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シリアへの空爆のニュースに接して

  昨日、化学兵器使用についての確認がまだ国際機関によってなされておらず、国連安保理決議もない段階で、アメリカが国連憲章に基づかないシリアへの軍事行動を英仏とともに行いました。

むろん、化学兵器も使用したとされるシリアは強く非難されるべきでしょう。

しかし、「イラクが大量破壊兵器を開発している」との「虚偽」の「証拠」を根拠として米国主導で始まった「大義なきイラク戦争」への英国の参戦を決定したイギリスのブレア元首相は、2015年10月25日に放映された米CNNのインタビューで『我々が受け取った情報が間違っていたという事実を謝罪する』」と述べていました(「朝日新聞」デジタル版)。

そしてブレア氏は政権崩壊後の混乱について、「政権排除後に何が起こるかについて、一部の計画や我々の理解に誤りがあった」とも認めるとともに、イラク戦争が過激派組織「イスラム国」(IS)が台頭した主な原因かと問われると、「真実がいくぶんある」と答えていたのです。

*   *   *

2017年に『原子力科学者会報』は、テロや原発事故の危険性、「アメリカ第一主義」を掲げるトランプ大統領の地球温暖化や核拡散の問題に後ろ向きな政治姿勢などにより世界終末時計が「残り2分半」に戻ったと発表していました。

アメリカとの軍事的な連携の強化を狙う安倍政権は「戦争法案」と思われる「安保関連法案」を強行採決していましたが、自国は非人道的な核兵器を所有しその使用をも公言しているアメリカが先頭に立ってシリア政府への武力攻撃をすることは、再び軍拡を招く危険性を含んでいると思われます。

「核の時代」と「改憲」の危険性

(2018年4月27日、改題と改訂)

小林秀雄の『罪と罰』論と島崎藤村の『破戒』

上海事変が勃発した一九三二(昭和七)年六月に書いた評論「現代文学の不安」で、「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書いた文芸評論家の小林秀雄は、その一方でドストエフスキーについては「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記しました〔『小林秀雄全集』〕。

しかし、二・二六事件が起きる二年前の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林は、ラスコーリニコフの家族とマルメラードフの二つの家族の関係には注意を払わずに主観的に読み解き、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」との解釈を記したのです。

そして、小林は新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

このような小林の解釈は、『罪と罰』では「マルメラードフと云う貴族の成れの果ての遺族が」「遂には乞食とまで成り下がる」という筋が、ラスコーリニコフの「良心」をめぐる筋と組み合わされていると指摘していた内田魯庵の『罪と罰』理解からは大きく後退しているように思えます。

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(書影は「アマゾン」より) (島崎藤村、図版は「ウィキペディア」より)

 この意味で注目したいのは、天皇機関説が攻撃されて「立憲主義」が崩壊することになる一九三五年に書いた「私小説論」で、ルソーだけでなくジイドやプルーストなどにも言及しながら「彼等の私小説の主人公などがどの様に己の実生活的意義を疑つてゐるにせよ、作者等の頭には個人と自然や社会との確然たる対決が存したのである」と書いた小林が、『罪と罰』の強い影響が指摘されていた島崎藤村の長編小説『破戒』をこう批判していたことです。

 

「藤村の『破戒』における革命も、秋声の『あらくれ』における爛熟も、主観的にはどのようなものだったにせよ、技法上の革命であり爛熟であったと形容するのが正しいのだ。私小説がいわゆる心境小説に通ずるゆえんもそこにある」。

日本の自然主義作家における「充分に社会化した『私』」の欠如を小林秀雄が指摘していることに注目するならば、長編小説『破戒』を「自然や社会との確然たる対決」を避けた作品であると見なしていたように見えます。

たしかに、長編小説『破戒』は差別されていた主人公の丑松が生徒に謝罪をしてアメリカに去るという形で終わります。しかし、そのように「社会との対決」を避けたように見える悲劇的な結末を描くことで、藤村は差別を助長している校長など権力者の実態を明確に描き出し得ているのです。

そのような長編小説『破戒』の方法は、厳しい検閲を強く意識しながら主人公に道化的な性格を与えることで、笑いと涙をとおして権力者の問題を浮き堀にした『貧しき人々』などドストエフスキーの初期作品の方法をも想起させます。

さらに、小林秀雄は「私小説論」で日本の自然主義文学を批判する一方で、「マルクシズム文学が輸入されるに至って、作家等の日常生活に対する反抗ははじめて決定的なものとなった」と書いていましたが、この記述からは独裁化した「薩長藩閥政府」との厳しい闘いをとおして明治時代に獲得した「立憲主義」の意義が浮かび上がってはこないのです。

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(創刊号の表紙。1893年1月から1898年1月まで発行。図版は「ウィキペディア」より)

これに対して島崎藤村は「自由民権運動」と深く関わり、『国民之友』の山路愛山や徳富蘇峰とも激しい論争を行った『文学界』の精神的なリーダー・北村透谷についてこう記していました。

「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」。

実は、キリスト教の伝道者でもあった友人の山路愛山を「反動」と決めつけた透谷の評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」が『文学界』の第二号に掲載されたのは、「『罪と罰』の殺人罪」が『女学雑誌』に掲載された翌月のことだったのです。

「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は『史論』と名(なづ)くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡(ひろ)めて、頻(しき)りに純文学の領地を襲はんとす」。

愛山の頼山陽論を「『史論』と名(なづ)くる鉄槌」と名付けた透谷の激しさには驚かされますが、頼山陽の「尊王攘夷思想」を讃えたこの史論に、現代風にいえば戦争を煽る危険なイデオロギーを透谷が見ていたためだと思われます。

なぜならば、「教育勅語」では臣民の忠孝が「国体の精華」とたたえられていることに注意を促した中国史の研究者小島毅氏は、朝廷から水戸藩に降った「攘夷を進めるようにとの密勅」を実行しようとしたのが「天狗党の乱」であり、その頃から「国体」という概念は「尊王攘夷」のイデオロギーとの強い結びつきも持つようになっていたからです。

