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核の危険性には無知で好戦的な安倍政権から日本人の生命と国土を守ろう

安倍首相が「森友学園」と「加計学園」問題から逃避するために突然、解散に踏み切った今回の総選挙は、今後の日本の政治や経済ばかりでなく日本人の生命をも左右します。

たとえば、2015年の国会の質疑応答で安全保障関連法が、日本政府に軍国化を迫った「第3次アーミテージ・リポート」の内容に近いものであったことも明らかになっていますが、地球の環境問題にも無関心なトランプ大統領にとっては、韓国や日本のみならず、東アジア一帯を放射能で汚染する危険性の高い北朝鮮との戦争も、軍需産業にとっての儲けの機会としか思えないでしょう。

一方、共和党有力議員のコーカー上院外交委員長は、ツイッターで北朝鮮を威嚇する発言を繰り返しているトランプ大統領が、米国を「第3次世界大戦」の危機にさらしていると厳しく批判し、彼の衝動的な言動を共和党議員のほとんどが憂慮していると述べました。

→「東京新聞」http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2017100901001223.html

それにもかかわらず、夫名義で防衛関連企業の株を大量に取得した稲田朋美氏を防衛相に抜擢していた安倍総理は、「核の時代」に幕末と同じような考えで政治を行おうとしている「維新」との連携を強めています。

その結果、戦争の際にはミサイルが飛来する可能性が高い日本では、「平和的解決が最終的に困難な場合、米軍による軍事力行使を『支持する』とした割合」が自民党では39.6%に、希望でも21.3%、そして維新では77.5%にも上っているのです。

まさにこれらの政党は「平和ぼけ」して、「戦争の悲惨さ」を忘れているとしか思えません。→「東京新聞」http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201710/CK2017100902000131.html …

戦争に賛成の%

つまり、安倍政権とその補完勢力は勇ましいが空疎なスローガンを掲げて太平洋戦争へと突入して、日本と隣国に多大な被害をもたらした安倍首相の祖父・岸信介氏が閣僚として入閣していた東条英機内閣と同じような愚を繰り返そうとしているように見えます。

日本がいわゆる「ABCD包囲網」によって石油をたたれたために、太平洋戦争に踏み切っていたことを思い起こすならば、「民が主なら、最後まで対話をあきらめてはいけません」との呼びかけは説得力に富み、拉致被害者の救済を掲げながら声高に制裁を叫ぶ安倍政権の論理的な矛盾を突いています。

戦前の価値観と国家神道の再建を目指す「日本会議」に対抗するために、立憲野党と仏教、キリスト教と日本古来の神道も共闘を!

安倍首相と麻生副総理が「日本会議国会議員懇談会」の「特別顧問」を務める「自由民主党」と2015年には小池百合子代表がその副会長を務めていた「希望の党」の安保法制や憲法にたいする見方がほとんど同じであり、選挙後には大連立をするのではないかとの予測が語られ始めている。

憲法学者の樋口陽一氏は「敗戦で憲法を『押しつけられた』と信じている人たちは、明治の先人たちが『立憲政治』目指し、大正の先輩たちが『憲政の常道』を求めて闘った歴史から眼をそらしているのです」と語っているが、小林節氏によれば安倍首相が尊敬する岸元首相たちにとって「日本がもっとも素晴らしかった時期は、国家が一丸となった、終戦までの一〇年ほど」、すなわち「ファシズム」の時代だった→樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』(集英社新書)を読む(改訂版)

憲法改正、アマゾン

一方、「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか」と述べた「日本会議国会議員懇談会」の特別顧問でもある麻生副総理の発言は内外に強い波紋を呼んだが、総務大臣として「電波停止」発言をした高市早苗氏も、1994年には『ヒトラー選挙戦略現代選挙必勝のバイブル』に推薦文を寄せていた。

このような傾向について、生命倫理の研究者・澤田愛子氏は稲田元防衛相の答弁などの特徴を、「今安倍内閣で生じていること。どんな不正を働いても、重大な証拠があっても、見え透いた嘘で否定し続ければスルーしていくという事」をツイッターで指摘している(7月21日)。

この意味で注目したいのは、ヒトラーがドイツで権力を握り、日本では小林多喜二が拷問で死亡した翌年の1934年に小林秀雄が『罪と罰』論と『白痴』論を発表していたことである。

そして、1960年に雑誌『文藝春秋』に掲載された「ヒットラーと悪魔」で小林は、1940年に書いた書評『我が闘争』の一部を引用しながら『我が闘争』の内容を詳しく紹介して、「大きな嘘」をつくことを奨励していたヒトラーの「感傷性の全くない政治の技術」を讃えていた(太字は引用者)。

「日本会議」などで代表委員を務めることになる小田村寅二郎からの依頼に応えて小林が1961年以降、国民文化研究会で講演を行っていたことを考慮するならば、閣僚のほとんどが「日本会議国会議員懇談会」に属している安倍内閣で、ナチスドイツへ的な手法を賛美する発言が続いているのは小林秀雄の影響によるのではないかと私は考えている。

ドイツを破滅へと追い込んだヒトラーが『我が闘争』に記した政治手法を「核の時代」の現代に応用して権力を握ろうとする人物を党首や代表としているこれらの勢力と対抗するためにも、立憲野党が共闘をするだけでなく、仏教、キリスト教と「神社本庁」以外の神道が団結して選挙戦にあたることを期待する。

以下に、戦前の価値観への復帰を目指す「日本会議」の思想と『我が闘争』を詳しく紹介した「ヒットラーと悪魔」について考えた論考へのリンク先を示す。

麻生副総理の歴史認識と司馬遼太郎氏のヒトラー批判

ヒトラーの思想と安倍政権――稲田朋美氏の戦争観をめぐって

稲田朋美・防衛相と作家・百田尚樹氏の憲法観――「森友学園」問題をとおして(増補版)

稲田朋美・防衛相の教育観と戦争観――『古事記と日本国の世界的使命』を読む(増補改訂版) 

小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

小林秀雄のヒトラー観(2)――「ヒットラーと悪魔」をめぐって(2)

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

Ⅳ、日露の近代化と日本の政治

Ⅳ、日露の近代化と日本の政治

4-1,「公地公民」という用語

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4-4、安倍政権

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齋藤博著『文明のモラルとエティカ――生態としての文明とその装置』(東海大学出版会、2006年)

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本書の著者である齋藤博先生(以下、齋藤氏と記す)は、スピノザ『エティカ』の共訳や『スピノチスムスの研究』(創文社)、『文明への問』(東海大学出版会)などの著作をつぎつぎと上梓されるとともに、東海大学文明学科の主任教授や文学部部長、さらには文明研究所所長などを歴任され、東海大学文明学会の発足や『文明研究』の発刊にも関わられてきた。そのような齋藤氏の長い知的な営みを踏まえて書かれたのが、「文明の系譜とその原形象をもとめて――〈くらし〉とモデル」と題されている第一部と「文明の装置とエティカ」と題された第二部から成る本著である。ただ、限られた誌面なので、ここでは「新しい戦争」の時代をむかえて改めてその重要性が浮かび上がってきている「文明のモラルとエティカ」の問題に焦点を絞りながら、紹介することにしたい(以下、括弧内に引用頁数を示す)。

序章の冒頭近くで齋藤氏は、本書における文明観が人間の歴史を「野蛮から文明へ」という「発展段階として位置づける文明史観」とは異なり、梅棹忠夫氏や司馬遼太郎氏のように「人間の文明営為を〈くらし〉の次元に遡って捉えようとする」ものであると規定している(3)。すなわち著者によれば、言語を持ち、さらに技術によって自然から「疎外」されつつも、自然を「支配」するようになった人間の活動は、ユニットとしての「文明の装置」を生み出すのである。そして「人間の営為は開かれた生態のシステムである」とする著者は、「文明の装置」の生成に参画しているだけでなく、その中で生かされている人間と「文明装置」との関係性をとおして、「モラルとエティカ」の問題を根本的な形で考察している。

たとえば、国際政治学者ハンチントンが用いた「文明の衝突」という用語が、非西欧社会からの強い反撥を招いたことはよく知られているが、「人間の文明営為について」と題された序章できわめて重要と思われるのは、齋藤氏がここで「文明の衝突」が、「文明の善と悪との衝突ではなく」、「文明のモラルの衝突」であることを示している点だろう(10)。このことは本論の各章を通してより明らかにされていく。

第1章「文明学の学問的位置づけ」から第3章「生活世界の学と文明の学」に至る章では、日常的な生活との関連に注目しながら、東海大学の建学の精神とも深く係わる「現代文明論」の学問的位置づけが試みられている。

すなわち齋藤氏は、明治初期に書かれた福沢諭吉の『文明論之概略』をも視野に入れながら、ヨーロッパ文明を受容したことからはじまる日本の近代化の過程では、「文明」が伝統的な「文化」に対置されていたことを確認しつつ、明治末期から昭和初期にかけての日本の歩みは、「福沢の<文明>コード」が、「日本的・地方的な閉じられた<文化>コード」へと転換された過程であったことを指摘している(25)。

そして、フッサールの講演「ヨーロッパ諸学の危機と心理学」が、「その根底において近代の諸学に対して生活世界からの訴えを引き受けて提起された学問論的批判を含んでいる」ことに注意を促し、現代文明の諸問題は「話し考える営みが身体性から自由ではなくその無意識的身体と不可分である」にもかかわらず、「近代的理性は身体性からの自由を理念として」おり、人間が「自然の支配者にして所有者になる」べくつとめてきたことに起因していることが明らかにされている。こうして、「現代文明論」では「日本が辿ってきた近代化の過程」やヨーロッパにおける近代化を「全体として問いなおす」作業がなされたと指摘している(26~43)。

それに続く第4章から第7章までの章では、「数学的確実性とは異なるが、なお〈学問的〉に扱われるべき確実性」として「モラルの確実性」という概念を提起しているスピノザに依拠するとともに、「裁く」という言語の機能に注目することによって、「文明営為と言語」や「文明のモラルと法/権力」などの問題が深く考察される。すなわち、人間はその地域の「風土」などの「エートスに根ざし、それに制約されながら、それぞれの生き方としてのモラルを創り」、「モラルも法/権力も社会において起ち上がりそして社会的秩序を保持」する役割を持つので、「モラルを欠いた文明は身体のない人間のようなものである」(120)ことが指摘される。

しかしそれととともに、「法はモラルを語る人間の言語としてそれ自体多様化する」ので、「法はそれぞれの文明において独自であり、相互に異なることも自明である」ことも確認される(77)。すなわち、「文明のモラルは時間的空間的に閉じられて」おり、「郷にいれば郷に従え」という諺があるように、個々の時代や各民族はそれぞれのモラルを有しているのである。

