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なぜ今、『罪と罰』か(9)――ユゴーの『レ・ミゼラブル』から『罪と罰』へ

前回はまず、『罪と罰』で「法律」の問題を深く考察することになるドストエフスキーが、言論の自由がほとんどなかったニコライ一世の時代に、第一作『貧しき人々』で「教育制度」の問題を深く考察していたばかりでなく、裁判のテーマも取り上げていたことに注意を促しました。

その後で文芸評論家の小林秀雄が『貧しき人々』など前期の作品をほとんど論じていないことや、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注――ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈したことの問題点を指摘しました。

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コゼット

(少女・コゼットの絵、ユーグ版より。図版は「ウィキペディア」より)

一時期、熱心に読んでいた小林秀雄のドストエフスキー論に疑問を抱くきっかけになった一因は、フランス文学者にもかかわらず、小林氏がシェストフには言及する一方で、『罪と罰』や『白痴』を書く際にドストエフスキーが強く意識していたユゴーの『レ・ミゼラブル』については、ほとんど沈黙していたことにもあると思われます。

『白痴』のムィシキンについて、「使嗾する神ムイシキン! けっして皮肉な読みではありません。ムイシキンは完全に無力どころか、世界の破滅をみちびく役どころを演じなくてはならない」と記した亀山郁夫氏も、戦後、実証的な研究がなされて、ドストエフスキーの『レ・ミゼラブル』観についても、多くの文献が出ていたにもかかわらず、このことにはまったく言及していません。

ドストエフスキーの『レ・ミゼラブル』観を著名な二人がまったく無視していたのは、その発言に言及することは自分の解釈を根底から崩すことになる危険性があることを察知していたためだろうと私は考えています。

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実は、初めてのヨーロッパへの旅行で1862年に出版されたばかりのこの作品をフィレンツェで手に入れたドストエフスキーは、街の見学も忘れて読みふけっていました。

そして、兄ミハイルとともに発行した雑誌『時代』の9月号に掲載された『ノートルダム・ド・パリ』の翻訳の序文でドストエフスキーは、「(ユゴーの)思想は十九世紀のあらゆる芸術の根本的な思想」であると高く評価し、それは「状況や数世紀にもわたる停滞、社会的偏見の圧迫によって不当に押しつぶされた者、滅亡した者の復興」であると説明し、「ユゴーはこうした〈復活〉のイデアの我らの世紀の文学において最も重要な伝道者である」と記していたのです。

さらに、結婚後に出発したヨーロッパ旅行の際に『レ・ミゼラブル』を読んだ妻のアンナは、夫が「この作品をとても高く評価していて、楽しみながら何度も読み返して」いたばかりでなく、「この作品に描かれた人物たちの性格のいろんな面を私に指摘し、説明してくれた」と日記に記していました。

このようなアンナ夫人の記述に従うならば、このときドストエフスキーは主人公のジャン・ヴァルジャンだけでなく、裕福な学生の恋人から身重の身で捨てられ、娘を育てるために自分の豊かな髪や歯などを徐々に売って、ついには売春婦にまで身を落とすことになったファンティーヌの悲劇やその娘コゼットについても妻に語っていたと思われるのです。

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注目したいのは、明治時代の評論家・北村透谷が評論「『罪と罰』の殺人罪」(1893年)において、「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中(なか)に、学問なく分別なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と書いていたことです。

この記述を初めて読んだ時には、「憲法」がなく言論の自由も厳しく制限されていた帝政ロシアで書かれた長編小説『罪と罰』に対する理解力の深さに驚かされたのですが、透谷とその時代を調べるうちに、このような透谷の言葉は単に彼の鋭い理解力を示すものではなく、権力者の横暴を制止するために「憲法」や「国会」の開設を求める厳しい流れの中での苦しい体験と考察の結果でもあったことが分かりました。

実は、自由民権運動に対する厳しい圧迫が続く中で、民権運動が下火になった状況下で過激化した大井憲太郎らのグループが、朝鮮での独立運動を支援するために、強盗をして資金を得ようとした際に、透谷も友人の大矢正夫から参加を求められていたのです。

しかし透谷は、「目的」を達するためとはいえ、強盗のような「手段」を取ることには賛成できずに、苦悩の末、頭を剃り盟友と決別し、その後、ユゴーのごとき文学者となろうとしていました。

このような透谷の思いは、「罪と罰(内田不知庵譯)」(1892年)における「嘗(か)つてユーゴ(ママ)のミゼレハル(ママ)、銀器(ぎんき)を盜(ぬす)む一條(いちじょう)を讀(よ)みし時(とき)に其(その)精緻(せいち)に驚(おどろ)きし事(こと)ありし」という記述にも現れています。

その透谷の追悼記事を新聞『小日本』に書いた可能性の高い俳人の正岡子規も全集で4頁ほどですが、ジャン・ヴァルジャンがミリエル僧正を殺そうとした際に、月の光に照らされた僧正の微笑を見て、殺害を止めるという「良心」の重要性が示唆されている重要な箇所の短い部分訳をしていました。

しかも、1897年に子規と会った作家の佐藤紅緑(こうろく)は、ミリエル僧正の逸話に強い関心を示していた子規が、物騒であるとは感じつつもミリエル僧正にならって人が入ってくることができるように「裏木戸の通行を禁止」せずに、そのままにしてもいると語っていたことを証言しています。

このことは俳人の正岡子規も『レ・ミゼラブル』において核心ともいえる重要な役割を果たしていた「良心」の問題を深く認識していたことを示していると思えます。

なぜならば、透谷よりも1年前に松山で生まれた子規も、自由民権運動が盛んな頃に政治への関心を強めて1882年の12月には北予青年演説会で演説し、翌年の1月には「国会」と「黒塊」とを重ねて国会の意義を訴える「天将ニ黒塊ヲ現ハサントス」という演説を行っていたからです。