つまり、北村透谷の評論「『罪と罰』の殺人罪」は「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」と深い内的な関係を有していたのです。

このように見てくる時、「教育勅語」の「忠孝」の理念を賛美する講演を行う一方で自分たちの利益のために、維新で達成されたはずの「四民平等」の理念を裏切り、差別を助長している校長など権力者の実態を明確に描き出していた長編小説『破戒』が、透谷の理念をも受け継いでいることも強く感じられます。

その長編小説『破戒』を弟子の森田草平に宛てた手紙で、「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞していたのが夏目漱石でしたが、小林秀雄は「私小説論」で「鷗外と漱石とは、私小説運動と運命をともにしなかつた。彼等の抜群の教養は、恐らくわが国の自然主義小説の不具を洞察してゐたのである」と書いていました。

夏目漱石や正岡子規が重視した「写生」や「比較」という手法で、「古代復帰を夢みる」幕末の運動や明治における法律制度や自由民権運動にも注意を払いながら、明治の文学者たちによる『罪と罰』の受容を分析することによって、私たちはこの長編小説の現代的な意義にも迫ることができるでしょう。

(2018年4月24日、改訂。5月4日、改題)

高級官僚の「良心」観と小林秀雄の『罪と罰』解釈――佐川前長官の「証人喚問」を見て

 主な引用文献

島崎藤村『破戒』新潮文庫。

『小林秀雄全集』新潮社。    

『罪と罰』の邦訳と「『罪と罰』の殺人罪」

はじめに 「憲法」の発布と『罪と罰』の受容

一、『罪と罰』の邦訳と「『罪と罰』の殺人罪」

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(26歳時のドストエフスキーの肖像画、トルトフスキイ絵、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

  「『罪と罰』を読んだ時、あたかも曠野(こうや)に落雷に会うて眼眩(くら)めき耳聾(し)いたる如き、今までにかつて覚えない甚深の感動を与えられた。」(内田魯庵「二葉亭余談」)

「『罪と罰』についてⅡ」の冒頭近くで内田魯庵のこの文章を引用した文芸評論家の小林秀雄は、「読んだ人には皆覚えがある筈だ。いかにもこの作のもたらす感動は強い。残念な事には誰も真面目に読み返そうとしないのである」と書いていました。

興味深いのは、小林のこの評論が「日本国憲法」の発布から一年後の昭和二三年に発表されていたのに対し、それまで文学をあまり高く評価していなかった魯庵が『罪と罰』の英訳を入手して読んだのは大日本帝国憲法が発布された明治二二年のことだったことです。

引用の名手だけに小林秀雄の評論は一挙に読者を引きこむ印象的な書き出しとなっていますが、引用された箇所の後で魯庵はこう続けていました。

「然るにこういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝(つ)いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。(……)それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった」。

こうして『罪と罰』から強い感銘を受けた魯庵は「何うかして自分の異常な感嘆を一般の人に分ちたい」と思いたち、二葉亭四迷の助力を得て憲法のない帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクを舞台に、主人公の法学部元学生の犯罪とその結果を描いた長編小説『罪と罰』の前半部分を、日本で初めて訳出して二回に分けて刊行したのです。

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(内田魯庵(1907年頃)、図版は「ウィキペディア」より)

売れ行きが思わしくなかったために完訳はできなかったものの反響は大きく多くの書評が書かれましたが、なかでもこの長編小説の思想に肉薄していたのが、明治の雑誌『文学界』の精神的なリーダーで、魯庵とも同年の北村透谷でした。

 

島崎藤村の自伝的な長編小説『春』では、透谷の『罪と罰』理解の一端が、夫人から何をしていたのかと尋ねられて『俺は考えていたサ』と答えた青木駿一(モデルは北村透谷)の言葉でこう記されています。

「『内田さんが訳した「罪と罰」の中にもあるよ』、銭とりにも出かけないで、一体何を為(し)ている、と下宿屋の婢(おんな)に聞かれた時、考えることを為ている、とあの主人公が言うところが有る。ああいうことを既に言つてる人が有るかと思うと驚くよ。考える事をしている……丁度俺のはあれなんだね』」(『春』二十三)。

ここでは具体的に何を考えたかは描かれていませんが、透谷は『文学界』の前身の『女学雑誌』に載せた最初の評論で「心理的小説『罪と罰』はかの奇怪なる一大巨人ロシアの暗黒なる社界の側面を暴露して余(あま)すところなしと言うべし」と記し、「貴族と小民との間に鉄柵」が設けられていると指摘していました。

この記述からは西欧の大国に対抗するために短期間で「富国強兵」を成し遂げて貴族は特権を享受する一方で、農民は重い人頭税をかけられたために没落して「農奴」の状態に陥っていた帝政ロシアの体制の問題点を透谷がよく理解していたことが感じられます。

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(長女を抱いた北村透谷。小田原市立図書館所蔵と創刊号の表紙。図版は「ウィキペディア」より)

さらに北村透谷は翌年の一月に発表した評論「『罪と罰』の殺人罪」では、この長編小説の特徴をこう端的に指摘しているのです。

「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中(なか)に、学問なく分別なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためら)ふべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」。

そして、「英雄」には「悪人」を殺すことも許されるとする「非凡人の理論」を考え出したラスコーリニコフの危険性を鋭く認識していた透谷は、大隈重信に爆弾を投げた来島や明治二四年五月にロシア皇太子ニコライに斬りつけた津田巡査などにも言及しながらこう続けていました。

「来島(くるしま)某、津田某、等(とう)のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」。

ただ、この評論では文部大臣の森有礼を暗殺した国粋主義者の西野文太郎には言及されていませんが、北村透谷よりも一歳年上の夏目漱石は『三四郎』の第一一章で広田先生に高等学校の生徒だった時に体験した出来事をこう語らせています。

「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺(ころ)された。君は覚えていまい。幾年(いくつ)かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列するのだと云って、大勢鉄砲を担(かつ)いで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引っ張って行って、路傍(みちばた)へ整列さした。我々は其処(そこ)へ立ったなり、大臣の柩(ひつぎ)を送ることになった」。

