説が咎められていたのです。

わが青春に悔なし No Regrets for Our Youth 1946 Opening Kurosawa …

この意味で注目したいのは、『破戒』と『罪と罰』との類似性に言及していた評論家の木村毅がこう書いていたことです。「トルストイは、ドストイエフスキーを最高に評価し、殊に『罪と罰』を感歎して措かなかった。したがってその『復活』は、藤村の『破戒』ほど露骨でないが、『罪と罰』の影響を受けたこと掩い難く、(中略)魯庵が『罪と罰』についで、『復活』の訳に心血を注いだのは、ひとつの系統を追うたものと云える」(『明治翻訳文学集』「解説」)。

実際、日露戦争の時期に『復活』の翻訳を連載した内田魯庵は、この長編小説の意義を次のように記していました。「社会の暗黒裡に潜める罪悪を解剖すると同時に不完全なる社会組織、強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」。

「円卓会議」では黒澤監督がインタビューで言及していた映画《白痴》のシーンだけでなく、《酔いどれ天使》(一九四八)、《静かなる決闘》(一九四九)、《赤ひげ》(一九六五)など医師が非常に重要な役割を演じている映画と、私が『白痴』三部作とも考えている映画《醜聞》(一九五〇)と《生きる》(一九五二)などの六作品から重要な場面を、松澤朝夫・元会員の技術援助と堀伸雄会員の協力で約一一分に編集したものを解説しながら上映しました。

ここではそれらのシーンを簡単な説明を補いながら紹介したいと思いますが、その前に黒澤が盟友・木下恵介監督のために書いた脚本による映画《肖像》(一九四八)の内容を簡単に見ておくことにします。なぜならば、『白痴』ではムィシキンの観察力や絵画論が強調されていましたが、この映画の老年の画家はムィシキンを想起させるばかりでなく、肖像画のモデルのミドリ(悪徳不動産屋の愛人)もナスターシヤを思い起こさせるからです。

たとえば、映画《白痴》で亀田(ムィシキン)は、写真館に掲示されている那須妙子(ナスターシヤ)の写真をみつめて、「綺麗ですねえ」と同意しながらも、「……しかし、何だかこの顔を見ていると胸が痛くなる」と続けていました。肖像画を描こうとした老画家も「でも、どうして、私なんか」と尋ねられると、「なんて言いますかな……不思議なかげがあるんですよ、あなたの顔には」と説明しているのです。

 しかも、あばずれを装っていたミドリは画家の義理の娘・久美子から「いいえ……どんな不幸が今のような境遇に貴女を追い込んだのか知らないけれど……本当は……貴女はやっぱり、お父さんが描いたような貴女に違いないんです」と説得されます。

「肖像  木下恵介 アマゾン」の画像検索結果

(黒澤明 DVDコレクション 32号『肖像』 [分冊百科] |、書影は「アマゾン」)

 その台詞もムィシキンがナスターシヤに「あなたは苦しんだあげくに、ひどい地獄から清いままで出てきたのです」と語った言葉を思い起こさせ、ミドリは結末近くで「死んだつもりで、出直して見るんだわ」と同じ稼業だった芳子に自立への決意を語ったのでした。

 こうして黒澤は老画家の肖像画をとおして、真実を見抜く観察眼の必要性と辛くても「事実」を見る勇気が、状況を変える唯一の方法であることをこの脚本で強調していたのであり、それは映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像に直結しているのです。

 同じ年に公開された映画《酔いどれ天使》からは怪我をして駆け込んできたやくざの松永(三船)を医師の真田(志村喬)が治療する冒頭の「診察室」のシーンと、汚物の山やメタンの泡や捨てられた人形が浮いている湿地のほとりに佇む松永が真田から「そいつらときれいさっぱり手を切らねえ限り、お前はダメだな」と説得されたあとで松永が見る悪夢のシーンを紹介しました。

Yoidore tenshi poster.jpg(ポスターの図版は「ウィキペディア」より)

ここで松永は海辺の棺を斧で割ると棺の中に死んだ自分が横たわっているのを見て驚いて逃げ出すのですが、このシーンは松永の最期を予告しているばかりでなく、復員兵の亀田が北海道に向かう船の三等室で夜中に悲鳴をあげ、戦犯として死刑の宣告を受け、銃殺される場面を夢に見たと赤間に説明する場面にもつながっていると思えます。

「憲法」のない帝政ロシアで農奴解放や言論の自由、そして裁判の改革などを求めていたドストエフスキーは、ペトラシェフスキー事件で逮捕され、偽りの死刑宣告を受け、死刑の執行寸前に「皇帝による恩赦」により生命を救われるという体験をしていました。長編小説『白痴』でもムィシキンはギロチンによる死刑を批判しながら、「『殺すなかれ』と教えられているのに、人間が人を殺したからといって、その人間を殺すべきでしょうか? 」と問いかけ、「ぼくがあれを見たのはもう一月も前なのに、いまでも目の前のことのように思い起こされるのです。五回ほど夢にもでてきましたよ」と語っていました。

それゆえ、若きドストエフスキー自身の体験をも重ね合わせた亀田という人物設定は、ドストエフスキーの研究者たちには見事な表現と受け取られたのです。

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(松竹製作・配給、1951年、図版は「ウィキペディア」より)。

一九四九年の映画《静かなる決闘》からは、主人公の医師・藤崎(三船敏郎)が、軍医として南方の戦場で豪雨の中のテントで手術を行う主人公の首筋の汗を衛生兵が拭くシーンから、手袋を取り素手で手術をして指先に傷をつけてしまう場面までを紹介しました。

最初は『罪なき罰』と題されていたこの映画では、この際に悪性の病気をうつされた医師の苦悩を「良心」という言葉を用いて描写しつつ、それでも貧しい人々の治療に献身的にあたっている姿を描いていました。ことに、婚約者に「自分は結婚できない」と告げた主人公のセリフからは、黒澤監督のムィシキン観が強く感じられるのです。

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(《静かなる決闘》のポスター、図版は「ウィキペディア」より)

映画《生きる》からは、余命わずかなことを知った主人公が「メフィストフェレス」と名乗る人物とともに歓楽街を彷徨する場面と、映画《白痴》上映の前にソフィア大学の学生への短い挨拶の際に劇《その前夜》との関連でふれた「ゴンドラの唄」を歌うシーンを流しました。

ことに最初のシーンは余命わずかなことを知り絶望に陥ったイッポリートをめぐる長編小説『白痴』のエピソードが上手に組み込まれていると思われるからです。

生きる(プレビュー) – YouTube

メインテーマの映画《白痴》からは、冒頭の夜の連絡船の場面と、有名な写真館の前での妙子の写真を見つめる亀田に赤間が「どうしたんだ、おめえ涙なんか流して」から「やさしい気持ちになりやがる」と「香山家」で妙子に対して赤間の「じゃあ、百万だ」と競り値を上げる場面から、黒澤明がインタビューでも語っている亀田の「あなたはそんな人ではない」と言われて、性悪女のようなことばかりしていたナスターシヤが、「本当に図星を指されたからにやっと」する場面を紹介しました。

映画《白痴》ラストシーンについてはこの稿の最期に映画《醜聞》(一九五〇)との関連で考察することにしますが、このあとも黒澤明が『白痴』の考察をしていたことは一九六五年の映画《赤ひげ》で明らかでしょう。