そして、それを校長から咎められたことで松山中学を退学し、上京して東京帝国大学に入学した子規は、北村透谷が雑誌『平和』を創刊した年の12月1日に東京帝国大学を中退して新聞『日本』に入社していました。

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作家の司馬遼太郎氏は夏目漱石の長編小説『三四郎』について、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と記し、「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。…中略…下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした」と指摘しています(『本郷界隈』)。

そして、1872年にできた「司法職務定制」により、「弁護士の前身といえる」「代言人という職と機能が」成立したことを指摘した司馬氏は、1881年に明治大学の前身である明治法律学校が出来たのをはじめ、英吉利法律学校(後の中央大学)や日本法律学校(後の日本大学)が次々と設立されていることに注意を促し、「明治は駆けながら法をつくり、法を教える時代」だったと記しているのです。

この説明は『三四郎』の社会的背景だけでなく、名門サンクト・ペテルブルク大学の法学部を中退したラスコーリニコフを主人公とした『罪と罰』の社会的背景をも説明し得ていると思えます。

母親のプリヘーリヤは手紙の中で、妹のドゥーニャが首都に法律事務所を開こうとしている弁護士ルージンと結婚すれば、ラスコーリニコフもやがて法律事務所の「共同経営者にもなれるのじゃないか、おまけにちょうどお前が法学部に籍を置いていることでもあるしと、将来の設計まで作っています」と書いていました。

ロシアの官等制度のもとでは八等官になると世襲貴族になれたので、この意味においては貧しい境遇から七等文官にまで独力で出世したルージンは、ラスコーリニコフの輝かしい未来像の一つだったはずでもあったのです。

しかし、ドストエフスキーは首都に法律事務所を開こうとしていたルージンが、「いろいろな新しい傾向とか、改革とか、新思想とか」を見るためには、「やっぱりペテルブルクにいなければなりません」と述べたことを、ラズミーヒンに「科学、文化、思索、発明」などの知識がロシアの知識人にはまだまだ未熟でありながら、それなのに「他人の知識でお茶をにごすのが楽でいいものだから、すっかりそれになれっこになってしまった」と鋭く批判させています。

このような彼の批判は、明治末期の1911年に「内発的」ではない日本の開化を厳しく批判した漱石の「現代日本の開化」という講演ときわめて似ているように私には思えるのです。

リンク→日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって

  (続く)

 

追記: 〈『罪と罰』における「良心」をめぐる劇〉と題した次回の考察で、このシリーズをひとまず終える予定です。

ただ、このシリーズも思いがけず長いものとなりましたので、次のブログ記事には〈「なぜ今、『罪と罰』か」関連記事一覧〉を掲載します。

また、小林秀雄のドストエフスキー観の問題点については、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』で詳しく考察しましたが、私は司馬遼太郎氏も実は小林秀雄の厳しい批判者の一人だったのではないかと考えています。

それゆえ、次回の考察を行う前に〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉と題した評論を「主な研究」に掲載することにしたいと思います。

なお、このシリーズでは詳しい引用文献などは示しません。拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、2002年)や『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)などの注に記した文献を参照して頂ければ幸いです。

 

なぜ今、『罪と罰』か(8)――長編小説『破戒』における教育制度の考察と『貧しき人々』

前回は校長が「教育勅語」に記された「忠孝」の理念を強調する一方で、「憲法」に記された「四民平等」の理念にもかかわらず差別的な考えを持っていたことや、郡視学の甥・勝野文平がつかんだ情報を用いて丑松を学校から放逐しようとしていたことを確認しました。

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『破戒』で日本における差別の問題を取り上げた藤村は、その一方で「人種の偏執といふことが無いものなら、『キシネフ』(引用者注――キシニョフ、キシナウとも記される。モルドバ共和国の首都。1903年にポグロムが起きた)で殺される猶太人(ユダヤじん)もなからうし、西洋で言囃(いひはや)す黄禍の説もなからう」とも記して、国際的な状況にも注意を促していました(第1章第4節)。

この意味で注目したいのは、若きドストエフスキーが言論の自由がほとんどなく「暗黒の30年」と呼ばれるニコライ一世の時代に、第一作『貧しき人々』で、女主人公ワルワーラの「手記」において「権力者としての教師」の問題や寄宿学校における教師による「体罰」や友達からの「いじめ」という差別に深くかかわる問題を描いていたばかりでなく、裁判のテーマも取り上げていたことです。

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田舎で育ったために学校生活にまったく慣れていなかったワルワーラが学校生活の寂しさから、最初のうちは予習もできなかったために、怒りっぽかった女の先生たちから、「教室の隅っこに膝をついて坐らされ、食事も一皿しか貰えない」というような罰を受けたのです。

このような体罰の問題については、『死の家の記録』(1860~62)でより深く考察されることになるのですが、すでにドストエフスキーは『貧しき人々』で、田舎育ちで学校生活に慣れなかったワルワーラを、教師たちが学習の進度を邪魔する「できない子」として体罰を与えるとき、「教室」という一種の「閉ざされた空間」において「いじめ」の問題が発生することを描いていました。

「ワルワーラの手記」では、そのことが次のように記されています。「女生徒たちはあたくしのことを笑ったり、からかったり、あたくしが質問に答えていると横から口をはさんでまごつかせたり、みんなでいっしょに並んで昼食やお茶にいくときにはつねったり、なんでもないことを舎監の先生に告げ口したりするのでした」。

級友たちも「秩序」の受動的な破壊者である「できない子」を批判することで、「権力」を持つ教師に気に入られようとし始めるのです。ワルワーラは「一晩じゅう校長先生や女の先生や友だちの姿が夢にあらわれ」たと書いていますが、それは学校の日常生活の中で次第に追いつめられた彼女の心理状態をもあらわしているでしょう。