高等学校の生徒たちも「鉄砲を担(かつ)いで」大臣の葬式に参列したという記述からは、文部大臣の森有礼が暗殺されてからわずか一年後に儒教的な道徳が列挙されただけでなく、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と命じた「教育勅語」が渙発されたことへの漱石の深い危惧が感じられます。

さらに漱石は明治四三年に修善寺で大病を患った時に、ペトラシェフスキー事件で捕らえられて「刑壇の上に」立たされて死刑を待つ「彼の姿を根氣よく描き去り描き來って已まなかった」と記し、こう続けていました。「ドストイェフスキーはかくして法律の捏(こ)ね丸めた熱い鉛(なまり)の丸(たま)を呑(の)まずにすんだのである。その代り四年の月日をサイベリヤの野に暮した」(太字は引用者)。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

「法律の捏(こ)ね丸めた」という漱石の表現には、皇帝が絶対的な権力を持っており「憲法」を求めることは許されなかった帝政ロシアで、農奴の解放や言論の自由、裁判制度の改革などを求めて捕らえられ死刑宣告を受けた若きドストエフスキーに対する深い共感が現れていると思えます。

「法律の捏(こ)ね丸めた」という表現からは、農奴の解放や言論の自由、裁判制度の改革などを求めて捕らえられて死刑宣告を受けた若きドストエフスキーに文明論的な視野を持つ漱石が強い共感を覚えていたことが感じられます。

クリミア戦争敗戦後の「大改革」の時期にシベリアから帰還したドストエフスキーは総合雑誌『時代』を創刊しますが、そこには自国や外国の文学作品ばかりでなく、司法改革の進展状況やベッカリーアの名著『犯罪と刑罰』の書評など多彩な記事も掲載されていました。

新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する弁護士ルージンや心理学的手法でラスコーリニコフの犯罪に鋭く迫る司法取調官ポルフィーリイとの激しい議論が描かれている長編小説『罪と罰』は、監獄での厳しい体験や法律や裁判制度についての真摯な考察の上に成立していたのです。

(2018年4月24日、改訂。5月5日、短縮して改題。6月22日、改訂)

 

  夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ

夏目漱石の明治観と「明治維新」という用語

 

主な引用・参考文献

『北村透谷選集』、岩波文庫、1970年。

『現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、1969年。

『透谷と近代日本』、翰林書房、1994年。

『内田魯庵全集』第3巻、ゆまに書房、1983年。

『明治文學全集 29 北村透谷集』筑摩書房、1976年。

『漱石全集』第12巻、岩波書店、1994年。

佐藤善也『北村透谷と人生相渉論争』近代文芸社、1998年。

井桁貞義『ドストエフスキイと日本文化』教育評論社、2011年。

『罪と罰』と「非凡人の思想」

 

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(1930年10月、政治集会におけるヒトラー。図版は「ウィキペディア」より)

 

『罪と罰』と「非凡人の思想」

  「ヨーロッパの、少なくともドイツの青年層が、自分たちにとってもっとも偉大な作家としてゲーテでもなければニーチェですらなく、ドストエフスキーを選んでいることは、われわれの運命にとって決定的なことのように思われる」。

 ドイツの作家ヘルマン・ヘッセは第一次世界大戦の後でこう記しましたが、長編小説『罪と罰』では憲法のない帝政ロシアでは「正義」が行われないことに絶望する一方で、「英雄」ナポレオンにあこがれて「非凡人の理論」を考えだした元法学部の学生ラスコーリニコフの思想と行動、そして苦悩が他の登場人物との緊迫した会話や心理分析をとおして描き出されていました。

  注目したいのは、『罪と罰』が連載される前年にナポレオン三世が、大著『ジュリアス・シーザー伝』の序文で「天才」による支配の必要性を次のように説いていたことです(ここではナポレオン一世はナポレオンと甥のルイ・ナポレオンはナポレオン三世と記す)。

 「並外れた功績によって崇高な天才の存在が証明された時、この天才に対して月並な人間の情熱や目論見の標準をおしつけることほど非常識なことがあるだろうか。(……)彼らは時に歴史に姿を現わし、あたかも輝ける彗星のように時代の闇を吹き払い、未来を照らし出す」。

 1848年のフランス・2月革命後の混乱の時期に行われた選挙で大統領に当選し、クーデターで皇帝となった後はクリミア戦争などさまざまな戦争に介入したナポレオン三世が、メキシコ出兵に失敗して栄光に陰りが見え始めていた1865年に著したのがこの本だったのです。

  ナポレオンの言葉「私が人類に対してなさんとした善が実現されるためには、これからまだどれほどの戦闘、血、そして年月が必要であることか!」を引用して、「セント・ヘレナの虜囚の予言」は、「1815年以来、日ごとに実証されつつある」と結んだこの「序文」は、本自体に先だって発表され、ロシア語を含むほとんど全ヨーロッパの言語に翻訳されて、すぐに激しい論議を呼び起こしました。

  「新しい言葉を発する天分」を有するか否かで、現在の法に従って生きる「凡人」と未来の主人となる「非凡人」とに分け、「悪人」と見なした高利貸しの老婆を殺害したラスコーリニコフの考えも、ナポレオン三世の思想や当時は科学的とされていた「弱肉強食の思想」を反映していたと言えるでしょう。

  こうして、ドストエフスキーはこの長編小説でラスコーリニコフと新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する弁護士ルージンや心理学的手法でラスコーリニコフの犯罪に鋭く迫る司法取調官ポルフィーリイとの激しい議論をとおして、「弱肉強食の思想」の危険性を浮き彫りにしていたのです。

  そして、ポルフィーリイに「あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ。もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれないんだし」と語らせたドストエフスキーは、エピローグの「人類滅亡の悪夢」で「自己(国家・民族)の絶対化」の危険性を示していたのです。