すなわち、高熱を出しながらも必死に床の雑巾(ぞうきん)がけをしていた少女おとよを力ずくで養生所に引き取った赤ひげの「この子は体も病んでいるが、心はもっと病んでいる。火傷のようにただれているんだ」というセリフは、『白痴』のナスターシヤについての考察とも深く結びついていると思われます。

safe_image(図像は、facebookより引用)

終わりに

映画《醜聞》ではゴシップ雑誌『アムール』に写真入りで、スキャンダル記事を書かれて裁判に訴えた若い山岳画家の青江(三船敏郎)と有名な声楽家の美也子(山口淑子)が、弁護士の蛭田から裏切られために厳しい状況に追い込まれていく経緯が描かれています。

この内容は一見、『白痴』とは無縁のように見えますが、実は『白痴』でも彼が相続した遺産をめぐってムィシキンに対する中傷記事が書かれ、その裏では弁護士の資格を得ていたレーベジェフが暗躍するという出来事も描かれているのです。しかも、そこでドストエフスキーはレーベジェフを一方的に悪く描くのではなく、産後の肥立ちが悪くて亡くなった母親の赤ん坊をいつも胸に抱いていると描かれている彼の娘ヴェーラ(名前の意味は「信」)がムィシキンのことを真摯に面倒をみる姿も記述していました。

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(映画《醜聞(スキャンダル)》の「ポスター」、図版は「ウィキペディア」による)

実際、小林秀雄はアグラーヤ(綾子)の花婿候補だったラドームスキーをムィシキンの厳しい批判者として解釈していましたが、悲劇の後で彼は変わってムィシキンの病気を回復させようと奔走しただけでなく、ヴェーラとの文通を重ねており。将来二人が結婚する可能性も示唆されていたのです。

映画《醜聞》でも卑劣な弁護士・蛭田の裏切り行為だけでなく、父親が依頼者の青江たちへの背信行為をしているのではないかと心配する娘・正子も描かれていました。この映画からは、重い病気で寝たきりの正子を慰めるためのクリスマス・ツリーが飾られ、オルガンを弾く青江と「聖夜」を歌っている美也子を見ながら、銀紙の冠を頭に載せた正子が幸せそうに笑っている姿を、帰宅した蛭田が障子のガラスごしに覗くというシーンを紹介しました。娘の純真な笑顔を見た弁護士の蛭田は激しく後悔し、娘の死後に行われた最後の公判で自分が被告から賄賂を受け取っていたことを告白したのです。

映画《白痴》では舞台を日本に移したことで、ムィシキンが語るマリーや驢馬のエピソードなど『新約聖書』の逸話が削られていましたが、映画《醜聞》ではクリスマスの「樅の木」や「清しこの夜」の合唱などキリスト教的な雰囲気も伝えられていました。こうして、黒澤明は蛭田の娘・正子の形象をとおしてヴェーラの見事な映像化を果たしているといっても過言ではないように思えます。

さらにイッポリートが、「公爵、あれは本当のことですか、あなたがあるとき、世界を救うのは『美』だと言ったというのは?」と質問していたことも思い起こすならば、黒澤明が映画《肖像》の脚本だけでなく、この映画で山岳画家を主人公として描いているのは、「本当の美」を示す必要性を感じていたためでしょう。

一方、映画《白痴》は綾子(アグラーヤ)が、「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……私……私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語るシーンで終わっています。

長編小説『白痴』ではアグラーヤが亡命伯爵を名乗るポーランド人と駆け落ちしたと描かれているので、そこだけを見ればこのシーンは明らかに原作とは異っています。しかし、原作の数多くの登場人物の複雑な人間関係をより分かりやすくするために、映画《白痴》では軽部がレーベジェフだけでなく高利貸しのプチーツィンをも兼ねた形で描かれるなどの工夫がされていました。

 そのことに留意するならば、このエピローグで描かれている綾子のセリフはアグラーヤだけでなく、映画《白痴》では省略されていたヴェーラの思いも兼ねていると言えるでしょう。しかし、ラドームスキーをムィシキンの単なる批判者と解釈していた小林秀雄には、黒澤映画の深みは理解できなかったのだと思えます。

「殺すなかれ」と語ったイエスは十字架に磔にされて死にましたが、キリスト教社会でイエスは無力で無残に亡くなった者としてではなく、「本当に美しい」人間としてその「記憶」は長く語り継がれたのです。ドストエフスキーも『白痴』においてムィシキンを「記憶」に長く残る「本当に美しい」人間として描いていたのです。

映画《夢》では、ゴッホとの出会いだけでなく、福島第一原子力発電所の大事故を予告するような「赤富士」のシーンも描かれていることに注目するならば、黒澤監督はムィシキン的な形象を、単に病んだ人間を治癒する者としてだけではなく、病んだ世界を治癒しようとした者と捉えていたといえるかもしれません。

黒澤明が日本においては大胆と思える解釈をなしえたのは、彼が学問的な権威には従属しない映画という表現方法によったことも大きいと思われます。

まもなくドストエフスキーの生誕200周年を迎えるにあたって、ドストエフスキー作品の黒澤明的な解釈が日本でも深まることを願っています。

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黒澤監督没後二〇周年と映画《白痴》の円卓会議

映画《白痴》と『椿姫』――ソフィア大学での挨拶

『黒澤明で「白痴」を読み解く』の紹介(ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトより)

『悪霊』におけるキリーロフの形象をめぐって――太田香子氏の発表と西野常夫氏の論文

昨日、「ドストエーフスキイの会」の253回例会(報告者:太田香子氏)が行われました*1。司会者の熊谷のぶよし氏がメールで書いているように、「和室でやるのにちょうどいいぐらいの人数が集まって、充実した発表に対して、さまざまな意見が」出たよい例会でした。

実際、「『悪霊』の終盤で描かれているステパンの臨終の場面での彼の信仰告白の言葉」を「スタヴローギンの告白」とも比較しながら、人物の体系にも注意を払いながらテキストをきちんと読み込んだ発表は説得力に富むものでした。この発表については近く「傍聴記」が公表され、次号の『ドストエーフスキイ広場』には論文が掲載される予定です。

私にとってはキリーロフについての言及もたいへん興味深く、西野常夫氏の論文「椎名麟三『小さな種族』と『永遠なる序章』におけるキリーロフ的人物像」の記述を思い起こしました*2。なぜならば、今年の5月に堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』についての発表をしました*3。その時は言及する時間的な余裕はありませんでしたが、そこで描かれている唐突な感じのキリーロフ論も椎名麟三の作品と深く関わっていると思われるからです。

今回の発表とは直接的な関係が無いので触れませんでしたが、2012年7月21日に行われた合評会での配布資料では椎名麟三のキリーロフ論こユニークさに触れていました。帰宅して調べて見るとホームページにもこの合評会の配布資料を掲載していなかったことが分かりました。

合評会での簡単な感想ですが、堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』におけるドストエフスキー作品の重要性を理解する上でも重要な考察でしたので、以下にアップします。

*   *

椎名麟三の『悪霊』理解の深さとその意義――西野常夫氏の論文を読んで

はじめに

 私が論評することになったのは、九州大学の研究者・西野常夫氏の「椎名麟三『小さな種族』と『永遠なる序章』におけるキリーロフ的人物像」という題名の論文です。

 木下豊房氏は椎名麟三論で「日本のドストエフスキー」と呼ばれた椎名が、「ドストエフスキーとの出会いとその影響を自ら『ドストエフスキー体験』と称して多くのエッセイで繰り返し語った」と書いていました*4。