それゆえ、「日本の文明的価値として〈誠〉とか〈至誠〉といった観念は日本人の文明営為のモラルとして考えられる」が、西田幾多郎の『善の研究』を再考察した中村雄二郎氏が指摘しているように、「〈至誠〉という道徳的価値が批判的な吟味もなく正当なる目的と化してしまえば、〈誠〉のために他者を殺すということがその手段として正当化されることになる」(119)。それゆえ、ハンチントン的な「文明の理解」では、「軍国主義的な」戦前の日本に対する原子爆弾の投下や、「非民主的な」イラクに対する先制攻撃も、アメリカでは「文明の悪」への「裁き」として正当化されるが、裁かれた側の激しい不満を招いて、「文明の衝突」の連鎖が続くことになるのである。

このような事態に対して齋藤氏は、日本語では通常、「モラル」が「道徳」と訳され、「エティカ」が「倫理」と訳されることにふれつつ、「それは両者の実質的な区別には連動しない」ことを確認しながら、「モラルから区別されるエティカ」の特徴として「人間の能動性」を指摘しており、ここにスピノザ的な意味での「エティカ」が「文明の衝突」に際して要請される理由を見ている。

すなわち、イベリア半島における「レコンキスタ(国土回復運動)」に際して「当時のキリスト教のモラル」では、イスラム教徒を侵略者として殺してもよいとし、ユダヤ人の「財産とか土地を没収する」ことも認められていた。このような「モラル」によって追放されたユダヤ人を両親に持つスピノザは、「自分の利益をもとめようとする衝動」をも正当化しようとすることを『エティカ』において鋭く批判していたのである。

この意味で興味深いのは、米山俊直氏が『比較文明』に掲載した「道徳的緊張」という副題を持つ追悼文で、様々な戦争を描きながら「文明の衝突」の問題を深く考察したことで、トインビーのような比較文明学的な視点を持つようになった司馬遼太郎氏の文明論を高く評価していたことである。実際、司馬氏は作家の陳舜臣氏との対談で「民族論や国家論だけのレベルで他の国をみると、ずっと失敗してきた」と語り、「自分の特殊なものに隠れていくときに、一番甘美になる」と指摘して「日本回帰」を批判し、「普遍性を身につけることの大事さ」を強調している。すなわち、「道徳的緊張」という司馬氏が好んだ用語は、「閉じられた」モラルを指すのではなく、「閉じられたコードを批判的に開くその能動的思考」を特徴とするエティカ的な意味を強く持っていたのである。

すなわち齋藤氏によれば、「善悪といった道徳的価値の対立をもたらす体制そのものを批判的に変革する営為」であるエティカには、「文明のモラルをその根底から問う」ような役割を持ち、それゆえ「文明の衝突」を回避させうるような、「実践の理論」としての働きを担っているのである(134)。

すでに誌面が尽きてきたが、本書の第二部では神話的な「物語の論理」であると同時に「近代哲学の論理」でもあった「アルファベットによってコード化された生活のシステム」が、「呪術的共時的」な思考を伴う「テクノ画像へのコード」に変わりつつあることによって、「現代文明のモラル」の危機が生まれていることが指摘されるとともに、そのような危機に対応する新しいモラルの示唆もなされている(220)。

「グローバリゼーション」への反発から、自国の「モラル」が強調されて世界中でナショナリズムが高まる中、日本でも「閉じられた<文化>コード」への回帰が再び見られるようになっている。いささか難解な箇所もあるが、スピノザだけでなく、ニーチェ、フッサール、フーコー、ベンヤミン、デリダ、ケストラーなどの論考を踏まえて、哲学的視点から「文明のモラルとエティカ」が根本的な形で考察されている本書は、「普遍的な学」としての比較文明学の構築のために、ぜひ多くの方に読んで頂きたい労作である。

   (『比較文明』第23号、2007年)

ゴロソフケル著、木下豊房訳『ドストエフスキーとカント――「カラマーゾフの兄弟」を読む』(みすず書房、1988年)

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ドストエフスキーは一七才の時兄ミハイルへの手紙において「いいですか、詩人はインスピレーションに駆られた時、神の謎を解きます。したがって哲学の任務をはたすわけです…中略…したがって哲学も詩と同じものです、ただ程度が高いだけです!」と記している。

彼自身が「だらけた哲学表現」であると認めているようにこの手紙における論旨の展開は明快さを欠いているが、哲学擁護の根拠は明らかである。すなわちドストエフスキーは理性が「知識の領域に熱中すると感情、したがって心情から離れて行動する」性質をもつものであることを認めつつも、「はかない表皮を通して霊魂の組織へ思想を導いていくもの」としての理性の働きを積極的に認めようとしているのだ。こうして彼は「より多く知るためには、より少なく感じなければならず、その逆もまた真なり」として心情と理性を両立しにくい対立するものととらえた兄ミハイルの論理を「詩人のごとき哲学論」と呼び、「軽率な定義で、心情のうわごとです」ときめつけ、理性的認識をも含む哲学を詩よりも高い位置に置いたのである。

そして、哲学にたいするこうした強い関心と高い評価はドストエフスキーの生涯を通じて変わることはなかった。一八五四年、シベリアでの四年間の囚人生活を終えたドストエフスキーは早速コーランとカントの『純粋理性批判』を送ってくれるように頼み、さらに非公式でヘーゲル、特に彼の哲学史を送ってほしいと記し「ぼくの未来はすべてこれにつながれているのです!」と続けている。

また、一八七〇年五月二八日の手紙においてドストエフスキーは「小生は哲学のほうではだめな人間です」と記しつつ、「しかし、(それは)哲学に対する愛の点ではありません。哲学に対する愛は強烈です」と書いている。そして最後の長編『カラマーゾフの兄弟』ではドミートリイに「カラマーゾフ家の人間はな、卑劣漢じゃなく、哲学者だよ、なぜって本当のロシア人はみんな哲学者だからな」と語らせている。

こうして、ドストエフスキーにとって方法としての文学は、哲学的方法を排除するものではなく、かえって哲学を志向するものですらあると言えるだろう。

ここで紹介するゴロソフケルの著『ドストエフスキーとカント』は、推理小説的な手法で『カラマーゾフの兄弟』を分析しながら、ドストエフスキーとカントを対置させドストエフスキーの哲学的な関心の意義を明らかにする好著である。

ただ本書の性格上、『カラマーゾフの兄弟』の知識が前提になっているので、私達も、『カラマーゾフの兄弟』の内容を概観しながら本書の内容へと入っていきたい。『カラマーゾフの兄弟』は推理小説的な構造を持つ長編小説である。そこでは、高利貸老婆殺しが問題となっていた『罪と罰』と同じように反道徳家で好色な老人の殺害が問題となっている。だが、『罪と罰』においては単なる他人であった老婆は、実の父親フョードルと交代し、さらに、非凡人の思想に駆られて、犯行に走ったラスコーリニコフは(神がなければ)すべてが許されると考えるイワンの形象へと発展した。さらに、フョードルの子供達に、乱暴だが豊かな感受性を持つミーチャ、純粋なアリョーシャ、さらに皮肉な庶子のスメルジャコフを配することによって、同じ悩みを共有する彼らの内面的な苦悩や対話を通して、思想の一層の深まりを加えている。

殊に、父フョードルと息子ミーチャ(ドミートリイ)が同じ女にほれ込み、いつ殺人が起きても不思議ではないような緊迫した状況と、殺人者が終末近くまで分らない推理小説的構造は読者をして、登場人物と共に考え込ませるような吸引力を持っている。さらにイワンの理論に従って父を殺したスメルジャコフの「主犯はあなたですよ。ぼくはただあなたの手先です」という言葉とイワンの発狂は、思想の責任を鋭く読者に問いかけるものであった。

 

さて、本著は次のような章から成り立っている。

第一章  カラマーゾフ老人を殺したのは誰か?

第二章  殺人犯は身代り

第三章  「秘密」と「神秘」

第四章  かげの主人公――テーゼとアンチテーゼ

第五章  主人公の仮面をかぶったテーゼとアンチテーゼの決闘

第六章  カント的アンチノミーの主人公、イワン・カラマーゾフ

第七章  科なくして罪ありとする判決

第八章  「理性の避けがたい錯覚」という怪物、そして良心の犠牲者としての錯覚の犠牲者

第九章  悪魔自身にも秘められた最後の秘密

第十章  小説の「深淵」と「真実」

第十一章 解かれた秘密

結び

 

以下、章を追ってなるべく忠実にこの書を紹介することで、本書の特徴と意義に迫りたい。(括弧内に記した半角のアラビア数字は本書からの引用ページを示す)。

まず第一章から三章までは、序論とも言ってもよく、一見ドストエフスキーとカントという結び付きがたい二者を関連づけ、同一のレベルで論じるための欠かすことのできない準備作業であると言えよう。

第一章では、ドストエフスキーが殺人の実行者としてスメルジャコフを明白に名指ししながらも、しかしそのスメルジャコフ自身を始めとして登場人物のいずれもがスメルジャコフが単独で犯行をなし得たとは考えておらず、しばしば犯罪にかかわるものとして悪魔が挙げられていることに注意をうながす。

すなわち、筆者はスメルジャコフが「主犯はあなたですよ。ぼくはただあなたの手先です」とイワンに語る一方で、イワンもスメルジャコフに「それじゃ…それじゃ、つまり悪魔がおまえに手伝って」殺させたんだと言い、さらにミーチャも「ああ、あれは悪魔がやったのだ。悪魔がおやじを殺したのだ。悪魔のおかげであなたがたもこんなに早く知ったのだ」と語っていることを紹介しながら、「殺人犯=悪魔というテーマ」(8)がミーチャによっても展開されていると述べている。

こうして氏はドストエフスキーが読者を「遂行された犯罪の形式的な事実の領域だけ」にとどめてはおらず、「良心の世界の領域、心の領域」へと誘導していると述べ、それは「殺人犯を、そこの領域で読者に探させるためである」(19)と主張している。

第二章では、まずイワンとスメルジャコフとを対比させ、「スメルジャコフの哲学は、本質的にはイワン自身の哲学なのである。はじめはそれは『すべてはゆるされる』という理論にすぎなかったが、のちには実行、つまり殺害へ具体化される理論となる」と述べ、さらに「ドストエフスキーにあって、『すべてはゆるされる』という定式のもとに隠されているのは、単に哲学一般ではなく、ヨーロッパ最大の哲学体系の一つなのだということ」を確認しながら、スメルジャコフばかりでなく、悪魔とも「イワンが同一の哲学の持ち主である」ことに注目して、「悪魔とスメルジャコフの哲学的見解は一致する」(27)ことを指摘する。