しかも、『貧しき人々』の構造で注目したいのは、プーシキンの作品に出会ったことでより広い世界に目覚めるようになる「ワルワーラの手記」がこの作品の中核に置かれることで、それまで自分を「ゼロ」と考えていた中年の官吏ジェーヴシキンが、ワルワーラとの文通や貸し与えられたプーシキンの作品によって、自分の価値を見いだすようになるだけでなく、社会的な意識にも目覚めていく過程も描かれていることです。

たとえば、九月五日付けの手紙では夕暮れ時のフォンタンカの通りを歩く貧しい人々と華やかなゴローホワヤ街やそこを馬車で通る金持ちの人々とを比較したジェーヴシキンは、大金持ちの耳に「自分のことばかりを考えるのは、自分ひとりのために生きていくのはたくさんだ」とささやく者ものがいないことがいけないのであると記しています。

注目したいのは、この作品でも「国庫の利益をなおざりにした」として解雇された元役人ゴルシコーフが、「請負仕事をごまかした商人」と争って、「こね」や「財産」のない者が裁判に勝つことはきわめて難しかったにもかかわらずこの裁判に勝ったものの、それまでのストレスからあまりの興奮に、突然亡くなってしまったという顛末が描かれていることです。

この小説は悲劇的な結末を迎えますが、それは、裁判の公平さや権力の暴走を防ぐことのできるような「憲法」の重要性を、イソップの言葉で読者に示唆するためだったと思えるのです。

(リンク→高橋『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』成文社、2007年)

それゆえ、私は初めて『貧しき人々』を読んだ時には、言論の自由が厳しく制限されていたニコライ一世治下の「暗黒の30年」にこのような小説を発表していた若きドストエフスキーに、「薩長藩閥政府」から「憲法」を勝ち取ろうとしていた日本の自由民権論者たちとの類似性すら感じていたのです。

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一方、日本が国際連盟から脱退して国際関係において孤立を深めるとともに、国内では京都帝国大学で滝川事件が起きるなど検閲の強化が進んだ1932年に発表した評論「現代文学の不安」で文芸評論家の小林秀雄は、芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定する一方で、「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記して、ドストエフスキーの作品を知識人の不安や孤独に焦点をあてて読み解いていました。

しかも、前期と後期の作品との間に深い「断層」を見て、『罪と罰』の前作『地下室の手記』を論じつつ、ドストエフスキーを「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定していた哲学者のシェストフから強い影響を受けていた小林は、前期の作品をほとんど無視し、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(注――ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈したのです。

「報復の権利」を主張したブッシュ元大統領が始めたイラク戦争の翌年の2004年に、ドストエフスキーの作品を「父殺しの文学」と規定する著作を発表した小説家の亀山郁夫氏も主人公たちに犯罪者的な傾向を強く見て、「現代の救世主たるムイシキンは、じつは人々を破滅へといざなう悪魔だった」という独創的な解釈を示しました(『ドストエフスキー 父殺しの文学』上、285頁)。

さらに亀山氏は前期の作品との継続性も指摘して、『貧しき人々』のジェーヴシキンをも悪徳地主である「ブイコフの模倣者」であり、「むしろ悪と欲望の側へとワルワーラを使嗾する存在」でもあると断定したのです(上、72頁)。

このようなセンセーショナルな解釈は読み物としては面白いものの、その作品で主人公たちの「不安」をとおして「教育制度」などについても深く考察していたドストエフスキーの作品を矮小化していると私は感じました。

さらに大きな問題はこのような主観的な解釈が、「憲法」のない帝政ロシアで検閲を強く意識しながらも、「裁判の公平」や「言論の自由」をイソップの言葉で果敢に主張していたドストエフスキー作品の意味を読者から隠す結果になっていることです。

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これらの小林氏や亀山氏のドストエフスキー論と比較するとき、明治時代の北村透谷や島崎藤村は、なぜ文明論的な視野と骨太の骨格を持つ『罪と罰』に肉薄し得ていたのでしょうか。

次回は、ドストエフスキーが弁護士ルージンとラスコーリニコフなどの対決をとおして「法律」の問題を深く考察していることを踏まえて、再び帝政ロシアの時代に書かれた『罪と罰』における「良心」の問題を考えて見たいと思います。

なぜ今、『罪と罰』か(7)――教育制度の問題と長編小説『破戒』(2)

 

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(映画《二十四の瞳》、壺井栄原作、木下恵介監督。1954年 松竹大船。図版は「ウィキペディア」より)

前回は「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた小学校教育の状況がどのようなものとなったかが、長編小説『破戒』の第2章でかなり詳しく描かれているだけでなく、校長が郡視学の甥の若い教員・勝野文平を使ってなんとか丑松を学校から放逐したいと考えていたことも記されていることを確認しました。

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第5章では明治6年(1873)国の祝日とされた天長節(天皇の誕生日)の式典をめぐって、教頭のような地位にあった丑松と校長の関係が次のように描かれています。

「主座教員としての丑松は反(かえ)って校長よりも男女の少年に慕はれていた。丑松が『最敬礼』の一声は言ふに言はれぬ震動を幼いものの胸に伝へるのであつた。やがて、『君が代』の歌の中に、校長は御影(みえい)を奉開して、それから勅語を朗読した。万歳、万歳と人々の唱へる声は雷(らい)のやうに響き渡る。その日校長の演説は忠孝を題に取つたもので、例の金牌(きんぱい)は胸の上に懸つて、一層(ひとしお)その風采を教育者らしくして見せた。」

このあとで、郡視学の甥・勝野文平をわざわざ呼び止めた校長が、「時に、どうでした、今日の演説は?」と尋ねて、「御世辞でも何でも無いんですが、今まで私が拝聴(うかゞ)った中(うち)では、先(ま)づ第一等の出来でしたらう」という返事を得たと記した藤村は、こう続けています。