 このことことに留意するならば、ドストエフスキーの指摘は、危機の時代に超人思想を民族にまで拡大して、「文化を破壊する」民族と見なしたユダヤ民族に対する大虐殺を命令したヒトラーの出現をも予見していたとさえ思えます。

  それゆえ、化学兵器が用いられたために1600万以上の死者が出た第一次世界大戦の後でヘッセはこう記していました。「われわれがドストエフスキーの作品に夢中になるのは…中略…ドストエフスキーの創作が、ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものであると感じるのである」。

 残念ながら、第二次世界大戦の終結時には原爆が二度にわたって使用されたことで、水爆実験が繰り返されるようになり1947年には、『原子力科学者会報』が核戦争を懸念して「終末時計」の時刻を発表して残り時間が3分になったと発表しました。

  「冷戦」が終了したソ連崩壊後も唯一の超大国アメリカが掲げるグローバリズムの圧力が世界の各国のナショナリズムを刺激してカリスマ的な指導者を求める傾向も強まり、「人類の滅亡」につながるような核戦争の危険性はむしろ高まっているように見えます。 現代にも直結している19世紀のグローバリズムの問題ときちんと向き合うためにも『罪と罰』をきちんと読み直すことが必要だと思えます。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社  

〔明治の文学者たちの視点で差別や法制度の問題、「弱肉強食の思想」と「超人思想」などの危険性を描いていた『罪と罰』の現代性に迫り、さらに、「教育勅語」渙発後の北村透谷たちの『文学界』と徳富蘇峰の『国民の友』との激しい論争などをとおして「立憲主義」が崩壊する一年前に小林秀雄が書いたドストエフスキー論と「日本会議」の思想とのつながりを示唆する。〕

主な引用文献

ドストエフスキー、江川卓訳『罪と罰』上中下、岩波文庫。

レイゾフ編、川崎浹・大川隆訳『ドストエフスキイと西欧文学』勁草書房。

井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉の生命』群像社。 (2018年3月28日、改題と改訂)

(2019年2月10日、6月24日、図版を追加)

 

ドストエーフスキイの会、第244回例会(報告者紹介:野澤高峯氏)のご案内

第244回例会のご案内を「ニュースレター」(No.145)より転載します。

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第244回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                          

日 時2018年3月24日(土)午後2時~5時           

場 所千駄ヶ谷区民会館 1階奥の和室

(JR原宿駅下車7分)  ℡:03-3402-7854

報告者:野澤高峯 氏 

題 目: 「スタヴローギンとムイシュキン」―人間的価値審級を読み解く

*会員無料・一般参加者=会場費500円

報告者紹介:野澤高峯(のざわ こうほう)

書家。「謙慎書道会」評議員、「日本書道芸術協会」認定師範、「書象会」無鑑査会員、「ドストエーフスキイの会」会員、「日本ドストエフスキー協会(DSJ)」会員

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第244回例会報告要旨

「スタヴローギンとムイシュキン」人間的価値審級を読み解く

近代文学の基本は「個性=人間性」の表現だと言えるでしょう。そこには答えがなくとも、表現されていることのみで人間の苦境を救います。そのため文学作品は単に現実を描くだけではなく、それを超えたロマンを必ず含んでいます。しかし、そのロマンは、読み手の日常生活の現実感覚に耐えうるものであるか否かが問題となり、過去の文芸批評はこのロマネスクを常に問題として、観念批判(ロマン主義批判)をテーマとしてきました。ドストエフスキー文学はこの観念自体を作品の主題として、なおかつそれを背理として描いています。そのロマンの根拠となる「本来性・倫理性・審美性」(真・善・美)という価値審級(価値の秩序)をどのように扱っているかを、『白痴』と『悪霊』を中心に今回の報告で取り出したいと思います。それはドストエフスキーが無神論で提示した「問い」でもあると思われる為、無神論の現代的意味も浮上させたいと思います。

また、作品の登場人物は独立性が確保された描き方に徹していますが、スタヴローギンとムイシュキンは日常の現実感覚では予想できない謎めいた人物像で設定されています。価値審級を背景に、この謎も解読してみたいと思います。読解の方法としては形而上学や偶喩・説話的理説を排し、実存論的読解で作品に向き合いますが、同様にスタヴローギンとムイシュキン自身にもこの読解で存在論的に向きあいます。これは80年代からの主流であった文学理論、言語論とは逆行しますが、主軸を「エクリチュール」ではなく「パロール」に置き、尚且つ「言語」ではなく「意識」に置く読み方です。読解のスタンスと同様に作品の中でも、価値審級の取り出しにおいて価値の根拠を「本体」として、人間の外部には想定しません。「神はいない」という前提で解読し、「神」に迫る方法です。

今回の考察は『カラマーゾフの兄弟』の主題に迫る為の序奏ですが、考察で設定した無神論の「問い」の一つ目は、イワン・カラマーゾフ的無神論を背景とした次の「問い」です。

「神がいなければ、人間の欲望の存在それ自体が、「真・善・美」に向かう本性をもっているかどうか」

つまり、「本来性・倫理性・審美性」が作品でどの様に描かれ、物語にどの様な意味を持っているかを取り出す事です。私は「真・善・美」については性善説の立場ですが、形而上学を前提としない為、それに向かうことが人間の本来性とは捉えていません(「あってほしい」という願望と「あるべきだ」という要請はロマン主義となります)。それに向かう、その条件を設定することが重要です。

二つ目は、ドストエフスキーが作品(『白痴』『悪霊』)の中での想定していた神とは何かという事です。ここでも無神論の「問い」として、ニーチェの無神論との比較を横にし、暴挙とも受け取られますが、キリスト教の教義も形而上学とみなしこれを前提としません。

考察のポイントは、スタヴローギンの人物像を、その「意識」の地平(超越論的主観)から捉え、『告白』の意味を探ります。また、ムイシュキンの人物像も、その「意識」の地平から捉え、「意識の限界点」とは何かを探ります。補助題材として小林秀雄の『白痴について』と山城むつみの『小林批評のクリティカル・ポイント』を参考に、その意味を探り、スタヴローギンとムイシュキンの遭遇した共通点を見極め、底辺にあるニヒリズムを基にした作品の現代性も浮上させたいと思います。