そして、イワンが悪魔に対して「おまえは夢だ、おまえは幻だ」というばかりかスメルジャコフに対しても「おまえが夢のような気がして・・・お前が幻じゃないかと思えて・・・」と語っていることに注目し、「イワン自身にとっては悪魔とスメルジャコフは一つにまじり合うように」見えると言い、たとえば「あいつ(悪魔――筆者註)はぼくを臆病者呼ばわりしやがった…中略…スメルジャコフも同じことがあったな」などの言葉を原作から丹念に抽出して悪魔とスメルジャコフとの類似点を浮彫りにしている。

そして最後に「スメルジャコフが生きている間は、悪魔は半ば暗示的に、謎めいて『あいつ』といった無名氏の形で、たえず読者のまえにちらついているだけであったが、スメルジャコフが死ぬと、悪魔はとたんに姿形をもち登場人物として」、「はっきりと姿を現わす」ことを指摘して、スメルジャコフは「悪魔の身代わりであって」「唯一の張本人は、作者の隠された意図からすれば、悪魔以外の何物でもない」(39)と主張している。

第三章では、「おれはここで秘密にすわって、人の秘密を見張ってるんだ。その理由はあとで話すが、秘密、秘密と思っているもんだから、急に口をきくのまで秘密になって」というミーチャの言葉などを引用しながら、この小説には「肯定的な」意味あいを持つ「神秘」という語とともに「否定的な、警戒心をかきたてるような」意味あいの「秘密」という語が多用されていることを指摘し、「主として『秘密』はカラマーゾフ老人殺害を中心に、その『悪魔の仕業』を中心にその周辺を回転している」(45)といい、読者はこの長編小説を読み終えてから「悪魔の秘密」に到達できると指摘する。

そして、ミーチャのアメリカ逃亡計画を分析しながら、「悪魔というのはあの世からの来客ではなく、イワンと悪魔の会話は、二人のイワンである分身同士、もしくはイワンの二つの側面の相互の会話である」(55)ことを確認し、「分裂の問題は、ここでは精神病理学的なものではなく、哲学的なものである。ここでの問題はただ単に二つの敵対的な世界観の問題ではなく…中略…本質的には弁証法の問題ですらある」(57)と指摘しながら、「カラマーゾフ老人殺害の唯一人の犯人である殺人者=悪魔が身を隠しているのはカントの『純粋理性批判』という僻遠の秘密の隠れ家である」(58)と結論している。

そして第四章の冒頭で、「思想家は哲学の径をどこから出発してどこへ向おうとも、カントと呼ばれる橋を通らなければならない」(60)と指摘しながら、「矛盾論」の有名な四つのアンチノミー(二律背反)に触れて、それは「カントの考えによると、経験によっては実証することも覆すこともできず、理性もそれと手を切るには無力なのである」(62)と説明を加えながら、「ドストエフスキーは『純粋理性批判』の矛盾論を知っていたばかりでなく、それを深く考察し」「それをにらみながら、小説の劇的な状況のなかで自分の論証を展開」したと述べ、ドストエフスキーは「アンチテーゼのカントと一騎打ち」をおこない、「このたたかいのなかで、小説の数多くの章に見られるような天才的な悲劇とファルスを創造した」(66)と述べている。

こうしてこの章以降では、カントの『純粋理性批判』をドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中でどのように捉えたかが殊に「矛盾論」の中のアンチノミー(二律背反)とイワンの形象との係わりを中心に記述されている。

すなわち第四章では「四つのアンチノミーすべてをドストエフスキーは小説の中で提示している」と指摘して、それらを「一、(テーゼ)世界は創造され終末があるか、それとも(アンチテーゼ)世界は永遠で無限であるか。二、(テーゼ)不死はあるか、それとも(アンチテーゼ)不死はなく、すべては分割され破壊されるか。三、人間の意志は自由であるか、それとも(アンチテーゼ)自由はなく、あるのは自然の必然性(自然の法則)だけか、四、神と世界の創造者はあるか、それとも(アンチテーゼ)神と世界の創造者はないか」とドストエフスキー的な言葉で簡単に言い換えて示し、「カントによれば、アンチノミーのテーゼでは道徳と宗教の『礎石』が問題にされており、アンチテーゼでは科学の『礎石』が問題にされているのであるが、『カラマーゾフの兄弟』でも同じそれらの『礎石』が問題にされている」(66)と述べている。

そして「ドストエフスキーの主人公たちは、元来、単に人間にとどまらず、また知性と魂をゆさぶる芸術的形象にとどまらず、彼等はさらに問題でもあり、あるいは観念でもある」(71)といい「例えば、イワン・カラマーゾフというこの観念を伴う人間は、単に一個人としてのイワンにとどまらず、彼はさらに被加数の総和である。それはスメルジャコフでもあり、悪魔でもあり、ラキーチンでもあり、部分的にはリーザ・ホフラコーワでさえもある。彼等はみんなハンシュ派の『すべてはゆるされる』というモットーを、時には作者の毒舌『賢い人には』という句をつけ加えながらくり返す」と説明しながら、彼らが「カントのアンチノミーのアンチテーゼの体現」(72)という面を強く持っていることに注意をうながし、「カントのアンチノミーはテーゼとアンチテーゼに従って分類されているが、ドストエフスキーもまた、自己の主たる主人公たち(すなわち観念の基体)をテーゼとアンチテーゼに従い、二つの図式と項目で分類した。」と述べテーゼを体現する者としてゾシマとアリョーシャを挙げ、それに対してイワン、スメルジャコフ、悪魔そしてイワンの物語の大審問官をアンチテーゼとして挙げている。

それに続く第五章から第七章ではイワンがカントのアンチノミーの「具象化されたアンチテーゼ」という面ばかりでなく、彼が理論的関心や不可知論の面ではカントと同じ立場を取っていることが指摘されている。

第五章で著者はまずカントの「アンチテーゼの支配の下では『道徳的な理念と原則はその妥当性をことごとく失う』」という言葉を紹介しながら、それを「神と不死がなければ(第二、第四のアンチノミーのアンチテーゼ)善行は何一つない」と言い換えて、「カントのこの命題は、小説の進行の間、姿を消さない。これが小説の基本テーマであり。これがすなわち『神と不死がなければすべてがゆるされる』というイワンの定式にほかならない」(80)と指摘している。

それと共に著者は神と不死がなければ「新しい人間には〈……〉以前の奴隷的人間の以前のあらゆる道徳的限界を飛び越えることもゆるされ」(81)、さらに「人間は自分の意志と科学とによって際限もなく、刻一刻と自然を征服しながら、そのことによって天上のよろこびに対するそれまでの強い希求に代わりうるほどの、高遠な快楽をたえず感じるようになる」(86)というイワンの分身である悪魔の表現を、(アンチテーゼである)「経験論は理性の理論的関心に対して、はなはだしく我々の心をひき、理性理念を説く独断論者が約束するものをはるかに越える利益を提供する」というカントの言葉と比較しながら、ここで「ドストエフスキーは、理性の理論的関心はアンチテーゼの側にある、というカントの思想のちょっとした改作」(86)をやってのけていると述べている。

さらに、ゴロソフケル氏はこの章でカントにおける「虚しい幻」や「傲慢な主張」という用法に対応するような言葉をドストエフスキーも又『カラマーゾフの兄弟』で用いていることに注意を払っていたが、第六章ではイワンの言葉を引用しながら、彼がカントの表現をくり返していることを明らかにしている。

すなわち著者は、「ぼくはおとなしく白状するが、こんな問題を解く能力はぼくには少しもない、ぼくの頭脳はユークリッド的なもの、地上的なもの」だ、「だからこの世と無関係の問題なんか解けるわけがない…中略…神はありやなしや? なんてことだ。すべてこんな問題は、三次元の理解力しかあたえられていない人間にはまったく手に負えないことだ」(91)というイワンの言葉を「ここまでくれば、ドストエフスキーの『ユークリッド的頭脳』というのは、カントの『普通の悟性』と同じものであるだけでなく、経験の範囲の外にあるものを認識できない悟性一般であるということを、読者は疑えないであろう」分析し、さらに「ぼくは事実にとどまるつもりだ」というイワンの決意をも示しながら「こうして、イワンはカントのいったことをドストエフスキーの語彙で正確にくり返し、悟性にとって可想的世界、すなわち、テーゼの宇宙論的理念は認識不可能であり、理解不可能であることをのべる」(91)と主張している。

そして、著者はすでに四つのアンチノミーについて述べながら「基本的な形であますところなく読者の前に示されているのは、第四のアンチノミーのテーゼとアンチテーゼ」であり、それは「他のアンチノミーと結びつきながら、小説全体の織目を赤い糸さながらに貫いている」(70)と記していたが、第七章ではドストエフスキーが、人間の意志の自由と自然の必然性(自然の法則)とを問題とした第三のアンチノミーにも関心を払っていたと指摘している。

すなわち、自分が知っているのは「苦悩が存在するばかりで、罪人はいないということだ。すべては直接かつ単純に原因が結果をもたらし、次から次へとたえず流れ流れて平衡を保っていくということだけだ。」(97)というイワンの言葉を分析しながら、この言葉と「私たちの『責任能力』のどの側面が自由の結果なのか、どの側面が自然の結果なのか、私たちは知りえないし、判断することもできない。私たちにはその功罪は隠されたままである。」(101)というカントの言葉との類似性を指摘した後、「『この世に罪人はいない』という定式は、ドストエフスキーの場合、いわばアンチテーゼの叫び声」であり、「宗教的道徳の命題としての、『誰もが万人と万物に対して罪がある』というゾシマ長老の普遍的罪業の定式はテーゼの定式である。」(102)と述べている。

次の第八章ではイワンが理性的にはアンチテーゼに惹かれる面を持ちながらも、心情的にはテーゼの側にも共感を抱いていたことを例証して、彼も「カントと同じように、敵対しあう両者――テーゼとアンチテーゼを和解させることができず、アンチノミーの天秤棒の上で揺れ続ける」(107)と述べて、人格としてのイワンがカントに近いことに注意をうながした後、イワンの発狂に光を当てながらカントの方法を鋭く批判し、それに続く第九章および第十章では、ドストエフスキーとカントを比較しながら、彼らの違いを浮彫りにしている。

