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(4)2・26事件の賛美と「改憲」の危険性

「磯部一等主計の遺稿について」論じた「『道義的革命』の論理」で三島由紀夫は、その前年に発表した『英霊の聲』で2・26事件の「スピリットのみを純粋培養して作品化しようと思った」と記している。

たしかに、古今東西の文学作品に通じ、華麗な文体で多くの作品を残した三島はすぐれた文学者であったが、近年のように磯部一等主計に憑依されたかのような『英霊の聲』以降の作品を政治的・宗教的な視点から評価して、「改憲」運動につなげることは危険だろう。

「日本の右翼テロリストは、その死生観において、ある伝統的な信仰につらぬかれていた。それは、かんたんにいえば、己の死後の生命の永続に関する楽天的な信念であり、護国の英雄として祭られることへの自愛的な帰依であった。そして、まさにそれを保障したものこそ、日本の国家神道と天皇信仰とにほかならなかった」と説明した「日本浪曼派」の研究者で三島の深い理解者でもあった橋川文三は、その危険性をこう指摘している。

「このような固有の神学思想は、一定の条件のもとでは、容易にいわゆる人権の抹殺をひきおこし、しかもそこに責任や罪を感じることのない心性をつくり出す。右翼テロリストにおいて「一殺多生」という仏典的発想が結びつくのも、そのような国有の死生観念を媒介とすると考えてよいと私は思う。「汝殺すなかれ」という人格神の絶対的戒律が与えられていない場合、そこには、いかなる残虐も本来的な生命への責任感をよびおこすことはないからである。」(「テロリズム信仰の精神史」『橋川文三 著作集』5、筑摩書房)。

興味深いのは、天草の乱を描いた大作『海鳴りの底』で村岡典嗣氏の論文「平田篤胤の神学に於ける耶蘇教の影響」から「復古神道」の根幹にはキリスト教からの援用があることを知ったことを記していた堀田は、主人公に「洋学応用の復古神道」が「儒仏を排し、幕末にいたっては国粋攘夷思想ということになり、祭政一致、廃仏毀釈ということになり、あろうことか、恩になったキリスト教排撃の最前衛となる。それは溜息の出るようなものである」という感想を抱かせている。

そして、作者は登場人物の一人に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせ、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせて、「復古神道」における「汝殺すなかれ」の理念の欠如を指摘していた。

日本人が情念に流されやすいことはたびたび多くの論者が指摘されてきているが、ウクライナ危機に乗じて、「敵基地攻撃論」や「緊急事態条項」が議論されるようになってきている現在、2・26事件の問題をきちんと把握しておく必要があるだろう。

(2023/2/14,ツイートの追加)

(3)、磯部浅一の「行動記」と裁判をめぐって

 2・26事件の首謀者の一人・磯部浅一は、「行動記」で「余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであろう」と記し、この文章を引用した三島由紀夫は、子供の頃に遭遇したこの事件の印象を「その雪の日、少年たちは取り残され、閑却され、無視されていた」が、「事件から完全に拒まれていた」ことが「その悲劇の客人たちを、異常に美しく空想させたのかもしれない」と「二・二六事件と私」に記している。

一方、2・26事件の前日に受験のために上京して来た若者を主人公とした堀田善衞も『若き日の…』で「まったくの偶然であったのだが、若者が引っ越したこのアパートの隣室に2・26事件のときの首謀者中の首謀者であったⅠという男の未亡人が住んでいた」と記し、磯部浅一の裁判についてこう記述している。

「Ⅰはすでにその年の八月十五日に銃殺刑を執行されてしまっていたはずであったが、Ⅰは十九名の死刑になった首謀者のなかでも、裁判中も、終始はげしく抵抗し、軍の首脳部もまた一時彼らの青年将校たちの行動に同調し、支持さえした点をあげて、陸軍大臣の告示や戒厳命令に関係のあったぜんぶの軍事参議官もまた同罪である、と痛烈に弾劾をしつづけたので」、「重要証人として八月の十九日まで執行の延期をうけていたのである。」

そして、右翼係りの刑事から聞かされた未亡人の行動についてもこう詳しく記している。「まだまだ若い未亡人は、夫の収監されていた代々木練兵場に特設された法廷と収監所とをかねたバラックの近くの、このアパートを選んだのであった。そうして夫の死後、軍首脳部弾劾と裁判の違法性について縷々(るる)と綴られたⅠの遺書を入手し、夫人はこれをある右翼の新聞記者とはかって写真で複写をし世上に流布させようとした。

 もっとも、これらのことは、すべてⅠ未亡人を監視するために、隣室の住人である若者の部屋へしばしばやって来た右翼係りの刑事から、折にふれて聞かされていたことなのである。若者としても、偶然のこと、とはいうものの、まったく異様なところへころがり込んだものであった。(……)刑事は三日にあげずやって来た。刑事はこれらの青年将校たちにはすこぶる同情的で、時にはⅠ未亡人の私用を弁じてやったりもしていたが、なんにしてもそれは若者にとっては閉口、迷惑、この上もないことであった。」

 この記述からは堀田が磯部裁判に強い関心を持っていたことが推測できるが、ここでも焦点を磯部のみに当てるのではなく、この記述の前後に従兄から密かに「赤旗」の入ったカバンを預かってほしいと頼まれて激しく動揺したというエピソードも挿入している。

「しかし従兄には、そういう者が来るなどとは、敢えて言わないことにした。隣室に、そういう女性がいることはかつて雑談のあいだに告げたことがあったが、彼女がそこまでの厳重な監視をうけていることは言わなかったのである。それに、燈台下暗し、ということがある。かえって安全であるかもしれないではないか、と異様な具合に腹をきめて、若者は、「わかった。いいよ」/ と言ってその風呂敷包みを従兄からうけとり、学校へ通うときのカバンのなかに」押し込んだ。

こうして、堀田は磯部の裁判を描くだけでなく、警察での拷問により体を壊して表向きは転向していた従兄から預けられたカバンに入っていた「赤旗」の記事における2・26事件の記事にもふれることで、磯部を「英雄化」せずに相対化して考えようとしたのだと思われる。

しかも、この長編小説では同級生との交遊をとおして、2.26事件でも注目された皇道派の 真崎大将についてもこう記されている(注:相沢事件とは、 ドイツでヒトラー内閣が成立した1933年8月12日に統制派の軍務局長永田鉄山が皇道派の青年将校・相沢三郎中佐に斬殺された事件)。

「Mという同級生の広大な邸が、原宿にあった。その邸前でソフト帽を目深くかぶった私服の誰何(すいか)に遭った。Mの父は陸軍大将で、軍内の派閥の、その一方の頭目であるといわれていた。二・二六事件のときにも、世間の注視のまとになった人であった。また相沢事件といわれた、軍務局長を陸軍省内で斬った軍人の裁判のときにも、その軍人のためによい証言をするだろうと期待されていながら、将官は勅許を得なければ法廷で証言は出来ぬ、と言ってつっぱねた人であった。勅許とはねえ、と世間では言っていた。血の冷たい感じのする将官であった。(……)そうして級友のM自身は、たいへんな女たらしであった。そのMの勉強部屋で、少年は生れてはじめてエロ写真なるものを見せられた。親爺が上海からもって来たんだ、とMが言った。」

 (2023/02/14、改訂とツイートの追加)

(2)、2・26事件と検閲の強化

三島由紀夫が『豊饒の海』の第二巻『奔馬』のモデルとした血盟団事件(2月~3月)で井上日召に率いられた学生たちによって、井上準之助と團琢磨が暗殺されるという連続テロ事件が起きた1932年には、京都大学法学部の滝川教授の発言が問題になる滝川事件も起きていた。

さらに満州国の承認に慎重だった犬養毅・内閣総理大臣が、武装した海軍の青年将校たちと血盟団の残党らによって殺害された5・15事件が起きた。1935年には、天皇機関説事件が起きていた。