「校長は、やがて思ふことを切出した。わざわざ文平を呼留めてこの室へ連れて来たのは、どうかして丑松を退ける工夫は無いか、それを相談したい下心であつたのである。」

さらに、第14章で校長が「この鍾愛(きにいり)の教員から、さまざまの秘密な報告を聞くのである。男教員の述懐、女教員の蔭口(かげぐち)、その他時間割と月給とに関する五月蠅(うるさい)ほどの嫉(ねた)みと争いとは、是処(ここ)に居て手に取るやうに解(わか)るのである」と記した藤村は、勝野文平が「学校に居られないばかりぢや無い、あるいは社会から放逐されて、二度と世に立つことが出来なくなる」かも知れないような丑松の出自についての情報を語ったと続けていました。

ここで注意を払っておきたいのは、「正教・専制・国民性」の「三位一体」が強調された「ロシアの教育勅語」により、言論の自由が厳しく制限されていたニコライ一世治下の「暗黒の30年」に青春を過ごしたドストエフスキーが、すでに第一作『貧しき人々』の女主人公ワルワーラの「手記」において「何から何まで時間割で」決っていた当時の寄宿学校の問題点を鋭く描いていたことです。

このことの意味と長編小説『罪と罰』との関連については次回考えることにしますが、『破戒』でも天長節の日に「忠孝」という「教育勅語」の理念を広めようとしていた校長が、その一方で四民平等が唱えられ、「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」とされた1871(明治4)年の「解放令」のあとでも昔ながらの差別感を持ち続けており、自分の気に入らない丑松を学校から放逐する策略を裏で行っていたことが記されていたのです。

福沢諭吉は、自由民権運動と国会の開設への要求が高まりを見せていた明治一二年(一八七九)に書いた『民情一新』でニコライ一世が、「学校の生徒は兵学校の生徒」と見なしたばかりでなく、西欧の「良書を読むを禁じ、其雑誌新聞紙を見るを禁じ」、大学においては「理論学を教へ普通法律を講ずる」ことを禁じるなど「未曽有〔みぞう〕の専制」を行ったと厳しい批判をしていました(太字は引用者)。

福沢の批判を考慮するならば、自由民権運動の高まりによって、「薩長藩閥政府」から「憲法」を1889年に勝ち取っていた日本でも、その翌年に「教育勅語」が渙発されたことによって、次第に帝政ロシアに近い教育体制へと後退をし始めていたのです。

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少し脱線することになりますが、若い勝野文平を使って丑松を放逐しようとする校長の策謀や苦悩する丑松を助ける土屋銀之助の働きは、松山中学を舞台に「マドンナ」に惚れたために「うらなり」を放逐しようとしていた文学士の「赤シャツ」と「のだいこ」の策略を見抜いた「坊っちゃん」が「山嵐」とともに彼等を成敗して去って行くという夏目漱石の『坊つちやん』の構造も連想させられます。

『破戒』が自費出版されたのが1906年3月で、『坊つちやん』が『ホトトギス』の付録として載ったのが4月1日とのことですので、直接的な関係はないようですが、二人の文学者の当時の教育制度への批判がうかがえるように思えます。

さらに脱線を重ねることになりますが、小さな島の学校に1938年に赴任した若い大石先生と子供たちの触れ合いを描いた壺井栄の小説『二十四の瞳』(1952)では、夏目漱石の弟子・鈴木三重吉の影響下に事実を写生するように教えた「生活綴方運動」を教育の場で実践して六年生の文集『草の実』を編み、「生徒の信望を集めていた」教員が、「一朝にして国賊に転落させられた」という出来事も描かれています。

興味深いのはこの原作をもとに映画《二十四の瞳》(松竹大船、主演女優:高峰秀子)を1954年に公開した木下恵介監督が、池部良・桂木洋子・滝沢修などの俳優により、島崎藤村の『破戒』を原作とする映画を1948年に公開していたことです。

残念ながら映画《破戒》を見ていないので、詳しく論じることはできませんが、そのことからは『破戒』から『二十四の瞳』に至る教育制度の題点に対する木下監督の深い理解が感じられます。

追記:いずれ木下恵介監督の映画《破戒》についても記したいと思いますが、You Tubeに「予告」が掲載されていたことが分かりましたので、そのリンク先を取りあえず記しておきます。

リンク→破戒(予告) – YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=Po8Jmry4728

(2016年1月27日。青字の箇所を追加。2017年4月18日、改訂)

 

なぜ今、『罪と罰』か(6)――教育制度の問題と長編小説『破戒』

先ほど前回の記事に青字の箇所を追加しましたが、「なぜ今、『罪と罰』か(5)」ではまず、近代的な法体系を持っている国家では、権力者が行う不正を監視するためにも、個人の「良心」が重要視されてきたことを確認しました。

しかし、皇帝が絶対的な権力を握る帝政ロシアでは公平な裁判が行われないことが多かったことに注意を促して、法学部で学んでいたラスコーリニコフが自分の「良心」によって、「悪人」を裁くという「犯罪」に踏み切った遠因は、そのような裁判の状況に彼が深く失望していたであろうことを指摘しました。

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ただ、『罪と罰』における「良心」の構造については、もう少し後で詳しく見ることにして、ここでは島崎藤村(1872~1943)の長編小説『破戒』において教育制度の問題の問題がどのように考察されているかを確認するとともに、『貧しき人々』における教育制度や裁判制度の考察にもふれておきたいと思います。

なぜならば、『罪と罰』では主人公を法学部の学生と設定することで、ドストエフスキーは法律や正義の問題に鋭く踏み込んだ分析をしていましたが、藤村もこの長編小説の主人公を師範学校の卒業生を主人公とすることで、当時の日本の教育制度の問題を深く考察していたからです。

夏目漱石が弟子の森田草平に宛てた手紙で「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞したこの長編小説『破戒』が、ドストエフスキーの『罪と罰』から強い影響を受けていることは多くの批評家から指摘されています(平野謙『島崎藤村』岩波文庫、2001年参照)。