すなわち著者の考えによれば、カント自身がイワンのような立場、あるいは理論的な袋小路から逃れ得たのは妥協的な「二つの経路」によってであり、その第一は「理性に生来そなわっている、狡猾かつ自然な『避けがたい理性の錯覚』に頼ることによる認識論の経路」であり、その第二は「規則、服従、秩序の良心であって、生きた感情の良心ではない」「生ける魂を凍らせる定言的命令」なのである。イワンはカントのようには「『理性の自然的な避けがたい錯覚』の理論的な不可知論をおおい隠すことをしなかった」ので彼は「この不死で怪物的な理性の錯覚の犠牲になった」が、「イワンをこの錯覚の犠牲にしたのはカントではなく、小説の作者ドストエフスキーであって、彼はカントを粉砕するためにカントを借用したのである。」(111)と主張している。

それとともに、イワンが「『若き思想家』であるばかりでなく、『深い良心』でもある」と記し、さらに真の良心と「良心にとって代わった定言的命令」を区別して、「小説の舞台で若き思想家とたたかったのは、カントの定言的命令でも、似非良心でもなくて、本物の良心であった。アンチテーゼとテーゼの理論的なたたかいの全貌なるものは、実は本質的にいって、理論的アンチテーゼと良心そのものとのたたかいであったのである。この良心そのものは、定言的命令によっては置き替えのきかない代物なのである。」(122)と述べている。

第九章ではカントが「アンチノミーの矛盾しあう二つの命題」を「弁証法的和解(自然は無神論的であるが、神は存在する!)」によって説得しようとし、さらに「良心にとって代わった定言的命令」によって補おうとしているのに対し、ドストエフスキーは「良心の声を神の伝達者と認め」「この声を無視する者は破滅を運命づけられていることを示そうとし」、それゆえ「主人公イワンにおいて弁証法的和解を拒否した」(137)のだと述べて彼らの方法の違いを指摘し、第十章ではミーチャの形象に注意を払いながらドストエフスキーの解決法を示している。

著者はまず「知性には恥辱としか映らないものが、感情には完全に美と思えるんだからなあ」というミーチャの言葉を引用しながら、「イワンにおいて、作者はアンチノミーを解決不可能の矛盾として提出したが、同様にミーチャにおいて、作者はそれらのアンチノミーを次のように思弁と感性の二重の面での実体化された矛盾の形で、解決されたものとして提出したのである」(145)と指摘し、「二重世界の矛盾」に対するカントとドストエフスキーの態度の違いを次のように指摘している。

「カントの観点の発端には二重世界についての前提」があり、「カントはその前提を錯覚と称しているけれども、それにもかかわらず、彼はそれを人間の理性にとって避けがたい錯覚…中略…として、人間の理性に残しておいた」(148)のに対し、ドストエフスキーは「この錯覚を実在として受け入れ」「実体化した矛盾にひそむ生活の意味を高唱」したのであり、「問題はテーゼ、またはアンチテーゼにあるのではなく、それらの永久の決闘にある。それはミーチャにとっては秘密と神秘の結合であり、悲劇的で悪魔的な美としての生活を彼に開いてくれるものなのである。…中略…そしてミーチャの巨人的な魂がこの生活を喜んで迎え、受け入れるのである」(149)。

誌数が尽きてきたので先を急ぐが、第十一章では本書全体の結論を確認しながら「ドストエフスキーは、思想の湧き立つ混沌のさなかで演じられる『科学』と『良心』の闘いの神話を創造したわけであるが」(163)、「道徳的な地獄、良心の苦悶に対してならば、すでにドストエフスキー以前にも深く洞察を加えた世界的な思想家や詩人、芸術家がいた。しかし知的な地獄、知性の地獄に対しては、これほど深く洞察を加えた者はドストエフスキー以前にはいなかった。それというのも、ドストエフスキー自身がこの『知性の地獄』を経験したからである。この『知性の地獄』はドストエフスキーがその悲劇としての小説の中に形象化し、人類に伝えた偉大な経験であった」(163)と述べて、次のような詩的な言葉で本書を結んでいる。

「ドストエフスキー自身は『知性の地獄』から脱却できなかったが、彼はそれでもアリョーシャに託して、未来に対する全人類的な期待――より正確にいえば、この期待への親近感を示そうとした。『道……その道は大きくて、まっすぐで、明るいクリスタルのような道で、その終点には太陽が輝いている……』」(167)。

著者のゴロソフレルは「結び」において「小説の中でカントが代表しているのは、ヨーロッパの理論哲学一般、とりわけ批判哲学であって、ドストエフスキーはそれを相手に、小説の中で意識的な闘争を開始」(171)したと述べている。

訳者の木下豊房氏は「カント哲学の多くのモチーフがドストエフスキーの小説の中で蘇り、作家の思考の体系の中にしっかりと組み込まれたがその問題を解明する仕事はまだあまりなされていない」(183ー184)というヴィルモントの言葉を引用しているが、ドストエフスキーとヨーロッパ思想との係わりを究明することは相変わらず「危機の時代」にある現代においては重要であると筆者には思える。

 (『文明』55号、1989年。2013年9月に文体レベルの改訂を行った)

 

中川久嗣著『ミシェル・フーコーの思想的軌跡――<文明>の批判理論を読み解く』(東海大学出版会、2013年)

ミシェル・フーコーの思想的軌跡 - 〈文明〉の批判理論を読み解く (書影は「KINOKUNIYA WEB STORE」より)

 

序に代えて フーコーとドストエフスキー

私がフーコーを強く意識するようになったのは、『講座比較文明』第1巻の『比較文明学の理論と方法』に掲載された中川氏の「ヨーロッパ近代への危機意識の深化(2)――ニーチェとフーコー」を読んだときであった*1。

この論文の題名に(2)という番号が付いているのは、ドストエフスキーを中心にロシア思想史の流れを概観した私の論文「ドストエーフスキイの西欧文明観」が「ヨーロッパ近代への危機意識の深化」の(1)として置かれていたからである。

ただ、なぜ「ドストエフスキー」から「フーコー」なのか、私には当初その流れがよく理解できなかったが、フーコーは最初の著作『狂気の歴史』の冒頭でパスカルとドストエフスキーに触れてこう書いていた。

「パスカルによると、『人間が狂気じみているのは必然的であるので、狂気じみていないことも、別種の狂気の傾向からいうと、やはり狂気じみていることになるだろう』。またドストエフスキーには『作家の日記』のなかに、『隣人を監禁してみても、人間は自分がちゃんと良識をもっているという確信をもてない』という文章がある」。

そして、「非理性が理性の恥辱、その表向きの恥辱であることをやめるためには」、パスカルから2世紀後の「ドストエフスキーとニーチェまで」待たねばならないと第5章で記したフーコーは、「キリストは万人の目に自分が狂人――自らの托身によって、人間の失墜のあらゆる惨めさをたどる狂人――に見えることをも欲したのである」とも書いていた*2。

この文章を目にしたときに私は、若きドストエフスキーが兄ミハイルへの手紙で「私にはプランがあります。それは狂人になることです」と記していたことを思い出した。ドストエフスキーが「哲学に反対することは、それ自体哲学することです」とも書いていたことを想起するならば、フーコーの記述は検閲がきわめて厳しく「言論の自由」がほとんどなかった「暗黒の30年」と呼ばれる時代に青春を過ごしたドストエフスキーの小説の方法をも説明しているように思われる*3。

それゆえ、『狂気の歴史』を読んだ後では、この論文集の「総論」で「ヨーロッパ文明が唯一の文明と想定されるにいたった」19世紀の学的〈近代〉パラダイムを超える「新しい知の形成」の必要性を強調していた比較文明学会理事(当時)の神川正彦氏が、近代的な知の根源に迫ろうとしていたドストエフスキーとフーコーの作品の考察をも組み込むことで、「比較文明学という学的パラダイムの構築」を企画していたことに気づいた*4。

この論文集に掲載された「トインビーのルネサンス論をめぐる再検討」などを含む三宅正樹・明治大学名誉教授の『文明と時間』(東海大学出版会、2005年)についてはこの学会誌に書く機会を得た*5。今回はミシェル・フーコーの最初の著作『狂気の歴史』(1961年)から最晩年の『自己への配慮』(1984年)に至るまでの著作までが詳しく論じられている中川氏の『ミシェル・フーコーの思想的軌跡』が出版された。この著作からも強い知的刺激を受けたので、この機会に本書の内容をなるべく忠実に紹介しながら、比較文明学的な視点からドストエフスキーの作品にもふれつつフーコーの意義を考えてみたい。

1,フーコーの著作と「他者の思想」

「はじめに」でフーコーについて「哲学と歴史(そしてしばしば心理学や文学)を軸とした幅広い人文諸科学の領域において、実に多様な思想を展開した思想家であった」と記した著者は、彼の行った知的活動を次のように簡単に紹介している。

「精神医学、司法、監獄、言説(ディスクール)、権力、知、生-権力(バイオ・パワー)、性(セクシュアリテ)」など、「多様なテーマ・領域を貫く形で」、「『権力』と『知』の間の濃密な結びつき(すなわち『権力-知』」)の分析およびそれに対する批判的な論述を行った」。

その後で著者は本書の方法について、「フーコーのテクストを丹念に追いながら、彼が諸著作・諸論文において展開した『権力-知』についてのさまざまな批判的分析を、可能な限り一貫したやり方で」行うと明確に記している。

本書は以下の章から構成されている。

第1章 『狂気の歴史』と思考の可能性 ――フーコー・デリダ論争をめぐって

第2章 『言葉と物』における他者の思考について

第3章 『知の考古学』における言表/言説の実定性について

第4章 『知への意志』から『快楽の活用』へ――フーコーの「自己の倫理」の問題系と「権力-知」批判

第5章 ローマ帝政期における自己への配慮と批判的知の問題――古代倫理をめぐるミシェル・フーコーの比較研究について

第6章 ミシェル・フーコーの批判理論――いわゆる規範的問題をめぐって

第7章 ミシェル・フーコーの比較文明論――境界からの批判的思考の可能性について

『狂気の歴史』(正式な題名は『古典主義時代における狂気の歴史』)を扱った第1章では、この書でフーコーが「西洋近代理性が、非理性的存在(ここでは狂気)を自分自身にとって根本的な『他者』として同定し、それを分離・排除することで自らのアイデンティティーを確定してゆく有様を叙述」していることを明らかにしている。