 

『黒澤明で「白痴」を読み解く』の紹介(ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトより)

ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトに日本語とロシア語で『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)の自著紹介が書影とともに掲載されました。ここでは日本語版を転載します。

https://bod.bg/en/authors-books.html

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』大ブルガリア、ソフィア大学 (ソフィア大学、出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011)

 はじめに――混迷の世界と「本当に美しい人」の探求

目次

序章 「謎」の主人公――方法としての文学と映

第一章 「ナポレオン風顎ひげ」の若者――ムィシキンとガヴリーラ

第二章 ロシアの「椿姫」――ナスターシヤとトーツキー

第三章  ロシアの「イアーゴー」――レーベジェフとロゴージン

第四章 「貧しき騎士」の謎――アグラーヤとラドームスキー

第五章  「死刑を宣告された者」――イッポリートとスペシネフ

第六章 ロシアの「キリスト公爵」―― 悲劇としての『白痴』

終章 ムィシキンの理念の継承――黒澤映画における『白痴』のテーマ

あとがき

索引

附録1 『白痴』関連年表 附録2 黒澤明関連年表

  *   *   *

本書で私は黒澤明監督の視点と比較文学や比較文明学の方法によって、長編小説『白痴』を詳しく分析することによって、現代におけるこの長編小説の真の意義を明らかにしようと試みた。

ドストエフスキーは長編小説『白痴』の構想について姪のソフィアに宛てた一八六八年一月一日の手紙で、次のように記していた。「この長編の主要な意図は本当に美しい人間を描くことです。これ以上に困難なことはこの世にありません。…中略…。この世にただひとり無条件に美しい人物がおります。――それはキリストです。」

長編小説『白痴』でムィシキン公爵はギロチンによる死刑を批判しながら、「『殺すなかれ』と教えられているのに、人間が人を殺したからといって、その人間を殺すべきでしょうか? いいえ、殺すべきではありません。ぼくがあれを見たのはもう一月も前なのに、いまでも目の前のことのように思い起こされるのです。五回ほど夢にもでてきましたよ」と語っていた。

そして、ドストエフスキーはプーシキンの『貧しき騎士』や『けちな騎士』、『エヴゲーニイ・オネーギン』や、グリボエードフの『知恵の悲しみ』など多くのロシア文学や、ユゴーの『死刑囚の最後の日』や『レ・ミゼラブル』、デュマ・フィスの『椿姫』など西欧文学にも注意を払いながら、この長編小説『白痴』を書いていた。

一方、第二次世界大戦の終了から数年後の1951年にドストエフスキーの長編小説『白痴』を元にした同名の映画を公開した黒澤明監督は、「『白痴』演出前記」において、「僕は僕なりに、この主人公と作中人物を永い間愛して来た」と書いた黒澤は、映画《白痴》を「原作の深さ」には及ばないだろうとしながらも、「原作者に対する尊敬と映画に対する愛情を傾けて、せい一ぱい努力するつもりだ」と書いた。

実際、多くの文学作品を成功裏に映画化している黒澤は、場所と時代、登場人物を変更しながらも、二つの家族の関係と女主人公の苦悩を主人公の視線をとおして正確に描き出している。

ことに、真夜中の怖ろしい悲鳴と死刑になる場面を夢で見たという主人公の説明が描かれている冒頭のシーンと、映画の最後に綾子(アデライーダ)が主人公の世界観を讃えつつ、「私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語っている場面は、この長編小説に対する監督の深い理解を物語っている。

残念ながら、この映画は会社の要求によって半分に短縮されたが、軽部(レーベジェフ)がシェークスピアの戯曲『オセロ』のイアーゴーと同じように、主人公たちを破滅へと導く狡猾な役割を果たしていることを暴露している映画の脚本は完全な形で残っている。

脚本においてもレーベジェフの娘ヴェーラやイッポリートの形象は欠如しているが、クリスマスの賛美歌「清しこの夜」が響いている映画《醜聞》(1950)では清純な心を持つ、卑劣な弁護士の娘が、映画《生きる》(1952)には病によって「死を宣告」されてイッポリートと同じように絶望した主人公が描かれている。こうしてこれらの映画は長編小説『白痴』の三部作とも呼べるような深い関わりを持っている。

さらに、長編小説『白痴』ではシュネイデル教授をはじめ、有名な外科医ピロゴフ、そしてクリミア戦争の際に医師として活躍した「爺さん将軍」などがしばしば言及されており、ガヴリーラもムィシキンに対して「いったいあなたは医者だとでもいうのですか?」と尋ねていた。

実際、ムィシキンはロゴージンにナスターシヤについて「あの人は体も心もひどく病んでいる。とりわけ頭がね。そしてぼくに言わせれば、十分な介護を必要としている」と説明していたのである。

一方、黒澤映画《酔いどれ天使》(1948)や《静かなる決闘》(1949)、《赤ひげ》(1965)では医師が非常に重要な役割を演じており、ことに映画《赤ひげ》ではドストエフスキーの長編小説『虐げられた人々』のネリーをモデルにした少女の患者と医者たちとの感動的な関係が描かれている。

ムィシキンのテーマの深まりからは、おそらく黒澤が、医師(人)が全力を尽くして患者の生命(肉体のみならず精神)を救うというテーマを、ドストエフスキーの主要なテーマと結びつけて考えていたのだと思える。

さらに、イッポリートが「公爵、あれは本当のことですか、あなたがあるとき、世界を救うのは『美』だと言ったというのは?」と質問していたことも考慮するならば、そのことは病んだ世界についてもいえるだろう。

こうして、本書では他の黒澤映画も検討しながら大地主義の意義も考察することによって、現代の世界における長編小説『白痴』の重要性を示した。    

夏目漱石の「明治維新」観と司馬遼太郎の『坂の上の雲』

1月1日の年頭所感で安倍首相は「本年は、明治維新から、150年目の年です」と切り出して「明治維新」の意義を賛美し、それを受けて菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と語っていました。