『若き日の…』ではこれらの事件については言及されていないものの、1934(昭和9)年に『ファッシズム批判』を出版して、軍国主義と「国体明徴」運動を批判したことで知られていた河合栄治郎・東京帝国大学教授が書いた二・二六事件の批判記事がかなり長く引用されている。

「帝国大学新聞」について「大学が、また大学生が新聞を刷って売っているということが、少年にはなんともいえぬほどに清新で、自身の腹の底から甲高い声が出そうなほどに、爽快でもあった」と書いた主人公は、事件直後の三月九日付の号に載った記事の「筆者は河合栄治郎という人であった」ことを紹介して、次の文章を引用している。

 「彼等の我々と異なるところは、ただ彼等が暴力を所有し、我々がこれを所有せざることのみにある。だが偶然にも暴力を所有することが、何故に自己のみの所信を敢行しうる根拠となるのか、何故に国民多数の意志を蹂躙(じゅうりん)せしめる合理性となるか」。そして、主人公は「削除は多いにしても、筆者の怒りと批判ははっきりと出ていた」と結んでいる。

一方、押し入れからさがし出した雑誌の『中央公論』は六月号で、「同じ筆者が巻頭に論文を書いていた」が、「この方は、バッテンばかりで、さっぱり見当もつかなかった」と記されているが、ここでは「第三」のみを長く引用することで具体的に示しておきたい。

「第三に彼等は政党の堕落と財閥の横暴とをみた。国体を明徴ならしむることによって、国民思想の安定を図りうると考へたことに、彼等の単純さがある。×××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××。しかし複雑なる社会問題に囲まれ、幾多の思想によりて攪乱されてゐる一般市民にとっては、×××××××××××××××××××××××、未だ問題を解決することにはなりえない。××××××××、現代に処して、いかなる内容を盛るべきかが、今や必要とされてゐるからである。」

実際、この事件の首謀者は非公開で弁護人なしという特設軍法会議で裁かれ処刑された。それによって軍部における統制派の権力は強まり、「祭政一致」の原則に基づいて「専制・正教・国民性」を厳守するように求めた「ロシア帝国」と同じような政策が実施され、それを批判することは全くできなくなったのである。

芥川龍之介は自作『将軍』の検閲と伏字に対して怒りを感じていたが、2・26事件以降には軍部における統制派の権力が強まり、「祭政一致」の原則に基づいて「専制・正教・国民性」を厳守するように求めた「ロシア帝国」と同じような政策が実施され、それを批判することは全くできなくなっていたのである。

 この長編小説ではラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説が主人公の重要な転機になっていたが、1933年1月にナチスが政権を握ったドイツでは「非ドイツ的な魂」に対する抗議運動が行われるようになり、5月10日のユダヤの知識人の書物を大量に焚書にした際にもゲッベルスが扇動的な演説をしており、その際に焚書の対象とされたドイツの公法学者ゲオルク・イェリネックの著書『人権宣言論』を1906年に訳出していたのが「天皇機関説」事件でやり玉に挙げられることになる美濃部達吉だったのである。

主人公が仏文科への転科を決意したのは1940年秋のことだったが、その際には白柳君との会話などをとおして日本では「商工省の通達があって、洋書の輸入は禁止された」が、「一九三五年にパリで行われた国際作家会議の記録によると、ドイツの作家代表は匿名は無論のこと、顔に覆面までをかぶって出て来るというひどい政治の有様」になっていたことなども記されている。

 (2023/02/14、改訂とツイートの追加)

『若き日の詩人たちの肖像』で2・26事件を考える (1)2・26事件とシベリア出兵

堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(以下、『若き日の…』と略記する)第一部の冒頭ではドイツから帰国した新進の指揮者によるラヴェルのボレロとベートーヴェンの運命交響楽を聞くために早めに上京した主人公が、その翌日に交通規制で足止めされていて友人宅から下宿に戻った兄から、戒厳令が布かれ前日にボレロを聴いた軍人会館が「戒厳司令部」になったと告げられる。

三島由紀夫が『英霊の聲』で神道系の「帰神(かむがかり)の会」で英霊に語らせたように「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに大蔵大臣・高橋是清や内大臣・斎藤実、教育総監・渡辺錠太郎などの政府要人を殺害した皇道派の陸軍青年将校たちは、自分たちの行動は幕末の志士が起こした桜田門外の変と同様に高く評価されるものと信じていた。

しかし、反乱軍とされたために彼らが率いた1、483名の下士官や兵士と鎮圧に向かった軍との間での戦闘もありうるような危険な状況に首都が陥ったのであり、この地域の住民は退去せよとの命令が出ていた。主人公は受験勉強を理由に家からの移動を拒否したのだが、それは1918年に起きた米騒動が少年の港町にも波及して来た時に、「北前船の廻船問屋をいとなんで来た家の曾祖母は、米をめぐっての民衆の騒乱のことを知悉(ちしつ)して」おり、「直ちに家の者、店の者の先頭に立っててきぱきと指示」をして、民衆に粥をくばり騒ぎをおさめていたからである。

こうして、堀田善衞は第一部の冒頭で首都を揺るがした2・26事件と主人公の少年が生まれた年に起きた米騒動を比較することで、読者により広い視点でみることの大切さを示唆していたと言えるだろう。

1955年に発表した長編小説『夜の森』で堀田はすでに、北陸で発生した米騒動の拡がりや九州の炭鉱での暴動が、8月2日の「出兵宣言」の後で起きたコメの価格の高騰とも深い関りをもっていることを示したばかりでなく、この出兵の際には虐殺が行われていたことや、満州国の建国に先駆けて傀儡国家樹立の試みがなされていたことも記していたのである。

そして、『若き日の…』では「シベリア出兵のときに、ロシア人の家から掻っ払って来たのだという、黄色い大きな琥珀(こはく)をくりぬいてつくった置時計」を自慢にしていた管理人のことも記されているが、 何の理由も告げられずに逮捕された主人公が 、「物品のように」どさりと留置場へ放り込まれて一三日間拘留されたのは、満州国皇帝来日の予備拘禁であったことも記されている。

「日本浪曼派」の保田與重郎は「『満州国皇帝旗に捧ぐる曲』について」で、「満州国の理念」を「フランス共和国、ソヴエート連邦以降初めての、別箇に新しい果敢な文明理論とその世界観の表現」と讃えていた。一方、堀田は武力による満州国の建国はその後の日本の政治や法律をも変えて「無法が法の名において」行われ、無謀な戦争の拡大へと突き進ませることになったことを明確に描写していたのである。

本稿では「二・二六は最終的な落着におちつくまで接着してはなれなかった」と記されている『若き日の…』における2・26事件の描写をとおして、この問題と三島事件のかかわりを以下の順で考察する。
2, 2・26事件と検閲の強化、3,磯部浅一の「行動記」と裁判、4, 2・26事件の賛美と「改憲」の危険性。

  (2023/02/14、改訂、改題してツイートを追加)

ウクライナ危機と満州事変 

 作家の堀田善衞は自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』 (以下、『若き日の…』と略記) で中学に入学した年に勃発した1931年の満州事変の後では「事変という奴は終わりそうもない」と感じていたと描いています。

それゆえ、ソ連崩壊後のチェチェン紛争の鎮圧後には言論への弾圧を強めていたロシアのプーチン大統領によるウクライナ侵攻は、関東軍による満州事変を連想させます。

関東軍による満洲全土の占領後に現地調査したリットン調査団の報告書を受けて国際連盟特別総会が満洲国の存続を認めない勧告案を採択すると、日本は1932年の3月27日に国際連盟に脱退を表明しました。そして、紀元2600年を盛大に祝った1940年の翌年には太平洋戦争に突入していたのです。