たとえば、批評家の木村毅は「それより私は、この英訳『罪と罰』を半ばも読み進まぬうちに、重大な発見をした。かつて愛読した藤村の『破戒』は、この作の換骨奪胎というよりも、むしろ結構は、『罪と罰』のしき写しと云っていいほど、酷似している」とさえ書いているのです(太字は引用者、「日本翻訳史概観」『明治翻訳文學集』、昭和47年、筑摩書房)。

しかし、主人公を沖縄戦の後で死刑を間違って宣告された日本人の「復員兵」に代え、舞台を北海道に移し替えた黒澤監督の映画《白痴》は、日本ではあまりヒットしなかったものの、日本の研究者や本場ロシアの研究者や映画監督からは、長編小説『白痴』の理念をよく伝えていると非常に高く評価されています。その筋や登場人物の人物体系には、『罪と罰』からの影響が強く見られるものの長編小説『破戒』も、『罪と罰』を踏まえて当時の日本の現実を見事に描き出していました。

それゆえ、木村毅も先の文章に続けて「『破戒』が日露戦争後の文壇を近代的に、自然主義の方向へと大きく旋回させた功は否めず、それはつまり、ドストイエフスキイの『罪と罰』の価値の大きさを今更のように見直すことになった」と書いていたのです。

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1908年に長編小説『春』で、文芸評論家の北村透谷(1868~1894)との友情やその死について描いていた島崎藤村は、透谷について「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」と書いていました。そのことを想起するならば、透谷の評論「井上博士と基督教徒」も『破戒』を理解するうえでもきわめて重要だといえると思えます。

この評論は井上哲次郎・東京帝国大学哲学科教授が、「教育勅語」奉読式において天皇親筆の署名に対して敬礼はしたが最敬礼をしなかったために、「不敬」とされて退職を余儀なくされていた内村鑑三を例に挙げながらキリスト教を「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とした「教育勅語」の「国家主義」に反する反国体的宗教として激しく非難したことに対する反論として書かれ、透谷はここで、学問的な見地からではなく「政府の雇人(こじん)」として発言した井上博士の方法を批判していたのです。

島崎藤村も長編小説『破戒』で、差別された主人公の心理的な苦しみや葛藤を詳しく描き出していたばかりでなく、「教育勅語」の渙発と同じ明治23年10月に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた小学校教育の問題をも鋭く描いていました。

すなわち、第2章で郡視学と町会議員たちによる授業の視察を描いた藤村はここで、「功績表彰の文字を彫刻した名誉の金牌(きんぱい)を授与された」校長が、「郡視学の命令を上官の命令」と考えていたばかりでなく、「軍隊風に児童を薫陶(くんたう)したい」と考えていたことに注意を促していました(太字は引用者)。

その校長が生徒たちから慕われていた主人公の瀬川丑松(うしまつ)や土屋銀之助などの教員をうとましく思い、郡視学の甥の若い教員・勝野文平を使ってなんとか丑松を別の学校に追い出したいと考えたことから事件が勃発することになるのです。

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すなわち、金牌を授与されたお祝いに、「今晩三浦屋迄御出(おいで)を願へませうか。郡視学さんも、何卒(どうか)まあ是非御同道を」と議員たちが校長を誘ったと描き、「賢いと言はれる教育者は、いづれも町会議員なぞに結托して、位置の堅固を計るのが普通だ」と記した藤村は、その後で二人きりになった際の郡視学と校長の会話を次のように描写していました。

(郡視学)『吾党の中から受賞者を出したのは名誉さ。君の御喜悦(およろこび)も御察し申す』

(校長)『勝野君も非常に喜んで呉れましてね。』

(郡視学)『甥(をひ)がですか、あゝ左様(さう)でしたらう。…中略…実際、甥は貴方の為を思つて居るのですからな。』

そして藤村は、「郡視学が甥と言つたのは、検定試験を受けて、合格して、此頃新しく赴任して来た正教員。勝野文平といふのが其男の名である。割合に新参の校長は文平を引立てゝ、自分の味方に附けようとした」書いていたのです。

(続く)

 

「講座  『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容」を「新着情報」のページに掲載

リンク→講座 『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容

  3月4日に標記の題名で<世田谷文学館友の会>の講座を行うことになりましたので、講座のリード文と日時などを「おしらせ」123号より、「新着情報」のページに転載しました。

<世田谷文学館友の会>の講座では、これまでにも、2013年2月19日に「『草枕』で司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読み解く」という題名で、2014年6月27日には、「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」という題名でお話しする機会を頂きました。

今年は「憲法」のない帝政ロシアで1866年に書かれたドストエフスキーの『罪と罰』が発表されてから150年に当たり、スペインのグラナダで『罪と罰』をメインテーマとした国際学会(IDS)が開催されます。

それゆえ、今回の講座では新聞『日本』の記者でもあった正岡子規と夏目漱石や島崎藤村との関係などに注目しながら、評論「『罪と罰』の殺人罪」(1893年)を書いた北村透谷を主人公の一人とした藤村の『春』や日露戦争直後に上梓された『破戒』などとその時代を分析することにより、『罪と罰』が日本の近代文学に与えた深い影響と現代的な意義についてお話したいと考えています。

(参考図書:高橋『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年)。

なぜ今、『罪と罰』か(5)――裁判制度と「良心」の重要性

「事実(テキスト)の軽視の危険性」と題した第3回で考察したように、文芸評論家の小林秀雄は「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と続けていました。

そして小林は、「罪と罰とは作者の取り扱つた問題といふよりも、この長編の結末に提出されている大きな疑問である、罪とは何か、罰とは何か、と、この小説で作者が心を傾けて実現してみせてくれてゐるものは、人間の孤独といふものだ」と記し、「罪と罰」の問題を「孤独」の問題に矮小化していました。

