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「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

本書の構想を何回か変更したために予想以上に手間取りましたが、ようやく原稿を脱稿しました。

日露戦争の直後に自費出版された島崎藤村の長編小説『破戒』については学生の頃からずっと気になっていました。『罪と罰』から強い影響を受けていることが以前から指摘されているこの長編小説では、激しい差別ばかりでなく教育制度の問題の考察をとおして、危機の時代における「支配と服従」の問題にも鋭く迫っているからです。

しかも、暗い昭和初期の時代に島崎藤村は、武家社会の横暴を見たことから平等な世の中を目指して「平田篤胤没後の門人」となり、「維新」のために奔走した彼の父・島崎正樹を主人公のモデルとした長編小説『夜明け前』を連載していました。

この長編小説の完結後に日本ペンクラブの初代会長に就任した藤村の作品を論じた文芸評論家・小林秀雄の評論と「『罪と罰』についてⅠ」とを考察するとき、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年に書かれ、現在も影響力を保っている小林のドストエフスキー論の問題点が浮かび上がってきます。

ただ、私が日本文学の専門家ではないことや、幕末から明治初期までの激動の時代が描かれている『夜明け前』を読み解くためには、「復古神道」だけでなく維新後の藩閥政府による宗教政策をも理解しなければならなかったために執筆を躊躇していました。

しかし、グローバリズムの強い圧力に対抗して世界の各地でナショナリズムが台頭する中、日本でも二〇一八年が「明治維新」の一五〇年ということで、「維新」を讃美する発言や評論だけでなく、独裁的な藩閥政府との厳しい闘いをとおして獲得した「立憲主義」をも揺るがすような発言や動きも強まっています。

それゆえ、本書では日露の近代化の比較という視点から、北村透谷の評論や島崎藤村の『破戒』や『夜明け前』などの作品をとおして、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ権力と自由の問題に肉薄していた『罪と罰』を詳しく読み解くことにしました。『罪と罰』の受容とその変容をとおして幕末から昭和初期にいたる日本の歴史を振り返ることは、「明治維新」一五〇年を迎えた現代の日本を考えるうえでも重要だからです。

たとえば、江戸時代に起きた日露の戦争の危機を防いだ商人・高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』を書いた作家の司馬遼太郎氏はエッセー「竜馬像の変遷」で「明治国家」をこう記していました。

「人間は法のもとに平等である」というのが「明治の精神であるべき」で、「こういう思想を抱いていた人間がたしかにいたのに、のちの国権的政府によって、はるか彼方に押しやられてしまった」。そして司馬氏は「結局、明治国家が八十年で滅んでくれたために、戦後社会のわれわれは明治国家の呪縛から解放された」と続けていたのです。

明治が四五年で終わったことを考えると、「明治国家が八十年で滅んでくれた」という記述は不正確のようにも思えますが、「王政復古」が宣言された一八六八年から敗戦の一九四五年までが、約八〇年であることを考えるならば、明治国家の賛美者とされることの多い司馬氏は、「明治国家」を昭和初期の敗戦まで続いた国家として捉えていたといえるでしょう。

しかも『竜馬がゆく』で、幕末の「神国思想」が「明治になってからもなお脈々と生き続けて熊本で神風連(じんぷうれん)の騒ぎをおこし国定国史教科書の史観」となったと記し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループ」にひきつがれたと書いた司馬氏は、『この国のかたち』の第五巻で幕末における「復古神道」の影響の大きさを「篤胤によって別国が湧出したのである」と説明していました。

幕末と昭和初期の「神国思想」の連続性を指摘した司馬氏が、「昭和初期」を「別国」あるいは「異胎」の時代と呼んで批判していたことを想起するならば、ここでも「別国」という独特の単語が用いられていることは、昭和の「神国思想」と平田篤胤の「復古神道」との関係をも強く示唆していると思われます。

一九三八年の日中戦争で戦死した戦車隊の陸軍中尉西住小次郎が「軍神」とされたことについても、司馬氏は「明治このかた、大戦がおこるたびに、軍部は軍神をつくって、その像を陣頭にかかげ、国民の戦意をあおるのが例になった」と『竜馬がゆく』を執筆中の一九六四年に指摘していました(『歴史と小説』、集英社文庫)。

このとき司馬氏の批判は小林秀雄の歴史認識にも向けられていた可能性が高いと思われます。なぜならば、一九三九年に書いた「疑惑 Ⅱ」というエッセーで「インテリゲンチャには西住戦車長の思想の古さが堪えられないのである。思想の古さに堪えられないとは、何という弱い精神だろう」と書いた小林はこう続けていたからです。

「今日わが国を見舞っている危機の為に、実際に国民の為に戦っている人々の思想は、西住戦車長の抱いている様な単純率直な、インテリゲンチャがその古さに堪えぬ様な、一と口に言えば大和魂という(……)思想にほかならないのではないか」(『小林秀雄全集』第七巻)。そして小林は「伝統は生きている。そして戦車という最新の科学の粋を集めた武器に乗っている」と書いて国民の戦意を煽っていました。

一方、一九七二年に発表したエッセーで当時の日本の戦車はソ連などと比較するとすでに時代遅れのタイプであると指摘した司馬氏は、「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判していたのです(「戦車・この憂鬱な乗り物」)。

こうして、一九〇二年には日英同盟の締結に沸いていた日本は、それからわずか四〇年足らずの一九四一年にイギリスとアメリカを「鬼畜米英」と断じて、「神武東征」の神話と「皇軍無敵」を信じて無謀な太平洋戦争へと突入していました。それは日米同盟を強調しつつ復古的な教育改革をおこなっている日本の未来をも暗示しているでしょう。

それゆえ、戦前の「大和魂」の美化と「神国思想」を批判した司馬氏は、劇作家・井上ひさし氏との対談で、戦後に出来た新しい憲法のほうが「昔なりの日本の慣習」に「なじんでいる感じ」であると語り、「ぼくらは戦後に『ああ、いい国になったわい』と思ったところから出発しているんですから」、「せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう」と続けていたのです。(「日本人の器量を問う」『国家・宗教・日本人』講談社)。

司馬氏との対談もある憲法学者の樋口陽一氏も、「幕末維新の時代には『一君万民』という旗印で平等を求める動き」があり、その後も「全国各地で民間の憲法草案が出ていた」ことに注意を促して「日本国憲法」が明治の「立憲主義」を受け継いでいることを明らかにしています。

さらに、樋口氏は井上氏との共著『日本国憲法を読み直す』(岩波現代文庫)の「文庫版あとがき」で、「井上ひさしの不在という、埋めることのできない喪失感を反芻しながら、一九九三~九五年の対論を読み返した。(……)そのことにつけても、日本の現実を私たち二人と同様に――いや、もっとはげしく――憂えていた司馬遼太郎さんのことを、改めて思う」と記しているのです。

 このような日本の状況や「憲法」についての議論を踏まえて、本書では司馬氏が深く敬愛していた正岡子規や夏目漱石の「写実」や「比較」という方法に注目しながら、広い視野を持っていた明治の文学者たちの考察をとおして、「弱肉強食の理論」や「非凡人の理論」の危険性を描いていた『罪と罰』の現代的な意義に迫ろうとしました。

一九世紀のグローバリズムにも匹敵するような強い圧力に対抗するために、世界中で広がっている「自国第一主義」の影響下に歴史修正主義やヘイトスピーチが横行し、国の公文書の改竄や隠蔽すらもなされ、各国で軍拡が進んでいる現在、『罪と罰』をきちんと読み解くことによって原水爆の危険性を踏まえて成立した日本国憲法の現代的な意義をも明らかにできると考えたからです。(「あとがきに代えて」より) 

近刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

「様々なる意匠」と「隠された意匠」――小林秀雄の手法と現代

→ 第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

(「堀田善衛のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に」)

 (2019年1月5日、加筆。2月24日、5月2日、リンク先を追加)

ドストエーフスキイの会、第248例会(報告者:長縄光男氏)のご案内

第248例会のご案内を「ニュースレター」(No.149)より転載します。

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248回例会のご案内

   下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

 今回も前回同様に会場が変わります。要ご注意!                                          

20181117日(土)午後2時~5

場 所早稲田大学文学部戸山キャンパス31号館2階208教室

             地下鉄東西線・「早稲田」下車

報告者:長縄光男氏

題 目: ゲルツェンとドストエフスキー(序論)

    会場費無料

報告者紹介:長縄光男(ながなわ みつお)

1941年生。横浜国立大学名誉教授。専門は19世紀ロシア社会思想史。著書に『評伝ゲルツェン』(成文社、2012年)、『ゲルツェンと1848年革命の人びと』(平凡社、2015年)など。訳書にゲルツェン『過去と思索』(全3巻)(筑摩書房、1998-1999年)(金子幸彦との共訳)、ゲルツェン『向こう岸から』(平凡社、2013年)、最近の論文に「若いブルガーコフの回心の物語‐自伝的エッセーに即して」(科研費研究プロジェクト「競争的国際関係を与件とした広域共生の政治思想に関する研究」研究代表・大矢温、札幌大学、2014年、83-96pp.)、「若いゲルツェンと自然科学」(『ロシア思想史研究』第8号、2017年、19-30pp.)などがある。

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248回例会報告要旨

ゲルツェンとドストエフスキー(序論)

ドストエフスキーについてはすでに様々なことが書かれ、また語られ、今では書き尽くされ、語り尽されているといった感があるが、管見する限り、我が国ではドストエフスキーをゲルツェンとの関わりで論ずるという試みは、いまだなされていないように思われる。本日の報告がこの空白を埋めることになるならば幸いである。

ゲルツェン(1812年-1870年)とドストエフスキー(1821年-1881年)という十九世紀ロシアの思想界を代表する二人の知的巨人を併置して対論させるということの面白さは、二人が人間的にも、思想的にも、社会的にも、つまりは、あらゆる点で対照的な位置にありながら、しかしその立ち位置は微妙に交錯し、しかし、さらに精緻に見て行くと、その交錯の背後にやはり大きな隔たりを認めざるを得ない、という点にある。しかも、両者のロシアのロシア思想の歴史の中で果たす役割に大きさからして、この対立と交錯と離反という経緯には、思想史的に見ても極めて興味深いものがあるのである。

しかるに、我が国における両者の知名度には著しい差があり、ドストエフスキーに比べればゲルツェンはいまだ無名の域を出ていないようにすら見える。このことには、我が国の知的権威ともいうべきマルクスとドストエフスキーによる芳しからぬゲルツェン評が少なからざる役割を演じているのだろう。例えばマルクスは同じ時期(1850年代)にロンドンで亡命生活を送っていたにもかかわらず、一度としてゲルツェンと顔を合わせることはなく、亡命者たちの集会においてもゲルツェンと同席することを頑なに拒み続けていた。マルクスから見れば、ゲルツェンは「時代遅れのロマン主義者」「パン・スラヴ主義者」「ロシア政府の回し者」だったのである。又、ドストエフスキーから見ると、ゲルツェンは亡命することによって祖国を失った根無し草で、従って、神をも失った憐れな存在であった。ゲルツェンが我が国で無名を、あるいは不評を託ってきたのは、おそらく、そうした先入的知識のせいではないかと思うのである。しかし、ゲルツェンに親炙し、長年ゲルツェン研究に携わってきた者の目から見れば、これらの評価は著しい誤解と偏見に基づいていると言わざるを得ない。今日はドストエフスキーとの関係を論ずることを通じて、ゲルツェンの「汚名」をいささかなりとも雪ぐことができればうれしく思う。

そうした理由から、今日の報告はゲルツェンに軸足が置かれることになるだろう。標題が「ドストエフスキーとゲルツェン」ではなく、「ゲルツェンとドストエフスキー」となっていることに、その趣旨を読み取っていただきたい。

概して言えば、ゲルツェンとドストエフスキーという二人の大きさからして、両者の知的交流の跡を一時間半という短時間の中で十全に論じきることはほとんど不可能である。このテーマは今後とも深めて行くとして、今回の報告では、①両者の生きた19世紀中葉という時代がヨーロッパとロシアにとっていかなる時代であったか、そして、その中で両者はいかなる思想的課題を担っていたか、②両者の人間性にはどのような違いがあったか、③両者の出自にはどのような違いがあったのかなどを論じ、⓸両者の関係史をたどりながら論点を提示するにとどめ、両者の思想性の違いについては、その大まかな方向性を示すことで終わらざるを得ないことをご了承願いたい。標題に言う「序論」とはその謂いである。

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前回の「傍聴記」と「事務局便り」は、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

教育制度と「支配と服従」の心理――『破戒』から『夜明け前』へ

日露戦争の最中に詩「君死にたまふこと勿(なか)れ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)」を書いた与謝野晶子が、「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議」したとして激しく非難されるという出来事が起きたのは明治三七年のことでした。

このような日本の状況を北村透谷の評論をとおして深く観察していたのが、日露戦争直後の明治三九(一九〇六)年に『罪と罰』からの強い影響が指摘されている長編小説『破戒』を自費出版する島崎藤村でした。

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(島崎藤村、出典は「ウィキペディア」。書影は「アマゾン」より)

この長編小説において藤村は、帝政ロシアで起きたユダヤ人に対する虐殺に言及しながら、現代の「ヘイトスピーチ」を思わすような「憎悪表現」による激しい「差別」をなくそうと活動していた先輩・猪子蓮太郎の教えに反して、自分の出自を隠してでも「立身出世」せよという父親の「戒め」に従って生きることとの葛藤を「良心」に注目しながら詳しく描いたのです。そして藤村は、「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた教育現場の問題点を、「忠孝」の理念を強調した校長の演説や彼らの言動をとおして明らかにしていました。

夏目漱石が『破戒』を「明治の小説として後世に伝うべき名篇也」と森田草平宛の手紙で激賞していたことを想起するならば、憲法が発布された頃に青年期を迎えていたこれらの作家は、第一回帝国議会の開会直前に渙発された「教育勅語」の問題を深く理解していたように思えます。

しかも、『三四郎』の連載から二年後の明治四三年には「大逆事件」で幸徳秋水などが死刑となりましたが、この時に修善寺で大病を患っていた漱石は、農奴の解放や言論の自由、裁判制度の改革などを求めて捕らえられて偽りの死刑宣告を受け、「刑壇の上に」立たされて死刑の瞬間を待つドストエフスキーの「姿を根気よく描き去り描き来ってやまなかった」と記したのです。

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(26歳時のドストエフスキーの肖像画、トルトフスキイ絵、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

この時、ドストエフスキーは皇帝による恩赦という形でシベリア流刑となっていたのですが、「かくして法律の捏(こ)ね丸めた熱い鉛(なまり)のたまを呑(の)まずにすんだのである」と続けた漱石の表現からは、「憲法」を求めることさえ許されなかった帝政ロシアで、農奴の解放や表現の自由を求めていた若きドストエフスキーに対する深い共感が現れていると思えます。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