 しかも、椎名は日本での上演のためにカミュの脚本をかなり短くした台本を書いていますが、2009年に出版されたアンジェイ・ワイダの訳書『映画と祖国と人生と‥・』(久山宏一、西野常夫、渡辺克義訳、凱風社)では、ほぼ同じ時期に上演されたカミュの台本による『悪霊』の上演についての記述があります。

 これらのことを視野にいれることにより、椎名麟三の二つの作品を比較してキリーロフ的人物像の深まりを明らかにしようとしたこの論文の意味に迫りたいと思います。

1,『死の家の記録』から『悪霊』への視野

 西野氏は独立運動に参加したために逮捕されて「鞭打ち刑二千回とシベリアでの強制労働が科せられ、1949年10月にオムスクの監獄送り」となったトカジェフスキが『監獄の七年』においてドストエフスキーについて、「自由と進歩のために囚われ人となったこの男が、すべての民族はロシアの支配下にはいる時こそ幸福になるのだと自説を開陳するのを聞くのは辛いことであった。彼は、ウクライナ、…中略…リトアニア、ポーランドなどが被占領国であるとは決して認めず、これらの土地はすべてもともとロシアのものなのだと主張」したことや、「世界で真に偉大な民族はすばらしい使命をおびたロシア民族だけ」と強調したと書いていることを指摘している*5。ここでまず注目しておきたいのは、このような理念が『悪霊』においてピョートルの手段を批判したために殺されたシャートフを想起させることである。

 一方、今回の論文では、昭和16年に脱稿されたものの未発表だった短編「小さな種族」では、「須巻」という主人公がキリーロフを彷彿とさせる人物であることを指摘した西野氏は、椎名が「数え年二十八のとき」に『悪霊』を読んで、「小説なるものの真実の意味」を知ったと書いていることを確認している*6。

 一方、木下氏はこのときに椎名がどのような状況であったかにも言及している。すなわち、椎名は「牢獄の経験はわずか二年たらずにすぎない。だが、この二年たらずの間に、私は精神的な危機というものを体験したのである」と書き、さらに「わが心の自叙伝」では、その理由について「一言で言えば、私の精神的土台の崩壊を見たといっていいだろう。一つは拷問のときの自己の無意味感である。何度か引き出されて拷問されたとき、今度は死ぬだろうと感じたとき、ふいに自分の一切が無意味に感じられたのである」と書いているのである。

 この椎名の言葉は『死の家の記録』の「病院」の章に記されている「いつもカトリック教の聖書を読んでいた」、「やせて背丈の高い、おどろくほど端正で、威厳さえある顔だちをした、もう六十近い老人」についての次のような文章を思い起こさせる。すなわち、その老人は、「いかにも心が美しく正直そうな目をしていた」が、その後「彼が何かの事件に関連して取調べを受けているという噂」を聞いてから、二年ほど後に再び彼と会った時には、「狂人として」、「わめきちらし、高笑いしながら病室へ入って」きたのである*7。

 人神論を考案して自殺したキリーロフにも要塞監獄でのドストエフスキー自身の苦悩が深く反映していると思われるが、「小さな種族」や「永遠なる序章」などの作品における椎名麟三の主人公たちにも、そのような極限的な苦悩を経験した者の刻印が深く刻まれているといえよう。

二、「小さな種族」から「永遠なる序章」へ ――キリーロフ的人物像の深まり

 短編「小さな種族」の「表層的なストーリーの次元」では、「のろまでお人好しの24歳の青年」須巻と、元同僚でニヒリストの来島、そして下宿屋の女主人で「整った美人型」の未亡人・三保子との三角関係が描かれているが、この短編では須巻と三保子との間で次のような会話が描かれている*8。

 「須巻はひどく度を失つて吃りながら云つた。『僕は、僕はただ、稲の葉の上を風が渡つて行きますね、ざわざわ揺れて日の匂さえしますね。いゝと思つたのです』/ 『それはどういふ意味なの?』三保子はいらだゝしげに呟いた。

 『それだけなんです、意味なんかないのです』」。

 この会話に注目した西野氏は、『悪霊』でもキリーロフとスタヴローギンとの会話が次のように描かれていることを指摘して、「小さな種族」の須巻は「キリーロフの世界観を念頭に置いて形成されたと考えて間違い無いであろう」と書いている。

 「『ぼくは十ばかりの頃、冬わざと耳をふさいで、葉脈の青々とくっきりとした木の葉を想像してみた。陽がきらきら照っているんです。それから目をあけて見たとき、なんだか本当にならないようでした。だって実にいいんですものね(後略)』

 『それはなんです、比喩ででもあるんですか?』

 『い……いや、なぜ? 比喩なんか。…中略…木の葉はいいもんです。何もかもいいです』」。

 一方、昭和23年に書かれた「永遠なる序章」では、「死への志向とニヒリズムを共有する点で、精神的同類であった」、「日本のスタヴローギン」ともいえる医者の銀次郎と、「余命いくばくもない」患者の安太との生き方を描いている。

 ここで主人公の安太は「生の喜びを知った後に、ほどなくして死んでしまう」が、西野氏は、「『五秒間に一つの生を生きるのだ。そのためには、一生を投げ出しても惜しくない。それだけの価値があるんだからね!』とキリーロフが言ったように、生の喜びを発見した安太は『明日は確実に自分にとって虚無であるにかかわらず、明日への激情』を体に感じ」たと描かれていることを確認している*9。

 それゆえ、西野氏は「安太にとって、ニヒリスト銀次郎の超克と生の賛美への到達が連動しているという構造は、『小さな人種』には欠けていた人物間の有機的関係を補充したものだと考えることができるのである」と結んでいる。

 この意味で注目したいのは、木下氏が「椎名によるドストエフスキー受容の最深地点」として、キリーロフがスタヴローギンに向かって、「すべてがよい」といい、後者が「少女を凌辱してもいいのか」と問い詰めると、キリーロフは「もちろんそうしてもいい。人間はすべていいからだ。しかしもし、それを悟ったら、娘っ子を辱めたりしないだろう」というくだりを挙げていることである。

 そして、椎名が「すべてはいい」ということと、「そうしないだろう」ということの間にある「矛盾」に椎名はある種の啓示を受けていることを指摘した木下氏は、「ここを読むたびに感動し、この矛盾した言葉の背後から、何かしら新鮮な自由をかんじさせる光が感じられてくるのであった」という椎名の言葉を紹介している。そして、その自由の光が「この矛盾の両項を成立させているイエス・キリストからやってきたものだ」と分かったと続けていることを紹介して、ここに「人間の全的な自由の宣言」とともに、そこから「個人的な自由として道徳を守る」という理想を、椎名は読みとっていると指摘している。

 たしかに、このような椎名の『悪霊』理解には、「白い手」の甘やかされた貴族の息子スタヴローギンのみを主人公として読み解くような昨今の読みを超える深さが感じられる。

 現在では言及されることの少ない二つの作品を比較することで椎名のキリーロフ理解の深まりを明らかにした西野氏の論文は一見地味だが、そこには明らかにワイダの映画『悪霊』も視野に入っており、『悪霊』論の本質的な意義にも迫っていると思える。

 

*1 太田香子「ステパンの信仰告白から読み解く『悪霊』」、高橋誠一郎ホームページ、http://www.stakaha.com/?p=8777 参照。

*2 西野常夫「椎名麟三『小さな種族』と『永遠なる序章』におけるキリーロフ的人物像」『ドストエーフスキイ広場』(第21号、2012年)。

*3 高橋誠一郎「堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に」高橋誠一郎ホームページ、http://www.stakaha.com/?p=8513、参照。