しかし、夏目漱石や司馬遼太郎についての                                                                                                                                        造詣の深い作家の半藤一利氏は、「明治維新150周年、何がめでたい」と題されたインタビュー記事で、そのような安倍政権の官軍的な歴史認識を指摘して、「賊軍は差別を受け、今も原発は賊軍地域に集中している」と批判していました。

→ 半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 – 東洋経済オンライン

夏目漱石との関連で注目したいのは、夏目漱石や永井荷風が「著作の中で『維新』という言葉は使っていません」と指摘した半藤氏が、「明治初期の詔勅(しょうちょく)や太政官布告(だじょうかんふこく)などを見ても大概は「御一新」で、維新という言葉は用いられて」おらず、「『明治維新』という言葉が使われだしたのは」、政変で肥前(佐賀)の大隈重信らが政権から追い出される前年の明治13年か明治14年からであることを指摘して、次のように続けていることです。

「薩長政府は、自分たちを正当化するためにも、権謀術数と暴力で勝ち取った政権を、『維新』の美名で飾りたかったのではないでしょうか。自分たちのやった革命が間違ったものではなかったとする、薩長政府のプロパガンダの1つだといっていいでしょう。」この指摘は夏目漱石や正岡子規の文学作品を理解する上でも重要だと思われます。(夏目漱石と正岡子規の時代と報道の自由の問題のスレッド↓)

夏目漱石の文学観の深まりについては、「夏目漱石と世界文学」をテーマとした「世界文学会」の2017年度第4回研究会で発表し、その後、「夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較――「教育勅語」の渙発から大逆事件へ〕を『世界文学』(第126号、2017)に寄稿しました。

なぜならば、安倍首相は「明治維新」が「これまでの身分制を廃し、すべての日本人を従来の制度や慣習から」解き放ったと語っていましたが、実態はむしろその反対だったからです。

たとえば、夏目漱石は長編小説『破戒』を高く評価していましたが、島崎藤村はその冒頭で宿泊客が穢多(えた)であるとの噂が広がると他の客が「不浄だ、不浄だ」と罵詈(ばり)雑言を投げかけ、追い出す際には「塩を掴んで庭に蒔散(まきち)らす弥次馬」もあらわれたという場面を描いていました。

明治4年に「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」とされた「解放令」によって名称が「新平民」と変わっても実質的には激しい差別は続いていたのです。。

一方、「明治維新」を賛美した安倍首相の政権下の日本では、韓国や中国の人々に対するヘイトスピーチだけでなく、福島の被爆者や沖縄県民に対しても侮辱的な言動が再び横行するようになっています。

そのことについては、法学部で学んだ元学生を主人公として『罪と罰』との関係で、被差別部落民を主人公とした長編小説『破戒』を考察した拙論「『罪と罰』から『破戒』へ――北村透谷を介して」で詳しく論じました。

「明治維新」を賛美することで「立憲主義」的な考えを排除した薩長藩閥政府の歴史認識と「憲法」の問題はきわめて重要ですので、文学的な視点からこの問題を考察する著書をなるべく早くに発行したいと思っています。

*   *   *

司馬遼太郎の『坂の上の雲』

司馬遼太郎氏は産経新聞などによって「明治国家」の賛美者とされてきました。しかし、すでに『竜馬がゆく』において、「天誅」の名前でテロを正当化していた幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘し他司馬は、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と記していたのです。

しかも、司馬は広い視野を持ち『三四郎』では自分と同世代の登場人物広田先生に、「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語らせていた夏目漱石を深く敬愛していました。

それゆえ、『坂の上の雲』の終了後に書いたエッセー「竜馬像の変遷」で司馬氏は、「王政復古」が宣言されてから1945年までが約80年であることをふまえて、「明治国家の続いている八十年間、その体制側に立ってものを考えることをしない人間は、乱臣賊子とされた」といて指摘しています。

「人間は法のもとに平等であるとか、その平等は天賦のものであるとか、それが明治の精神であるべきです」と強調した司馬氏は、「結局、明治国家が八十年で滅んでくれたために、戦後社会のわれわれは明治国家の呪縛から解放された」と続けていました(太字は引用者)。

以下に、私は日露の近代化の比較という視点から『坂の上の雲』など司馬作品を読み解いたツイートを掲載します。

【本書では「報復の権利」を主張して開始されたイラク戦争後の混沌とした国際情勢を踏まえて『坂の上の雲』を読み解くことで、「自国の正義」を主張して「愛国心」などの「情念」を煽りつつ「国民」を戦争に駆り立ててきた近代の戦争発生の仕組みと危険性を考察した。】

(2023/12/02、12/03、改訂、改題)

ドストエーフスキイの会、第243回例会(赤淵里沙子氏)のご案内

第243回例会のご案内が未掲載でした。

お詫びの上、「ニュースレター」(No.144)より転載します。

*   *   *

第243回例会のご案内

 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

                                         

日 時2018113日(土)午後2時~5

場 所千駄ヶ谷区民会館

(JR原宿駅下車7分)  ℡:03-3402-7854  

報告者:赤淵里沙子 氏

題 目:『悪霊』にみる思想、信仰と集団の必然性

*会員無料・一般参加者=会場費500円

報告者紹介:赤渕里沙子(あかふち りさこ)

 現在、早稲田大学ロシア語ロシア文学コース4年生に在学中。2015~2016年、サンクトペテルブルク国立大学に留学。来年度から同コース修士課程に進学予定。ドストエフスキーとの関連で、19世紀から20世紀初頭までのロシア思想を中心に研究。

 *   *   *

243回例会報告要旨

『悪霊』にみる思想、信仰と集団の必然性

  『罪と罰』において、ドストエフスキーは既存の道徳に不信をもったある個人の精神世界を掘り下げ、社会に開示した。変わらぬ日常の中で、たった一人、変化を経験した個人がどのような末路を辿るのか、それが『罪と罰』では描かれている。時代が進んで、作家は再び罪を犯す人間についての作品に取りかかる。しかしそこでとりあげたのは、個人ではなく集団の心理であった。法と戦うラスコーリニコフという直線的な構図は、『悪霊』においてより複雑なものへと拡大される。疑いを抱いた青年ラスコーリニコフは、その不信の芽を植え付けた40年代の知識人、また、西欧のニヒリズムを体現する革命家、そして彼に魅了され賛同していくロシア国民をはじめ、様々な要素へと分裂し、より詳細に描かれていく。