堀田善衞の長編小説『若き日の…』が出版されたのは1968年9月のことでしたが、その翌月の10月23日には日本政府主催の「明治百年記念式典」が日本武道館で開催されました。このような日本の状況を考慮するならば、堀田善衞が長編小説『若き日の…』で昭和初期の重苦しい時代を克明に描き出したのは、この時代の危険性を記しておく必要があると考えたためではないかと思えます。今回の事態に際してはプーチン大統領の誤った決断だけでなく、この事態に乗じて「改憲」を行い、緊急事態条項を入れるなど昭和初期の日本へと逆戻りさせようとしていることへの批判も必要です。

(2022年3月26日改訂と改題、2023/02/13、改訂と改題、ツイートを追加)

チェコ事件でウクライナ危機 を考えるⅠ

はじめに 堀田善衞と三島由紀夫のチェコ事件観

ロシア軍のウクライナ侵攻というニュースを聞いて、最初に思ったことはソ連軍がワルシャワ条約五カ国軍とともに民主化運動を展開していたチェコスロヴァキアに侵攻した1968年のチェコ事件のことでした。

むろん、ソ連の政権下で起きたチェコ事件とソ連崩壊後の今回の侵攻とでは性格も大きく異なります。しかし、前回考察したように、西欧列強に滅ぼされないためにはナポレオンに勝利したロシア帝国を盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して対抗すべきだと主張したダニレフスキーの考えは、露土戦争以降、ロシア正教を国教としていたロシアで広まりました。また、革命政権が誕生した後の1918年に行われた日本やアメリカなどの連合国によるシベリア出兵で多くの死傷者を出し、この戦争以降も常に外国からの圧力を感じていたソ連や、ソ連時代の情報将校だったプーチン大統領にもその「恐怖」は受け継がれているように思われます。

他方で、ゼレンスキー大統領が今回のロシアの侵略を「真珠湾攻撃」にたとえたことが日本の右派の怒りを買っているようですが、ダニレフスキーの歴史理論は昭和初期の「大東亜共栄圏」の思想にも影響を与えており、今回のドネツク・ルガンスクの建国を図ったロシアのように満州国の建国をしたことなどから経済制裁を受けた日本は戦争を開始する理由として、A・B・C・D包囲網を挙げていたのです。

 ところで、ワルシャワ条約5カ国軍が武力で8月21日にはチェコスロバキア全土を占領下においたことを知った堀田善衞は、1956年のハンガリー事件を連想して、「単純な怒りとともに、呆れてしまい、また同時に、彼らのやりそうなことをやったものだ、という感をもったものであった」と記しています。

しかし、堀田は丸山眞男や久野収らが提唱したチェコ事件をめぐる抗議声明に署名しませんでした。それは、9月20日から25日までタシケントで開催されたアジア・アフリカ作家会議の一〇周年記念集会に出席して、「長年の友人である」ソ連の作家たちが「どんな顔をして何を言うか、このことだけをでもたしかめてみようと思い立った」からでした。

つまり、この時の事件に堀田はまず現場に行って観察しようという鴨長明と同じような精神で対応していたのです。こうして、9月19日に日本を出発した堀田は記念集会に参加した後で、ヘルシンキ、ストックホルム、ロンドン、パリ、プラハ、ウィーン、ベルリン、ブラティスラバなどヨーロッパ各地を訪問して、ことに不幸なチェコスロヴァキアには前後二回、約1カ月滞在して、さまざまな人々と話し合い、約3カ月後の12月24日に日本に帰国しました。その間に見聞きしたことや考えたことを詳しく記したのが堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』です。

一方、『文化防衛論』に収められた「自由と権力の状況」という論考でチェコ事件について考察した三島由紀夫は、「学生とのティーチ・イン」でもこの問題に言及しており、この事件が「三島事件」を起こすきっかけの一つになっていたことが感じられます。

それゆえ、本稿ではまずチェコ事件をとおして「政治と文学」の問題について考察した三島の「自由と権力の状況」を簡単に見た後で、昭和初期に流行った小林秀雄の『罪と罰』論にも注意を払いながら、三島の革命観とテロリズム観を考察します

そして、最後に堀田の小国の運命・大国の運命』を詳しく分析することにより堀田の視野の広さと考察の深さを示すことにします。

そのことによってウクライナ危機に際しての維新や自民党安倍派の対応と、チェコ事件に対する三島の反応との類似性を明らかにし、報道や言論への圧力を徐々に強めながら昭和初期と同じように戦争へと急速に傾斜している現代日本の危険性を示すことができるでしょう。

1,「政治と文学」の考察――「自由と権力の状況」

三島は「自由と権力の状況」という論考の冒頭でチェコの問題への強い関心の理由をこう記しています。

「チェコの問題は、自由に関するさまざまな省察を促した。それは、ただ自由の問題のみではなく、小国の持ちうる、政治的なオプションの問題でもある。それは、力と力の世界の出来事であると同時に、イデオロギーの対立の中に、いかに身を処しうるかという微妙な戦術の心理的出来事でもある。事、表現の自由に触れるかぎり、「政治と文学」の問題も、ここにドラマティックなモデル・ケースを作り出した。それに比べると、日本で語られている政治と文学の対立状況などは児戯に類する。極端に言えば、あそこでは文学と戦車との対立が劇的に演じられたのである。」(『文化防衛論』、ちくま文庫、119頁、以下頁数のみをかっこ内に記す)。

そして、「安保条約下の日本もアメリカの大国主義に対して警戒し、これを排除し、あるいはこれに抵抗しなければならないと教えるであろう」(123)という意見も紹介した三島は「大国の強大な武力の前には、多少の自衛上の武力など持っても何にもならない。だから非武装中立こそは、国を護る最上の良策である、という考えの論理的矛盾は明らかである」(125)としています。

そして、三島はかろうじて核戦争を回避したキューバ危機後の世界のあり方をも批判して、「われわれにけじめを失わせ、弁別を失わせたものが、冷戦と平和共存の論理」(129)であると結論していました。

2,「みやび」とテロリズム――「文化防衛論」

注目したいのは、「反革命宣言」で神風特攻隊員が遺書に記した「『あとにつづく者あるを信ず』の思想こそ、『よりよき未来社会』の思想に真に論理的に対立するものである」と記した三島がここでも「自由と権力の状況」に言及していることです。

「文化防衛論」で「『みやび』は、宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであったが、非常の時には、『みやび』はテロリズムの形態をさえとった」とした三島は、「天皇のための廠起は」「一筋のみやび」を実行した桜田門の変の義士たちのように、「容認されるべきであった」と主張したのです(74)。

ここからは幕末に頻発した「天誅」という名前のテロを称賛する姿勢が感じられますが、このような三島の主張とは正反対の主張をしたのが、『竜馬がゆく』で主人公の坂本竜馬を、殺すことを嫌う武士として描いたにもかかわらず、「新しい歴史教科書をつくる会」から高く評価されたことで誤解されることになった司馬遼太郎でした。

ベトナム戦争や学生紛争の時期にこの長編小説を読んだ私は、「天誅」を「正義の殺人」とする思想に『罪と罰』に描かれている「非凡人の理論」と同じような傲慢さを感じて、司馬作品にも熱中しました。あまり知られていないようですが、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘した司馬は、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と明確に記していたのです(『竜馬がゆく』文春文庫)。

一方、桜田門外の変を「一筋のみやび」と解釈した三島は、そのような視点から「西欧的立憲君主政体に固執した昭和の天皇制は、二・二六事件の『みやび』を理解する力を喪っていた」(75)と厳しく批判していました。

たしかに、二・二六事件で処刑された磯部一等主計の視点から描いた『英霊の聲』などにおける三島由紀夫の主張は、亡くなった者たちの無念の思いも伝えて迫力がありますが、しかし、情報将校だったプーチンと同様の「国粋主義」的な視野の狭さを感じます。