*4 木下豊房「椎名麟三とドストエフスキー」『ドストエーフスキイ広場』(第12号、2003年)→「椎名麟三とドストエフスキー」(木下豊房ネット論集『ドストエフスキーの世界』)

*5 西野常夫「トカジェフスキの見たドストエフスキイ・『死の家』における二人の革命家の出会い」『ドストエーフスキイ広場』(第9号、2000年)

*6 椎名麟三「ドストエフスキーと私」『全集』冬樹社、第16巻、10頁。

*7 高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、120頁。

*8 椎名麟三『全集』冬樹社、第22巻、356~7頁。

*9 椎名麟三『全集』冬樹社、第1巻、425頁。

  (掲載に際しては一部改訂し、本文中の説明は注に移動した)

 

混迷の時代と新しい価値観の模索―『罪と罰』の再考察

 もうすぐ「ロシア文学研究」の授業が始まります。

昨年度の講義では国際シンポジウムのテーマともなった『白痴』を中心的に考察しました。西欧文学からの影響も強く見られる作品なので難しいかと思われましたが、思いがけず好評でした。

残念ながら、日本では『白痴』の主人公の一人であるナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定した文芸評論家・小林秀雄の『白痴』解釈がいまだに強い影響力を保っています。

しかし、ロシアもまたキリスト教国であり、西欧の文学から強い影響を受けたドストエフスキーはこの作品でも『ドン・キホーテ』や『椿姫』などに言及しています。それらの作品や『レ・ミゼラブル』との関連をとおしてこの作品を分析するとき、浮かび上がってくるのはパワハラや「噂」などで苦しめられた女性の姿なのです。

それゆえ講義では。黒澤映画《白痴》なども紹介することで、小林秀雄が「悪魔に魂を売り渡して了つた」と批判した主人公のムィシキンは、「殺すなかれ」というイエスの理念を伝えようとしていた若者だったことを明らかにしました。

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     *   *

それゆえ、今年も同じく『白痴』を扱おうかとも考えましたが、結局、『白痴』をも視野に入れながら『罪と罰』を中心に考察することにしました。1866年に「憲法」のないロシア帝国で発表された『罪と罰』で描かれている個人や社会の状況は、現代の日本を先取りするように鋭く深いものがあるからです。

たとえば、ドストエフスキーは1862年に訪れたロンドンでは、ロシアの農奴よりもひどいと思われる労働者の生活や発生していた環境汚染を目撃していました。それらの状況は『罪と罰』における大都市サンクトペテルブルグの描写にも反映されているのです。

合法的に行われていた高利貸しの問題が殺人の原因になっていることはよく知られていますが、この長編小説では悪徳弁護士のルージンが述べる現在のトリクルダウン理論に近い考えも、登場人物の議論をとおして厳しく批判されています。

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そして、ドストエフスキーは『罪と罰』の主人公にナポレオン三世が記したのと同じような「非凡人の理論」を語らせていますが、社会ダーウィニズムを理論的な根拠にした「弱肉強食の思想」と「超人思想」などはすでに当時の西欧社会を席巻しており、後にヒトラーはこの考えを拡大して「非凡民族の理論」を唱えることになるのです。

こうして、19世紀に書かれた『罪と罰』は、時代を先取りし、現代につながるような思想的な問題をも都市の描写や主人公と他者との対話、さらに主人公の夢などをとおして描き出していたのです。

→ モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に

   *    *

私が『罪と罰』と出会った当時はベトナム戦争が続いて価値が混迷し、日本では反戦を訴えていた過激派が互いに激しい内ゲバを繰り返して死者も出るようになっていました。その一方で激しい言論弾圧も行われていた隣国の韓国では、朝鮮戦争時の日本と同じように、ベトナム戦争による戦争特需が生まれていたのです。

残念ながら最初に『罪と罰』と出会った頃の現在の日本は軍事政権下の韓国の状況に似て来たように見えます。地球の温暖化や乱立する原発などが状況をより難しくしています。

しかし、ドストエフスキーはロシア帝国だけでなく、おおくの西欧初校も抱えていた多くの矛盾を長編小説という方法で考察し、その矛盾に満ちた世界を改善しようとしていました。

→ 三浦春馬が“正義”のために殺人を犯す青年を熱演!
舞台「罪と罰 …プレビュー 2:44

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また、プーシキンやトルストイの作品などを学ぶことはロシアの歴史や社会を知ることになります。一方、ロシア文学の受容を考察することは、日本の歴史や社会をより深く知ることにもつながります。

ここでは初めての邦訳者・内田魯庵や批評家・北村透谷、そして『罪と罰』を深く研究することで長編小説『破戒』を書き上げた島崎藤村など明治の文学者たちの視点で『罪と罰』を読み解くことにより、差別や法制度の問題にも迫ります。

そして、「平民主義者」から「帝国主義者」へと変貌した徳富蘇峰の「教育勅語」観や「英雄史観」にも注目しながら、「立憲主義」が崩壊する一年前に小林秀雄が書いた『罪と罰』の特徴を分析することで、現代にも通じるその危険性を明らかにすることができるでしょう。

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講義概要

この講義では近代日本文学の成立に大きな役割を果たしたロシア文学をドストエフスキーの『罪と罰』を中心に、ロシア文学の父と呼ばれるプーシキンの作品やトルストイの『戦争と平和』などを世界文学も視野に入れながら映像資料も用いて考察する。

  具体的には比較文学的な手法によりシェイクスピアの戯曲やゲーテの『若きヴェルテルの悩み』、ディケンズの『クリスマス・キャロル』、そしてユゴーの『レ・ミゼラブル』と『罪と罰』との深い関わりを明らかにする。そのうえで『罪と罰』の筋や人物体系の研究の上に成立している島崎藤村の長編小説『破戒』などを具体的に分析することで、近代日本文学の成立とロシア文学との深い関わりを示す。

 さらに、ドストエフスキーとほぼ同時代を生きた福沢諭吉の「桃太郎盗人論」や芥川龍之介の短編「桃太郎」と『罪と罰』の主人公の「非凡人の理論」を比較し、手塚治虫や黒澤明、さらに宮崎駿の作品とのかかわりを考察することで、『罪と罰』の現代的な意義を明らかにする。 (ロシア語の知識は必要としない)。

「ロシア文学研究」のページ構成と授業概要

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

 

 

俳優・中村敦夫氏のライフワーク、朗読劇「線量計が鳴る」の上演スケジュールと劇評、本の紹介

お問い合わせがありましたので再掲します。

下記の「中村敦夫 公式サイト」には最新の上演スケジュールが掲載されています。ご確認下さい。

中村敦夫 公式サイト(上演スケジュール)

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 劇評は下記のページに記しました。

元・原発技術者と木枯し紋次郎――朗読劇「線量計が鳴る」を観る

中村敦夫、公演2

(↑画像をクリックで拡大できます)

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『朗読劇 線量計が鳴る 元・原発技師のモノローグ』(而立書房、2018年)の感想も書き始めていました。

時間がなくてそのままになっていましたので、この機会に取りあえず書影と帯の文章のみを紹介します。

線量計が鳴る

 

 

 

 

 

 

 

 