そして、フーコーとデリダの論争を中心に考察しながら、「狂気」の問題は、「理解不可能な他者を前にして、思考がいったい何をなしえるのか、また何をなすべきか(あるいは何をなすべきでないか)という、倫理的問題に帰着する」とした著者は、フーコーが「デカルト的省察を西洋近代文明における理性の思考の代表であるとして、それ以外の思考の可能性を認め、また他者的要素の思考の内部への方途を模索しようとするのである」と書いている。

このような指摘は齋藤博・元東海大学文明学会会長が、「我思う、ゆえに我あり」を哲学の第一原理としたデカルト以降、近代西欧哲学では「世界観としての自我論的なパラダイム」が定着する中で、「他者」が「廃棄」されてしまったので、共存の問題を考える「文明理論の構築には、他者論の展開が不可欠の基礎作業である」と記していたことを想起させる*6。

著者にはすでに「他者」を主題とした共著があるが、フーコーの著作をとおして他者論の問題を深く考察したこの著書は、「文明理論の構築」を求めた重たい要請に答えるものでもあるといえるだろう*7。

本稿における私の関心は、フーコーの後期の著作『監視と処罰』(1975年)とドストエフスキーの『死の家の記録』との関係を中心に分析することで、「権力-知」と「他者」の問題がどのように深められているかを考察することにある。この意味で注目したいのは、「前期フーコーの方法論とされる『考古学』が、いかに後期フーコーの権力論の下地を形作り、準備するものであったのか」についても著者が詳しく検討していることである

フーコーの主著の一つとされる『言葉と物』(1966年)を論じた第2章では、古典主義時代(17・18世紀)の「表象作用によって人間に獲得された世界という記号群」が何よりも「同一性と差異性の原理に従って」、「『表』の形をした体系のうちに分配」され、「この時代の三つの大きな学問」である「一般文法」「博物学」「富の分析」もそれぞれの体系を完成することを目指していたと指摘している。

前期最後の著作として位置づけられる『知の考古学』(1969年)を論じた第3章では、この時期にフーコーが、「一貫した特徴・型・形式を抽出することの可能な独自のシステムを持つひとかたまりの総体、つまり社会や文化や文明といった、時間空間的に限定された大きな歴史的単位を分析するという基本姿勢をとっている」ことに注意を促した著者は、『知の考古学』が「各時代の支配的な知を構成する言表/言説の出現と、それにかかわる規則性の分析に主たる関心を払うこの時期のフーコーの、いわば理論的な総括となっている」と指摘している。

それとともに注目したいのは、第2章で「古典主義的な世界認識にあっては、たとえば博物学などに典型的に見られるように『自然のうちには連続性がある』と考えられなければならない」と分析していたフーコーが、第3章では「一九世紀の思考を規定している」「歴史的・時間的連続性」を指摘しているとし、「連続性の原理を基盤とする『同一者の思考』に対して、フーコーがひとつのアンチ・テーゼとしてこの『非連続性』の観点を提出しようとしていること」に著者が注意を促していることである。

2,「権力-知」の分析と「監視社会」の考察

論文「ニーチェ、系譜学、歴史」(1971年)には「フーコーの思想において中心的な役割を持つ『他者』『知』『批判』という三つの大きな概念を有機的に結びつける核心がある」と指摘した著者は、後期の方法論たる「系譜学」が、「ものごとの今現在の価値づけや意味づけを批判的に動揺・解体させようと試みるもの」であり、「『系譜学』は現在を批判するために、まさしく歴史を用いるのである」と記している。

そのような方法で書かれたのが1975年の『監視と処罰』であり、前期の諸著作にあっては「言表/言説の編制とそれを支配する規則性の分析にウエイトが置かれていた」ために、「具体的な社会的諸制度との関わりへの視点が比較的希薄であったが」、この著作は「一七世紀以来の近代西欧を全面的に覆う規律-訓練型権力システムの出現について」考察している。

では、『監視と処罰』においてはこの問題がどのように描かれているのだろうか。フーコーはロシアのエカテリーナⅡ世(在位1762~96)が、1767年に発布した『訓令』(ナカース)には死刑や体罰の廃止を強く求めたベッカリーアの『犯罪と刑罰』(1764年)の思想やモンテスキューなどの思想が盛り込まれ、実際にはあまり機能しなかったものの、理念的には法哲学の最新の成果が取り入れられていたことを指摘している*8。

この記述からは作家ドストエフスキーを生んだロシア帝国の法制度に対するフーコーの強い関心がうかがえるので、ドストエフスキーの場合と比較しながら具体的に見ていきたい。

農奴制の廃止や言論の自由などを求めたために1848年のペトラシェフスキー事件で逮捕され、死刑の宣告を受けた後に減刑されてシベリアの監獄に流刑になったドストエフスキーは『死の家の記録』において、肺病で死んでいく病人ですら足枷を外されなかったことに注意を促して、「足枷は――恥辱をあたえる一つの罰なのである。恥辱と苦痛、肉体と精神に加えられる罰なのである」と記している*9。

一方、監獄の考察をとおして鋭く「権力-知」の問題に迫ったフーコーも、囚人たちが足枷につながれて移送されることについて、「鉄鎖の一群の大がかりな光景(=見世物)は、身体刑の公開の古い伝統につながっていた」と指摘している*10。

興味深いのはドストエフスキーが「病院」が、「民衆をおびやかしているいちばん大きな理由」として、「ドイツ式の病院規則、病気のあいだじゅう見知らぬ人に取巻かれていなければならぬこと、食事のきびしい制限、衛生兵や医師のがんこなきびしさについての噂、死体の切開や解剖の話など」を挙げていることである。

ドストエフスキーは「病院」と題したこの章で、笞刑を行うことに慣れた刑吏の心理を分析して、「他者」の存在に対して、「もっとも残酷な方法で侮辱する権力と完全な可能性を一度経験した者は、もはや自分の意志とはかかわりなく感情を自制する力を失ってしまうのである」と指摘し、「暴虐は習慣である」と断言していた。

ドストエフスキーはさらに「刑吏の特性の芽は現代の人々のほとんどが持っている」と書き、「わたしが言いたいのは、どんなりっぱな人間でも習慣によって鈍化されると、野獣におとらぬまでに暴虐になれるものだということである。血と権力は人を酔わせる」と書き、「どんな工場主でも、どんな事業経営者でも、自分の労働者はときには家族ぐるみすっかり自分の思いどおりになるのだと考えて、一種のうずくような満足をおぼえるに相違ないのである」と続けている。ここには「権力」の危険性が鋭く指摘されているといえよう*11。

厳しい刑罰のことが詳しく描写されるこれらの章が「病院」と題され、病院や医師の考察がなされているのは一見奇妙に思われる。しかし、フーコーは近代における病院の役割が軍隊に続いて大きかったとし次のように記している。「病院、ついで学校、もっと後に工場は、単に規律・訓練によって《秩序化される》にとどまらなかったのであり、規律・訓練のおかげで、それらは、客体化のあらゆる機構がそこでは服従強制の道具という価値をもちうる、しかもそこでは権力のあらゆる増大が存在可能な知識を生み出す、そうした装置になった」*12。

このように見てくると、ドストエフスキーの監獄観とフーコーの監獄観がきわめて似ていることに気づくが、類似の一因は若い頃に「空想社会主義者」のフーリエから強い影響を受けていたドストエフスキーが、たとえ理想社会に見えようともプライヴァシーさえも完全に管理されるような社会の問題点を、シベリア流刑後に『地下室の手記』で鋭く指摘することになるためだろう*13。ベンサムを「治安本位の社会のいわばフーリエ」であると呼んだフーコーも、フーリエの提唱した理想社会の住居である「ファランステール(共同体住居)」を「〈一望監視施設〉の形式」をとっているようだとも記している*14。

フーコーの記述によって功利主義者のベンサムが考案した監獄の新しい建築様式「一望監視施設」を一瞥しておこう。それは「中心に塔を配して、塔には円周上にそれを取巻く建物の内側に面して大きい窓」をいくつも持ち、周囲の「円環状の建物」は、「独房に区分け」されており、「中央の塔のなかに監視人を一名配置して、各独房内には狂人なり病者なり受刑者なり労働者なり生徒なりをひとりずつ閉じ込めるだけで十分」な施設なのである。

つまり、フーコーの言葉を借りれば、「一望監視施設」は「見る=見られるという一対の事態を切離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである」*15。

こうして、技術が発展した近代においては「監視」の面でも、「権力を持つ」「少数者に、さらには唯一の者に、大多数の者の姿を即座に見させる」ことを可能としたことを指摘したフーコーは、ナポレオンを「過去の王権の簒奪者であると同時に新しい国家の組織者である君主」と位置づけ、ナポレオンこそが「統治権の君主的で祭式本位な行使」と「際限のない規律・訓練」との「接合点に位置する」と規定している*16。

この意味で注目したいのはドストエフスキーが長編小説『罪と罰』で、自分をナポレオンのような「英雄」であると見なし、「悪人」と決めつけた高利貸しの老婆の殺害を行った若き主人公の行動と苦悩をとおして、「自己」の絶対化の問題点をえぐり出していたことである。

『監視と処罰』では言及されていないが、権力者の元にすべての情報が集まるような仕組みの危険性は、核戦争後で3つの超大国によって分割統治されるようになった世界が描かれているジョージ・オーウェルの長編小説『1984年』(1949年)ですでに描かれていた。ことに「テレスクリーン」という双方向のテレビによって市民のほとんどの活動が監視されているという状況は、全体主義的な国家のみならず、現代の監視管理社会の問題をも先取りしていたといえよう。

ロシア文学との関わりで興味深いのは、革命後の1920年から21年にザミャーチンが書いた長編小説『われら』ではどんな個人的な会話も記録されることで個性を全く奪われるという未来の全体主義国家をすでに詳しく描いており、1924年に英訳されたこの作品は1949年に刊行されたオーウェルの小説にも影響を与えていたことである。

ザミャーチンが「この小説は人類をおびやかしている二重の危険――機械の異常に発達した力と国家の異常に発達した力――に対する警告である」と語っていたことを紹介した訳者の川端香男里氏は、「自然を圧殺する科学技術、産業文明、組織化される統治技術など」に向けられたザミャーチンの視野は、『カラマーゾフの兄弟』における「大審問官伝説」や『悪霊』のシガリョフの言葉とも深く関わっていると記している*17。

著者はフーコーがヨーロッパ社会を「監視文明」と呼んでいたことを紹介しているが、現代の世界ではインターネットの普及により情報の量は格段に増える一方で、米国家安全保障局による世界各国首脳の通話の盗聴が明るみに出るなど、「敵対国」だけでなく「友好国」相互でも「監視」が進んでいる。