問題は、このように「良心」の問題を矮小化することによって、小林が帝政ロシアや日本における「裁判制度」の問題から読者の視線を逸らしていたことです。

たとえば、王や皇帝に絶対的な権力が与えられていた王政や帝政の時代には、権力者の横暴や無法を抑えることができずに、多くの人々が無実の罪で苦しんでいました。

そのためにヨーロッパやロシアにおいては、彼らの絶対的な権力にも対抗できるような「個人の良心」が重要視されたのであり、「良心」とは自らの生命をも危険にさらしても、不正をただすことを求めるような激しい概念であるといえるでしょう。

近代的な法制度を持つ国家では、近代の法律でも権力者が行う不正を監視するためにも、個人の「良心」が重要視され、日本の「憲法」でも裁判官は、中立の立場で公正な裁判をするために、「その良心に従い独立してその職権を行い、日本国憲法及び法律にのみ拘束される」と(裁判官の職権行使の独立)が定められています。

しかし、裁判制度が不備な帝政ロシアでは、長編小説『虐げられた人々』で描かれているように、ワルコフスキー公爵の策略によって裁判の被告となったイフメーネフ老人が、有力なコネや賄賂を使わなかったために裁判に敗け、自分の村を手放さねばならなくなっていたのです。

法学部で学んでいたラスコーリニコフが自分で「悪人」を裁くという「犯罪」に踏み切った遠因は、皇帝が絶対的な権力を握る帝政ロシアでは、公平な裁判が行われず、そのような状況に彼が深く失望していたことが挙げられるでしょう。

*   *   *

一方、司馬氏が『翔ぶが如く』で詳しく描いていたように、「軍国主義的な憲法」を持つドイツ帝国をモデルとしていた日本では、今も裁判制度に次のような問題点を抱えています(以下、「ウィキペディア」から引用します)。

「裁判官は建前上、独立して裁判を行うことが憲法に定められているものの、下級裁判所の裁判官についての人事権は最高裁判所が握っており、最高裁判所の意向に反する判決を出すとその裁判官は最高裁判所から差別的処遇(昇進拒否・左遷など)を受ける問題などは、米国の法学界からも指摘されている[29]。

そのことから、日本の裁判所の司法行政は、人事面で冷遇されることを恐れて常に最高裁判所の意向をうかがいながら権力者に都合のよい判決ばかりを書く裁判官(通称:ヒラメ裁判官)が大量に生み出される原因になっていると批判されている[30]。

また、憲法80条1項では、下級裁判所の裁判官の候補者を指名する権限は最高裁判所にあると定められており、裁判官の道を希望する司法修習生たちの中でも最高裁判所の意向にそぐわないと判断された者は裁判官への任官を一方的に拒否されるという問題も指摘されている。(中略)

最高裁判所裁判官の人事権は、憲法上は内閣が握っている。」

このような現状から、上級の裁判所にいくほどに内閣の影響力が強くなり、「国民」の意向とは反対の判決も行われることになるのです。

*   *   *

このことが明白に現れたのが、第二次安倍内閣が強引な人事により、「内閣法制局長官」を変えて、昨年の国会審議においてそれまでの自民党の「集団的自衛権」の見解を破棄したことでしょう。

この問題について九州大学法学部教授の南野森氏は、2014年2月7日のブログでこう記していました。

〈第2次安倍内閣は、去る2013年8月8日、内閣法制局の山本庸幸長官を退任させ、後任に元外務省国際法局長で駐仏大使の小松一郎氏を任命した。この人事は、内閣法制局の次長や部長どころか参事官すら経験したことのない完全に「外部」の人間が、しかも2000年まで他省庁とは異なる独自の採用試験を実施していた外務省の人間が、いきなり長官ポストに抜擢されたものであり、戦後の内閣法制局の歴史において異例中の異例、初めてづくしの驚愕人事であった。〉

(2016年1月25日、青字の箇所を追加)

 

〈忍び寄る「国家神道」の足音〉関連記事一覧

本ブログの記事では、「大義なきイラク戦争を主導したラムズフェルド元国防長官とアーミテージ元国務副長官」の二人にたいして勲一等「旭日大綬章」を贈った安倍政権が行う「改憲」方針の裏に隠されている「復古」の姿勢の危険性を指摘していました。

*   *   *

忍び寄る「国家神道」の足音〉を特集した今日の「東京新聞」朝刊は「こちら特報部」でこう記しています。

「安倍首相は二十二日の施政方針演説で、改憲への意欲をあらためて示した。夏の参院選も当然、意識していたはずだ。そうした首相の改憲モードに呼応するように今年、初詣でにぎわう神社の多くに改憲の署名用紙が置かれていた。包括する神社本庁は、いわば「安倍応援団」の中核だ。戦前、神社が担った国家神道は敗戦により解体された。しかし、ここに来て復活を期す空気が強まっている。」

そして、記事は次のように結ばれています。

「神道が再び国家と結びつけば、戦前のように政治の道具として、国民を戦争に動員するスローガンとして使われるだろう。」

*   *   *

宗教学者の島薗進氏の今日のツィッターでも、【疑わしい20条改正案 政教分離の意義再認識を】という題の「中外日報」(宗教・文化の新聞)の12/18社説が紹介され、その理由が記されていました。

http://www.chugainippoh.co.jp/editorial/2015/1218.html …

〈明治維新は「祭政一致」を掲げ、やがて「万世一系の天皇をいただく国体」の教説と一体のものとなった。これを抑えられず、立憲政治と良心の自由を掘り崩した〉。

 

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安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(3)――島崎藤村の長編小説『夜明け前』と「復古神道」の仏教観

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(4)――「神道政治連盟」と公明党との不思議な関係

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(5)――美しいスローガンと現実との乖離

 

「アベノミクス」の詐欺性(3)――公的年金運用の「ハイリスク」の隠蔽

2014年11月25日に書いた「株価と年金」というブログ記事では、安倍内閣が価対策として、「127兆円規模の公的年金を運用する世界最大級の機関投資家である年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)」に、「年金の運用額を引き上げるという改革案」を打ち出させたことに対しては、当初から厳しい批判があったことを紹介していました。