「死ねと言われたら死ぬ。そったら日本人にはなりたくねえ!」

原発の技術と問題点、被曝の危険性、福島第一原発事故の実態など、原発の基礎から今日の課題までを、分かりやすく伝える朗読劇。

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 なお本書には「『線量計が鳴る』の原本」ともいえる一幕劇「老人と蛙」も収録されています。(初出は日本ペンクラブ編『今こそ私は原発に反対します』平凡社、2012年)。

いまこそ私は原発に反対します。(書影は「アマゾン」より)

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原発の町で生れ育ち、原発で働き、原発事故ですべてを奪われた。

これは天命か、それとも陰謀か?老人は、謎解きの旅に出る。

ー内容についてー

形式  一幕四場の出演者一人による朗読劇。

元・原発技師だった老人の独白が展開されます。

二場と三場の間に十分間の休憩。

それを入れて、計二時間弱の公演です。

背景にスクリーンがあり、劇中の重要なワードなどが、 映写されます。

他の舞台装置は不要。

物語

一場 原発の町で生れ育ち、原発で働き、そして原発事故で すべてを失った主人公のパーソナル・ヒストリー(個人史)

二場 原発が作られ、日本に入ってきた事情。 原発の仕組み。福島事故の実態。

三場 主人公のチエルノブイリ視察体験。 被曝による医学上の諸問題と現実。 放射線医学界の謎。

四場 原発を動かしている本当の理由。 利権に群がる原子力村の相関図。

継承者歓迎  当初は中村敦夫が朗読しますが、多くの朗読者が、 全国各地で名乗りを上げ、自主公演が増加するこ とを期待します。   

 (「「公式サイト・中村敦夫」より転載)

 

「ラピュタ」6、「腐海の森」から「生命の樹」へ――「科学と自然」と「非凡人と凡人」の関係の考察

「天空の城ラピュタ 画像」の画像検索結果(画像は matome.naver.jp より)

 『風の谷のナウシカ』(1984)における圧倒的な存在感のある「腐海の森」のテーマは、「高度に進んだ科学と自然」との関係を問いただすものでした。この映画では夢の中でナウシカが子供の頃に戻って、「王蟲」の子供が殺されそうになっているのを見て「殺さないで」と叫ぶのを再び見るシーンが描かれています。

このシーンを見て連想したのは、近代西欧の「弱肉強食の思想」から強い影響を受けた『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフが「非凡人の理論」を編み出して、「悪人」と規定した「高利貸しの老婆」を殺害しようと計画を練りはじめた頃に見た「やせ馬が殺される夢」のことでした。そこでも夢の中で子供に戻った主人公は、やせ馬を「殺さないで」と叫んでいたのです。『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフは「人類滅亡の悪夢」を見て、その夢がきっかけとなり「非凡人の思想」の危険性を理解するようになることが示唆されています。

一方、『風の谷のナウシカ』の最期のシーンでナウシカは「怒り」のために走り出した王蟲の群れによって「風の谷」の住民が全滅しようとするところに、自分の身を顧みずに自分が助けた「王蟲の子供」とともに降り立つという献身的な行動をとるのです。

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(《風の谷のナウシカ》、図版は「Facebook」より)。

宮崎駿はこのシーンに、「国家」のために「特攻」することで「神」となるような「美しい物語」とは異なり、深い傷を負ったナウシカが王蟲たちによって癒され、復活するという『罪と罰』のエピローグ的な構造を与えています。(『罪と罰』の場合は肉体的な傷ではなく精神的な傷ですが、それでも致命傷に近い精神的な傷から長い時間をかけて蘇ることになるのです)。

 『天空の城ラピュタ』には『風の谷のナウシカ』で描かれていた「腐海の森」は欠けていますが、その代わりに徐々に「生命の樹」のテーマが姿を現してくることになります。

 龍の巣と呼ばれる嵐を乗り越えてラピュタに上陸した主人公のパズーとシータが、灌木をかき分けていくと中央にそびえる天まで届くような巨木に出会います。それでも最初のうちは「生命の樹」のテーマはパズーが必死で掴まる根っこの形で示されるに過ぎません。

 しかし、自分以外の者を「バカども」と見下すムスカが「王族しか入れない聖域」にまで入り込んでいた木の根を見て「一段落したら全て焼き払ってやる」と語るところから「科学と自然」と「非凡人と凡人」のテーマが明確に現れてきます。

 たとえば、「素晴らしい! 700年もの間、王の帰りを待っていたのだ!」と語ったムスカはその一方で、「素晴らしい!!最高のショーだとは思わんかね」と問いかけ、ラピュタから落ちていく兵士たちを見ながら「あっはっは、見ろ。人がゴミのようだ」と楽しそうに語るのです。

 さらに、「これから王国の復活を祝って、諸君にラピュタの力を見せてやろう」とし、旧約聖書にあるソドムとゴモラを滅ぼした天の火」である「ラピュタの雷(いかずち)」を見せて、「全世界は再びラピュタの元にひれ伏すことになるだろう!」と語ります。

すると、恐怖心から「すばらしい、ムスカ君。君は英雄だ。大変な功績だ」と急に態度を一転させた将軍に対しても「君のアホづらには、心底うんざりさせられる」と続けたのです。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

 このようなムスカの言葉は、「凡人」について、「服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務で」と規定していた『罪と罰』のラスコーリニコフの言葉を想起させます(三・五)。しかも彼も自分の望みを「ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」とも語っていました(四・四)。

創作ノートにはラスコーリニコフには「人間どもに対する深い侮蔑感があった」(一四〇)と書かれています。ドストエフスキーはラスコーリニコフに、自分の「権力志向」だけではなく、大衆の「服従志向」にも言及させることでラスコーリニコフのいらだちを見事に表現しえているのです。

 一方、フランス文学者の鹿島茂氏は小林秀雄がランボーを「人生斫断家(しゃくだんか)」と定義していたことに注目して、「斫断」というのは辞書にはないので「同じ意味の漢字を並べて意味を強調する」ための造語で、「いきなりぶった切る」という意味を出したかったのではないかと記しています。

 そして鹿島氏は、「昭和維新」を熱心に論じあい、「斎藤実や高橋是清を惨殺した二・二六の将校」と、小林が「その深層心理ないしは無意識において」は、「それほどには違っていなかったのではあるまいか?」と推定しています。きわめて大胆な仮定ですが、「いきなりぶった切る」という意味の「斫断」という単語は、「一思いに打ちこわす、それだけの話さ」と語り、「いやなによりも権力だ!」と続けていたラスコーリニコフの言葉を想起させるのです。

ドーダの人、小林秀雄

 小林秀雄が1940年に書いた『我が闘争』の短評でヒトラーの思想を賛美したことも鹿島説の正しさを示していると思えます。こうして、青年将校たちが「昭和維新」を熱心に論じあっていた頃に書かれた小林秀雄の『罪と罰』論は、若者たちに強い影響を及ぼしました。たとえば、ドストエフスキーの作品論をとおして「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と主張した堀場正夫は、著書『英雄と祭典 ドストエフスキイ論』(白馬書房、昭和一七年)の「序にかえて」で日中戦争の発端となった盧溝橋事件を賛美しました。そして、「今では隔世の感があるのだが、昭和十二年七月のあの歴史的な日を迎える直前の低調な散文的平和時代は、青年にとつて実に忌むべき悪夢時代であった」と記して、それまでの平和な時代を罵っていたのです。

 しかし、『罪と罰』の中心的なテーマである「良心」の問題などは無視して、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈した小林秀雄の評論は、自分に引き付けた原作とは正反対のテキスト解釈でした。