その意味でも「監獄」の詳しい分析を通して「権力」と「他者」の問題に迫った『監視と処罰』の意義は大きいといえるだろう。

 3,「自己への配慮」とフーコーの比較文明論的な視野

フーコーが死ぬ直前に発行された『快楽の活用』と『自己への配慮』が出版されると、「多くの失望」の声があがったと著者は記している。たしかに『監視と処罰』の後で、急に古代のギリシアやローマの倫理をめぐる比較研究という幾分古めかしいテーマを示されると腰が引ける感じがしていた。

しかし、「古代ギリシアにおける自己の倫理と『権力-知』の問題――ミシェル・フーコーの古代研究について」という題名で行われた第91回比較文明学会の例会での講演を聴いて驚いたのは、それが現代にも通じるきわめて新鮮な切り口であったことである*18。

本書でも著者は「フーコーはあくまでも考古学者として、古典古代という古層を発掘し、それをありのままに復元している」という批判に対して、「古典古代の自己・主体の倫理に関する」研究も、「あくまでも系譜学、しかも出来事が力の場で繰り広げられるダイナミックなあり様を分析しようとする批判的な系譜学の試みとして、受け取る必要がある」と主張している。

著者によれば、「中世キリスト教の修道的倫理とその自己認識を一貫して『自己放棄』を目指したもの」であると指摘したフーコーは、「ギリシア的自己認識」についても、その本質は「記憶や想起に基礎を置いて行われる『神的な要素としての自己の認知』である」と指摘していた。

一方、フーコーが例に挙げている「ローマ的な自己認識」は、「自己の不適正な言動や誤った行為に対して注意深く警戒・審査・査察の視線を注ぎ、絶えず試練のふるいにかけるような知の形式」であり、それは「自己に向けられた強力な『批判』的な視線であると言ってよい」と著者は記している。

興味深いのはセネカなどのストア哲学を好んだロシアの作家チェーホフが、友人の俳優にマルクス・アウレリウスの『自省録』を勧めて次のように語っていたことである。

「あなたが読みたがっておられるマルクス・アウレリウスを送ります。空欄に鉛筆で書き込みがありますが、気にしないでお読みください。続けて全部、お読みください――なぜなら全部、同じように素敵ですから。」

このことを記したロシア文学者の佐藤清郎氏は、19世紀末のロシアではセネカなどのストア哲学が、「多くの知識人の間でかなり広く読まれていたそうです」とも記している*19。

ストア派のセネカの著書『心の平静について』にも言及した著者は、「フーコーがしばしばローマ期の自己への配慮と医学・医術との類比に注目している」ことを指摘しているが、世紀末の混乱の時期を生きた作家のチェーホフが医師でもあったことを思い起こすと彼の言葉は「古典古代の自己・主体の倫理に関する」フーコーの哲学を考える上でも含蓄の深い言葉だと思える。

なぜならば、2001年の「同時多発テロ」を「新しい戦争」の勃発ととらえて「報復の権利」の行使としてアフガンへの空爆を行ったブッシュ政権は「悪の枢軸国」と名付けたイラクとの戦争にも踏み切っていたからである。しかし、「大量破壊兵器」が見つからなかったために、この戦争には「大義」がなかったことが明白になった*20。こうして、圧倒的な軍事力の差からアフガンのタリバン政権やイラクのフセイン政権は簡単に打倒されたが、それが中東情勢やアフガンの混乱、さらには「イスラム国」の問題とも直結しているように見える。

『比較文明学の理論と方法』に載せた論文で私は若い頃にフーリエの思想から強い影響を受けていたダニレフスキーがクリミア戦争(1853~56)によって激しく西欧文明に幻滅した後では、『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的政治的諸関係の概観』(1869)で、攻撃的な西欧から仕掛けられる戦争で亡ぼされないために「全スラヴ同盟」を作ることの必要性を説き、ドストエフスキーも『悪霊』や『作家の日記』を書いていた頃にはこのような考えから強い影響を受けていることを示唆した*21。

後期のドストエフスキーとダニレフスキーの文明論の問題点についてはいずれ稿を改めて考察することにしたいが、ここでは権力の奪取の方法を想定していなかったために批判されたフーリエの思想を、若きドストエフスキーが「悪意ある攻撃によってではなく、人類愛によって人を鼓舞する」と説明していたことを指摘しておきたい*22。

「権力-知」の問題をとおして他者の「理解可能性」を模索したフーコーの著作が、「思考のうちに『他者』を取り込んだ形で、『他者』とともに成立する新しい主体性の形式を目指そうとするものである」と著者は記している。最近はドストエフスキーの文学を「父殺しの文学」とスキャンダラスに捉えるような傾向も見られるが、ドストエフスキーは最後の長編小説『カラマーゾフの兄弟』で、「他者」を殺すことや自然との関わりの問題を哲学的な深さで展開していたのである。

「フーコーの一連の批判的な歴史分析の仕事は、具体的には西欧文明の『権力-知』をめぐる合理性の歴史を扱い、権力や力に貫かれた西欧文明の来歴を明らかにし、その実際の姿をあらためて認識すること」であったとした著者は、「自己の歴史こそが唯一の正当性を持つとの考えの否定は、自己とは異なる他者の歴史の存在、自己とは異なる別のあり方の再認識に私たちを導いてくれるのである」と続けている。

このようなフーコーの「他者」の認識は、比較文明学の創始者といわれるトインビーの見方にも通じるであろう。世界戦争を引き起こすにいたった近代西欧の「自国」中心の歴史観がはらむ危険性を深く認識したトインビーは、『フランス文明史』を書いたギゾーや『イギリス文明史』を書いたバックルが唱えた歴史観を大著『歴史の研究』において「自己中心の迷妄」と厳しく批判したのである*23。

「比較」という方法の重要性にも注意を喚起した著者は、「フーコーは力のシステムたる文明の現実/裏面を単に顕わにし、分析するだけではない。彼の仕事は、そうした文明の力のシステムを批判し、かつそれを変容させようとする強い動機に裏打ちされている」と書き、次のように結んでいる。

「過去と未来を同時に見据えようとするフーコーの『〈文明〉の批判理論』は、それ自体、そうした力の可能性のひとつを明らかにしてくれるものなのである」。

本書の書評で加藤泰氏は、フーコーが最初の著作で明らかにしたことは〈「狂気」をまえにした「理性」にとってのみならず、人類が「深い多元性」(コノリー)をもつ存在である限り根源的な意義をもつ〉と指摘するとともに、「フーコーを『文明』についての批判理論として明晰に理解する試みはこれまでほとんどなされたことはないのではないか」と結んで本書の意義を高く評価している*24。

博士論文をもとにした著作なので多少難解な点は残るが、哲学や歴史の研究者のみならず、文学や比較文明学をめざす若手の研究者にもぜひ読んでもらいたい書物である。

 

*1 中川久嗣「ヨーロッパ近代への危機意識の深化(2)――ニーチェとフーコー」、伊東俊太郎・梅棹忠夫・江上波夫監修『講座比較文明』第1巻、神川正彦・川窪啓資編『比較文明学の理論と方法』、朝倉書店、1999年、64~79頁。

*2 フーコー、田村俶訳『狂気の歴史――古典主義時代における』、新潮社、1975年、177~178頁。

*3 高橋『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』、成文社、2007年、66~67頁。

*4 神川正彦「比較文明学という学的パラダイムの構築のために」、前掲書、『講座比較文明』第1巻、1~13頁。

*5 高橋、書評「三宅正樹著『文明と時間』」、『文明研究』、第31号、2012年。

*6 齋藤博「他者のトポロジー」、『文明』、第39号、1983年、20頁

*7 中川久嗣・石浜弘道・浅見聡『他者の風景──自己から関係世界へ』、批評社、1990年。

*8 フーコー、田村俶訳『監獄の誕生――監視と処罰』、新潮社、1977年、121頁。

*9 ドストエフスキー、工藤精一郎訳『死の家の記録』、『ドストエフスキー全集』第5巻、新潮社、1979年参照。

*10 フーコー、田村俶訳、前掲訳書『監獄の誕生――監視と処罰』、262頁。

*11 高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年、第3章〈権力と強制の批判――『死の家の記録』と「非凡人の思想」〉参照。

*12 フーコー『監獄の誕生――監視と処罰』、引用は桜井哲夫『「近代」の意味――制度としての学校・工場』、NHKブックス、1984年、90頁より。

*13 リチャード・ピース、池田和彦訳『ドストエフスキイ 『地下室の手記』を読む』、のべる出版、2006年、102~128頁。

*14 フーコー、田村俶訳、前掲訳書『監獄の誕生――監視と処罰』、224頁。

*15 同上、202~204頁。

*16 同上、217~218頁。

*17 川端香男里「解説」、ザミャーチン、川端香男里訳『われら』、岩波文庫、1992年、357~371頁。

*18 2011年7月に東海大学高輪校舎で行われた第91回比較文明学会の研究例会については、比較文明学会HPの「研究例会」の頁を参照。

*19 佐藤清郎『わが心のチェーホフ』、以文社、2014年、「チェーホフとストア哲学」参照。

*20 戦争によって問題を解決しようとすることの危険性については、日本価値観変動研究センターの季刊誌「クォータリーリサーチレポート」に連載した8編の論考を再構成した拙論「戦争と文学 ――自己と他者の認識に向けて」『日本ペンクラブ電子文藝館』、2005年参照。

*21 髙橋「ドストエーフスキイの西欧文明観」、前掲書『比較文明学の理論と方法』、58~59頁。

*22 若きドストエフスキーとフーリエ主義との関係については、ベリチコフ編、中村健之介訳『ドストエフスキー裁判』北海道大学図書刊行会、1993年参照。

*23 トインビー、長谷川松治訳『歴史の研究Ⅰ』、社会思想社、1967年、75~76頁。

*24 加藤泰「書評」、『比較文明』第30号、2014年、255頁。

(『文明研究』第33号、東海大学文明学会、2014年、77~81頁)。

(2018年1月20日、書影を追加)

山城むつみ著『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』(新潮社、2014年)

 

山城むつみ著『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』(新潮社、2014年)

著者の山城むつみ氏については、詳しい説明の要はないだろう。一九九二年に「小林批評のクリティカル・ポイント」で第三五回群像新人文学賞を受賞し、二〇一〇年には『ドストエフスキー』(講談社)で毎日出版文化賞を受賞している。この他にも中野重治、椎名麟三、吉本隆明などを論じた『転形期と思想』(講談社、一九九九年)、『文学は〈人間学〉だ。』(佐藤泰正氏との共著、笠間書院、二〇一三年)などを次々と発表しており、本書もそうした知的蓄積の上に書かれている。