一方、堀田善衞は誕生したばかりの革命政権を打倒も意図して日本がアメリカなどの連合国と共に行ったシベリア出兵を描いた『夜の森』で、1919年には日本が併合した韓国で三・一独立運動が起きていたことや、この出兵ではすでに満州国に先立って傀儡国家の樹立もはかられていたことなどを記しています。  

一方、三島の視野には、併合された韓国や「五族協和」というスローガンで樹立されながら、土地を奪われた満洲の人々などの苦悩や不満は入ってきていないのです。

3,「決闘」と「暗殺」をめぐる議論 と『罪と罰』の解釈

「学生とのティーチ・イン」でも三島はチェコの民主化運動についてこう批判しています。「いよいよ世間は米ソ二大強国の共存時代に入ってきた、これなら大抵のことをやったって片一方が手を出すわけはない、キューバ事件もそうだからあれでもそうだろう。これはいまがやり時だ、ここで両方のいいところをちょっと取ってやれば、共産主義体制に属しながらしかも自由というものをアメリカ並みに味わえるのじゃないか、こうしたら世界中に一番いいお手本を示してやれる、という山気があったに違いない。こんな山気に私は同情しない」(288)

しかし、私が「学生とのティーチ・イン」で一番興味を持ったのは、学生Dの「三島先生はさきほど、暗殺的行為は一つの思想が一つの思想を殺すことで、これは決闘である、決闘という行為は非常に美しいものであると、賛美なさいましたけれども、(……)暗殺というのは非常に卑怯な行為だと思うのです」(202)という核心を突いた質問に対して、三島が少したじろぎながら、こう答えていたことです。

「決闘との比較は多少当を得ていなかったと思いますけれども」としながらも、警備がきわめて厳重なことを考慮するならば、「だからプラクティカルな問題として、暗殺が卑怯に見えても、暗殺という形をとらざるを得ないと思うのです」(203)。

こうして三島は学生の批判を受け入れて、「暗殺が卑怯」であることは認めつつも「暗殺という形」の殺人を認めているのです。

 このような主張は一見、不合理で説得力を欠いていると思えます。しかし、なぜ三島がそのような主張をしたのかを考えると、二・二六事件が起きる2年前の1934年に小林秀雄が書いた「『罪と罰』についてⅠ」の構造が浮かんできます。ここで「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」とした小林は、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」とその義理の妹を殺した主人公のラスコーリニコフには、「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったと断言していたのです(全集、6・45)。

つまり、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」を殺害しても「罪の意識」が現れなかったと解釈するならば、「政府要人」を「悪人」と見なして殺した青年将校たちにも「罪の意識も罰の意識も」現れるはずはなかったのです。

このような解釈は、我田引水のように思える人もいるかも知れませんが、「文化防衛論」で「社会主義が厳重に管理し、厳格に見張るのは、現に創造されつつある文化についてであるのは言うまでもない。これについては決して容赦しないことは、歴史が証明している」と記した三島が、「ソヴィエト革命政権がドストエフスキーを容認するには五十年かかってなお未だしの観があるが」と続けています。

 この記述からはドストエフスキーへの三島の深い関心がうかがえ、当時、流行していた小林秀雄の『罪と罰』論からも影響を受けたことが感じられるのです。

「耽美的パトリオティズム」の批判――「美神との刺違へ」という表現と林房雄の「玉砕」の美化

4,復讐と絶望の分析と人類滅亡の危険性――『罪と罰』から『白痴』へ

 神西清は三島由紀夫論「ナルシシスムの運命」で、「戦争は確かに、彼の美学の急速な確率を促した。(略)美の信徒は、今やはっきりと美の行動者になったからである」と記していました(『神西清全集』第6巻、484頁)。

実際、三島由紀夫はデビュー作といえる『仮面の告白』のエピグラフで、「美の中では両方の岸が一つに出合つて、すべての矛盾が一緒に住んでゐるのだ」という『カラマーゾフの兄弟』のセリフを引用していたのです。

これらのことを紹介した宮嶋繁明氏は、三島にとって「美」が如何に重要な理念として確立したかに注意を促した神西が、さらに「美の殉教者が一変して、美による殺戮者になったのだ。彼は美という兇器をふりかざして、あらゆる敵へ躍りかかって行った」と続けて、「三島事件」を予見するような考察も行っていたことに注意を促しています(『三島由紀夫と橋本文三』弦書房、2011年、46~47頁)。

ドストエフスキーにおける美の問題は『白痴』の理解にも深く関わりますが、先にみたように、「学生とのティーチ・イン」では「暗殺」の正当性を主張するために「決闘」にも言及することで「暗殺」を「美化」しようとした三島がかえって学生から卑怯だと指摘されていました。

実は、この前段階で三島は「私はアウシュビッツを認めるわけじゃない。私はナチスのああいうやり方を認めるわけじゃない。/私があくまでそこを分けたいと思うのは、人間が全身的行為、全身的思想で、人と人とぶつかり合うという決闘の思想というものが私は好きなんです」と語っていました(196)。

さらにスターリンが行った「粛清」とも比較することで、「あれだけ警備の多勢いるところで、死刑を覚悟でやるというのは大変だと思う。私は人間の行動というのは、行動のボルテージの高さで評価する」と語った三島は、一対一で行う「勇気」にも言及して「暗殺」を正当化していました。

そのような人物の一人がドストエフスキーが『罪と罰』で描いたラスコーリニコフであり、 「非凡人の理論」を考え出して、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」を殺害したのです。こうして、ドストエフスキーは「小説という方法を生かして「非凡人」の理論を、「他者」の殺人という極限的な事態の中で、主人公の身体や感情の動きをもきわめて具体的に分析しながら考察することにより、フロイトなどに先だって絶望の諸相や人間心理の無意識的な深みにまで迫り得た」のです(『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、9頁)。

『罪と罰』では老婆とその義理の妹を殺害したラスコーリニコフの更生が、エピローグでの「人類滅亡の悪夢」を見た後で示唆されていました。

一方、『白痴』ではスイスでの治療から戻ったムィシキンは出会った絶世の美女ナスターシヤの内に深い「絶望」を見抜いて、なんとか癒そうとしたのですが果たせずに終わります。「決闘」の問題を「復讐」のテーマともからめて考察しているこの長編小説では(拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、176~180頁)、さらにより深い「絶望者」が描かれています。

それが自分の余命が長くないことを知らされたイッポリートです。自殺をしようとして失敗していた彼は、自暴自棄となり「もしもいまこのぼくが急に思いたって、好き勝手に十人ばかりも人を殺したり」、あるいは「世の中で一番ひどいと思われることをしでかしたりした」らどうだろうかと問いかけていました。

 「つまり、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」では、他者は軽蔑すべき対象としてでも存在したのにたいし、「自己」の可能性を見失って「絶望」したイッポリートにとっては、「他者の生命」も意味をなさなくなってしまって」いたのです(前掲書、217頁)。

この意味で興味深いのは、三島との討論の際に学生Eが、次のような鋭い質問を投げかけていました。 「たった一人でこの世の中を全(すべ)て破壊できると考える人間が、自分の考えを貫こうとして、この全世界を破壊するしかない」と考えて、「合理的に、自分の自殺と他の全世界の人々を滅ぼすということを同時にやったとして、それで全世界を滅ぼすことになっても、ボルテージの高まったその個人に意義はあるのですか。それを伺いたいのです」(206)。

この質問は私が『白痴』のイッポリート から受けた印象とも重なっていました。 彼が考えたのは「無差別殺人」のことでしたが、核の時代の現代においてそれは核兵器の使用になると思えるからです。

こうして、「憲法」を変えるために三島由紀夫が東部方面総監を人質にして自衛隊のクーデターを呼びかけ、その後、割腹自殺をした事件から私は激しい衝撃を受けたのですが、その一因は 椎名麟三が自殺した芥川龍之介が遺書の『或旧友へ送る手記』で、「僕の手記は意識している限り、みずから神としないものである」と記していることに注意を促していたことにもありました。