 その解釈には――1,作品の人物体系や構造を軽視し、自分の主観でテキストを解釈する。 2,自分の主張にあわないテキストは「排除」し、それに対する批判は「無視」する。 3,不都合な記述は「改竄」、あるいは「隠蔽」する――などの特徴があります。

 しかし、権力者によって都合がよかったためにその評論は戦後も影響力を保って、「評論の神様」と奉られるようになったことになった小林秀雄は、1960年の「ヒットラーと悪魔」でも大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用に注目しながら再び『我が闘争』について詳しく論じました。

作家の坂口安吾は小林秀雄のことを「教祖」と呼びましたが、小林はヒットラーと悪魔」を書いた翌年からは「日本会議」などで代表委員を務めることになる小田村寅二郎に招かれて「全国学生青年合宿所」と銘打たれた研修会で本居宣長などについて5回も講演を行い、それらの講演の後では青年たちとも「対話」も行われていたので、そこからは「日本会議」系の論客も育っていました。

商品の詳細

しかし、邦訳を行った内田魯庵ばかりでなく、北村透谷や島崎藤村など明治の文学者たちは特定の個人に焦点を当てて解釈するのではなく、登場人物の人物体系や全体的な筋の流れを踏まえて『罪と罰』を精緻に分析していました。

明治の文学者たちと同じように宮崎駿のアニメを読み解く際にも、登場人物の人物体系や全体的な筋の流れを踏まえて鑑賞することが必要だと思えます。

 『天空の城ラピュタ』では、パズーが「このままではムスカが王になってしまう。…略奪より、もっとひどいことが始まるよ!」と語って「非凡人の思想」を厳しく批判すると、「飛行石を取り戻したって、わたしどうしたらよいか」と悩んだシータが思い出したのが「滅びの呪文」だったのです。 

 そして、ムスカに「国が滅びたのに、王だけ生きてるなんて滑稽だわ」と告げたシータは、「ラピュタがなぜ滅びたのかあたしよく分かる。ゴンドアの谷の歌にあるもの。 『土に根をおろし、風と共に生きよう(中略)』 どんなに恐ろしい武器を持っても、沢山のかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ!」と続けています。

小林秀雄の『罪と罰』論の手法は、安倍政権による国会の議論の手法や公文書の改竄と隠蔽にも共通していると思えますが、「ラピュタのいかずち」による巨大な雲の形は明らかに原水爆の非人道性を示しています。

二度の原爆投下だけでなく水爆実験の被害にもあったにもかかわらず、身内の者のみを優遇していまだに「核兵器禁止条約」の批准も拒み、原発の推進を行っている政治家たちの前近代な「道徳」観や「公共」観の危険性を『天空の城ラピュタ』は、30年以上も前に予告していたと言えるでしょう。

こうして、科学技術の過信や「最終兵器」が世界を滅ぼすという『風の谷のナウシカ』から一貫して描かれているテーマとともに、「非凡人の思想」や独裁者の危険性が『天空の城ラピュタ』ではより明確に描写されることで、愛する地球を守るために、自分たちの生命をも危険にさらしてパズーとシータが声をそろえて「バルス!」と叫ぶシーンが感動を呼ぶのです。

 一方、このアニメでは「天空の城ラピュタ」が崩壊したかに見えた後で、圧倒的な姿を現すのが「生命の樹」のテーマです。巨木の根で覆われたラピュタは、基底の高度な文明の部分が崩れ落ちたあとも、完全に崩壊することはなく、上部の美しい森や公園を残したまま、天空へと上昇していくのです。

こうしてこのアニメ『天空の城ラピュタ』は、すぐれた民話と同じように分かり易い映像で子供たちに普遍的で大切な英知を伝えているのだと思います。

 

『天空の城ラピュタ』の理解と主観的な文学解釈(1、改訂版)テーマの継承と発展――『風の谷のナウシカ』から『天空の城ラピュタ』へ(+「目次」)

「ラピュタ」5、ムスカ大佐の人気と古代の理想化――『日本浪曼派』の流行と「超人の思想」

「天空の城ラピュタ ムスカ 画像」の画像検索結果

(ムスカの画像は、cinema.ne.jp より)

 1,ムスカ大佐の人気と『日本浪曼派』の流行

『天空の城ラピュタ』(1986)を久しぶりに見て懐かしかったのは、『風の谷のナウシカ』(1984)でも重要な役を担っていたキツネリスも出て来ており、ロボットとの交流も描かれていたことです。

 ここにでてくるロボットは『風の谷のナウシカ』の「巨神兵」とは異なり、花を愛で愛嬌もあるのですが、闘う際には性格は一変して空を飛び敵とみなした者をすさまじい殺傷力で撃滅するのです。こうして、宮崎監督の映画では『風の谷のナウシカ』から『天空の城ラピュタ』まで科学技術の過信や「最終兵器」が世界を滅ぼすというテーマは一貫して描かれているといえるでしょう。

すなわち、シータに「ラピュタはかつて、恐るべき科学力で天空にあり、全地上を支配した、恐怖の帝国だったのだ!!」と説明したムスカ大佐は、「そんなものがまだ空中をさまよっているとしたら、平和にとってどれだけ危険なことか、君にも分かるだろう」とシータをだまして飛行石を手に入れたのです。

しかし、飛行石を手に入れて「恐怖の帝国」の内部に入ったムスカは、本性をあらわして将軍に「言葉をつつしみたまえ。君はラピュタ王の前にいるのだ」と語り、兵士たちを無慈悲に地上に落下させて喜んだばかりでなく、自らが手にした破壊兵器の威力を見せつけるために地上に住む人々に向けて原水爆のような威力を持つラピュタの「いかずち」を地上に向けて発射したのです。

 このように見てくるとき、ムスカは自分を「超人(非凡人)」と見なすヒトラーのような嘘つきで非情な独裁者として描かれていることが分かります。それにもかかわらず、なぜかツイッターでは「ムスカ大佐が(キャラ的に)結構好き」というようなつぶやきがみられるのです。

それがとても不思議だったのですが、ムスカが「地上に降りたときに二つに分かれた」古いラピュタ「王家」の末裔であることや彼の権力に惹かれるのかも知れません。第2回の考察では「風の谷」に侵攻した大国の皇女が自分たちに従えば「王道楽土」を約束すると語っていることに注目して、『風の谷のナウシカ』に秘められた「満州国」のテーマを指摘しました。

 昭和初期に日本が「日独防共協定」を結んだドイツでは、浪漫的な古代ゲルマンの神話に題材をとったワーグナーの歌劇が人気を博していましたが、「八紘一宇」などのスローガンで「満州国」が建国された当時の日本でも『日本浪曼派』が流行り、古代が理想視されて、出陣学徒壮行会では「大君のために死ぬこと」の素晴らしさを謳った武将・大伴家持の「海行かば」を詞とした曲が斉唱されたていたのです。

日本浪曼派批判序説 (講談社文芸文庫)(書影は「アマゾン」より)

 しかも、ヒトラーは『我が闘争』で自分を「非凡人」として強調しただけでなく、ドイツ民族の優秀性も強調していましたが、「満州国建国前後の、挫折・失望・頽廃(たいはい)の状況」の「デスパレートな心情」から、日本文化を絶対視して「昭和維新」を目指すような青年将校も生まれていました。

 作家の司馬遼太郎は幕末の「尊王攘夷」的な性格が強く残っていた当時の「昭和維新」を厳しく批判していました。しかし、「維新」という言葉が用いられている政党が人気を呼ぶなど現在の日本の雰囲気は「満州事変」の頃と似てきており、そのことがムスカの人気の遠因となっているのかもしれません。