満州国が建国された翌年の一九三三年からドストエフスキー論を書き始めた小林にあった『ドストエフスキイの文学』という「作品論集成の腹案」が、「小林の望んだ形ではついに刊行されなかった」と記した著者は、その「空白」に焦点を絞って考察した本書で、「ゆっくり読もう。焦点が合いさえすれば、その先には何かそら恐ろしいものさえ見えるはずである」と書いている。評者もゆっくりと読むことで、戦争の時代における殺人や人の心の闇に迫った本書を考察したい(以下、敬称は略す)*1。

 

〈回帰する一八七〇年代〉と題された序章で、山城は小林が『罪と罰』に続いて「『白痴』を論じた後に「すぐには『悪霊』を論じず、むしろ、禁欲的に作品への論評を避けながら作家の実生活とその時代に分け入ってゆく『ドストエフスキイの生活』の連載に直ちに着手し」、とくに「ネチャアエフ事件」を論じた次のような文章を引用していることを指摘している。

「この動機の為に、心の清らかな単純な人間でも、あの様な厭はしい罪悪の遂行に誘惑され得るのだ。其処に、恐ろしいものがあるのだ。僕等は、厭ふべき人間に堕落しないでも厭ふべき行為を為し得る」(『作家の日記』一八七三年十二月十日)。

そして、「約二年をかけた周到な用意の上で」書き始められた小林の『悪霊』論が、「一九三七年七月に始まった日中戦争の展開と雁行するように連載され、いわゆる南京事件の前月の号に掲載された第四回で中断された」ことに注意を促した著者は、「急速にテロリズムに傾斜していった」ロシアのナロードニキの運動と、「心の清らかで純粋な人々が、ほかならぬアジアを侵略し植民地化して、まさしくスタヴローギンのように『厭はしい罪悪の遂行』に誘惑されて」いった「昭和維新の運動」が酷似していると書いている。

〈一九三八年の戦後〉と題された第一章は、「第二次上海事変、杭州湾上陸、そして南京事件という一連の大きな動きのあった直後に上海、杭州、南京と戦跡の生々しい各地を転々と」していた小林秀雄が、最初の従軍記事「杭州」を「上海時間と日本時間の時差のため杭州行きの汽車に乗り遅れる」という出来事から書き出し、「同じ場所で二つ時間があるといふ事にたゞもう無性に腹が立つた」と書いていることに注意を促し、次のように記している。

「小林が『そこ』に渡っていくつもの失錯につまずきながら次第に感受していくのは、『そこ』の日常には、ほんの『一時間』(東京と上海の時差)程度の些細なひずみによって、感知できない小さな穴がいくつも空いていて、そこに踏み入ってしまえば、強姦へであろうと、虐殺へであろうと、掠奪へであろうと、放火へであろうと、どんな『ど強い』異常へもこの日常から地続きにわずか一歩で易々と至り着いてしまうこと」の「恐ろし」さだった。

『悪霊』におけるスタヴローギンが自ら告白する少女凌辱の場面で小林秀雄が中断していたことに触れていた著者は、「文藝春秋」一九三八年六月号に発表された従軍記事「蘇州」の検閲で伏字になっていたり、ページが破り取られたりしている箇所を様々な図書館で確認しながら復元し、小林がこの従軍記事で「皇軍慰安所なるものがあってその『切符』に『一発』何円と書いてあるなど、あまりに露骨で、とうてい『ここ』の感覚では考えられない馬鹿馬鹿しいことである。しかし、そのありえないことが『そこ』では」、「平然と通用している」ことを明らかにしていたことを確認している。

「蘇州」の記事の「慰安所」の箇所などが削除された翌日の新聞に小林は、「今日までの思想家、文学者に対して行はれた当局の非常的処置については、僕は当然な事だと考へてゐた。今もさう思つてゐる」と書いた。しかし、小林がこの後で、従軍記者として現地を見た文学者は「日本人として今日の危機に関する生ま生ましい感覚だけは必ず持つて還るのだ…中略…そしてそれは、彼等の書くものに必ず現れるだらう」と書いていたことを指摘した山城は、小林が「文学」という方法で戦争に肉薄しようとしていたと解釈した。

第二章の〈日本帝国のリミット〉では、「満蒙開拓青少年義勇隊孫呉訓練所」を見学した小林が、「日本の国民が大人もこども」も「事変」に処するにいかに「黙つて」いるかを思い知り、「説明となると、僕の才能を越える」などと従軍記事「満洲の印象」で少なくとも三度も表現を断念していたが、それは単に「検閲」を考慮してのことではなく、この「時点ですでに『帝国』の果てようとしている境界まで来て歴史の硬い岩盤にぶつかっていたのだ」とし、小林が訪ねた「綏棱移民地瑞穂村」の四百九十五人の村民が「青酸カリで自決」したことにもふれている*2。

検閲で削除された従軍記事のテキストを再現しようとした山城の明晰な文章からは異様な迫力も伝わってくるが、「自分でもはつきりしないが、見物して来た戦後のど強い支那の風物は、僕の心のうちの何かを変へたらうとは感じてゐる」と書いていた小林秀雄のドストエフスキー論に「歴史の硬い岩盤」は、どのように反映されているのだろうか。

〈世界最終戦争と「魂の問題」〉と題された第三章では、「やはり中断」された『カラマーゾフの兄弟』論を中心に考察されているが、まず、確認しておきたいのは、「『白痴』についてⅠ」で「キリスト教の問題が明らかに取扱はれるのを見るには、『カラマアゾフの兄弟』まで待たねばならない」と書いていた小林がここで、「今日、僕等が読む事が出来る『カラマアゾフの兄弟』が、凡そ続編といふ様なものが全く考へられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思はれる」と断言していたことである*3。

山城も「自由」という「耐え難く『恐ろしい贈物』を与える者」としての「キリスト」への「飢ゑ」を強調しながら、「その眼が見ている位相においては、殺したラスコーリニコフと殺さなかったミーチャとが『まったく等価』になる」とし、小林の記述が突然、断ち切られたことに「加害者」としての「ミイチャの魂の問題」との関わりを見て、戦後に書かれた『罪と罰』論との強い関連を示唆している。

〈戦後日本からの流刑〉と題された第五章は、一九四六年に行われた座談会「コメディ・リテレール」での小林の発言の紹介から始まっている。

「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた。これは千枚も書いて、本を出すばかりになっているんですが、また読返してみると詰らなくて出せなくなった。しかし、まだ書き直す興味は充分あるのです」。

小林のこの言葉を受けて著者は「戦争中に心血を注いだ『ドストエフスキイの文学』は一応、完成していたようだが、敗戦という事実の後に読み返せば、『一向に纏まりのつかぬ疑はしい多量な研究ノオト』でしかなかったようだ」と記し、戦後に書いた『罪と罰』論で小林がエピローグについてこう書いていることに注意を促している。

「そこに一つの眼が現れて、僕の心を差し覗く。突如として、僕は、ラスコオリニコフという人生のあれこれの立場を悉く紛失した人間が、そういふ一切の人間的な立場の不徹底、曖昧、不安を、とうの昔に見抜いて了つたあるもう一つの眼に見据ゑられてゐる光景を見る。言はば光源と映像とを同時に見る様な一種の感覚を経験するのである。」

この文章について著者は、「小林は、エピローグに、作中人物が作者の視線を異様な忍耐で堪えているという『小説形式に関する極限意識と言ふべき異様な終止符』を見ようとしている」と書いている。そして、「『白痴』についてⅠ」で小林が「ドストエフスキーにとつて、この純粋さの象徴がキリストであった事は、疑ふ余地がない」と書いた時、「そこでは、キリストは象徴でしかなかった。だが、今では、比喩や象徴ではなく、『一つの眼』となって小林の心を差し覗いている。それが見ているのだ。それが見えるのではない」と続け、「『犯罪』を犯して丸太の上に腰を下ろして黙想しているのは敗戦後の小林秀雄自身である」と記した著者は、小林の『罪と罰』論の印象的な文章を引用している。

「見える人には見えるであらう。そして、これを見て了つた人は、もはや『罪と罰』という表題から逃れる事は出来ないであらう。…中略…聞こえるものには、聞こえるであらう『すべて信仰によらぬことは罪なり』(ロマ書)と」。

「キリスト」や「一つの眼」に言及しつつ、緊迫した文体で書かれた山城の文章からは、高校生の時に小林秀雄のドストエフスキー論に夢中になった時に感じた「異様な熱気」を再び体感することができた*4。

しかし、この『罪と罰』論の後に書いた『白痴』論で小林は、太平洋戦争直前の一九四一年一〇月号から翌年の九月号まで掲載されていた『カラマーゾフの兄弟』論以前のレベルへと後退していると思われる。

なぜならば、本書に掲載されている詳しい関連年表からは抜けているが、『「白痴」について』(角川書店)が単行本として発刊された翌年の一九六五年一〇月に『新潮』に掲載された対談で、「ムイシキン公爵は悪人ですか」と数学者の岡潔から問われた小林秀雄が、「悪人と言うと言葉は悪いが、全く無力な善人です」と言い直し、こう続けているからである。

「もっと積極的な善人をと考えて、最後にアリョーシャというイメージを創(つく)るのですが、あれは未完なのです。あのあとどうなるかわからない。また堕落させるつもりだったらしい」(『人間の建設』新潮文庫)。

一方、〈まえがき〉でこの「『白痴』についてⅡ」について、「何とも異様な書記の運動なのだ。小林も、このような文は二度とは創りえなかった。いったい、どうしたらこれほどの強度と密度の文が出来上がるのか」と書いていた著者は、〈戦後日本への復員〉と題された終章で戦後の『白痴』論について、こう記している。

「『白痴』読解の位相を突き破りそれを別の位相に容赦なく転換する『一つの眼』の視線に堪えながら」、『白痴』論を書いている小林には、「殺したロゴージンの不安と殺さなかったムイシュキンの不安とが全く同格に並列する世界があることが最初から『はつきり』しているのだ」(太字は引用者)。

そして、「『或る一点』とは、無論、『死』の事だ」とした小林の文章を引用した著者は、「あの『或る一点』の悩ましい感触から発している彼の『限りない憐憫の情』は、人々には『魔性』として、どこか破滅的に働きかけずにいないのだ」と続け、「ムイシュキンがロゴージンの『共犯者』であると小林が最後に仄めかしたのはこのことだ」と好意的に解釈している。