 この意味で、作家の問題意識が、個人の内面世界での考察を経て、改めて社会を舞台として展開されたのが『悪霊』といえよう。そしてそこで現れてきたのは、ただ一つ五人組という集団のみではない。物語において様々なレベルで形成され、それぞれに思想を抱く集団を観察することで、作品の詳細な理解へとつながり、また集団という概念を念頭に置くことで、スタヴローギンの苦悩を異なる側面から眺めることができると考える。

 この『悪霊』執筆時に、ドストエフスキーがネチャーエフ事件から受けた印象というのも、そもそも集団性への関心が根底にあってのものだった。というのも、彼がこの事件に強いインスピレーションを受けたのは、平凡で善良な人間たちが、ネチャーエフによる思想の感化にさらされたときに、途轍もなく醜悪な殺人をやってのける、つまり集団が思想に食いつくされ、その道徳観が理解しがたいものへと変化してしまう、その過程に驚愕を覚えたからである。西欧から流れ込んでくる無神論的社会主義に若者たちが惹かれていった当時、集団と思想の相互関係への意識が、少なからずドストエフスキーに抱かれていたことは、作品の外において書簡や『作家の日記』でしばしば言及されていることからも明らかである。

 『悪霊』においては、作家の集団性への意識はまず「町」という形で現れてくる。アントン氏による事件の叙述として進められる作品の語りが、実質的にはその情報の大部分に噂や評判といった町の人々の声が介在するもので、それらが登場人物たちの言動を左右する重要な要素として作用していることからも、それは観察できる。また、ピョートルやステパンによる外部からの思想的な脅威に対して、土着の内部として現れてくる「町」は、インテリゲンツィヤに対して浮かび上がってくるロシアの農民層とパラレルで捉えることができる。ドストエフスキ

ーは、国民性として集団に共通して抱かれる思想というものに強い信頼を寄せていたが、彼が当時社会の抱える精神的な揺らぎに対してもっていた危惧が、安定的なロシアという土に根の繋がった民衆を象徴する「町」として現れたのだと考えられよう。

 一方で、対抗する勢力としてピョートルによってもたらされる無神論的革命思想は、人々の抱く既存の道徳を破壊することで、社会を変革しようと試みる。改革は政治形態の置き換えに留まってはならず、集団の精神的な変化を契機とする根本的な部分からの転覆を目指すのであり、その視点から、彼らもまた集団を形成して社会へとアプローチする。物語の舞台である町それ自体も、ピョートル率いる五人組や、それに対抗して現れるフェージカと放火犯たちの一派など、いくつかの集団から成る集合体で捉えられることを確認し、その一方で強烈に作用するスタヴローギンの集団を分裂させる力が、究極の思想としての信仰の非実現を導く要素の一つとして考えられるのではないかという可能性を提示していきたい。

堀田善衛の生誕100周年をむかえて

明けましておめでとうございます。

昨年も日本は「夜明け前」の暗さが続いた1年でしたが、

「立憲民主党」が創設されたことでなんとか

「立憲主義」の崩壊が避けられました。

また、世界でも「核兵器禁止条約」が結ばれ、

ICANにノーベル平和賞が与えられるなど

新しい流れも生まれました。

賀正、宇宙

安倍政権はいまだにアメリカ第一主義に追随した政策を行っていますが、

環境問題に関連して日本とアメリカを批判した司馬遼太郎の言葉を受けて、

堀田善衛は「これからは日本は自国一国ではなしに、

地球全体のことを考えていかないとやっていけなくなる」と発言していました。

(『時代の風音』、朝日文庫、1997年)。

堀田善衛の生誕100周年にあたる今年こそは、

なんとか未来への希望の持てる年になることを念願しています。

本年もよろしくお願いします。

『若き日の詩人たちの肖像』と『夜明け前』――平田篤胤の思想をめぐって 

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

『若き日の詩人たちの肖像』では「『カラマーゾフの兄弟』中の、スペインの町に再臨したイエス・キリストが何故に宗教裁判、異端審問にかけられねばならなかったかという難問について」喋り続けるアリョーシャと呼ばれる若者が描かれていますが、「ガダルカナルでは陸軍は殲滅的な打撃をうけているらしい」ことが伝わってくるようになると、その彼は「突然正座して膝に手を置き、眼と額をぎらぎらと輝かして」次のように語ります〔下・305~306〕。

「だからキリストがだな、キリストが天皇陛下なんだ。つまり天皇陛下がキリストをも含んでいるんだ。キリストの全論理の、その上に、おわしましますんだ」。

そこではどうしてそのような結論になるのかは明かされていませんが、「いずれその日本のために戦って死なねばならぬとなれば、国学というものにはその日本の絶対によい所以(ゆえん)が書いてあるのであろう」と思い、「平田篤胤全集にとりかかった」主人公は、アリョーシャの言葉の論理的な背景を知ることになります〔下・320~323〕。

すなわち、そこでは「義の為にして窘難(きんなん)を被る者は、これ即ち真福にて、その已に天国を得て処死せざるとあるなり。これ神道の奥妙、豈人意を以て測度すべけむや」と書かれていたのですが、それは「幸福(さいわい)なるかな、義のために責められたる者、天国はその人のものなり」という「マタイ伝第五章にあるイエス・キリストの山上の垂訓」のほとんど引き写しだったからです。

それでも、「平田篤胤は、本当に前人未踏の地で苦闘をしているのである。天地創造の問題を神学的に処理するために彼は苦しみぬいているのである」と評価しようとした主人公は、アリョーシャの論理をこう説明しています。