 クリミア戦争敗戦後の「大改革」の時期にシベリアから帰還したドストエフスキーは兄とともに総合雑誌『時代』を創刊しましたが、そこには自国や外国の文学作品ばかりでなく、司法改革の進展状況やベッカリーアの名著『犯罪と刑罰』の書評など多彩な記事も掲載されていました。新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する卑劣な弁護士ルージンとの激しい議論も描かれている長編小説『罪と罰』は、監獄での厳しい体験や法律や裁判制度について、さらに社会ダーウィニズムなどの新しい思想の真摯な考察の上に成立していたのです。

『罪と罰』を邦訳した内田魯庵も、主人公の自意識の問題だけでなく、制度や思想の問題点も鋭く描き出していたこの長編小説との出会いによる自分の「文学」観の変化とドストエフスキーへの思いを大正四年に著した「二葉亭四迷余話」でこう書いています。

「しかるにこういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝(つ)いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。(……)それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった」。

そのことを想起するならば、漱石の記述には「大逆事件」をきっかけに日本で言論の自由が奪われて、「憲法」がなく皇帝による専制政治が行われていた帝政ロシアと同じような状況になることへの日本への強い危惧が示唆されていると言えるでしょう。

 実際、「治安維持法」の改正によって日本では昭和初期になると、共産主義者だけでなく「立憲主義」的な価値観を持つ知識人も逮捕されるようになるのですが、その時期に藤村が連載したのが父・島崎正樹をモデルとしてその悲劇的な生涯を描いた歴史小説『夜明け前』でした。

武力を背景として「開国」を要求した黒船の来航に揺れてナショナリズムが高まった時期に、日本を「万(よろず)の国の祖(おや)国」と絶対化した平田篤胤の考えを信じて、キリスト教や仏教を弾圧した平田派の国学者となった島崎正樹は、先祖の建立した青山家の菩提寺に放火して捕らえられ狂死していたのです。

放火は人に対するテロではありませんが、自分が信じる宗教を絶対化して仏教徒にとっては大切な「寺」に放火するという半蔵の行為からは、「非凡人」には「悪人」を「殺害」する権利があると考えて「高利貸しの老婆」の殺害を正当化したラスコーリニコフの苦悩と犯行が連想されます。

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(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

極端な「国粋主義」との関連で注目したいのは、ドイツ民族を絶対化したナチズムの迫害にあった社会心理学者のエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』において、自らを「非凡人」と見なしたヒトラーが「権力欲を合理化しよう」とつとめていたことに注意を促すとともに、「権威主義的な価値観」に盲従する大衆の心理にも迫っていたことです(日高六郎訳、東京創元社、1985)。

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(『自由からの逃走』、図版は英語版「ウィキペディア」より)

すなわち、心理学の概念を用いながら人間の「服従と支配」のメカニズムを分析したフロムによれば、「権力欲」は単独のものではなく、他方で権威者に盲目的に従いたいとする「服従欲」に支えられており、自分では行うことが難しい時、人間は権力を持つ支配者に服従することによって、自分の望みや欲望をかなえようともするのです。

しかも、第一次世界大戦の後で経済的・精神的危機を迎えたドイツにおいて、ヒトラーがなぜ権力を握りえたのかを明らかにしたフロムは、自分の分析の例証としてドストエフスキーの最後の大作『カラマーゾフの兄弟』から引用していました。

注目したいのは、『罪と罰』においてドストエフスキーがラスコーリニコフに「凡人」について、「服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務で」と規定させているばかりでなく(三・五)、「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。…中略…自由と権力、いやなによりも権力だ! (……)ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(四・四)とも語らせていたことです。

こうして、ラスコーリニコフに自分の「権力志向」と大衆の「服従志向」にも言及させることで「権威主義的な価値観」の危険性を見事に表現していたドストエフスキーは、エピローグの「人類滅亡の悪夢」をとおして「自分」や「自民族」を「非凡」と見なして「絶対化」することが大規模な戦争を引き起こすことをすでに示唆していたのです。

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江川卓訳『罪と罰』上中下(岩波文庫)

一方、「天皇機関説」事件で日本の「立憲主義」が崩壊する前年の昭和九年に、内田魯庵や北村透谷とは正反対の危機から眼をそらすような『罪と罰』論を展開したのが、文芸評論家の小林秀雄でした。彼は司法取締官ポルフィーリイや弁護士ルージンなどとラスコーリニコフとの激しい議論についての考察を省くことにより、「超人主義の破滅」や「キリスト教的愛への復帰」などの当時の一般的なラスコーリニコフ解釈では『罪と罰』には「謎」が残ると断言しました。(『小林秀雄全集』、新潮社、第六巻)。

こうして、自分の主張に合わないテキストの記述は無視しつつ時流に迎合して「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」との結論を記した小林秀雄は、自分の主張とは合わない解釈をする者に対しては、「権威主義的な」態度で「不注意な読者」と決めつけていたのです。

このような小林のドストエフスキー論の問題点は、北村透谷の『罪と罰』論なども踏まえつつ、小林の『破戒』論や『夜明け前』論を考察することによりいっそう鮮明に浮かび上がらせることができるでしょう。

以下、本書では「写生」や「比較」という方法を重視した明治の文学者たち評論や小説だけでなく彼らの生き方や、明治における法律制度や自由民権運動にも注意を払いながら、『罪と罰』の受容を分析することにします。

そのことにより日中戦争から太平洋戦争へと向かう時期に書かれた小林秀雄のドストエフスキー論の手法が、現代の日本で横行している歴史修正主義だけでなく、「公文書」の改竄や隠蔽とも深くかかわっていることも明らかにできると思います。

(注はここでは省き、旧かなと旧字は、現代の表記に改めた。2018年10月16日、改題と改訂)

 一、「国粋主義」の台頭と『罪と罰』の邦訳

 

「国粋主義」の台頭と『罪と罰』の邦訳

 憲法のない帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクを舞台に、自分を「非凡人」と見なした元法学部学生ラスコーリニコフの犯罪とその結果が描かれている長編小説『罪と罰』が雑誌に連載されたのは、「黒船」の来航によりナショナリズムが刺激されて、「天誅」という名のテロが頻繁に起きていた幕末の慶応二(一八六六)年のことでした。

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(『罪と罰』の図版はロシア版「ウィキペディア」、内田魯庵(1907年頃)、図版は「ウィキペディア」より)

 内田魯庵が英訳で『罪と罰』を読んだのは「憲法」が発布された明治二二年のことでしたが、この長編小説を読み始めたものの興が乗らずに最初の百ページほどを読むのに半月近くもかかった魯庵は、「それから後は夜も眠らず、ほとんど飯を食う暇さえないぐらいにして読み通した」のです(「『罪と罰』を読める最初の感銘」)。

 この長編小説を二日間ほどで通読した森鷗外が、読み終えてから「一週間ばかりは、夜眠ろうとするとうなされて、どうしても眠られなかった」という話しを聞いたと記した魯庵は、農奴制の廃止や裁判制度の改革などが行われていた「大改革」の時期に新設された司法取締官のポルフィーリイとの対決で明らかになる「非凡人の思想」の危険性についてこう説明しています。

 「ラスコーリニコフの考えによると、総べて世の中――社会の組織と言うものは偉大なる権威者一個人の力を以てどうにでも改革出来る。今日の新しい法律を打ち建てた者は、即ちそれまであった旧い法律を打ち壊した人間で、旧い法律から見れば犯罪者であるけれども力さえあれば今の法律を破壊して新しい法律を建てることが出来る」。