2,『風の谷のナウシカ』と『天空の城ラピュタ』における「超人(非凡人)」のテーマ

 ところで、私が宮崎駿監督のアニメ映画に強い関心を持つようになったのは、『風の谷のナウシカ』を観てからですが、「火の七日間」と「巨神兵」による「最終戦争」と科学文明の終焉が描かれているのを見たときには、『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフが見る「人類滅亡の悪夢」が見事に映像化されていると感じました。

 しかも、『罪と罰』のラスコーリニコフは「高利貸しの老婆」の殺害を考えていた際には、彼が子供の頃に体験した「やせ馬が 殺される夢」を見たのですが、ナウシカも自分が子供の頃に体験したと思われる「王蟲の子供が殺される夢」を見ているのです。

 この二つの夢の類似は偶然だろうかとも思いましたが、「ドストエフスキーの『罪と罰』は正座するような気持ちで読みました」と宮崎監督が『本へのとびら』(岩波新書)で書いていることに注目するならば全くの偶然というわけではなさそうです。ドストエフスキー研究者の視点から見ると、『天空の城ラピュタ』にも『罪と罰』のテーマは秘められており、「超人(非凡人)」の危険性の問題がより深められていると思えます。

 その頃の日本では思想家ニーチェなどの影響もあり、「超人(非凡人)」や「英雄」の思想が流行っていました。『文学界』で行われた「日本浪曼派」の作家・林房雄などとの鼎談「英雄を語る」で評論家の小林秀雄も、ヒトラーを「小英雄」と呼びながら「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていたのです。

そのような見方は、「超人主義の破滅」や「キリスト教的愛への復帰」などの当時の一般的なラスコーリニコフ解釈では『罪と罰』には「謎」が残るとした小林秀雄の『罪と罰』論にも強く反映しています。ラスコーリニコフの「非凡人の理論」の問題点や危険性を深く認識する上でも重要な司法取締官のポルフィーリイとの三回にわたる激しい論争の考察を省くことで小林は、殺人を犯しながらも「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していたのです。 

 一方、小林の『罪と罰』論の誤りを分かりやすい絵と言葉で明確に指摘したのが、1953年に出版された手塚治虫のマンガ『罪と罰』でした。子供向けに書かれているために、このマンガ『罪と罰』では中年の地主スヴィドリガイロフは単純化されていますが、司法取締官ポルフィーリイの指摘をとおして、「非凡人の理論」の危険性がよく示されています。

そして、よく知られているように宮崎駿は手塚治虫のアニメには批判的だったものの、そのマンガには深い敬愛の念を持っていたので、『天空の城ラピュタ』のムスカ大佐の形象には「超人(非凡人)の思想」の問題が反映されていると思われます。

 

「ラピュタ」(4,追加版)、「満州国」のテーマの深化――『風の谷のナウシカ』から『風立ちぬ』へ

「映画 風立ちぬ 画像」の画像検索結果

(画像はoricon.co.jp  より)

はじめに

この考察の第2回で『風の谷のナウシカ』(1984)には「満州国」のテーマも秘められていましたと記しました。ただ、「王道楽土」という用語から「満州国」のテーマが秘められていると記して先に進むのは少し強引すぎたようです。

それゆえ、『天空の城ラピュタ』からは離れることになりますが、「満州国」のテーマを浮かび上がらせるために、今回は『風の谷のナウシカ』と映画『風立ちぬ』との深い関りを記すことにします。分量が意外と多くなりましたので独立させて(3)の後に置いて(4、追加版)としました。

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 作家・堀辰雄の小説『風立ちぬ』を骨格の一つとする映画『風立ちぬ』を公開した宮崎駿監督は、この映画の後で公開された映画《永遠の0(ゼロ)》を「神話の捏造」と厳しく批判していました。

 https://twitter.com/stakaha5/status/1117103001485758464

拙著『ゴジラの哀しみ』の第2部で詳しく分析したように、作家・司馬遼太郎の高級官僚批判をほとんど抜き出したような記述もあるこの映画の原作では、主人公の「僕」に「ノモンハンの時、辻らの高級参謀がきちんと責任を取らされていたら、後のガダルカナルの悲劇はなかったかもしれない」などと語らせることで、反戦小説と誤読されています。

 しかし、長編小説『永遠の0』は反戦を装いつつも、多くの県民を犠牲にした「沖縄戦」を正当化しつつ、「皇紀2600年」を記念して零戦と名づけられた戦闘機を讃えることにより、その結末では「特攻」を讃美していたのです。

 一方、映画『紅の豚』や『風の谷のナウシカ』では、空中戦の空(むな)しさを示唆するような映像も示されていましたが、地上の戦いはいっそう悲惨で、230万ほどの戦死者のうちの6~8割が『餓死』をしており、華々しい戦いで亡くなる「英霊」とは敬われないような戦いを強いられていたのです(藤原彰『餓死した英霊たち』)。

 作家の堀田善衞が自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』で描いたのは、大学受験のために上京した翌日に2.26事件に遭遇した若者を主人公として、彼が「赤紙」で召集されるまでの、戦争への批判も許されない重苦しい「満州国」建国後の時代でした。

その堀田善衞について宮崎監督は、「堀田さんは海原に屹立している巌のような方だった。潮に流されて自分の位置が判らなくなった時、ぼくは何度も堀田さんにたすけられた」と書いています(『時代と人間』)。

時代と人間

映画『風立ちぬ』では作家・堀辰雄の小説だけでなく零戦の設計者・堀越二郎の伝記をも踏まえていたために厳しい批判も浴びましたが、宮崎監督はこの映画について、「少年時代の堀越二郎の夢に出て来る草原は、空想の世界の草原です。でも、終わりの草原は現実で、『あれはノモンハンのホロンバイル草原だよ』」とスタッフに語り、戦争の悲惨さにも注意を促していました。

 しかも、宮崎が深く敬愛していた作家の司馬遼太郎は劇作家・井上ひさし氏との対談で「私は小説にするつもりで、ノモンハン事件のことを徹底的に調べたことがある」と語り、「ノモンハンは結果として七十数パーセントの死傷率」で、それは「現場では全員死んでるというイメージです」と語り、戦闘に参戦した須見・連隊長の次のような証言をも記しています。

すなわち、「天幕のなかにピストルを置いて、暗に自殺せよ」と命じられたことを伝えた須見新一郎元大佐は、「敗戦の責任を、立案者の関東軍参謀が取るのではなく」、貧弱な装備で戦わされ勇敢に戦った「現場の連隊長に取らせている」と厳しく批判したのです(『国家・宗教・日本人』)。

 「このばかばかしさに抵抗した」須見元大佐が退職させられたことを指摘した司馬は、彼のうらみはすべて「他者からみれば無限にちかい機能をもちつつ何の責任もとらされず、とりもしない」、「参謀という魔法の杖のもちぬしにむけられていた」と書いています(『この国のかたち』・第一巻)。

こうして「ノモンハン事件」を主題とした長編小説は『坂の上の雲』での考察を踏まえて、「昭和初期」の日本の病理を分析する大作となることが予想されたのですが、この長編小説の取材のためもあり行った元大本営参謀の瀬島龍三との対談が、『文藝春秋』の正月号(1974年)に掲載されたことが、構想を破綻させることになりました。この対談を読んだ須見元連隊長は、「よくもあんな卑劣なやつと対談をして。私はあなたを見損なった」とする絶縁状を送りつけ、さらに「これまでの話した内容は使ってはならない」とも付け加えたのです(「司馬遼太郎とノモンハン事件」)。