「キリスト教や西洋天文学までを援用して儒仏を排するというところから発し、アダムもエヴァもわれらの古伝の訛りだということになれば、つづけて世界も宇宙も、つまりは八紘はわが国の天之御中主神の創造になるものであり、従って八紘はわが国の一宇であって、その天之御中主神が天皇陛下の御先祖様であるということになると、それはまったくアリョーシャの言ったように、天皇はキリストを含んで、という次第に、たしかになる。」

しかし、その後で主人公は「この洋学応用の復古神道――新渡来の洋学を応用して復古というのもまことに妙なはなしであったが――は、儒仏を排し、幕末にいたっては国粋攘夷思想ということになり、祭政一致、廃仏毀釈ということになり、あろうことか、恩になったキリスト教排撃の最前衛となる。それは溜息の出るようなものである。」と続けていました。

一方、文芸評論家の小林秀雄は1942年7月に行われた座談会「近代の超克」において、「近代人が近代に克つのは近代によってである」として欧米との戦争を評価していましたが(河上徹太郎、竹内好他『近代の超克』富山房百科文庫、昭和54年)、長編小説の主人公はこの座談会を想起しながら、「とにかく近代の超克もなにもあったものではなかった。近代を超克するというのなら、まず平田篤胤あたりから超克してかからなければならぬだろうと思う」と書いています。

しかも、登場人物に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせた堀田氏は、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせています。

この言葉は、「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンを主人公とした長編小説『白痴』の結末について、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と1934年に書いた「『白痴』についてⅠ」で解釈していた小林秀雄のドストエフスキー観の厳しい批判ともなっているでしょう。

そして、この長編小説で堀田善衛氏は主人公の心境を次のように描いているのです。「平田篤胤の研究は、男を本当にがっかりさせてしまった。何をするのもいやになってしまった。日本精神だとか、国学だとか、あるいはまた皇道ということばが印刷物に矢鱈に沢山出てくる。」(下、327)。

興味深いのは、このような厳しい批判が長編小説『竜馬がゆく』において、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となり、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と記した作家・司馬遼太郎の指摘と重なることです。

その司馬は『この国のかたち』の第五巻で「篤胤は、国学を一挙に宗教に傾斜させた。神道に多量の言語をあたえたのである」と指摘し、「創造の機能には、産霊(むすび)という用語をつかい、キリスト教に似た天地創造の世界を展開した」と説明した後で、平田篤胤の言説が庄屋など「富める苗字(みょうじ)帯刀層にあたえた」影響を次のように記していました。

「平田国学によって幕藩体制のなかではじめて日本国の天地を見出させた、ということだった。奈良朝の大陸文化の受容以来、篤胤によって別国が湧出したのである」(太字は引用者)。

「昭和初期」を「別国」あるいは、「異胎」の時代と激しい言葉で呼んでいた司馬氏がここでも「別国」という独特の用語を用いていることは、昭和の「別国」と平田篤胤によってもたらされた「別国」との連続性を示唆していると思われます。

『夜明け前』1『夜明け前』2『夜明け前』3『夜明け前』4

(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

このような昭和初期の重苦しい時代に島崎藤村が描いた長編小説が、「黒船」の到来に危機感を煽られて古代を理想視した平田派の学問を学び、草莽の一人として活躍しながら明治維新の達成後には新政府に裏切られて絶望し、ついに発狂して亡くなった自分の父・島崎正樹(1831~86)を主人公のモデルとした『夜明け前』でした。

この長編小説は芥川龍之介が日本の検閲を厳しく批判した小説『河童』を書いたあとで、「ぼんやりした不安」を理由に自殺した2年後の昭和4年から連載が始まり昭和10年に完結しましたが、その年にはそれまで国家公認の憲法学説であった東大教授・美濃部達吉の天皇機関説が「国体に反する」との理由で右翼や軍部の攻撃を受けて、著者は公職を追われ、著書は発禁となるという事件が起きていました。

それゆえ、研究者の相馬正一は「田中ファシズム内閣が、〈国家〉の名において個人の言論・思想を封殺する狂気を実感しながら」島崎藤村が、「『夜明け前』の執筆と取り組んでいた」ことの意義を強調しています(『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』人文書館、2006年)。

実際、天皇機関説事件で「立憲主義」が否定された日本では、明治5年3月に廃止されて内務省神社局となっていた神祇省が皇紀2600年を祝った昭和15年に内務省の「外局神祇院に昇格」して、「国家神道は名実ともに絶頂期」を迎えました。

皇紀2600年

(1940年の紀元2600年記念式典会場、出典は「ウィキペディア」)

しかし、それは神武東征の神話を信じた日本が、「皇軍無敵」を唱えて無謀な太平洋戦争へと突入することを意味していました。

戦況が苦しくなると神風を信じて特攻隊をも編制してまでも戦争を続けた日本は、広島・長崎に原爆が落とされたあとでようやくポツダム宣言を受け入れたのです。

*   *

注目したいのは、司馬遼太郎や宮崎駿監督と行った鼎談で、堀田善衛が「『この国』という言葉遣いは私は島崎藤村から学んだのですけど、藤村に一度だけ会ったことがある。あの人は、戦争をしている日本のことを『この国は、この国は』と言うんだ」と語っていたことです(『時代の風音』朝日文庫、1997年、150頁)。

実際、『夜明け前』には「新たな外来の勢力、五か国も束になってやって来たヨーロッパの前に、はたしてこの国を解放したものかどうかのやかましい問題は、その時になってまだ日本国じゅうの頭痛の種になっていた」などという形で「この国」という表現が度々出てきます。

このように見てくるとき、大学受験のために上京した翌日に2.26事件に遭遇した主人公が「赤紙」によって召集されるまでの「昭和初期」の重苦しい日々を、若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出した堀田善衛の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(1968年)は、馬篭宿の庄屋であり、「篤胤没後の門人」でもあった青山半蔵を主人公とした島崎藤村の『夜明け前』を強く意識して書かれていたといっても過言ではないでしょう。

堀田善衛、時代の風音、アマゾン(書影は「アマゾン」より)