 そして魯庵は、この長編小説には「主人公ラスコーリニコフが人殺しの罪を犯して、それがだんだん良心を責められて自首するに到る」筋と、「マルメラードフと言う貴族の成れの果ての遺族が、次第しだいに落ぶれて、ついには乞食とまで成り下る」という筋が組み合わされて『罪と罰』が成立していると指摘していました。

実際、ポルフィーリイの殺人を犯した「非凡人」の「良心はどうなりますか」という問いに「あなたには関係のないことでしょう」といらだたしげに返事したラスコーリニコフは、「いや、なに、人道問題として」と問い質されると、「良心を持っている人間は、誤りを悟ったら、苦しめばいい。これがその男への罰ですよ」と答えていたのです(第三部第五章、以下、三・五と略記する)。

 この返事に留意しながら読んでいくと本編の終わり近くには、「弱肉強食の思想」などの近代科学に影響されたラスコーリニコフの「良心」理解が誤っていたことを示唆するかのような、「良心の呵責が突然うずきだしたような具合だった」(六・一)と書かれている文章と出会うのです

 独裁的な藩閥政府との長い戦いを経て「憲法」を獲得した時代を体験していた内田露庵は、絶対的な権力を持つ王や皇帝の無法な命令や行為に対抗するためにも、権力者からの自立や言論の自由などを保証する「良心」の重要性を深く認識していたのです。

明治憲法、「ウィキペディア」

(憲法発布略図、楊洲周延画、出典は「ウィキペディア」クリックで拡大できます)

 こうして『罪と罰』から強い感銘を受けた魯庵は「何うかして自分の異常な感嘆を一般の人に分ちたい」と思いたち、二葉亭四迷の助力を得て長編小説『罪と罰』の前半部分を、日本で初めて訳出して二回に分けて刊行したのです。

 ただ、『罪と罰』の売れ行きが思わしくなかったために前半のみの訳出で終わりましたが、内田訳を読んでこの長編小説の思想に深く迫ったのが、明治の雑誌『文学界』の精神的なリーダーだった北村透谷でした。

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(長女を抱いた北村透谷。小田原市立図書館所蔵と創刊号の表紙。図版は「ウィキペディア」より)

 すなわち、透谷は『文学界』の前身の『女学雑誌』に載せた評論で「心理的小説『罪と罰』」が、「暗黒なる社界の側面を暴露してあますところなし」と記し、ロシアでは「貴族と小民との間に鉄柵」が設けられていることを指摘していました(評論「罪と罰」)。

この記述からは西欧の大国に対抗するために短期間で「富国強兵」を成し遂げて貴族は特権を享受する一方で、農民は重い人頭税をかけられたために没落して「農奴」の状態に陥っていた帝政ロシアの体制の問題点を透谷がよく理解していたことが感じられます。

 さらに次の評論で「最暗黒の社会」には「学問はあり分別ある脳髄の中(なか)に、学問なく分別なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事」をたくらませるような「魔力」が潜んでいることを『罪と罰』が明らかにしていると指摘した透谷は、大隈重信や来日したロシア皇太子ニコライへのテロにも言及しながら「『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なり」と笑って退けてはならないと記していました。

 実際、透谷の評論では言及されていませんが、憲法発布の式典の朝にも文部大臣の森有礼が「国粋主義者」の西野文太郎に短刀によって刺されて亡くなるという大事件が起きていました。それゆえ、北村透谷や『文学界』の同人たちとの交友が描かれている島崎藤村の『春』の後に朝日新聞に連載された夏目漱石の『三四郎』の第一一章では、広田先生が高等学校の生徒だった時に体験した出来事を三四郎にこう語っているのです*3。

 「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺(ころ)された。君は覚えていまい。幾年(いくつ)かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列するのだと云って、大勢鉄砲を担(かつ)いで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引っ張って行って、路傍(みちばた)へ整列さした。我々は其処(そこ)へ立ったなり、大臣の柩(ひつぎ)を送ることになった」。

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(夏目漱石、「「ウィキペディア」より)

 しかも、その前年に漱石は「家庭と文学」で、武士が権力を握っていた時代には、「忠孝というような観念が、当時の社会組織を持続するのに」最も都合がよかったと記し、明治維新の後でも、「現在の社会組織を持続するためには、やはり忠孝のごとき観念が最もたいせつなものと考えられ、他の諸観念は依然としてこの観念に圧倒されている」ことに注意を促していたのです。

実は、「国粋主義」が台頭したのは文部大臣の森有礼が暗殺されてから一年後に、臣民の「忠孝」を日本の「天皇を中心とする政体」の精華とたたえた「教育勅語」が渙発され、その奉読式でそこに記された天皇の署名と印に最敬礼をしなかったことを咎められた内村鑑三が「不敬漢」とのレッテルを張られて退職させられるという事件がきっかけでした。

教育勅語

(図版は「ウィキペディア」より、クリックで拡大できます)

それゆえ、「『罪と罰』の殺人罪」が掲載された翌月に、『文学界』の第二号に発表した評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」で友人・山路愛山の史論を厳しく批判した北村透谷は、「明治文学管見」でも「愚なるかな、今日において旧組織の遺物なる忠君愛国などの岐路に迷う学者、請う刮目(かつもく)して百年の後を見ん」と書いていたのです。

キリスト教の伝道者でもあった愛山が、「攘夷思想」を唱えた頼山陽を讃える史論を書いて時流に迎合したことに透谷が強い危機感を覚えたことはたしかでしょう。つまり、透谷の『罪と罰』論は、「教育勅語」渙発後に「国粋主義」が台頭した当時の日本の政治情勢とも深く関わっていたのです。

(注はここでは省き、旧かなと旧字は、現代の表記に改めた。2018年10月16日、改題と改訂)

 二、 教育制度と「支配と服従」の心理 ――『破戒』から『夜明け前』へ

 

ドストエーフスキイの会、第247回例会(報告者紹介:坂庭淳史氏)のご案内

第247回例会のご案内を「ニュースレター」(No.148)より転載します。

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第247回例会のご案内

   下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

 今回は会場が変わります。要ご注意!                                       

2018915日(土)午後2時~5

場 所早稲田大学文学部戸山キャンパス32号館224教室

             地下鉄東西線・「早稲田」下車

報告者:坂庭 淳史 氏

題 目: タルコフスキー映画におけるドストエフスキーとの信仰と生に関する対話

    会場費無料

報告者紹介:坂庭淳史(さかにわ あつし)

早稲田大学文学学術院教授。専門は19世紀ロシア文学・思想。最近の著書に『プーシキンを読む』(ナウカ出版、2014年)、論文に「黒澤明『生きる』とロシア文学」(『比較文学年誌』早稲田大学比較文学研究室、2015年)、訳書にアルセーニー・タルコフスキー『雪が降るまえに』(鳥影社、2007年)など。

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247回例会報告要旨

タルコフスキー映画におけるドストエフスキーとの信仰と生に関する対話

 ソヴィエトを代表する映画監督アンドレイ・タルコフスキー(1932₋1986)は生涯でわずか8本の作品しか撮ることができなかったが、彼の映画は独特の映像美はもとより、そこに表現された哲学的思索によって現在でも多くの人々を魅了している。タルコフスキーは国内外の映画はもちろん、思想や文学についても造詣が深く、彼の日記『殉教録』や映像論などをまとめた著書『刻印された時間(映像のポエジア)』の中には、ベルジャーエフやシェストフ、トルストイ、あるいはトーマス・マンやヘルマン・ヘッセ、カルロス・カスタネダといったさまざまな人々の名が見られる。なかでもタルコフスキーが長年に渡って強い関心を持ち続けていたのが、フョードル・ドストエフスキーであった。今回の発表では、タルコフスキーの創作世界において、彼がドストエフスキーに対してどのようなまなざしを向けていたのか、あるいはドストエフスキーがどのような役割を果たしていたのかを考えてみたい。