つまり、「三島事件」を知った時には、三島が芥川とは反対に「みずから神」となるために自刃をしたことに強い反発を覚えたのです。

その後、この衝撃的な事件の印象は薄れましたが、その関心は「昭和維新」を掲げた2・26事件に遭遇した若者を主人公とした堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の考察 や、原爆パイロットをモデルにして原水爆の危険性を考察した『審判』の考察へと向かうことになりました。

 次回の「チェコ事件でウクライナ危機を考えるⅡ」では、ドストエフスキーについての言及もある堀田善衞の小国の運命・大国の運命』を詳しく考察することにより、彼の社会主義観や文明観に迫りたいと思います。

(2022年3月21日、加筆、改訂)

三島由紀夫作品でウクライナ危機を考える――「民族的憤激」の危険性

はじめに 「老い」について

ロシア軍によるウクライナ侵攻は今も続いており、「チェコの春」の際と同じような事態が起きていることに、「戦争反対」の声を挙げることしかできないことに暗澹たる思いに捉われる。

しかし、長い間ロシア文学だけでなく、ロシアの文化や歴史の研究に携わってきた者としては、やはりこの事態に対して「自分の声」で明確な意見を表明することが必要だと思える。

それゆえ、本稿では憲法改正のために自衛隊の決起を呼びかけた後で割腹自殺した三島由紀夫の文化論、歴史観と原爆観をとおして、無謀で野蛮なウクライナ侵攻を開始したプーチン大統領の心理に迫りたい。

二人の歴史観や原爆観を比較するのは奇異と思われる人もいるかもしれないが、後に見るように、昭和初期に唱えられた日本を盟主とする「大東亜共栄圏」の思想は露土戦争の頃に盛んになった「全スラヴ同盟」の思想から強い影響を受けていると思われるからである。

半世紀前の1970年に三島事件が起きた際に、強い衝撃を受けた私はすぐに血盟団事件をヒントとした『奔馬』などが収められている三島の最後の大作『豊饒の海』を読むことで、彼の行動の背景を知ろうとした。

しかし、神風連の乱にも度々言及されていることで『奔馬』の思想的な背景は分かったものの三島の行動の原因を解明することはできず、冒頭の長編小説『春の雪』や、第三作『暁の寺』や『天人五衰』からも文才の豊かさは感じたがあまり内容を理解できずに、それ以降は三島の作品からは遠ざかっていた。

人名もなかなか思い出せないような記憶力の衰えを感じるようになった70歳を過ぎてから、『豊饒の海』を久しぶりに再読したところ、ボディビルなどで鍛えた肉体を見せる事を好んだ三島が45歳の若さで、 転生する各巻の主人公の「観察者」であり、作品全体の主人公でもある本多の肉体の衰えへの怖れや「老い」への不安を見事に描いていたことに感心した。

そして、同じように柔道などの格闘技の写真を掲載させることを好むロシアのプーチン大統領が私より3歳若いだけであることに気付いて、長年、権力の居続けているこのような老人に安倍元首相がすり寄っていくことに不安も覚えた。

1,『豊饒の海』における「美意識」の問題と「テロ」の思想

最初の巻『春の雪』からは三島が若い頃に影響を受けた「日本浪曼派」の 「美意識」 が伝わってくるが、1961年(昭和36年)に二・二六事件に題材をとった『憂国』を発表した三島は、1966年にも「神帰(かむがかり)」となる川崎青年をとおして、自分が「道義的革命」と考えた二・二六事件で処刑された青年将校や特攻隊員の「神霊」(注:憑依した霊)の声を聴いた主人公の思いが、能の修羅物の2場6段の構成で描かれている『英霊の聲』を発表していた。

翌年に発表した「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」で
三島は 、 キリスト教と比較しつつ「テロ」行為だけでなく、自殺を美化する根拠をこう説明していた。

「天皇と一体化することにより、天皇から齎される不死の根拠とは、自刃に他ならないからであり、キリスト教神学の神が単に人間の魂を救済するのとはちがって、現人神は、自刃する魂=肉体の総体を、その生命自体を救済するであろうからである。」(『文化防衛論』ちくま文庫、116)。

この記述だけでは分かりにくいが、『日本浪曼派批判序説』で「耽美的パトリオティズム」の問題を考察した評論家の橋川文三は、「日本の右翼テロリストは、その死生観において、ある伝統的な信仰につらぬかれていた」ことに注意を促してこう記していた(「テロリズム信仰の精神史」)

「それは、かんたんにいえば、己の死後の生命の永続に関する楽天的な信念であり、護国の英雄として祭られることへの自愛的な帰依」であり、「このような固有の神学思想は、一定の条件のもとでは、容易にいわゆる人権の抹殺をひきおこし、しかもそこに責任や罪を感じることのない心性をつくり出す」。

この記述に注目するならば、現代の日本社会の問題を描いた諸作品の後で、堀田が一転して、二・二六事件との遭遇や自殺についての考察を記した自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を描き始めたのは、不安な時代に再び「日本浪曼派」的な思想が日本で拡がるのを予感して、昭和初期の時代を振り返ろうとしたためではないかと思える。

なぜならば、保田與重郎と小林秀雄とが「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促していた評論家の橋川文三は、「保田の主張に国学的発想がつよくあらわれてくるにつれて、一切の政治的リアリズムの排斥、あらゆる情勢分析の拒否がつよく正面に押し」だされるにいたると記してからである。

実際、この事件と特攻隊の兵士の霊たちの呪詛を描いた『英霊の聲』は、亡くなった者たちの無念の思いが強く伝わり迫力のある作品となっているが、敵と戦うことが主な任務である軍人の視点には国を思う「純粋さ」はあっても広い国際的な視野や 戦争の被災者 への同情はない。

そのことを痛感するのは、後に見るように「唯一の被曝国」としての「輝かしい特権」として、戦前の貴族階級の子弟のための学習院で学んでいた三島には、「核武装」の権利を主張する一方で、実際に被爆した人々の肉体的、精神的な苦しみの考察が全く欠けているからである。

それは堀田善衞が太平洋戦争時の国策通信会社の社員を主人公とした『記念碑』で描いた特高警察の井田の観察に似ている。井田は「開戦後、わずか七ヵ月」のミッドウェイ海戦で大戦果を挙げたという発表があったが、「本当は我が方の全滅的敗戦」であったと知らされたときにも、「敗戦思想の一掃」を任務とする彼は「そんな風な事実など、知りたくもなかった」と記されているのである。

同じことはプーチン氏にも ある程度当 てはまるであろう。残念ながら、詳しい経歴には不案内だが、旧ソ連の情報将校であった彼は、いわゆるソ連の「赤い貴族」に属しており、やはり庶民階級の状況を詳しく知りえるような環境ではなかったと思える。さらに、エリツィンから権力を受け継ぎ、長年、権力の座にいるためにイエスマンばかりとなって最近では国内での情報統制や反対派への言論弾圧を強めていたプーチンにも正確な情報は入らず、 ウクライナ侵攻を命令した際には正確な情勢判断が出来なくなっていたのではないだろうか。

2,「大東亜共栄圏」と「全スラヴ同盟」の思想

ここで注目したいのは、長編小説『夜の森』でシベリア出兵は「日清日露などとはまるきり性質のちがう(……)日本の王道主義を世界にひろめる思想の戦争」(三・二五九)なのだと熱弁をふるう少尉をとおして、この出兵が「五族協和」などの「満州国の理念」を讃えて行われた満州事変にもつながっていることを示唆していたことである。

実際、「日本浪曼派」の保田與重郎は「『満州国皇帝旗に捧ぐる曲』について」で、「八紘一宇」などの理念が唱えられた「満州国の理念」を、「フランス共和国、ソヴエート連邦以降初めての、別箇に新しい果敢な文明理論とその世界観の表現」と讃えることになる。