すなわち、松井克明氏は「GPIF改革が年金を破壊? 巨額損失の危険も 株価対策に年金を利用という愚策」という題名の記事(『Business Journal』7月2日)を、前GPIF運用委員の小幡績慶氏は「寄稿 GPIF改革四つの誤り 政治介入で運用は崩壊する」という記事(「週刊ダイヤモンド」ダイヤモンド社/6月21日号)を書いていたのです。

こうして、「年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が、年金の運用額を引き上げるという改革案を打ち出したこと」に対しては、当初から経済学者から強い批判が出ていました。

しかし、これに対して安倍政権は何らの対策もとらず、国民への説明もしていなかったのですが、2016年1月19日付け「日刊ゲンダイ」(デジタル版)は、6日連続で下落した日経平均株価の異常事態を受けて、16日のTBS「報道特集」でGPIFの損失リスクに対する感想を問われた「アベノミクスの“生みの親”とされる浜田宏一・米エール大名誉教授」が、〈損をするんですよと(国民に)言っておけと、僕はいろんな人に言いました〉が、〈でも(政府側は)それはとてもおっかなくて、そういうことは言えないと〉と語っていたと報じて、次のように結んでいます(朱色は引用者)

〈浜田教授が「ハイリスク・ハイリターン」について国民に説明しろ、と指摘していたにもかかわらず、安倍政権は頬かむりしたワケだ。…中略…国民を愚弄するにもホドがある。〉

*   *   *

「株価と年金」というブログ記事では、〈昔から「素人は相場には手を出すな」という格言がありますが、株の素人の私から見ると現政権全体が「相場師」化している〉ように感じますと批判しました。

それから一年以上が過ぎた現在、状況は一層厳しくなっているように見えます。

安倍首相はこのような事態をむかえても「改憲」に前のめりのようですが、道義的に最初にしなければならないのは、自民党が抱え込んでいる疑惑のある議員の問題や、「ハイリスク」についての説明を果たしてこなかった自分の責任を明らかにすることでしょう。

ことに、「国民の生命や財産」にも深く関わるマイナンバー制度やTPP交渉の責任者である甘利明・内閣府特命担当大臣(経済財政政策)に、金銭授受の疑惑が浮かんできたことは経済界との癒着が目立つ安倍内閣の体質を物語っており、安倍首相は任命責任を取って一刻も早くに退陣すべきだと思われます。

(2016年1月22日。青字の箇所を訂正、追加。副題を変更)

 

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アベノミクス(経済至上主義)の問題点(1)――株価と年金

「アベノミクス」と「年金情報流出」の隠蔽

「アベノミクス」の詐欺性(2)――TPP秘密交渉と「公約」の破棄

「自主憲法を日本人の手で作り上げなければいけない」」として、「改憲」を目指す安倍自民党が昨年提出した「戦争法」が、日本政府に軍国化を迫った「第3次アーミテージ・リポート」の内容ときわめて近いものであったことが国会の質疑応答で明らかになりました。

同じように安倍政権はアベノミクスの一環として、それまでの自民党の「公約」に反してTPP秘密交渉への参加も決めていましたが、これも「日本の原発再稼働やTPP参加、特定秘密保護法の制定、武器輸出三原則の撤廃」を求めた「第3次アーミテージ・リポート」の要求に沿うものであったことも明らかになっています。

アメリカの要求に従って、一部の大企業と軍需産業の利益にはなるが、大多数の「日本国民」には犠牲を強いる安倍政治は、ドイツの作家シラーなどが戯曲『ウィリアム・テル』(ヴィルヘルム・テル)で描いた14世紀の悪代官ヘルマン・ゲスラーの暴政に似ていると思われます。

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(アルトドルフのマルクト広場にあるウィリアム・テル記念碑。写真は「ウィキペディア」より)

経済学に関しては素人ですが、素人でも分かるような「TPP」の危険な点を以下に記した後で、最後に正岡子規が編集主任をしていた新聞『小日本』における「秘密主義」批判の記事を再掲しておきます。

明治に書かれたこの記事は、「秘密主義」を貫く一方で、報道機関への圧力を強めている安倍政権と「薩長藩閥政府」との類似性を示唆していると思えるからです。

*   *   *

TPP(環太平洋パートナーシップ協定)の秘密交渉の結果が一部、明らかになりましたが、やはり農業や牧畜などに限っただけでも大幅な譲歩を強いられていたことが明らかになりました。

「東京新聞」の記事によれば、この結果を受けてようやく民主党が中間報告案で「国益守れず」と明記し、TPPへの政府承認案に反対する方向を示したとのことです。

これに対して与党からは「選挙目当てで方針を変えるのか」などの批判が出ているようですが、原発の危険性に気づいた小泉元首相が脱原発に転換したように、その政策の間違いに気づいた時にはすばやく対応することが重要でしょう。

ことに、これから世界的な食糧危機が予想される中で、国民の生命や健康に深くかかわる「食料自給率」の低下は、「国家の安全保障」をも脅かすと思えるからです。

*   *   *

これまでは外国からの圧力により「規制緩和」が、あたかも絶対的な正義のように見られていましたが。最近起きた痛ましいバス事故の遠因は、バス事業への参加への「規制緩和」にあったことが指摘されています。

現状でのTPPへの政府承認案は農業の衰退をまねくばかりでなく、「食品添加物・遺伝子組み換え食品・残留農薬などの規制緩和」により、食の安全を脅かし、「医療保険の自由化・混合診療の解禁により、国保制度の圧迫や医療格差が広がりかねない」危険性があるのです。

TPP(環太平洋パートナーシップ協定)では、自由貿易が謳われていますが、その反面、著作権の大幅な延長に見られるように、「規制強化」の側面も強く持っているようです。