 タルコフスキーはドストエフスキーの精神的末裔とも称され、その思想の類縁性はこれまでにも多くの研究者たちによって語られてきた。彼があたためていた数多くの作品構想の中には『分身』や『罪と罰』といった題名も見られるが、彼の実際の作品の中でドストエフスキーの小説や思想と直接に結びついているシーンは残念ながら数えるほどしかなく、しかもわずかに触れられている程度でしかない。

 ここで注目したいのは、以下の三つの事実である。

 第一には、その実現可能性はともかく、ドストエフスキーその人についての映画の計画である。彼が最も信頼していた俳優アナトーリー・ソロニーツィン(1934-1982)を作家役と決めて構想したものの、この俳優の癌による早世とともに計画自体も立ち消えになってしまったようだ。しかし、タルコフスキーのドストエフスキーへの心酔ぶりはこの事実からも理解できるし、ソロニーツィンがその他のタルコフスキー作品で演じた役柄なども、タルコフスキーによるドストエフスキー像を考えるうえでは参考になるだろう。

 第二に、小説『白痴』の映画化の模索である。彼が1970年代から1986年末に亡くなるまで記していた日記には、恒常的と言ってもいいほどに『白痴』に対する何らかの記述がある。他の構想と比べてみても作品の実現の可能性は十分にあったようだが、ゴスキノ(国家映画委員会)との長いせめぎ合いの末、撮影許可はとうとう下りなかった。それでも、『白痴』についてタルコフスキーが書き残した印象的なシーンや小説や登場人物の分析、映画化を想定した配役のメモ、あるいはドストエフスキー作品に基づくソ連映画へのコメントや、わずかながらに残されている黒澤明の映画『白痴』に関する言及などから、彼がどのような『白痴』を撮ろうとしていたのかを推測することができる。

 第三には、1986年に公開されたタルコフスキー最後の作品『サクリファイス』でわずかに示されるドストエフスキー世界へのリンクである。冒頭のシーンで、この映画の主人公アレクサンデルが、かつては俳優であり、『白痴』のムイシュキン公爵を演じて成功した過去を持っていることが語られる。『白痴』やムイシュキン公爵に関してそれ以上に語られることはなく、この設定はさほど大きな意味を持っていないようにも思える。そのせいか、この設定はこれまで十分には注目されてこなかった。しかし、この映画を『白痴』(あるいはドストエフスキーの世界)に重ねるならば、そこにはタルコフスキーによる信仰と生にまつわるドストエフスキーとの対話が見えてくる。

 今回の発表では、近年のタルコフスキー研究も紹介しながら、以上のことを中心に検討していく。

*   *   * 

前回の「合評会報告」は、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

カジノ法案やアベノミクスを強行した安倍政権の危険性を指摘していた枝野演説

緊急出版! 枝野幸男、魂の3時間大演説「安倍政権が不信任に足る7つの理由」(書影は「アマゾン」より)

『緊急出版! 枝野幸男、魂の3時間大演説「安倍政権が不信任に足る7つの理由」 』が8月9日に刊行された。

格調高い日本語で「安倍政権が不信任に足る7つの理由」が明確に述べられており、「解説」も丁寧で分かり易い。(→https://twitter.com/stakaha5/status/1030785554604937216

7世紀末の持統天皇の時代に「すごろく禁止令が発令」されてから日本では「賭博は違法」であったことに注意を促すことで、「カジノ法案」を強行した安倍政権が強調する「歴史と伝統」の欺瞞を指摘し得ている(24頁)。

そのことにより「立憲主義」の大切さを理解し得ない安倍政権が、「大政奉還」のあとで武力による革命で権力を握った「藩閥政府」に連なっていることを明らかにし、「明治維新」賛美の危険性も浮かび上がらせている。⇒追記1,2

さらに、「聞かれたことに答えずに聞かれていないことを答えている」総理の政治姿勢に対する批判は、きわめて鋭い(77~78頁)。ヤジがきわめて激しかったのは、これらの指摘が問題の核心を突いていたからだと思える。

第196回国会を「民主主義と立憲主義の見地から、憲政史上最悪の国会」と呼ぶ一方で(110頁)、良識ある与党議員に「立憲主義」の大切さを真正面から訴えかけたこの演説は、多くの国民の熱い共感を呼んだ。

この演説ばかりでなく、これまでも問題点を浮き彫りにして話題となった国会での質問はたくさんある。本書が端緒となって、多くの名演説が政府の答弁や「解説」とともに単行本化されることを望みたい。

本書の「もくじ」

本書の刊行理由
不信任決議案を提出した7つの理由
災害対応よりカジノ法案を優先した安倍政権は信任に値せず!
不信任の理由その1 高度プロフェッショナル制度の強行
不信任の理由その2 カジノ法案の強行
不信任の理由その3 アベノミクスの失敗
不信任の理由その4 政治と社会のモラルを低下させるモリカケ問題
不信任の理由その5 ごまかしだらけの答弁。そして民主主義を無視した強行採決
不信任の理由その6 行き詰まる外構と混乱する安全保障政策
不信任の理由その7 官僚システムの崩壊
未来と過去に対して謙虚な姿勢を

解説「国会研究の視点から枝野演説を読む」 田中信一郎
解説「働き方改革法案の審議にみる騙しと開き直りの常態化」 上西 充子

(追記1)

「東京新聞」も8月19日 朝刊の第一面で「明治150年賛美は危険」と題して、「明治期につくられた民間の憲法草案『五日市憲法』」の「発見のきっかけとなったのは」、戦争を繰り返してきた「明治以降百年間の日本の歩みを賛美する政府の歴史観への疑問」であることを伝えている。(図版は「東京新聞TOKYO Web」より)

(追記2)

安倍首相は「明治維新」が「これまでの身分制を廃し、すべての日本人を従来の制度や慣習から」解き放ったと語ったが、評論家の半藤一利氏は夏目漱石における「維新」の用法などを踏まえて、実態はむしろその反対であったことを明らかにしている。

島崎藤村も日露戦争後に自費出版した『破戒』において、「教育勅語」の「忠孝」の理念を説く校長や教員たちの言動をとおして、現代のヘイトスピーチに近い用語により差別が広まっていたことを描いていた。

夏目漱石の明治観と「明治維新」という用語

(2019年2月9日、追加、2023/11/30、改題と追加)

島崎藤村の『破戒』と『罪と罰』の現代性

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社〔四六判上製/224頁/2000円/2019年2月〕

成文社 http://www.seibunsha.net/books/ISBN978-4-86520-031-7.htm

島崎藤村の『破戒』と『罪と罰』の現代性

島崎藤村が長編小説『破戒』を自費出版したのは、日露戦争直後のことでしたが、夏目漱石は弟子の森田草平に宛てた手紙で島崎藤村の長編小説『破戒』を、「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞しました。

この長編小説で島崎藤村は、「教育勅語」の「忠孝」の理念を説く校長や教員、議員たちの言動をとおして、現在の一部与党系議員や評論家によるヘイトスピーチに近いような用語による差別が広まっていたことを具体的に描いていたのです。