しかし、このような「文明理論」はクリミア戦争後に唱えられて露土戦争の頃に盛んになったダニレフスキーのロシアを盟主とする「全スラヴ同盟」の思想から強い影響を受けていた。

すなわち、かつてドストエフスキーとともにフーリエの思想を広める会で活動していたダニレフスキーは、大著『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概要』(1869年)の第一章でクリミア戦争がどうして勃発したのかを問題とし、この戦争がこの前年に即位したナポレオン三世が国内の歓心を得るために聖地エルサレムにおけるカトリック教徒の特権をトルコに要求し、スルタンも一七七四年の条約に反してこれを認めて、ギリシア正教徒の権利の復活を実行しなかったために起きたと主張した。

そして、ナポレオン三世にとってこの戦争が「ナポレオン王朝を不信と悪意をもって見ているヨーロッパと和解させる」ために必要であったことを強調し、フランス政府は「戦争の機会を探していたのだ」と説明したダニレフスキーは、ポーランドの分割や二月革命以後のハンガリーの鎮圧の際には、オーストリアやプロシアなど西欧の諸国も関わっていたにもかかわらず、ロシアのみがその反動性を強く非難されており、ここでは不公平な「二重基準」が用いられると批判した。

 それゆえ、ダニレフスキーは「弱肉強食」の論理を正当化する西欧列強から滅ぼされないためには、「祖国戦争」に勝利したロシア帝国を盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して西欧列強と対抗すべきだと主張した(拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、157~163頁参照)。

 しかも「祖国戦争」に勝利したロシアは、ポーランドを祖国の防衛線と捉えてその併合を正当化していたが、「日露戦争」の勝利後には日本も韓国の併合を同じような視点から正当化していたのである。

露土戦争を「十字軍」と捉えたドストエフスキーの『悪霊』や『作家の日記』にも強い影響を与えたダニレフスキーの歴史理論については、テーマが拡散するので拙著では保田與重郎が高く評価した「文明理論」の背景には触れなかったが、昭和初期に小林秀雄のドストエフスキー論が熱狂的に受け入れられた理由には、このような時代的な背景もあったと思える。

一方、『罪と罰』で「非凡人の思想」に囚われて、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」を殺害したラスコーリニコフの行動と苦悩を、他者との激しい議論や、主人公の感情や夢の描写をとおして、「他者を殺すこと」と「自分を殺すこと」の問題を極限まで考察したドストエフスキーは、そのエピローグで「人類滅亡の悪夢」を描き、次作の『白痴』では死刑反対論者のムィシキン公爵を主人公として、混沌とした露西亜社会の問題を浮き彫りにしていた。
 感情の起伏の激しい思想家でもあったドストエフスキーは西欧でロシア皇帝の暗殺未遂事件を知った後では 『悪霊』 などの作品も書いたが、晩年の大作『カラマーゾフの兄弟』』では、「異端審問長官」の危険性も明らかにしていた。

 彼の問題意識を真摯に受け継いだのが、長編小説『審判』で原爆パイロットを主人公の一人とし、被爆者の家族の苦しみも描き、『若き日の詩人たちの肖像』で昭和初期の「祭政一致」的な国家体制の問題点を詳しく描いて、戦争と原爆の危険性を明らかにした 作家の堀田善衞であった。(拙著『堀田善衞とドストエフスキー』群像社)。

3,三島由紀夫とチェチェン武装勢力指導者の神風観と核兵器観

問題はドストエフスキーにも強い影響を与えたダニレフスキーの「文明理論」や西欧列強への恐怖感がその後ソ連でも受け継がれて、ハンガリーや「チェコの春」の際の侵攻につながり、さらにソ連の崩壊後に政治学者ハンチントンの「文明の衝突?」(1993年)がアメリカだけでなく、西欧社会でも拡がったことで、ロシアなどで軍事同盟であるNATOに対する警戒心や恐怖心が強まったことにも注意を払っておく必要があるだろう。

むろん、このような反応を無用な恐怖と一笑に付すこともできるが、第二次世界大戦で多大な被害を受けたイスラエルが そのトラウマからパレスチナ問題などで過激な反応をすることがあるように、プーチンが戦後の生まれとはいえ100万人を超えるともいわれるような多大な犠牲者が出たペテルブルグで誕生していたことにも留意して、NATOには慎重な対応が求められるべきであったとも思える。

第二次世界大戦時のヒトラーや日本のように「恐怖心」や「自尊心」から、自滅をも厭わないような戦争を仕掛けることもあるからである。

たとえば、チェチェン紛争が勃発した時期にイギリスでロシアと日本の近代化の比較を研究していた私は、BBCやイギリスの新聞をとおして、圧倒的に不利な状況だったチェチェンの独立派武装勢力が、 ロシア軍に対して「カミカゼ」と称する自爆攻撃を行っていたことに驚かされた。

一方、 三島は『英霊の聲』で二・二六事件の将校の英霊に語らせただけでなく、「戦(いくさ)の敗れんとするときに、神州最後の神風を起さんとして、命を君国に献げた」神風特別攻撃隊の勇士の英霊に、「われらはもはや神秘を信じない。自ら神風となること、自ら神秘となることとは、そういうことだ。…中略…その具現がわれらの死なのだ」と神道的な視点から「神風」の意義を語らせていた。

さらに、「(日本は)単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない」と主張した三島は、「核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つている。彼らは言ひわけなしに、それを作ることができない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起こすべきではないのか」とも問い質していた(「私の中のヒロシマ」『三島由紀夫全集』第34巻、448頁)。

威勢のよい「核武装論」だが、 注意を払わなければ成らないのは、このような主張は自分たちの権利が武力で押さえつけられていると考え、自分たちには「復讐する権利」があると考えた者もそのように考える危険性がある。実際にチェチェン独立派武装勢力の指導者ドゥダーエフは、自分たちが核を持ったら「ロシアには核攻撃をしかける」とも語っていたのである。

アメリカののど元とも言えるキューバに核ミサイルが配置されそうになった際には、最悪の場合は核戦争さえも予想されるようなキューバ危機が起きたが、トランプ氏が大統領だった2019 年 2 月には、アメリカが「旧ソ連との間で結んだ INF(中距離核戦力)全廃条約からの一方的離脱を通告」したことで、隣国ウクライナが軍事同盟のNATOに参加することには、「ロシアの安全保障上の懸念」が一層強まっていた。

 日本ではロシア軍のウクライナ侵攻に乗じて、選挙に向けて「改憲」論だけでなく、三島が1967年に記した「核武装論」に似た言動が維新や自民党安倍派議員からなされるようになってきているが、「被爆国」が核武装に踏み切れば、旧植民地などの弱小国はこぞって核武装をしようと望むことになるだろう。

長年、「核の傘」理論などによって説明されてきたために日本では核への危機感が薄くなっているように思われるが、 大国同士の軍事バランスが保たれている状況でのみ「核抑止の思想」が成立するのであり、昭和初期の日本軍人たちの呪詛を汲んで表明された三島の「核武装論」の危険性は、現在、精神的に追い詰められて無謀で野蛮な攻撃に踏み切った民族主義的な政治家・プーチン大統領の心理にも通じていると思える。

 それゆえ、三島的な「民族的憤激」の危険性については 、堀田善衞の『小国の運命と大国の運命』を読み解く「チェコスロヴァキア事件でウクライナ危機を考える」の稿で再び考察することにし、 「『文化防衛論』と『方丈記私記』」はその後に移動する。

(2022年3月13日 改訂と改題。 14日および17日 加筆と移動。 3月28日 改題、
4月9日 加筆と改題)

(4)「耽美的パトリオティズム」の批判――「美神との刺違へ」という表現と林房雄の「玉砕」の美化

『ドーダの人、小林秀雄』で著者は、1980年にも「小林秀雄信者」の教員による『様々なる意匠』が出題されるなど、当時はまだ「かなりの数のインテリが「参りました! 凄いです。教祖様!」と平伏していた」ことに注意を促している。