ことに「ISDS条項(ISD条項)」は、「当該企業・投資家が損失・不利益を被った場合、国内法を無視して世界銀行傘下の国際投資紛争解決センターに提訴することが可能」としています。この条項は、グロ-バル産業には有利でも、国内産業には不利益であり、日本の独自性をも損なう危険性があるように思われます。

また、「一度自由化・規制緩和された条件は当該国の不都合・不利益に関わらず取り消すことができない」という21世紀の規定とは思えない不思議なラチェット規定を、安倍政権が一方的に認めてしまったことにも問題があるでしょう。

*   *   *

明治27年4月29日に子規が編集主任を務めていた新聞『小日本』は第一面に掲載された「政府党の常語」という題名の記事で、「感情」、「譲歩」、「文明」、「秘密」などの用語を取り上げていました。

ことに「藩閥政府」の問題点を鋭く衝いた「秘密」は、原発事故のその後の状況や、国民の健康や生命に深く関わるTPPの問題など多くが隠されている現代の「政府党の常語」を批判していると思えるほどの新鮮さと大胆さを持っているように思えます。以前のブログ記事でも引用しましたが、再び全文を引用しておきます。

秘密秘密何でも秘密、殊には『外交秘密』とやらが当局無二の好物なり、如何にも外交政策に於ては時に秘密を要せざるに非ず、去れどそは攻守同盟とか、和戦談判とかいふ場合に於て必要のみ、普通一般の通商条約、其条約の改正などに何の秘密かこれあらん、斯かる条項は成るべく予め国民一般に知らしめて世論の在る所を傾聴し、国家に民人に及ぼす利害得喪を深察するこそ当然なれ、去るに是れをも外交秘密てふ言葉の裏に推込(おしこ)めて国民の耳目に触れしめず、斯かる手段こそ当局の尊崇する文明の本国欧米にては専制的野蛮政策とは申すなれ、去れど此一事だけは終始(しじう)一貫して中々厳重に把持せらるゝ当局の心中きたなし卑し」(青字は引用者)。

 

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「アベノミクス」の詐欺性(1)――「トリクルダウン」理論の破綻

〈安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(5)――「欧化と国粋」のねじれの危険性〉と題した1月16日のブログ記事では、〈次回からは少し視点をかえて、1902年にはイギリスを「文明国」として「日英同盟」を結んだ日本が、なぜそれから40年後には、「米英」を「鬼畜」と罵りつつ戦争に突入したのかを考えることで、安倍政権の危険性を掘り下げることにします〉と書いていました。

しかし、「五族協和」「王道楽土」などの「美しいスローガン」を連呼して「国民」を悲惨な戦争へと導いた、かつての東条英機内閣のように「大言壮語」的なスローガンの一つである「アベノミクス」のという経済方針の詐欺的な手法が明らかになってきました。それゆえ、〈日本が、なぜそれから40年後には、「米英」を「鬼畜」と罵りつつ戦争に突入したのか〉という問題は宿題として、しばらくは「アベノミクス」の問題を考えることにします。

*   *   *

今回、取り上げる「トリクルダウン(trickle-down)」理論とは「ウィキペディア」によれば、「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウン)する」という経済理論で、「新自由主義の代表的な主張の一つ」であるとのことです。

「アベノミクス」という経済政策については、経済学者ではないので発言を控えていましたが、ドストエフスキーは1866年に書いた長編小説『罪と罰』で、利己的な中年の弁護士ルージンにこれに似た経済理論を語らせることで、この弁護士の詐欺師的な性格を暴露していました。

リンク→「アベノミクス」とルージンの経済理論

一方、敗戦後の一九四六年に戦前の発言について問い質されて、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語り、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と居直っていた小林秀雄は、意外なことに重要な登場人物であるルージンについては、『罪と罰』論でほとんど言及していないのです(下線は引用者)。

このことは「僕は無智だから反省なぞしない」と啖呵を切ることで戦争犯罪の問題を「黙過」していた小林が、「道義心」の視点から「原子力エネルギー」の問題点を一度は厳しく指摘しながらも、原発の推進が「国策」となるとその危険性を「黙過」するようになったことをも説明しているでしょう。

より大きな問題は、自民党の教育政策により小林氏の著作が教科書や試験問題でも採り上げられることにより、「僕は無智だから反省なぞしない」という道徳観が広まったことで、自分の発言に責任を持たなくともよいと考える政治家が議会で多数を占めるようになったと思えることです。

そのことは国民の生命や安全に直結する昨年の「戦争法案」の審議に際しての安倍晋三氏の答弁に顕著でしたが、今年も年頭早々に「トリクルダウン」理論の推進者から驚くべき発言が出ていたようです。

*   *   *

2016年1月4日 付けの「日刊ゲンダイ」(デジタル版)は、〈「トリクルダウンあり得ない」竹中氏が手のひら返しのア然〉との見出しで、これまで「トリクルダウンの旗振り役を担ってきた」元総務相の竹中平蔵・慶応大教授が、テレビ朝日系の「朝まで生テレビ!」で、〈アベノミクスの“キモ”であるトリクルダウンの効果が出ていない状況に対して、「滴り落ちてくるなんてないですよ。あり得ないですよ」と平然と言い放った〉ことを伝えているのです(朱色は引用者)。

そして記事は、経済学博士の鎌倉孝夫・埼玉大名誉教授の次のような批判を紹介しています。

「以前から指摘している通り、トリクルダウンは幻想であり、資本は儲かる方向にしか進まない。竹中氏はそれを今になって、ズバリ突いただけ。つまり、安倍政権のブレーンが、これまで国民をゴマカし続けてきたことを認めたのも同然です」

つまり、安倍政権全体が『罪と罰』で描かれていた中年の弁護士ルージンと同じような詐欺師的な性格を持っていることが次第に明らかになってきているのです。

国民が自分たちの生命や財産を守るためには、「戦争法」を廃止に追い込み、一刻も早くにこの内閣を退陣させることが必要でしょう。

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