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(島崎藤村、出典は「ウィキペディア」。書影は「アマゾン」より)

ただ、批評家の木村毅は『罪と罰』と『破戒』の類似性についてこう指摘していました。「この英訳『罪と罰』を半ばも読み進まぬうちに、重大な発見をした。かつて愛読した藤村の『破戒』は、この作の換骨奪胎というよりも、むしろ結構は、『罪と罰』のしき写しと云っていいほど、酷似している」(「日本翻訳史概観」『明治翻訳文學集』、昭和47年、筑摩書房)。

実際、主人公の瀬川丑松はラスコーリニコフと対応していますし、飲酒が原因で退職となる教員・風間敬之進とその妻の描写は、マルメラードフ夫妻を連想させます。また、敬之進の前妻の娘で蓮華寺の養女に出されるお志保もソーニャを思い起こさせるだけでなく、彼女にセクハラを仕掛ける蓮華寺住職とその妻の関係は、スヴィドリガイロフと妻マルファに似ているなど多くの人物造型が『罪と罰』に依拠しているように思われます。

しかし、先の文章に続けて木村が「『破戒』が日露戦争後の文壇を近代的に、自然主義の方向へと大きく旋回させた功は否めず、それはつまり、ドストイエフスキイの『罪と罰』の価値の大きさを今更のように見直すことになった」と書いているように、この類似性は『破戒』の価値をさげるものではありません。

『罪と罰』の初めての邦訳を行った内田魯庵は、この長編小説の大きな筋の一つは「主人公ラスコーリニコフが人殺しの罪を犯して、それがだんだん良心を責められて自首するに到る経路」であると指摘して、「良心」の問題の重要性に注意を促していました。(明治四五年、「『罪と罰』を読める最初の感銘」)。

実際、「大改革の時代」に発表された『罪と罰』では裁判制度の改革に関連して創設された司法取調官のポルフィーリイの、殺人を犯した「非凡人」の「良心はどうなりますか」という問いに「あなたには関係のないことでしょう」といらだたしげに返事したラスコーリニコフは、「いや、なに、人道問題として」と問い質されると、「良心を持っている人間は、誤りを悟ったら、苦しめばいい。これがその男への罰ですよ」と答えていたのです(三・五)。

この返事に留意しながら読んでいくと本編の終わり近くには、「弱肉強食の思想」などの近代科学に影響されたラスコーリニコフの誤った「良心」理解を示唆するかのような、「良心の呵責が突然うずきだしたような具合だった」(六・一)と書かれている文章と出会うのです。

「日本国憲法」では「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定められていますが、独裁的な藩閥政府との長い戦いを経て「憲法」を獲得した時代を体験した内田魯庵は、絶対的な権力を持つ王や皇帝の無法な命令や行為に対抗するためにも、権力者からの自立や言論の自由などを保証する「良心」の、『罪と罰』における重要性を深く認識していたのです。

そして島崎藤村もドストエフスキーについて、「その憐みの心があの宗教観ともなり、忍苦の生涯ともなり、貧しく虐げられたものの描写ともなり、『民衆の良心』への最後の道ともなったのだろう」と記していました(かな遣いは現代表記に改めた。『春を待ちつつ』、大正一四年)。

「民衆の良心」という用語に注目して『破戒』を読み直すとき、使用される回数は多くないものの「良心」という単語を用いながら主人公の「良心の呵責」が描かれているこの長編小説が、表面的なレベルだけでなく、深い内面的なレベルでも『罪と罰』の内容を深く理解し受け継いでいることが感じられます。

すなわち、「非凡人の理論」を考え出して「高利貸しの老婆」の殺害を正当化していたラスコーリニコフの「良心」理解の誤りを多くの登場人物との対話だけでなく、彼の「夢」をとおして視覚的な形で示したドストエフスキーは、ソーニャの説得を受け入れたラスコーリニコフに広場で大地に接吻した後で自首をさせ、シベリアでは彼に「人類滅亡の悪夢」を見させていました。

『破戒』において帝政ロシアで起きたユダヤ人に対する虐殺に言及していた島崎藤村も、自分の出自を隠してでも「立身出世」せよという父親の「戒め」に従っていた主人公の瀬川丑松が、「差別」の問題をなくそうと活動していた先輩・猪子蓮太郎の教えに背くことに「良心の呵責」を覚えて、猪子が暗殺されたあとで新たな道を歩み始めるまでを描き出したのです。

さらに北村透谷は「『罪と罰』の殺人罪」を発表した翌月に、幕末に「尊王攘夷思想」を讃えた山路愛山の「頼山陽」論を、「『史論』と名(なづ)くる鉄槌」と呼んだ厳しく批判した評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」を『文学界』の第二号に発表していました。

友人の愛山を「反動」と呼んだ透谷の語気の激しさには驚かされますが、「教育勅語」では臣民の忠孝が「国体の精華」とたたえられていることに注意を促した中国史の研究者小島毅氏が書いているように、朝廷から水戸藩に降った「攘夷を進めるようにとの密勅」を実行しようとしたのが「天狗党の乱」であり、その頃から「国体」という概念は「尊王攘夷」のイデオロギーとの強い結びつきも持つようになっていたのです。

靖国史観(図版は紀伊國屋書店より)

日露戦争の最中には与謝野晶子の詩「君死にたまふこと勿(なか)れ」でさえも、「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議」したと批判され、「晶子の詩を検すれば、乱臣なり、賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるべきもの也」と厳しく非難されるようになりました(井口和起『日露戦争』)。

それゆえ、『罪と罰』を深く研究した上で日露戦争が終わった直後の一九〇六年に自費出版された『破戒』は、ロシア革命や太平洋戦争での敗戦に至る日露の教育制度や近代化の問題点をも明らかにしているといえるでしょう。

この意味で注目したいのは、第一次世界大戦後に「ドイツの青年層が、自分たちにとってもっとも偉大な作家としてゲーテでもなければニーチェですらなく、ドストエフスキーを選んでいること」に注意を向けたドイツの作家ヘルマン・ヘッセがドストエフスキーの作品を「ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものである」と指摘していたことです。

実際、ポルフィーリイに「あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ。もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれないんだし」と語らせたドストエフスキーは、エピローグの「人類滅亡の悪夢」で「自己(国家・民族)の絶対化」の危険性を示していました。

このように見てくる時、明治の文学者たちがドストエフスキーの作品を高く評価したのは、そこに「憲法」がなく権力者の横暴が看過されていた帝政ロシアの現実に絶望した主人公たちの苦悩だけでなく、制度や文明の問題も鋭く描き出す骨太の「文学」を見ていたからでしょう。

現在の日本ではこのような制度に絶望した主人公たちの過激な言動や心理に焦点があてられて解釈されることが多くなっていますが、それは自由や平等そして生命の重要性などの「立憲主義」的な価値観の重要性を描いていたドストエフスキーの小説の根幹から目を逸らすことを意味します。

明治時代の文学者たちの視点で、「大逆事件」の後では「危険なる洋書」とも呼ばれるようになる『罪と罰』を詳しく読み直すことは、国会での証人喚問で「良心に従って」真実を述べると誓いながら高級官僚が公然と虚偽発言を繰り返し、「事実」が記されている「公文書」の改竄や隠蔽がまかりとおるようになった現代日本における「立憲主義」の危機の遠因にも迫ることになるでしょう。

(2018年9月2日、改訂。2019年2月9日、ツイッターのリンク先を追加)