そのような状況を踏まえて、それゆえ作家の丸谷才一が「小林秀雄の文章を出題するな」というエッセイを発表した際には「よくぞ言ってくれたと快哉を叫んだ」と鹿島氏は記しています。

ただ、小林秀雄が後に「日本会議」の代表者の一人にもなる小田村寅二郎の招きに応じて1978年まで学生向けの講演を5回も行っていたために、その講演を聞いた若者たちのなかから戦前の日本を理想視するような教員や政治家もでており、新保祐司氏は小林秀雄の「モオツァルト」にも言及しながら、皇紀2600年の奉祝曲として作られたカンタータ(交声曲)「海道東征」を賛美しています。

さらに、古い戦前への価値観への回帰という意図を隠して美しいスローガンによる「改憲」のプロパガンダを行っていた「日本会議」系の論客から強い影響を受けている自民党や維新の右派の議員は、「改憲」だけでなく、「核武装」への意欲も示しています。

しかし、問題は太平洋戦争が始まる前年の8月に行われた鼎談「英雄を語る」(『文學界』)で作家の林房雄から「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけられた小林秀雄が「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ」と続けていたことです。つまり、小林は山本五十六などの海軍の将軍が、日米の国力や戦力を比較して長期戦になれば必ず負けると判断していたのに反して、単なる感情論で戦争の開始に賛成していたのです。しかも、戦後に「大東亜戦争肯定論」を『中央公論』(1963~1965)に連載してこの戦争を美化することになる林房雄は、小林の答えを聞くと「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣い」 と語っていました。

それゆえ、小林秀雄の『本居宣長』を一か月かけて読んだ堀田善衞は、「あなたの宣長さんを読みました。引用されている宣長の文章には、悉く感服しましたが、それにつけてあるあなたのコメントは、よくわかりませんでした。妙な神秘化はいけませんよ」と小林に直接語ったと記しているのです」(『天上大風』)。

鹿島氏は小林秀雄のランボー論に見られる「美神との刺違へ」的イメージが「二・二六の青年将校などの同世代人にも共通して見られる」ことを指摘していますが、『日本浪曼派批判序説』で保田與重郎と小林秀雄とが「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促した評論家の橋川文三は、「保田の主張に国学的発想がつよくあらわれてくるにつれて、一切の政治的リアリズムの排斥、あらゆる情勢分析の拒否がつよく正面に押し」だされるにいたると記していました。

そして、論文「テロリズム信仰の精神史」では、2・26事件を起こした将校など「日本の右翼テロリストは、その死生観において、ある伝統的な信仰につらぬかれていた」とし、こう続けているのです。

 「それは、かんたんにいえば、己の死後の生命の永続に関する楽天的な信念であり、護国の英雄として祭られることへの自愛的な帰依」であり、「このような固有の神学思想は、一定の条件のもとでは、容易にいわゆる人権の抹殺をひきおこし、しかもそこに責任や罪を感じることのない心性をつくり出す」 (『橋川文三 著作集5』筑摩書房) 。

 先にも見たように鹿島氏は小林秀雄のランボー論に見られる「美神との刺違へ」的イメージが「二・二六の青年将校などの同世代人にも共通して見られる」ことを指摘していますが、 それは「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣い」と語って「玉砕」を美化した林房雄などの論客だけでなく、『永遠の0』に記された「死の美学」に魅了される読者にも当てはまる可能性があります。

堀田善衞は長編小説『審判』で核戦争が地球を滅ぼす危険性について詳しく考察していましたが、ロシア軍のウクライナ侵攻に乗じて、「核武装」を煽ることで戦前の価値観を復活させようとしている政治家や論客に引きずられて「改憲」をすることは、日本発の地球規模の悲劇につながる危険性が高いと思われます。

(2022年3月6日、改訂と改題)

「小林秀雄神話」の解体(3)――「人生斫断家」という定義と2・26事件

3、「人生斫断家」という定義と2・26事件

鹿島茂氏は神田で売られていた古本の中に「『地獄の季節』を見つけて衝撃の出会いを経験してからすでに二十二年近くを経過している」にもかかわらず、小林秀雄が「烈しい爆薬が」「見事に炸裂」したといった「妙に青臭い」表現を用いているのはなぜだろうかと問いかけています。

恐らくその一因は著者も視野に入れている時代との関りを考慮することで明らかになるでしょう。すなわち、小林が『地獄の季節』を翻訳したのはロンドン海軍軍縮条約が批准された1930年でしたが、「統帥権干犯」問題で浜口首相が銃撃され、海軍の「艦隊派」も北一輝などの右翼やマスコミ対策などをとおして条約反対の機運を盛り上げたことで、一気に「国粋主義」的な機運が高まって翌年には満州事変が起きていたのです。

小林がサント・ブーヴの『我が毒』を翻訳した1939年にはノモンハン事変の敗北、アメリカの対日経済制裁、独ソ不可侵条約の締結」などの大事件が相次ぐ一方で、「国内的には日本浪曼派の台頭など、日本回帰の風潮は強まり」、小林自身も「着実に日本の伝統へと向かいつつあった」(52)のです。

それゆえ、保田與重郎主宰の「日本浪曼派」を考察した評論家の橋川文三は、小林秀雄の美意識が「むしろ過剰な自意識解析の果てに、一種の決断主義(太字の個所は原文では傍点)として規定されるのに反し、保田の国学的主情主義は、(……)むしろ没主体への傾向が著しい」と指摘し、「満州国の理念」を賛美した「日本浪曼派」の「保田と小林とが戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在であった」と記していました(『日本浪曼派批判序説 耽美的パトリオティズムの系譜』、講談社文芸文庫)。

入学試験のために主人公が上京した翌日に、皇道派の将校たちが「昭和維新、尊皇斬奸」を掲げてクーデターを起こそうとした2・26事件と遭遇したことが描かれている『若き日の詩人たちの肖像』では、中学に入学した年に勃発した満州事変の後では「事変という奴は終わりそうもない」と主人公が感じていたことも描かれています。

『若き日の詩人たちの肖像』の主人公は、留置場に理由もなく入れられた際には芥川龍之介の遺書『或旧友へ送る手記』の文章を思い出して憤慨したことが記されていますが、なんとか「出口」を見つけたいと願っていた若き主人公にとって、芥川が自殺という手段でこの世から去っていたことは、腹立たしいことだったのです。

一方、小林秀雄がランボーを「人生斫断家」と定義していたことに注目した鹿島茂は、「斫断」というのは辞書にはないので「同じ意味の漢字を並べて意味を強調する」ための造語で、「いきなりぶった切る」という意味を出したかったのではないかと記しています(170)。

そして著者は小林秀雄のランボー論が流行った理由を、当時の時代状況などにも注意を払いながら「昭和維新」を熱心に論じあい、「斎藤実や高橋是清を惨殺した二・二六の将校」と、小林が「その深層心理ないしは無意識において」は、「それほどには違っていなかったのではあるまいか?」と推定し(186)小林秀雄訳『地獄の季節』に見られる「美神との刺違へ」的イメージが二・二六の青年将校などの同世代人にも共通して見られる」と書いているのです(263)。

 きわめて大胆な仮定ですが、たしかにランボーの詩について「彼は美神を捕らえて刺違へた」と解釈し、戦闘用語の「爆薬」とか「炸裂」という単語を用いていた小林の「いきなりぶった切る」という意味の「斫断」という単語は、「一思いに打ちこわす、それだけの話さ」と語り、「いやなによりも権力だ!」と続けていたラスコーリニコフの言葉を想起させます。 

つまり、ドストエフスキーはラスコーリニコフに「凡人」について、「服従するのが好きな人たちです」と語らせたドストエフスキーは「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。(……)自由と権力、いやなによりも権力だ! (……)ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(江川卓訳)とも語らせていました。