司馬氏に対する須見元連隊長のこのように激しい怒りは理解しにくいかもしれませんが、シベリアに抑留された後で、戦後に商事会社の副社長となり再び政財界で大きな影響力を持つようになった瀬島は、1995年には「日本会議」の前身である「日本を守る国民会議」顧問の役職に就いているのです。

 一方、「ノモンハンの時の辻らの高級参謀への鋭い批判が記されている『永遠の0(ゼロ)』では、元大本営参謀・瀬島龍三批判は記されていないどころか、彼をモデルとして元海軍中尉で「一部上場企業の社長まで務めた」武田貴則という登場人物を構想し、その彼に新聞記者の戦争観を激しく批判させている可能性が高いのです。

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少し、長くなりましたので映画『風立ちぬ』については後でもう少し詳しくみることにして、(2)の「宮崎アニメの解釈と「特攻」の美化(隠された「満州国」のテーマ)」に戻って、橋川が保田與重郎とともに「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」と記している評論家・小林秀雄の戦争観を確認して頂ければと思います。

 小林秀雄の『罪と罰』解釈を確認することにより、小林の「超人(非凡人)」観を厳しく批判していた手塚治虫のマンガ『罪と罰』とその考察を踏まえて創られていると思える宮崎アニメの意義をより深く理解できることになると思えます。

 

「ラピュタ」3(閑話休題)――丸山穂高氏のツイッターの手法と比較という方法の意義

 今回の一連の考察では、現在の日本で起きている事件なども視野に入れながら、宮崎駿監督のアニメに対する理解の問題を、短い言葉で自分の意見や感情を述べるツイッター文化の特徴についても少し踏み込んで考えています。

宮崎駿監督の会見映像とともに、「彼の深く壮大な作品に込めた想いと共に、こうした現実に対する問題意識も多く人々に届くことを」と記したにゃん吉氏の8月19日のコメントと映像に対しては、「平和ボケの九条信者」と監督を揶揄したり、「作品とは関係のない政治的発言はやめるべきだ」などという批判のツイートも多く寄せられていました。(なお、私のツイッターでは読めなくなっていた投稿記事もここには残っていました)。

https://twitter.com/umetaro_uy/status/1163449741352419330

今回は閑話休題という形でツイッターと扇情的な週刊誌の手法の類似性と危険性についてだけでなく、その批判を行う際の比較という方法の意義について考えることにします。

    *   *   *

 前回は北方領土での言動が激しい顰蹙を買ったにもかかわらず丸山穂高氏が、日韓で領有権が争われている竹島についても、「戦争で取り返すしかないんじゃないですか?」とツイッターに投稿して論議を呼んでいることについて触れました。しかし、それはやはり氷山の一角だったようで、今度は『週刊ポスト』が「韓国なんて要らない」などと題する特集を組んで、 「嫌韓ではなく断韓だ」「厄介な隣人にサヨウナラ」と表紙に大書きしたのです。

 Paul氏はこの「断韓」という用語が、在特会がヘイトデモで掲げた「断韓」の旗と同じ用語であるとツイートしていますが、ジャーナリストの布施祐仁氏もツイッターで「こういう時こそ冷静な言論が必要なのに、販売部数を伸ばすために逆に韓国への敵対心や排外主義的なナショナリズムを煽るメディア。売れれば何でもいいのか?言論機関としての矜持はないのか?」との鋭い批判の矢を放ちました。

 執筆中の作家などからも一斉に「差別的だ」と批判されたことで、『週刊ポスト』は一転してこの特集について、「誤解を広めかねず、配慮に欠けていた」と謝罪しました。しかし、そこでは誠意が全く感じられず、北方領土問題のあとで、プロフィール欄に「憲政史上初の衆院糾弾決議も!」と書きこんで、支持者を煽っている丸山氏のレベルとあまり変わりないように感じます。

 この意味で宗教学者のKawase Takaya氏が「今回の『週刊ポスト』の件、酷いのは言わずもがなだが、毎月それを上回る酷い煽り文句と記事(という名のヘイト)を垂れ流している『WILL』やら『Hanada』に多くの現役議員が寄稿したり対談やってたりする異常さも忘れてはダメ」とツイッターに投稿していることは重要でしょう。

 実際、月刊『Hanada』の10月号では「韓国という病」というヘイト特集に、韓国への輸出規制交渉の責任者である世耕経産大臣が誌上で「改憲」派の急先鋒である櫻井よしこ氏と対談をし、冷静な外交を行うべき佐藤正久・外務副大臣が「嫌韓」を煽るような記事を書いていたのです。

 そのことを考えるならば、140字という短い文字数で自分の主張を記すツイッターの手法は煽情的な週刊誌の手法にも通じているようです。なぜならば、冷静に相手の主張も記してその後にその反論と言う形で自分の考えを述べるという比較と言う方法を行うには文字数が足らないからです。

 思い出されるのは、『枝野幸男、魂の3時間大演説「安倍政権が不信任に足る7つの理由」』が大ヒットした際に、『1分で話せ』という本の題名を出して揶揄するツイートが多く見られたことです。

緊急出版! 枝野幸男、魂の3時間大演説「安倍政権が不信任に足る7つの理由」(書影は「アマゾン」より)

ここにも一部のツイッターの書き手の短絡的な特徴がよく現れていると思われます。政治でも外交と同じように相手の立場や状況をよく聞き、理解してから自分の考えを述べることが必要なのですが、揶揄者はそれを失念してセールスマン的な資質を政治家に求めていたのです。

 (以下、加筆と改訂)

 こうして、ツイッターや週刊誌などで扇情的な文章や記事が横行するようになる中、先週、在日韓国大使館に銃弾1発と脅迫文を入れた封書が届いていたことが分かりました。司馬遼太郎は「征韓論」など日本における外交が、内政上の危機を逸らすために用いられてきたことを指摘していますが、安倍内閣にもそのような危険性が感じられます。

 このブログの記事やツイートではオリンピックを名目にした「共謀罪」法案が、テロ対策よりも批判者を取り締まる法案であることが「国連」からも指摘されていたことに注意を促して、幻となった1940年の東京オリンピックの状況と今度のオリンピック前の状況が似てきたと記しました。

  アベノミクスなどの破綻が徐々に明白になってきている一方で、先ほどは東京五輪の組織委員会が旭日旗の持ち込みを禁止しないと発表したことで、オリンピックがベルリン・オリンピックと同様の国威発揚の場とされる危険性が高くなってきました。

→ https://this.kiji.is/541527294797661281?c=39550187727945729

  

〔手塚治虫のマンガ『アドルフに告ぐ』は、 ナチスの宣伝の場となった1936年の華やかなベルリン・オリンピックの最中に電話をかけてきた弟が殺されたことを主人公の新聞記者が知るところから始まり、ドイツと日本の悲劇を壮大な規模で描いている。〕

このような事態に冷静かつ的確に対処するためにも、比較という方法を活かして文学作品だけでなく今回、考察している宮崎駿のアニメ映画などをブログだけでなくツイッターでも紹介することにより、扇情的なナショナリズムを乗り越える道を模索していきたいと考えています。

半藤一利と宮崎駿の 腰ぬけ愛国談義 (文春ジブリ文庫)

 (2019年9月4日、改訂)