「黒澤明と手塚治虫――手塚治虫のマンガ『罪と罰』をめぐって」を「映画・演劇評」に掲載

(子供向けに書かれているために、 のマンガ『罪と罰』ではスヴィドリガイロフの形象は単純化されているが、自分には人を殺すことも許されていると信じて暴力革命を起こそうとする男をとおして、「非凡人の理論」の危険性がよく示されている。→ https://twitter.com/stakaha5/status/1011890849532207104

 (書影は「手塚治虫 公式サイト」より)

黒澤明監督の映画《天国と地獄》を特集した黒澤明研究会の『会誌』第39号が届きました。ここにはこの映画をめぐる討論「白熱教室」や黒澤和子氏の「映画衣装☆事始め」と題した講演、さらにはドストエフスキー作品との関連についての興味深い論考が収められています。

私自身は映画《赤ひげ》でブルーリボン賞の助演女優賞を受賞した二木てるみ氏を招いての例会で強く印象に残った発言に啓発されて、映画《デスル・ウザーラ》の後で『赤き死の仮面』の企画がたてられた際に、美術監督を依頼していた黒澤明監督と手塚治虫氏の深い交友の一端を、『罪と罰』論とのかかわりに絞って考察した論考を投稿しました。

「おわりに」に記したように、水爆以上に危険な爆弾の実験がテーマとなっている手塚治虫の『太平洋Xポイント』(一九五三)などの手塚治虫作品は、水爆実験の問題を真正面から描いた黒澤映画《生きものの記録》にも影響を与えているようにも思えます。

ただ、大きなテーマですのでそれについてはいずれ機会を改めて考察することとし、ここでは投稿した論考をホームページ用に編集しなおした上で、「映画・演劇評」のページに転載します。

黒澤明と手塚治虫――手塚治虫のマンガ『罪と罰』をめぐって

 なお、黒澤明研究会の運営委員の方々には今回もお世話になりましたが、「株式会社手塚プロダクション」のWebサイト(http://TezukaOsamu.net/jp)の豊富な記事と図版も参考にさせて頂きました。この場を借りて感謝の意を表しておきます。

(2019年2月9日、ツイッターのリンク先を追加)

「神国思想」と司馬遼太郎の「別国」観

 昭和初期の暗く重い時期の若き詩人たちとの交友を描いた堀田善衛氏の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を読み返した時には、明治の『文学界』の同人たちとの交友を描いた島崎藤村の自伝的な長編小説『春』のことを思い起こしましたが、注目したいのは堀田氏が作家の司馬遼太郎氏やアニメ監督の宮崎駿氏との鼎談でこう語っていたことです。

 「『この国』という言葉遣いは私は島崎藤村から学んだのですけど、藤村に一度だけ会ったことがある。あの人は、戦争をしている日本のことを『この国は、この国は』と言うんだ」(『時代の風音』朝日文庫、1997年、150頁)。

堀田善衛、時代の風音、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

そのことに注目するならば、『若き日の詩人たちの肖像』が『夜明け前』を書いた島崎藤村の広い視野を強く意識して書かれていたことは確かでしょう。興味深いのは、鼎談者の一人の司馬遼太郎もまた『この国のかたち』と題したエッセー集の第5巻で平田篤胤の復古神道が「創造の機能には、産霊(むすび)という用語をつかい、キリスト教に似た天地創造の世界を展開した」と指摘していることです。

 そして、「平田国学」が庄屋など「富める苗字(みょうじ)帯刀層にあたえた」影響を、「奈良朝の大陸文化の受容以来、篤胤によって別国が湧出したのである」と説明していました(太字は引用者)。

この国のかたち 〈5〉 1994~1995 (書影は「紀伊國屋書店」ウェブ・サイトより)

「昭和初期」を「別国」あるいは、「異胎」の時代と呼んで批判していた司馬氏がここでも「別国」という独特の用語を用いていることは、昭和の「別国」と平田篤胤によってもたらされた「別国」との連続性を示唆していると思われます。

実は、『翔ぶが如く』を執筆中に著したエッセー「竜馬像の変遷」で、「人間は法のもとに平等である」というのが「明治の精神であるべき」で、「こういう思想を抱いていた人間がたしかにいたのに、のちの国権的政府によって、はるか彼方に押しやられてしまった」と記し、「結局、明治国家が八十年で滅んでくれたために、戦後社会のわれわれは明治国家の呪縛から解放された」と続けていたのです。

「王政復古」が宣言された一八六八年から敗戦の一九四五年までが、約八〇年であることを考えるならば、明治国家の賛美者とされることの多い司馬氏は、「明治国家」を昭和初期の敗戦まで続いた国家として捉えていたといえるでしょう。

しかも司馬氏は『竜馬がゆく』を執筆中の一九六四年には日中戦争の時に二五歳で戦死し、「軍神」とされた戦車隊の下士官・陸軍中尉西住小次郎についても、「明治このかた、大戦がおこるたびに、軍部は軍神をつくって、その像を陣頭にかかげ、国民の戦意をあおるのが例になった」と指摘していました(「軍神・西住戦車長」、『歴史と小説』、集英社文庫)。

このとき司馬氏の批判は日本の知識人を批判していた小林秀雄の歴史認識にも向けられていた可能性が高いと思われます。なぜならば、「疑惑 Ⅱ」というエッセーで「インテリゲンチャには西住戦車長の思想の古さが堪えられないのである。思想の古さに堪えられないとは、何という弱い精神だろう」と書いた小林はこう続けていたからです。

「今日わが国を見舞っている危機の為に、実際に国民の為に戦っている人々の思想は、西住戦車長の抱いている様な単純率直な、インテリゲンチャがその古さに堪えぬ様な、一と口に言えば大和魂という(中略)思想にほかならないのではないか」(太字は引用者。『小林秀雄全集』第七巻、六八頁)。

しかも小林は「伝統は生きている。そして戦車という最新の科学の粋を集めた武器に乗っている」と書いて国民の戦意を煽っていましたが、当時の日本の戦車はソ連などと比較するとすでに時代遅れのタイプであり、司馬氏は『坂の上の雲』を書き終わった一九七二年に発表したエッセーで、「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判していたのです(太字は引用者。「戦車・この憂鬱な乗り物」)。

しかも司馬氏は『竜馬がゆく』を執筆中の一九六四年に日中戦争の時に二五歳で戦死し、「軍神」とされた戦車隊の下士官・陸軍中尉西住小次郎についても、「明治このかた、大戦がおこるたびに、軍部は軍神をつくって、その像を陣頭にかかげ、国民の戦意をあおるのが例になった」と指摘していました(「軍神・西住戦車長」、『歴史と小説』、集英社文庫)。

夏目漱石は一九〇二年に締結された日英同盟の締結に沸く日本をロンドンから冷静に批判していましたがこのような「思想」によって、それからわずか四〇年足らずの一九四一年に日本は「神武東征」の神話を信じて、「皇軍無敵」と「鬼畜米英」を唱えて無謀な太平洋戦争へと突入していました。

それゆえ、劇作家・井上ひさし氏との対談で、戦後に出来た新しい憲法のほうが「昔なりの日本の慣習」に「なじんでいる感じ」であると語った司馬氏は「ぼくらは戦後に『ああ、いい国になったわい』と思ったところから出発しているんですから」、「せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう」と語り、「日本が特殊の国なら、他の国にもそれも及ぼせばいいのではないかと思います」と続けていました。(「日本人の器量を問う」『国家・宗教・日本人』講談社、1996年)。

樋口・小林対談(図版はアマゾンより)