さらに、1940年には『我が闘争』の短評でヒトラーの考えを賛美した小林秀雄が、その翌月に『文学界』に掲載された作家・林房雄や石川達三との鼎談「英雄を語る」では、ナポレオンを「英雄」としたばかりでなく、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていました。

一方、『罪と罰』の創作ノートにはラスコーリニコフには「人間どもに対する深い侮蔑感があった」と書かれています。ドストエフスキーはラスコーリニコフに、自分の「権力志向」だけではなく、大衆の「服従志向」にも言及させることでラスコーリニコフのいらだちを見事に表現しえており、それゆえ小林秀雄の『罪と罰』論も主人公の苛立ちをも見事に指摘したことで、同時代の若者たちの共感をも勝ち得ることができたのです。

それとともに1936年に発表した「文学の伝統性と近代性」というエッセイでは中野重治などを批判しつつ、「伝統は何処にあるか。僕の血のなかにある。若し無ければぼくは生きていないはずだ。こんな簡単明瞭な事実はない」と書き、「僕は大勢に順応して行きたい。妥協して行きたい」とも記すことになる小林は、芥川を厳しく批判することですでに時勢に順応しようとしていたことも感じられるのです。

「小林秀雄神話」の解体(2)――『地獄の季節』の誤訳とムィシキンの形象の曲解

2、『地獄の季節』の誤訳とムィシキンの形象の曲解

ランボオの『地獄の季節』という題名は正しくは「地獄に於ける或る季節」であると小林秀雄自身が後に断っていることに注意を促して(39)、彼の翻訳が「ほとんど『創作』に近くなっていた」と指摘した著者はこう続けています。

「ところが、その訳文の「月並みならざる」な文体が同じような精神の傾きを持った同時代の青年たちに圧倒的な熱狂をもって歓迎され、小林は一躍時代のヒーローとなり、以後五十年間、一九八〇年代に時代が転換するまで「文学の神様」の座にとどまりつづけた」のである。」(41)

その理由は小林が時代を先取りするような形で 『地獄の季節』を訳出したことにあると思いますが、著者は小林秀雄が1947年3月に書いた「ランボオの問題」(現タイトル「ランボオⅢ」)冒頭の文章を引用することで小林との出会いの意義を考察しているので引用しておきます。

「僕が、はじめてランボオに、出くわしたのは、廿三歳の春であつた。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いてゐた、と書いてもよい。向こうからやつて来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何の準備もなかつた。ある本屋の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられてゐたか、僕は夢にも考へてはゐなかつた。而も、この爆弾の発火装置は、僕の覚束ない語学の力なぞ殆ど問題ではないくらゐ敏感に出来てゐた。豆本は見事に炸裂し、僕は、数年の間、ランボオといふ事件の渦中にあつた。それは確かに事件であつた様に思はれる。文学とは他人にとつて何であれ、少くとも、自分にとつては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さへ現実の事件である、とはじめて教へてくれたのは、ランボオだつた様にも思はれる」(135-136)。

「後続世代」も「小林秀雄訳のランボー」との出会いに同じような衝撃を受けており、後に「小林秀雄の訳文の完膚なきまでの否定者となった」フランス文学者の篠沢秀夫も、この訳が「白水社から刊行されて以来、戦前戦後を通じて、不安な青春の精神に強い衝撃をあたえる読み物として重きをなしてきた」と書いていることに注意を促した著者は、小林が「さういふ時だ、ランボオが現れたのは、球体は砕けて散つた。僕は出発する事が出来た」と書いている個所を引用して、それまでは「ボードレール的なガラス球体の中に閉じ込められ」ていたような状態だったのであろうと推定しています(161)。

そして、当時の木版画を多数掲載することで当時の政治や社会や経済、文化なども視覚的に紹介しつつ、『レ・ミゼラブル』の内容と意義とを分かり易くかつ伝えた『「レ・ミゼラブル」百六景』を1987年に出版していた鹿島氏は、『ドーダの人』で一世を風靡した小林秀雄訳の『地獄の季節』を篠沢秀夫訳の『地獄での一季節』と比較しながら詳しく検証し、次のように記しているのです(161)。

すなわち、「夜は明けて、眼の光は失せ、顔には生きた色もなく、行き交ふ人も、恐らくこの俺に眼を呉れるものはなかったのだ。/ 突然、俺の眼に、過ぎて行く街々の泥土は、赤く見え、黒く見えた。」という個所をランボーが『レ・ミゼラブル』を踏まえて描いていることを無視して、小林は「ランボーの『私小説』として誤読し、これを『ランボー体験』として敷衍してしまたった」(167)。

こうして著者は、小林秀雄が「ランボーを誤訳する前に誤読し、いわば、ランボーの翻訳というかたちを借りて『創作』を行った」とし、「この意味で、『他人を借りて自己を語る』という小林秀雄の批評態度はすでにランボーの段階から『確立』されていたことになる」と書いているのです。

同じことは小林秀雄の『罪と罰』理解にも当てはまります。「高利貸し」の問題が事件の発端となっていたことや弁護士ルージンとの口論や司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて『罪と罰』を考察した小林は、「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」とし、ラスコーリニコフには「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったと断言しているのです(全集、6・45)。

ドストエフスキーがエピローグの「人類滅亡の悪夢」を見た後のラスコーリニコフの更生を示唆していたことに留意するならば、小林秀雄の『罪と罰』論がドストエフスキーの作品を分析した解釈ではなく、自分の心情に沿った解釈であったと言えるでしょう。

 このような『罪と罰』の解釈は同じ年に開始した『白痴』論とも連動しており、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない。シベリヤから還つたのだ」という大胆な解釈をした小林は(全集、6・63)、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と記して、二つの作品の主人公の同一性を強調していました。

その理由について小林は死刑について語った後でムィシキンが「からからと笑ひ出し」たことを、「この時ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」とし、「作者は読者を混乱させない為に一切の説明をはぶいてゐる」ので、「突然かういふ断層にぶつかる。一つ一つ例を挙げないが、これらの断層を、注意深い読者だけが墜落する様に配列してゐる作者の技量には驚くべきものがある」と説明しています(全集、90-91)。

 こうして小林は、この場面を「全編中の大断層の一つ」として指摘することで、死刑や死体などの「無気味さ」について面白そうに語っていたムィシキンの異常さを強調しているのです。しかし、これは自分の解釈へと読者を「誘導」するような小林の「創作」的な解釈で、「注意深い読者」ならば、すぐにその誤読に気付くはずです。

 なぜならば、『白痴』ではムィシキンが死刑廃止論者として描かれていますが、1860年の『灯火』誌の第三号には死刑の廃止を訴えたユゴーの1829年の作品『死刑囚最後の日』がドストエフスキーの兄ミハイルの訳で掲載されていました。ドストエフスキー自身も『作家の日記』においてこの作品について、「死刑の宣告を受けたものが、最後の一日どころか、最後の一時間まで、そして文字通り最後の一瞬まで手記を書き続ける」ことが現実にはありえないにしても、ここに描かれているのは死刑囚の心理に迫り得ていることを高く評価して、これを「最もリアリスチックで最も真実味あふれる作品」と位置づけているのです(高橋誠一郎、『欧化と国粋 日露の「文明開化」とドストエフスキー』参照)。

それらのことに注目するならば、殺人を犯した後も「罪の意識も罰の意識も」現れなかったラスコーリニコフとムィシキンとの同一視は不可能だといえるでしょう。1861年にフィレンツェでユゴーの大作『レ・ミゼラブル(悲惨な人々)』を手に入れると街の見学も忘れて読みふけり、翌年にはこの長編小説と『ノートルダム・ド・パリ』についての詳しい紹介を『時代』に掲載したドストエフスキーは、その筋や人物体系を『罪と罰』に取り入れ(井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉の生命』参照)、『白痴』にも組み込んでいるのです。