しかし、岡潔との対談で「無明」を強調しながら「だいいちキリスト教というものが私にはわからないのです。私は『白痴』の中に出ている無明だけを書いたのです」と語った小林は、「ムイシキンという男はラゴージンの共犯者なんです」と続けていた*5。

この説明から浮かんでくるのは、戦後の『白痴』論において小林がムイシキンの「魔性」を強調したことが、『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャの解釈の変更をも招いた可能性が高いということである。

デビュー作「様々な意匠」で小林は「指嗾」という用語を用いながら、「劣悪を指嗾しない如何なる崇高な葉」もないと書いていた。そのことに注目するならば、『カラマアゾフの兄弟』論が「中断」せざるを得なかった一因は、自殺したスメルジャコフに自分が殺人を「指嗾」をしていたことに気づいたイワンが「良心の呵責」に激しく苦しんだことにも触れざるをえなくなるのを恐れたことにあると思われる。

「たしかに、小林はミーチャ同様、犯罪者ではなかった。だが、敗戦後には罪人(単独者)になったのだ」と山城は書いている。しかし、先に見た座談会「コメディ・リテレール」でトルストイ研究者の本多秋五から戦前の発言について問い質された日本の代表的な知識人の小林秀雄は、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した」と語っていた(太字引用者)。

小林が自分を「罪人」と感じた期間はきわめて短く、「『白痴』読解の位相を突き破り」、テキストから離れた『新白痴』論を創作していたのではないだろうか*6。

ただ、著者が小林秀雄の『白痴』論に「異様な書記の運動」を見いだしているのは、戦争の苦しい体験から産み出された武田泰淳の「審判」、「ひかりごけ」や『森と湖のまつり』、さらには大岡昇平の『野火』などの深い記述の分析を、小林のドストエフスキー論に反映させて読み解いた結果だと思われる*7。

すでに誌数が尽きたので詳しく論じる余裕はないが、本書には第四章〈「終戦」の空白――『絶対平和論』と「マチウ書試論」〉や第六章〈復員者との対話――『野火』と『武蔵野夫人』〉、さらには『遙かなノートル・ダム』などについての付論も収録されている。強い知的刺激を受けたそれらの考察は次の機会に譲りたい。

 

*1 紙数の都合上、ここでは小林秀雄のドストエフスキー観を考察した箇所のみを対象とする。

*2 小林秀雄と満州とのかかわりについては、西田勝「小林秀雄と『満州国』」、『すばる』2月号、集英社、2015年に詳しい。

*3 ただ、小林秀雄はここで「ルナンが『キリスト伝』を書いたのは、ドストエフスキイが、シベリヤから還つて来て間もない頃である。ドストエフスキイが、この非常な影響力を持った有名な著書を読んだかどうかは明らかではないが、読んだとしても、恐らく少しも動かされることはなかったであらう」と書いていた。すぐれた『カラマーゾフの兄弟』論ではあるが、このような認識は戦後の『白痴』論に受け継がれている。

*4 小林秀雄のドストエフスキー論との出会いと決別については、リンク→「あとがきに代えて──小林秀雄と私参照。

*5 この対談については稿を改めて考察したいが、小林秀雄の『白痴』論を何度か読み直す中で強い違和感を抱くようになった一因は、読者を「注意深い読者」と「普通の読者」、「不注意な読者」の三種類に分類していることであった。そのような小林の見方からは、人間を「非凡人」「凡人」「悪人」の三種類に分類していたラスコーリニコフの「非凡人の理論」との類似性が感じられたのである。

*6 小林秀雄の『白痴』論における登場人物の相互関係の単純化の問題については、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』序章、30~31頁参照。

*7 大岡昇平のドストエフスキー観については、劇評「ドストエフスキー劇の現代性――劇団俳優座の《野火》を見る」、『ドストエーフスキイ広場』第16号、2007年。大岡昇平の戦争観については、司馬遼太郎との対談に言及した『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、2002年、第2章、84~85頁参照。

 (『ドストエーフスキイ広場』第24号、2015年、144~150頁)。

井桁貞義著『ドストエフスキイ 言葉の生命』 (群像社、2003年)

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井桁貞義著『ドストエフスキイ 言葉の生命』  (群像社、2003年)

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長い間、刊行が待たれていた井桁氏のドストエフスキー論が、「聖書と語らう」「ロシアと語らう」「ヨーロッパと語らう」「ドストエフスキイと語らう」、そして「アジアでの語らい」の五部で構成され、五〇〇頁を越える大著の形で出版された。

あとがきで著者の井桁貞義氏はプーシキンの詩に託しながら、ドストエフスキーの作品との出会いと別れ、そして新しい再会について触れている。実際、「ドストエフスキーの会会報」の編集など手間と時間がかかる作業に従事し(『場――ドストエフスキーの会の記録』Ⅰ~Ⅳ、参照)、さらに毎回特集を組んだ『ドストエフスキー研究』の編集者の一人として重責を担った氏は、それまでの豊富な知識を活かし、「<文化歴史派>と<詩学派>の方法を交互」に用いて、斬新な切り口でわかりやすくドストエフスキーの「人と思想」に迫った『ドストエフスキイ』(清水書院、一九八九年)を発行し、いよいよ本格的なドストエフスキー論の刊行が待たれていたときに、氏はドストエフスキー研究から離れた。しかし、それはペレストロイカからソ連の崩壊に到る激動の中で、ロシアに対する新しい見方が求められる時代的な要求に対する著者の応答であったともいえ、そのような問題意識は本書に収められた「光の制度――ロシア・ユートピア・ヴィジョン」(一九八九年)に顕著であろう。

「常にもっとも面白い文化の最前線に身を置くことに努めてきた」と認めているように、その後氏は、『ソヴィエト・カルチャー・ウォッチング』(編著、窓社)、『現代ロシアの文芸復興』(群像社)、さらにはインターネットによる授業などにも次々と取り組んだ。ただ、それは研究者としてだけではなく、教育者としてもロシア文学の「最前線」に身を置いてきた著者が、時代の中で引き受けた責務でもあったように思える。

その意味で、ソ連崩壊後のロシアにおけるドストエフスキー研究の新しい方向性とも密接につながっているばかりでなく、インターネットという新しい通信媒体による「聖書と語らう」が第一部に置かれているのは、激動の時代と著者との関わりを象徴的に示していると思える。

そして、著者は二〇〇〇年に千葉大学で行われた国際ドストエフスキー集会が、ドストエフスキーとの再会のきっかけになったと記しているが、こうして本書には比較文学の手法でドストエフスキーの精神的な西欧の関わりを考察した「ドストエフスキーとヴォルテール」や「ドストエフスキイとシラー」などの基礎的で不可欠な作業を踏まえた一九七〇年代後半の論文から、「大地――聖母――ソフィア」や「ポリフォニイ小説の成立――イワーノフ・プンピャンスキイ・バフチン」など国際学会で発表されて大きな反響を呼んだ論文、さらに最新の論文「武田泰敦『富士』とカーニバル」までが収められており、氏の長年のドストエフスキー研究の成果を一望できることとなった。

ことに筆者にとって興味深いのは、「ドストエフスキイとピョートル大帝」を初めとして、「ドストエフスキイとナポレオン」、「ドストエフスキーにおける<分身>モチーフについて」、「ポオ・ドストエフスキイ・アンドレーエフ――ロシア世紀末における<我>とその変容」など、一見、様々なテーマをあつかっているかに見える多くの論文が、権力のあり方や「自己と他者」の関係など、ドストエフスキー文学における中心的な問題にたいする一貫した持続的な問題意識によって統一されていることであった。

さたに、第五部の「アジアでの語らい」では単に日本だけではなくアジアにおけるドストエフスキーの受容をも視野に入れつつ、手塚治虫の『罪と罰』観や『刑事コロンボ』との比較、高村薫の『マークスの山』や、柳美里の『ゴールドラッシュ』にも言及した論文「『罪と罰』と二〇世紀後半の日本」や、「村上春樹とドストエフスキー」などの章も収められている。ここには、学問としての文学の斜陽が語られる中で、若い世代との対話を試みようとする著者の真摯な姿勢が伝わってくる。

こうして、それぞれがドストエフスキー研究史の中で先端を担った個々の論文から成る本書からは、ドストエフスキーにおけるヨーロッパ文学(文化)の深い受容を踏まえて、ロシアにおけるドストエフスキーの受容と理解の深まりに迫り、ドストエフスキーの作品と日本の文学との深い関わりを明らかにしているといえよう。そして『ドストエーフスキー広場』第四号(一九九四年)に発表され、本書にも掲載されている「『レ・ミゼラブル』『罪と罰』『破戒』」は、「言葉の生命」による他者とのつながりを明らかにすることで文学の可能性をも示していると思える。

ただ、井桁氏はまもなく自殺することになる芥川龍之介が『歯車』において、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』に言及した「不気味な一節」にも触れているが、この二年前には治安維持法が施行された日本は「新しい戦争」への道を歩み始めていた。「グローバリゼーション」の強い圧力のもとでロシアだけでなく、日本でも民族主義や国家主義の流れが強くなり、文学の意味が希薄になりつつあると思える現在、文学の言葉で自己と他者の問題を極北まで考察した「ドストエフスキー文学」の意味はきわめて重たい。

その意味でも時代の流れと対峙しながら、比較という方法を重視して真正面から文学の可能性を考えている本書は、今後の文学理論の形成に於いても重要な役割を果たし得ると思える。ドストエフスキーとの「対話」をとおして、ヨーロッパやロシア、さらにアジアとの「対話」を試みた本書が、専門家だけでなく若い世代にも広く読まれて、「新しい対話」のきっかけになることを強く望みたい。

『ドストエーフスキイ広場』(第13号、2004年)。

*   *   *

追記:本文中でふれていた『ドストエフスキイ』(清水書院、1989年)の新装版が2014年9月に発行された。比較文学的な手法によるすぐれたドストエフスキーの入門書となっているので、目次を紹介しておく。

42082(82ドストエフスキー)

【目次】 1、デビューまで 2、『貧しき人々』―“テクストの出会い”と“出会いのテクスト” 3、“ユートピア”の探求 4、『地下室の手記』―“アンチ‐ヒーロー”による“反物語” 5、宗教生活 6、『罪と罰』―再構築と破壊 7、カタログ式西欧旅行案内 8、『悪霊』―レールモントフとニーチェを結ぶもの 9、ジャーナリスト‐ドストエフスキイ 10、『カラマーゾフの兄弟』―修道僧と“聖なる愚者”たち