司馬氏との対談もある憲法学者の樋口陽一氏も、「大正デモクラシ-だけではなく、その前には自由民権運動があり、幕末維新の時代には『一君万民』という旗印で平等を求める動きもあった。それどころか、全国各地で民間の憲法草案が出ていた」ことに注意を促して「日本国憲法」が明治の「立憲主義」を受け継いでいることを明らかにしています。

さらに、樋口氏は井上氏との共著『日本国憲法を読み直す』(岩波現代文庫)の「文庫版あとがき」で、「井上ひさしの不在という、埋めることのできない喪失感を反芻しながら、一九九三~九五年の対論を読み返した。(中略)そのことにつけても、日本の現実を私たち二人と同様に――いや、もっとはげしく――憂えていた司馬遼太郎さんのことを、改めて思う」と記しているのです。

「日本国憲法」を読み直す 岩波現代文庫 (書影は「紀伊國屋書店」ウェブ・サイトより)

 本書では司馬氏が深く敬愛していた正岡子規や夏目漱石の「写実」や「比較」という方法に注目しながら、独裁的な「藩閥政府」との厳しい闘いをとおして「憲法」を獲得した時代に青春を過ごしていた明治の文学者たちの考察や島崎藤村の『破戒』と『夜明け前』を『罪と罰』をとおして詳しく読み解くことで、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ権力と自由の問題に肉薄した『罪と罰』の意味に迫りました。

 この作業をとおして19世紀のグローバリズムとナショナリズムの問題を直視しつつ、ドストエフスキーの作品の普遍的な意義に迫ろうとした北村透谷や島崎藤村などの深みと視野の広さだけでなく、日本国憲法の現代的な意義に迫ることができればと願っています。

 ただ、日本文学や法律の専門家ではないので、思いがけない誤解があるかも知れません。忌憚のないご意見を頂ければ幸いです。(表記は現代表記に改めました)。

→ 一、小林秀雄の平田篤胤観と堀田善衛

 (2018年8月18日、改題と改訂)

Authors & Books(Bulgarian Dostoevsky Society):《Читаем роман Идиот в фильмах Куросавы Акиры》

Читаем роман Идиот в фильмах Куросавы Акиры»  (Сэйбунся,2011)

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Предисловие. Смутный мир и поиски «положительно прекрасного человека»

Введение. «Загадочный» герой – литература и кинематография как метод

Глава I. Молодой человек „с наполеоновской бородкой” – Мышкин и Гаврила

Глава II. Русская “Дама с камелиями” – Настасья и Тоцкий

Глава III. Русский “Яго” – Лебедев и Рогожин

Глава IV. Загадка “Бедного рыцаря” -Аглая и Радомский

Глава V. «Приговорённый к смертной казни» – Ипполит и Спешнев

Глава VI. Русский «князь Христос» – Идиот  как трагедия

Глава VII. Наследование идеи Мышкина – тема Идиота в фильмах Акиры Куросавы

Примечания

Послесловие

Приложение 1. Хронологическая таблица в связи с романом Идиот.

  1. Фильмография Акиры Куросавы

 

   *   *   *

В данной книге я попытался подробно проанализировать роман Идиот с точки зрения режиссёра Акиры Куросавы и, пользуясь методом сравнительного литературоведения и сравнительного исследования цивилизаций, выяснить истинное значение этого романа в наше время.

Ф.М.Достоевский в письме от 1 января 1868 года к любимой племяннице С.Я. Ивановой таким образом изложил идею романа Идиот: «Главная мысль романа – изобразить положительно прекрасного человека. Труднее этого нет ничего на свете, а особенно теперь. (…) На свете есть одно только положительно прекрасное лицо – Христос».

 В романе «Идиот»  князь Мышкин критикует казнь гильотиной: “Сказано: «Не убий», так за то, что он убил, и его убивать? Нет, это нельзя. Вот я уж месяц назад это видел, а до сих пор у меня как перед глазами. Раз пять снилось”.

 Как известно, Достоевский написал этот роман, обращая большое внимание не только на такие русские произведения, как «Бедный рыцарь»,  «Скупой рыцарь» и «Евгений Онегин» А.С.Пушкина и «Горе от ума» Гритбоедова, но и на западную литературу: например, «Последний день приговорённого к смерти»,  «Отверженные» В.Гюго, «Дама с камелиями» А.Дюма-сына,  «Отелло»  У.Шекспира и др.

Спустя несколько лет после Второй мировой войны, в 1951 году,  режиссёр Акира Куросава показал на экране фильм «Идиот» по мотивам одноимённого романа Ф.М.Достоевского. В предисловии к постановке он писал: «Я, по-своему, очень любил героя и действующих лиц»; указывая далее, что, наверное, трудно передать в фильме « глубину романа», он вместе с тем подчеркнул, что «однако, с уважением к автору и с любовью к кино, я сделал все, что в моих силах».

В самом деле, Куросава, известный успешной экранизацией произведений мировой литературы, изменяя место, время и состав действующих лиц, сумел точно описать отношение двух семей и глубокие страдания молодой героини  через взгляд героя. Особенно первый кадр, где изображается страшный крик ночью и слова героя, что он во сне опять видел сцену смертной казни, и последний кадр этого фильма, где Аяко (Аглая), высоко оценивая мировоззрение героя, говорит: «Какой я была глупой девушкой, скорее, именно я была идиоткой», хорошо показывают глубокое понимание Куросавы романа Идиот.

К сожалению, этот фильм был сокращён наполовину из-за требования компании. Но у нас остался полностью сценарий этого фильма, обнаруживающий коварную роль Лебедева, который как Яго в пьесе Шекспира, приводит героев к гибели.

Хотя в сценарии и отсутствуют образы дочери Лебедева Веры и Ипполита, но в фильме «Скандал» (1950), где звучит рождественский христианский гимн «Тихая ночь», изображена дочь хитрого адвоката с невинной душой; и герой фильма «Жить» (1952), тоже «приговорённый к смерти» из-за болезни пребывает в отчаянии, как Ипполит. Итак, эти фильмы имеют очень тесную взаимосвязь; их можно даже назвать экранизированной трилогией романа Идиот, и они показывают глубокое понимание режиссёром сущности этого романа.

Сверх того, в романе «Идиот» довольно часто упоминаются имена врачей; профессор Шнейдер, известный хирург Пирогов, работавший врачом во время Крымской войны, и «старичок генерал». И Гаврила спрашивает Мышкина: «Да что вы, князь, доктор, что ли? »

В самом деле, Мышкин объясняет Рогожину положение Настасьи Филлипповны так: «Она очень расстроена и телом и душой, головой особенно, и, по-моему, в большом  уходе нуждается».

И в фильмах Куросавы «Пьяный ангел» (1948) и «Тихая дуэль» (1949) врачи также играют очень важную роль; особенно в фильме «Красная борода» (1965) изображено трогательное отношение врача к больной девочке, образ которой перекликается с образом Нелли из романа Униженные и оскорбленные  Достоевского.

Как кажется, в связи с углублением темы Мышкина в своих фильмах, Куросава считал тему врача (человека), который всеми силами спасает жизнь (и не только тело, но и душу) пациентов, одной из главных тем в произведениях Ф.М.Достоевского.

Кроме того, учитывая вопрос Ипполита Мышкину: «Правда, князь, что вы раз говорили, что мир спасет «красота»?», то же самое можно сказать и о больном мире.

Итак, в данной книге, анализируя фильмы Куросава, я размышлял также о значении почвенничества и постарался показать важность романа Идиот в современном мире.

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